梶山静六急逝不審説

 更新日/2016.01.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、梶山静六氏の急逝不審を確認しておくことにする。

 2011.3.28日再編集 れんだいこ拝


【太田龍氏の梶山静六暗殺説考】
 ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報」その他参照。
 2008年 03月 09日
 太田龍氏のサイトから:梶山静六暗殺説
 アルルの男・ヒロシです。梶山静六という政治家がいた。あの田中真紀子から「変人・軍人・凡人」と名付けられたうちの軍人にあたる政治家である。元左翼活動家で現在はエコロジストの太田龍氏のウェブサイトに、梶山静六氏について、以下のような記述がある。太田龍の時事寸評から引用する。(れんだいこ文責編集替え)
 世界史的意味を有する古典、としての本書(引用注:『民間が所有する中央銀行』)は平成七年に出版されたが、目下のところ日本の市場で流通していない。しかし、日本義塾出版部で取り扱い中である。そんな多くはないが、版元に若干の在庫は存在する。本書は、もちろん、マリンズの人、その全著作と共に、筆者(太田)が発見した。平成七年(一九九五年)に本書が出版されたとき、出版者の森洋氏は、かなりの部数を日本の政界その他に贈呈した。贈呈された人々の中の一人、当時の自民党の有力政治家、梶山静六。このひとは、本書をきわめて真剣に読み、共鳴し、感動した。そして、三百部を買い取り、関係者に、配布した。と、筆者(太田)は、森洋氏から聞いて居る。そして梶山静六氏は米国の背後の勢力(ユダヤ、イルミナティ)が、金融ビックバン!!のペテン的美名の下に、日本の金融資産の略奪の陰謀を企図していることを見破り、敢えて、自民党総裁選挙に立候補し、日本の首相と成ることによって、米国の金融の勢力の日本壊滅作戦と戦うことを使命とされた。しかし、森洋氏によれば、梶山静六氏はこのあと間もなく自動車事故を装った政治的暗殺の標的とされ、殺害された、と。

 「太田龍の時事寸評/平成二十年(二〇〇八年)三月七日(金)」
 http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji_index.cgi

 私は、この太田龍氏の知人の森洋氏のいう、政治的謀殺説について、真偽を判定する情報を持たない。しかし、梶山議員の死因については当時から、「その程度のことで死ぬのだろうか」と思ったことがある。参考までに、当時の梶山氏の事故関連の新聞記事がある。これは産経新聞のもの。それを以下に貼り付ける。

 (貼り付け開始)

 梶山元官房長官 車で追突される 帰省先の常陸太田で [ 2000年02月02日 東京朝刊 社会面 ]

 元官房長官の梶山静六氏(七三)が三十日、帰省先の茨城県常陸太田市内で交通事故に遭っていたことが、一日分かった。太田署では当時、けがはないとして物損事故として処理。梶山氏は念のため病院で検査を受けたという。同署によると、三十日午後五時二十分ごろ、常陸太田市の国道349号で信号待ちをしていた梶山氏の車に、後ろから同県日立市内の男性会社員(三〇)の乗用車が衝突した。梶山氏は後部座席に乗っており、東京都内に戻る途中だった。

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 硬膜下血腫で梶山氏が手術 [ 2000年02月22日 大阪夕刊 総合・内政面 ]

 自民党の梶山静六元官房長官が十九日に硬膜下血腫のため東京都内の病院で手術を受け、入院していることが二十二日、明らかになった。梶山氏は一月末に地元の茨城県内で追突事故にあって療養していたが、この事故の後遺症とみられる。事務所によると、術後の経過は順調だが、リハビリを含めて数カ月の入院が必要という。

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 【訃報】梶山元官房長官死去 74歳 竹下派旗揚げの「七奉行」 [ 2000年06月07日 東京朝刊 1面 ]

