党中央権限考(体制、権力、法とは何か考)

 (最新見直し2012.7.5日)

【体制論】
 いつか書き付けておきたかったことを備忘録的に記しておく。だからスケッチになるのは致し方ない。いずれも法哲学的な考察である。

 「体制」とは何か。一般に「体制」というものについて我々は、何やらそれを善悪基準で「体制悪」を指弾し、それを「反体制」的に強く云えば云うほど正義であるという調子の「ぶりっこ」し過ぎてきやしなかったか。よしんば、体制が爛熟し、革命的情勢が到来し、その只中であればそれも良かろう。しかし、日常的に云い過ぎ廻るのは如何なものだろうか。

 何事も度の過ぎた批判には本音と建前が分離し続けるという裏事情が発生しやすい。考えても見よう。いかなる体制と云えども、その体制下で人々が生活している。その生活とは、人々が為政者によって搾取オンリーされており、息絶え絶えのかつかつの暮らしの中に余命を得ているなどと想像するのはあまりに児戯的過ぎよう。それは、マルクス主義的な奴隷制社会にあっても何ら事情は変わらない。何時如何なる時代にあっても、為政者は、その時々の大衆の暮らしに注力しており、まさに字義通りの「生活」を配慮している。それが搾取の仕組みの中にあろうとも。人々は、その時代の生産能力に応じて、まま合理的な体制下で暮らしてきている、と捉える方がよほど実際に近いであろう。

 れんだいこは何が云いたいのか。一つは、漫画的な「体制悪論」は何ら意義がなく却って有害無益であることを指摘しようとしている訳である。しかるに、この種の体制論が急進主義派からも穏和主義派からも聞かされて久しい。そういう体制論は、れんだいこが採るところのものではない。

 「階級敵論」も然りである。漫画的な「エゴイスト資本家」などお目にかかることの方が難しい。逆の意味での「階級出自論」も然りである。北朝鮮辺りでは60数種にも及ぶ「階級出自区分」が為されており、然るべき階級出自でないと肩身が狭いと云う。こういうなのは、何らマルクス主義ではない。当のマルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、毛沢東等々の出自を見れば明らかではないか。

 れんだいこは何が云いたいのか。一つは、「体制」というものは善悪是非論ではなく、我々が「適応主体的」に選び取っている面があることに注意を喚起させたい。これが云いたい。だから変革可能なのだということが云いたい訳である。尤も、個々の主体が存在しようがしまいが、つまりその人が生存しようがしまいが、「体制」が続くことを思えば、「体制」は外在的である。しかし、だからといって、外在的体制論で把握して済ませるのかというと、それも少し違う、と云いたい訳である。

 もっと詳しく云って見よう。「体制」とは、歴史的所与の条件に規定されて外枠的に存在するものであるが、それを支えるのか支えないのか、変革する側に廻るのか修正する側に廻るのか保守する側に廻るのかは、その時代に住む人々の能力的な器量に関係しているのではないのか。そしてそれは、個々の人間性のある種の「好み」によっても支えられたり批判されたりしているのではないのか。

 「順応する」という言葉がある。まさに、「体制」とは、「順応する」者が多いときに「より体制化」し、逆のときに流動化するのではないのか。そして、「順応する」も「反体制」になるのも、何らかの根拠に支えられているのではないのか。その一番強いファクターは、経済的諸条件であろう。次に、人材登用的新陳代謝条件であろう。次に、体制内自由的諸条件であろう。凡そこれらのファクターが、ある者には恵まれており、ある者には逆目に出る事により、両勢力の拮抗の上に「体制」が成り立っているのではないのか。如何なる「体制」も、これにより強く利益が生まれる者と普通程度の者と逆目の者が居り、「なべてダメな体制」なんてどこにもありはしない、ということが云いたい訳である。

 そういう体制観が欲しい。だから、「体制」とは、人がこれに規制されつつ向き合っているものである。俺は絶対反体制だとか絶対護持派だとか、かの時代は暗黒だとか、善政時代だとかなどという戯画的な二分法で捉えられるものではない。しかるに、この二分法的な仕分けで説き聞かせてくれる自称インテリが多すぎる気がしてならない。

 煎じ詰めれば、「体制」とは、個々の我々の生き様に直結している流動的なものであり、一歩一歩の変革を通じて土壇場の爆発時に革命的出藍脱皮を呼び込む仕掛けにあるのではないのか。だから、「体制論」とは、その時代の特質の解析と、時代のベクトルの解析と、体制の妥当性の解析と、体制の閉塞性の解析と、その時代を生きている者達の「思考の嗜好」の解析等々を要することになる。

 うううんんんん、今日はこれくらいでやめとこ、何が云いたいのか次第に沸点に近づいてきた。後日又考え直すことにする。

 2004.2.5日 れんだいこ拝

【権力論】
 「権力」とは何か。思うに、政治的「権力」には与党権力と野党権力よりなる。この識別のない権力論は片手落ちであろう。いずれにせよ、どちらの権力にも次の三つの権能が備えられている。これを党中央もしくは執行部権力と云う。これの一つは予算策定と執行権。一つは人材登用ないしは抑圧権。一つは宣伝(プロパガンダ)権。この三権能は政治的権力のみのものではなく、会社にも団体にも適用できるいわば組織権力と云うものに共通していると云えよう。与党権力とは、この三権能を「体制」内で体制維持的に駆使しながら政権を与る権力を云う。野党権力とは、この三権能を「体制」外で政権奪取的に駆使しながら党中央を与る権力を云う。こう構図する必要があるのではなかろうか。通念的な権力論にはこういう識別がない。そこで分かり易くした次第である。

 うううんんんん、今日はこれくらいでやめとこ、何が云いたいのか次第に沸点に近づいてきた。後日又考え直すことにする。

 2012.7.5日 れんだいこ拝

【法論】
 「法」とは何か。思うに、「法」とは、与党権力と野党権力の力関係に規定されながらも主として与党権力が構築する体制、国家、社会秩序の総法文ではなかろうか。その法も国内法と国際法に別れる。国内法は更に市民法と国家法に分かれる。更に事前規制法と事後処罰法に分かれる。  

 うううんんんん、今日はこれくらいでやめとこ、何が云いたいのか次第に沸点に近づいてきた。後日又考え直すことにする。

 2012.7.5日 れんだいこ拝

 これを卑近な例で云ってみよう。(以下、略)





(私論.私見)