民主集中制、党議拘束考 |
(最新見直し2012.7.5日)
【民主集中制考】 |
ここで民主集中制について考察する。これは規約論の範疇であるので「規約の研究」で確認する。「民主集中制と分派理論考」、「党の強権論理の根拠理論について」で言及している。 |
れんだいこのカンテラ時評№1055 投稿者:れんだいこ投稿日:2012年 7月 5日 |
党議拘束考 ここで党議拘束考をしてみる。主として国会議員への党議拘束を対象とする。「ウィキペディア党議拘束」、「造反有理・・・党議拘束に意味はない!」その他を参照する。2012.7.5日現在、ネット検索で「政党の造反処分史」をたぐっても、それらしい情報が出てこない。そこで急きょ拵えサイトアップしておくことにする。 党議拘束とは、政党が決議によって党所属の議員活動を拘束することを云う。主に議会で採決される案件又は法案に対し投票行動を賛否拘束する。党議拘束に反する造反行動に対する処分は規約に則るが、各党により差がある。政党の結束性を示すものであるが合憲論、違憲論があり決着がついていない。 党議拘束の程度は国によって異なる。日本では党議拘束性が次第に強まりつつあるが、フランスでは造反議員に対して比較的寛容である。イギリスでは原則として予算案の議決に党議拘束がかけられているが他の法案では比較的寛容である。アメリカでは法案に対してほとんど党議拘束がかけられていない。議員は政党の拘束よりも地元の利害に基づいて判断し議会での投票行動をおこなう倣いがある。 党議拘束に対する日本の各政党の党議拘束ぶりにも濃淡がある。これを確認すると、最も強いのが共産党であり足並みが乱れることは滅多にない。過去に、1964年5.15日の「部分核停条約」採決の際に、5議員のうち4議員が反対票、志賀議員が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。これを「志賀問題」と云う。志賀は直ちに査問され、5.21日、除名されたと云う事例がある。以来、例がない。むしろ党大会での満場一致、一枚岩体制を誇る。しかし、その裏には延々と続けられた党内反対派に対する粛清史が介在している。 次に公明党の結束が強い。但し、国会での造反例を知らない。党内的な対立では、1970年代の執行部を形成した竹入委員長、矢野書記長派が徹底的に粛清されている。自民党以外のその他政党については割愛する。 興味深いのは自民党である。過去たびたびお家騒動を起こしている。1970年以降の政治史で確認する。 1972年、田中政権時代の日中国交回復に伴う台湾との国交断行措置に対し党内の台湾派が大反対し党内抗争を激化させた例がある。特に、19873.7.17日、党中造反組の思想的行動集団「青嵐会」が結成された。趣意書は、「自由社会を護り、外交は自由主義国家群と親密なる連携を堅持する」と冒頭に掲げ、2番目に教育、4番目に国防と治安、5番目が自主憲法制定。趣意書の最後に「一命を賭して実践することを血盟する」とあり血判を押していた。代表世話人には、中川一郎、渡辺美智雄、玉置和郎、湊徹郎、藤尾正行。座長・中尾栄一、幹事長・石原慎太郎、事務局長・浜田幸一、その他中山正喗、森喜朗、綿貫民輔、三塚博、山崎拓らの衆院議員26名、参院議員5名。この造反組に対する処分はされていない。当時の自民党あるいは首相・田中角栄の度量を推して知るべきではなかろうか。 1979.10.9日、大平政権に対し、自民党反主流派が総選挙敗北責任を追及し「40日抗争」を始めている。11.6日、衆議院本会議で首班指名選挙が行われたが、首相候補として同じ自民党から主流派の大平正芳と反主流派の福田赳夫の2人が現れるという前代未聞の事態となっている。 1980.5.16日、社会党が、大平政権に対し内閣不信任決議案を提出したところ、5.19日、自民党反主流派の福田、三木両派の69名が公然と造反欠席したことにより賛成243票、反対187票の56票差で可決された。内閣不信任案可決は1953年以来27年ぶりの出来事であった。総選挙となり、これを「ハプニング解散」と云う。この時も、造反組に対する処分はされていない。後に造反組に対して厳しい制裁を課すことになる福田派の小泉純一郎議員は、この時、立派な党議拘束違反の造反議員であった。 この時、大平首相は新聞記者に対し次のように述べている。