 自民党の梶山静六(かじやま・せいろく)元官房長官が六日、午後三時四十五分、閉塞(へいそく)性黄疸(おうだん)のため、入院先の都内の病院で死去した。七十四歳だった。通夜は八日午後六時から、密葬は九日午前十一時から、茨城県常陸太田市山下町一一八七ノ三の自宅で行われる。いずれも近親者のみで執り行う。喪主は長男の弘志(ひろし)氏。梶山氏は一月末に地元の茨城県内で交通事故にあって療養していたが、二月に硬膜下血腫(けっしゅ)を除去する手術のため入院、リハビリ・療養を続けていた。

 梶山氏は、陸軍航空士官学校在学中に終戦を迎え、昭和二十四年に日大工学部土木工学科卒業。三十年に茨城県議会議員に初当選し、四十二年に四十歳で県議会議長に就任した。四十四年十二月の衆院選で初当選、昭和五十一年の総選挙で落選したものの五十四年に返り咲き、当選九回だった。ただ、今年四月二十五日に「次の任期は気力、体力においてその重責に耐えられない」として今期限りで政界引退する意向を家族を通じ明らかにしていた。平成十一年に勲一等旭日大綬章を受章した。

 梶山氏は、昭和四十九年に内閣官房副長官、その後、建設、通産政務次官を経て、六十二年に第一次竹下内閣で自治相として初入閣、平成元年に宇野内閣で通産相、二年に海部内閣で法相に就任した。八年の第一次橋本内閣では官房長官を務め、沖縄米軍基地移転問題、ペルーの日本大使公邸占拠事件などの対応にあたった。第二次橋本内閣でも官房長官を務めた。一方、党務でも要職を歴任し、宮沢政権では幹事長を務めた。

 自民党田中派(当時)時代から将来を嘱望され、竹下登元首相が独立する形で竹下派(同)を旗揚げした際にも中心メンバーとして動き「竹下派七奉行」の一人と呼ばれるなど政局の節目で影響力を発揮してきた。橋本龍太郎元首相が参院選敗北の責任をとって退陣した平成十年、自民党総裁選に旧小渕派を脱会して出馬、故小渕恵三前首相に敗れた。その後も「わが日本経済再生のシナリオ」を発表するなど日本経済の立て直しなどで積極的な政策提言を続けてきた。(3、社会面に関連記事)「産経新聞」から

 (貼り付け終わり)
 

 以上のように、物損事故として扱われた追突事故の後遺症で、梶山氏は亡くなったという風に新聞報道は読める。太田氏もあくまで森洋氏からの伝聞という形で、梶山氏のエピソードを伝えている。

 梶山氏が、ユースタス・マリンズの『民間が所有する中央銀行』(面影橋出版)を300冊買い取って配り歩いた(?)出来事と、物損事故の後遺症による死去に因果関係があるかどうか。それ以外の持病があったので亡くなったというのであれば、病死だが、気にはなる。ちなみに、マリンズというのは、熱心なカトリック教徒で、昔はアメリカ議会図書館の司書などをしていて、アメリカの金融史の裏側を勉強してきた研究家である。非合理的な反ユダヤ思想に取り憑かれているのだが、それでもなお、彼の発掘してきた資料は貴重なものも多い。私は、『世界を動かす人脈』の中で、このマリンズが書いた本の中に出てくる、もともとの引用文献、新聞記事まで戻って情報をチェックし、そのうち、真実だと私が確信したものだけを執筆の際の資料として利用した。

 マリンズ氏は、現在も存命で、アメリカに住んでいる。ただ、必ずしも裕福な生活ではなさそうである。もともと彼はエリート教育を受けていた人である。でなければ、議会図書館(最近、ニコラス・ケイジの「ナショナル・トレジャー2」に出てきたあの図書館)に就職は出来ないだろうから。このマリンズ、最近、翻訳書が再発された。『世界権力構造の秘密』という本である。だから、世界史の裏に、法律的には犯罪として片づけられても、ラショナルな理屈では説明しがたい底流のような動きがある、という考え方は、私は今回の本では取らなかったが、あながち嘘ではないと思う。

