1926年3月27日、農家の六男として生まれる。他に姉4人。茨城県出身。太田中学。
1943年、陸軍予科士官学校(59期)入学。
1944年、陸軍航空士官学校(59期・軍曹)卒業。1944年8月17日-陸軍軍曹に進級。1945年-陸軍航空士官学校閉校につき、教育未了ながら卒業扱いとなる。
1947年、日本大学工学部土木工学科卒業。家業の石材業を継ギ常陸大理石株式会社に入社。
1955年、茨城県議会議員に当選。
1958年、初当選から暫く後の1958年総選挙で、川崎三蔵派の運動員として買収に関わったとして逮捕される。起訴されるが弁護側の証人だった川崎の秘書が、「買収したのは自分で梶山は無関係」と証言したことで無罪となった。
1966年、県議会議長選挙をめぐる黒い霧事件が表面化した際にも逮捕された。外岡佐近県議が「梶山から現金を貰った」と証言したことから梶山も取り調べを受けた。だが外岡は水戸地検送検後に「西野(恒郎県議)から貰った」と証言を翻したため梶山の立件を断念。県議会は自主解散に追い込まれた。
1967年、 出直し県議選の後の茨城県議会議長に選出される。県議会議長就任後、茨城県を訪れた田中角栄から直接国政進出を打診される。
1969年12月、自由民主党公認で第32回衆議院議員総選挙に旧茨城2区から出馬し初当選。佐藤派の分裂で田中派結成に参加する。
1972年、第33回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、2期目当選。
1974年、第2次田中内閣で内閣官房副長官に就任。
ロッキード事件で逮捕された田中が出所したときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と真っ先に迎えに行った。
1976年、第34回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、落選。
1979年、第35回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、3期目当選。
1980年、第36回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、4期目当選。
1983年、第37回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、5期目当選。
1985年、田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」旗揚げに参加し、金丸信の命を受け小沢一郎と共に田中派内の多数派工作を担当、竹下派の結成に尽力する。奥田敬和、小沢、小渕恵三、橋本龍太郎、羽田孜、渡部恒三らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれ、竹下内閣誕生に大きく貢献した。
1986年、第38回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、6期目当選。
1987年11月、竹下内閣の自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。その後も通産大臣、法務大臣、官房長官などを歴任した。
1988年3月26日、参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦が、1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)・新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)・鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、さらに「李恩恵」(田口八重子)及び金賢姫等について質問を行う。これに対し当時国家公安委員長であった梶山は、「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、御家族の皆さん方に深い御同情を申し上げる次第であります」と答弁した。これは北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁である。これに続き外務大臣宇野宗佑は「我々の主権が侵されていたという問題」、「全くもって許しがたい人道上の問題」、「強い憤り」、「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁。法務大臣林田悠紀夫は「我が国の主権を侵害するまことに重大な事件」、「判明したならばそこで処置」と、更に警察庁警備局長城内康光は「一連の事件は北朝鮮による拉致の疑い」、「既にそういった観点から捜査を行っている」と答弁し、北朝鮮による日本人拉致について政府の認識を示した。
1989年、宇野内閣で通商産業大臣に就任。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、7期目当選。第2次海部内閣で法務大臣に就任。
1992年、東京佐川急便事件を発端にした竹下派会長・金丸信の政界引退により、派内の後継争いが激化。梶山は小渕を後継会長に推し、羽田孜を後継会長に推し、長年盟友関係にあった小沢と対立した(一六戦争)。結局、参院を抑えた小渕が後継会長に決定し、小沢や羽田等は自民党を離党することとなった。この時の論功で自民党幹事長に就任。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、8期目当選。
1993年8月、自民党分裂、野党転落を招いた責任をとって幹事長を辞任。細川内閣樹立の立役者となったライバルの小沢とは対照的に、「自民党下野のA級戦犯」と言われ、1994年6月に自社さ連立政権が誕生し自民党が与党に復帰するまで、謹慎生活を余儀なくされた。
1995年9月、自民党総裁選で橋本総裁誕生の立役者となる。
1996年1月、橋本内閣が発足。内閣官房長官に就任した(副長官は社会党の渡辺嘉蔵)。官房長官在任中特に1996年の総選挙後は、かつて党内抗争を繰り広げた政敵・小沢率いる新進党との「保保連合構想」を党内の亀井静香建設相らと模索し、幹事長の加藤紘一、野中広務ら「自社さ派」と激しく対立。しかし、橋本や竹下が「自社さ派」に軸足を置いたため、1997年9月、官房長官を退任。竹下や野中との関係はこの頃から悪化した。
第41回衆議院議員総選挙(茨城4区)に自民党から出馬、9期目当選。第2次橋本内閣で内閣官房長官に再任。
1998年7月、第18回参議院議員通常選挙の敗北の責任を取り橋本が退陣を表明。後継を選ぶ自民党総裁選に、竹下や野中が推す小渕が名乗りを挙げると、それに対抗する形で小渕派を離脱し出馬を表明(小渕派から梶山擁立のために派閥離脱したのは佐藤信二と菅義偉の2人のみ)。無派閥での自民党総裁選立候補は1972年に立候補制になって以来初めて。
田中真紀子が、この時の総裁選挙に立候補した小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評し評判を呼んだ。小渕の「凡人」評は、小渕が官房長官当時に「平成」の改元を発表した「平成おじさん」で知られているものの全体に温和な性格なところを評しているものと思われる。梶山静六の「軍人」評は梶山が旧陸軍士官学校出身であることにより評されたと思われる。小泉純一郎の「変人」評は、小泉が自民党の支持基盤の有力な団体である郵政省を解体民営化することを政策の根幹に据えていたことにより評されたと思われる。梶山は、島村宜伸を選対本部長、麻生太郎を選対責任者に迎え、派閥の枠を超えて推薦人を集めた。「不良債権処理を積極的に進める」などの経済構造改革を訴えて選挙戦を戦った。結果、積極財政と金融緩和を掲げる小渕には敗れたが2位、104票を獲得し、三塚派蔵相支援の小泉純一郎厚相の得票を上回った。無派閥となった梶山は最下位と予想されていただけに結果は大健闘だった。
2000年1月30日、交通事故に遭ってから体調を崩す。4月25日、政界引退を表明。6.6日午後3時45分、閉塞性黄疸のため国立がんセンター中央病院で死去(享年74歳)。
6.25日、第42回衆議院議員総選挙で長男の梶山弘志が後継者として茨城4区から出馬し初当選を飾った。
|
投稿: 通りがけ | 2011年3月28日「原発建設促進政治家も共犯(共謀共同正犯)である」
原発促進に一番多大な影響力を行使したのが、天下り官僚と利益分配談合を成立させて結託した政治家たちである。地元の青壮年に犠牲者を含む放射能大量被曝者を発生させた東海村JCO臨界事故の後、白砂青松の美しく貧しい東海村の郷土へ若き日に「クリーンで安全な」原発を誘致した郷里を無限に愛する自民党重鎮政治家梶山清六は、「とんでもないことをしてしまった」と断腸の思いにさいなまれた挙句原発絶対反対派政治家へと君子豹変したが、その途端に原発廃止政策を打ち出す暇も無く「自民党重鎮七奉行乱世の梶山清六」と呼ばれた働き盛りで急逝した。息子がただちに父親の無念の遺志を継いで国会議員の後を襲ったが、奇怪なことにこちらも議員活動開始後半年も経たぬうちに父親より遥かに若くして急逝している(れんだいこ注/これは誰のことか?)。梶山親子の地盤を手中にして衆議院議員に初当選した自民党額賀福志郎はその後防衛大臣に就任している。