大平政権は、不信任案に反対した田中・大平両主流派、旧中間派の議員、反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員らを第1次公認とし、欠席した反主流派の議員を第2次公認という形で対応している。 1993.6.17日、社会、公明、民社の3党が宮澤内閣不信任案を提出したところ、6.18日の採決の際、自民党竹下派から羽田.小沢派の43名と他派閥議員5名が賛成、16名が欠席し、宮沢内閣不信任案が可決され、大平内閣以来13年ぶりとなる衆院解散となった。「政治改革解散」と云われる。 1994年、羽田内閣の総辞職後の内閣総理大臣指名選挙について、河野洋平総裁や森喜朗幹事長が社会党の村山富市委員長を推したため自民党内に造反組が生まれた。しかし、旧大分県第1区で村山と直接のライバル関係にあった衛藤が賛意を表明したことから議論の流れが大きく変わり村山首班指名で決着した。この結果、自社さ連立政権が成立し自民党は11ヵ月ぶりの政権復帰を果たした。 2000.11月の森内閣不信任決議の際には、加藤紘一、山崎拓らが造反したが最終的に矛を収めた。 2005年の小泉政権下の郵政民営化法案を廻る造反騒動は凄まじい。7.10日の衆議院採決で自民党から37名の反対、14名の棄権が出た。8月8日の参議院本会議採決でも自民党から22名の反対、8名人の棄権が出たため否決された。小泉首相は、造反議員を除名して解散、その上、除名議員の選挙区に刺客を立てて落選を狙うという執拗な報復選挙をやったことで知られている。 つい先日の2012.4.12日の郵政民営化法改正案の採決の際には、中川秀直元幹事長、小泉進次郎衆院議員、菅義偉元総務相らが造反した。大島副総裁が中川氏ら4人を厳重注意すると、谷垣総裁は即座に「この問題はこれで打ち止め。政権を追い詰める大事な局面なので結束すべきだ」と終結宣言している。 2012.6.26日、野田政権下の民主党は、党内の強い反対論を押し切って「消費税増税法案」を衆院提出し、「自公民との三党合意」を取りつけた上で党議拘束」をかけて本採決に臨んだが、党内から57人の反対投票、15人の欠席・棄権者を出した。 この流れをどう見るべきか。造反史を漫然と眺めてみても得るものは少ない。確認すべきは、いわゆるタカ派、その実国際金融資本に飼いならされている御用聞き派が政権を握った時、造反派に対して厳しい制裁処分に出る傾向が強いと云うことである。ハト派系の田中、大平政権下では伝家の宝刀を抜いていない事が分かる。タカ派系が戦後保守主流派に転じた1980年初頭の中曽根政権以降、日本政界に造反派処分が常態化し始めた事を見て取るべきではなかろうか。一事万事で、この頃から日本政治の質が変わったと云う事を窺うべきではなかろうか。 以上より思うに、いわゆる党中央権限を規約にすべきである。政党に於ける党中央執行部よりする党内反対派、造反議員に対する処分権というのはどこまでが認められるべきなのだろうか。この理論が曖昧なまま処分が常用されつつある。それは昔からではない。小泉政権下での除名、刺客騒動以来ぶりがついているのではなかろうか。それは政治の自絞殺ではなかろうか。考えてみれば国会議員は選良政治家である。してみれば、議員政治家は、党中央の意向のみならず選挙民の意向をも汲むべき立場にある。その上で政治家としての最終的判断が個々の議員に負託されていると看做すべきではなかろうか。これが議会制民主主義の論理の筈である。党中央が反対派に対し人事で加減するのは致し方ない。しかしながら個々の法案賛否の咎による除名権限まで持つべきだろうか。こんなことを認めたら王権制と云うべきか絶対制と云うべきかいわゆる独裁であろう。少なくとも法務大臣の指揮権発動の例に似て「抜かずの法刀」であるべきではないのか。 2012.7.5日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)