 私は、今回の『世界を動かす人脈』の裏テーマとして、自分で「いかがわしいユダヤ陰謀論を粉砕する」という目的を課した。しかし、世界の決めごとが閉鎖的な場で行われたり、政治家や権力者同士のつぶし合い、殺し合いが存在することを否定したわけではない。それは証拠があれば、そう書くべきであるというだけの話である。私は、幸いにして、命を狙われたりしたことはない。梶山氏のような首相候補と、私のような、ど貧乏人、権力に縁のない人物との違いはそこにあるのかもしれない。これはむろん、仮に、梶山氏が謀殺された場合の話だが・・・。そういえば、『梶山静六―死に顔に笑みをたたえて』( 田崎史郎著)という本があった。ちょっと読んでみようか。

【梶山静六論考】

 投稿: 通りがけ | 2011年3月28日「原発建設促進政治家も共犯(共謀共同正犯)である」

 原発促進に一番多大な影響力を行使したのが、天下り官僚と利益分配談合を成立させて結託した政治家たちである。地元の青壮年に犠牲者を含む放射能大量被曝者を発生させた東海村JCO臨界事故の後、白砂青松の美しく貧しい東海村の郷土へ若き日に「クリーンで安全な」原発を誘致した郷里を無限に愛する自民党重鎮政治家梶山清六は、「とんでもないことをしてしまった」と断腸の思いにさいなまれた挙句原発絶対反対派政治家へと君子豹変したが、その途端に原発廃止政策を打ち出す暇も無く「自民党重鎮七奉行乱世の梶山清六」と呼ばれた働き盛りで急逝した。息子がただちに父親の無念の遺志を継いで国会議員の後を襲ったが、奇怪なことにこちらも議員活動開始後半年も経たぬうちに父親より遥かに若くして急逝している(れんだいこ注/これは誰のことか?)。梶山親子の地盤を手中にして衆議院議員に初当選した自民党額賀福志郎はその後防衛大臣に就任している。

(私論.私見)

 本文の前半のくだりは貴重な梶山清六論なのだが、後半の「息子がただちに父親の無念の遺志を継いで国会議員の後を襲ったが、奇怪なことにこちらも議員活動開始後半年も経たぬうちに父親より遥かに若くして急逝している」のくだりが解せない。これは誰のことか。気になって調べたところ、梶山清六没後の6.25日、第42回衆議院議員総選挙で長男の梶山弘志が後継者として茨城4区から出馬し初当選を飾り、2016.1.10日現在存命のようである。となると辻褄が合わない。こういう場合、正確に記すのがマナーであろう。

 2016.1.10日 れんだいこ拝

【梶山静六履歴考】
 「ウィキペディア梶山静六」を参照する。

 1926年3月27日、農家の六男として生まれる。他に姉4人。茨城県出身。太田中学。

 1943年、陸軍予科士官学校(59期)入学。

 1944年、陸軍航空士官学校(59期・軍曹)卒業。1944年8月17日-陸軍軍曹に進級。1945年-陸軍航空士官学校閉校につき、教育未了ながら卒業扱いとなる。

 1947年、日本大学工学部土木工学科卒業。家業の石材業を継ギ常陸大理石株式会社に入社。

 1955年、茨城県議会議員に当選。

 1958年、初当選から暫く後の1958年総選挙で、川崎三蔵派の運動員として買収に関わったとして逮捕される。起訴されるが弁護側の証人だった川崎の秘書が、「買収したのは自分で梶山は無関係」と証言したことで無罪となった。

 1966年、県議会議長選挙をめぐる黒い霧事件が表面化した際にも逮捕された。外岡佐近県議が「梶山から現金を貰った」と証言したことから梶山も取り調べを受けた。だが外岡は水戸地検送検後に「西野(恒郎県議)から貰った」と証言を翻したため梶山の立件を断念。県議会は自主解散に追い込まれた。

 1967年、 出直し県議選の後の茨城県議会議長に選出される。県議会議長就任後、茨城県を訪れた田中角栄から直接国政進出を打診される。

 1969年12月、自由民主党公認で第32回衆議院議員総選挙に旧茨城2区から出馬し初当選。佐藤派の分裂で田中派結成に参加する。

 1972年、第33回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、2期目当選。

 1974年、第2次田中内閣で内閣官房副長官に就任。

 ロッキード事件で逮捕された田中が出所したときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と真っ先に迎えに行った。

 1976年、第34回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、落選。

 1979年、第35回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、3期目当選。

 1980年、第36回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、4期目当選。

 1983年、第37回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、5期目当選。

 1985年、田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」旗揚げに参加し、金丸信の命を受け小沢一郎と共に田中派内の多数派工作を担当、竹下派の結成に尽力する。奥田敬和、小沢、小渕恵三、橋本龍太郎、羽田孜、渡部恒三らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれ、竹下内閣誕生に大きく貢献した。

 1986年、第38回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、6期目当選。

 1987年11月、竹下内閣の自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。その後も通産大臣、法務大臣、官房長官などを歴任した。

 1988年3月26日、参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦が、1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)・新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)・鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、さらに「李恩恵」(田口八重子)及び金賢姫等について質問を行う。これに対し当時国家公安委員長であった梶山は、「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、御家族の皆さん方に深い御同情を申し上げる次第であります」と答弁した。これは北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁である。これに続き外務大臣宇野宗佑は「我々の主権が侵されていたという問題」、「全くもって許しがたい人道上の問題」、「強い憤り」、「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁。法務大臣林田悠紀夫は「我が国の主権を侵害するまことに重大な事件」、「判明したならばそこで処置」と、更に警察庁警備局長城内康光は「一連の事件は北朝鮮による拉致の疑い」、「既にそういった観点から捜査を行っている」と答弁し、北朝鮮による日本人拉致について政府の認識を示した。

 1989年、宇野内閣で通商産業大臣に就任。

 1990年、第39回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、7期目当選。第2次海部内閣で法務大臣に就任。

 1992年、東京佐川急便事件を発端にした竹下派会長・金丸信の政界引退により、派内の後継争いが激化。梶山は小渕を後継会長に推し、羽田孜を後継会長に推し、長年盟友関係にあった小沢と対立した(一六戦争)。結局、参院を抑えた小渕が後継会長に決定し、小沢や羽田等は自民党を離党することとなった。この時の論功で自民党幹事長に就任。

 1993年、第40回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、8期目当選。

 1993年8月、自民党分裂、野党転落を招いた責任をとって幹事長を辞任。細川内閣樹立の立役者となったライバルの小沢とは対照的に、「自民党下野のA級戦犯」と言われ、1994年6月に自社さ連立政権が誕生し自民党が与党に復帰するまで、謹慎生活を余儀なくされた。

 1995年9月、自民党総裁選で橋本総裁誕生の立役者となる。

 1996年1月、橋本内閣が発足。内閣官房長官に就任した(副長官は社会党の渡辺嘉蔵)。官房長官在任中特に1996年の総選挙後は、かつて党内抗争を繰り広げた政敵・小沢率いる新進党との「保保連合構想」を党内の亀井静香建設相らと模索し、幹事長の加藤紘一、野中広務ら「自社さ派」と激しく対立。しかし、橋本や竹下が「自社さ派」に軸足を置いたため、1997年9月、官房長官を退任。竹下や野中との関係はこの頃から悪化した。

 第41回衆議院議員総選挙(茨城4区)に自民党から出馬、9期目当選。第2次橋本内閣で内閣官房長官に再任。

 1998年7月、第18回参議院議員通常選挙の敗北の責任を取り橋本が退陣を表明。後継を選ぶ自民党総裁選に、竹下や野中が推す小渕が名乗りを挙げると、それに対抗する形で小渕派を離脱し出馬を表明(小渕派から梶山擁立のために派閥離脱したのは佐藤信二と菅義偉の2人のみ)。無派閥での自民党総裁選立候補は1972年に立候補制になって以来初めて。

 田中真紀子が、この時の総裁選挙に立候補した小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評し評判を呼んだ。小渕の「凡人」評は、小渕が官房長官当時に「平成」の改元を発表した「平成おじさん」で知られているものの全体に温和な性格なところを評しているものと思われる。梶山静六の「軍人」評は梶山が旧陸軍士官学校出身であることにより評されたと思われる。小泉純一郎の「変人」評は、小泉が自民党の支持基盤の有力な団体である郵政省を解体民営化することを政策の根幹に据えていたことにより評されたと思われる。梶山は、島村宜伸を選対本部長、麻生太郎を選対責任者に迎え、派閥の枠を超えて推薦人を集めた。「不良債権処理を積極的に進める」などの経済構造改革を訴えて選挙戦を戦った。結果、積極財政と金融緩和を掲げる小渕には敗れたが2位、104票を獲得し、三塚派蔵相支援の小泉純一郎厚相の得票を上回った。無派閥となった梶山は最下位と予想されていただけに結果は大健闘だった。

 2000年1月30日、交通事故に遭ってから体調を崩す。4月25日、政界引退を表明。6.6日午後3時45分、閉塞性黄疸のため国立がんセンター中央病院で死去(享年74歳)。

 6.25日、第42回衆議院議員総選挙で長男の梶山弘志が後継者として茨城4区から出馬し初当選を飾った。

 人物&エピソード

 県議時代から「仏の六さん」と呼ばれ、温厚な人柄で知られた。しかし1976年の総選挙に落選し、厳しい浪人生活を送るうちに豹変。国政復帰後は周囲を畏怖させる「武闘派」の一人と目されるようになる。一方、反戦主義者・平和主義者の一面もあった。梶山の長兄は太平洋戦争で戦死。長兄の「名誉の戦死」の報が伝えられた時、母は地元の人々とともに万歳三唱。梶山は母の行動を不可思議に感じたが、その後自宅土蔵の陰で号泣する母の姿を見つけ、母の心情を理解する。このような悲劇が二度と起こらぬようにと政治家を志したという。生前折に触れて「長兄の戦死を陰で嘆き悲しむ母の姿が私の政治の原点」と語っていた。この話を梶山から直接聞いた田中康夫は感銘を受け、「東京ペログリ日記」等でたびたび紹介している。

 強面な風貌や政治手法、政局においての過激な発言などから「武闘派」と呼ばれたが、「日本人の血であがなった憲法9条の精神を捨ててはならない」と述べ、海外での武力行使に慎重姿勢を見せるなどハト派としての一面もあった。生前、靖国神社に代わる新たな参拝施設の建設の必要性を真っ先に主張したのも彼である。しかし、政治的には旧田中派では珍しく親台湾派に属し、橋本内閣の官房長官時代には、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)見直しに関し、「周辺事態(周辺有事)の対象に台湾海峡も当然入る」と発言。中国側の反発を招いた。

 梶山は、自身の志を継ぐ将来のリーダー候補として、麻生太郎に多大な期待を寄せていたという。

 中選挙区制下では常磐炭鉱や日立製作所など労働組合の勢力が強かったことから日本社会党の石野久男・城地豊司らと激戦を展開する一方で、塚原俊郎・塚原俊平父子とも同じ保守票を争奪していた。1994年、衆議院選挙に小選挙区制が導入された際、塚原俊平は「これで梶山先生と争わなくてすむので安心」と制度導入を歓迎した。

 竹下派全盛期に当時の会長であった金丸信から「無事の橋本、平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と呼ばれていた。また、1998年の自由民主党総裁選挙に出馬した時は、田中眞紀子に「凡人(小渕)、軍人(梶山)、変人(小泉)の争い」と評された。この「軍人」という表現は陸軍航空士官学校卒の経歴に由来する。

 法務大臣在任時の大臣秘書官は住田裕子(元検察官・現弁護士)が女性初の秘書官として就任していた。

 著書 『破壊と創造 日本再興への提言』 2000年3月、講談社、ISBN 4062101661






(私論.私見)