1995.12.8日 【動燃(現在の日本原子力開発機構)総務部次長・西村成生変死事件】

 (最新見直し2013.10.17日)

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 2013.10.17日 れんだいこ拝


【動燃(現在の日本原子力開発機構)総務部次長・西村成生変死事件】

 1995.12.8日、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故が起きたとき、情報隠蔽問題で内部調査にあたっていた西村さんが、翌年1月12日に行われた記者会見の数時間後、ホテルの駐車場で遺体となって発見された。

(私論.私見)


 「ナゾの死を遂げたもんじゅ調査担当者・西村成生氏のファイル 週刊朝日」を転載する。
 ※週刊朝日 2013年3月15日号
 ■ナゾの死を遂げたもんじゅ調査担当者 死の直前の言葉 

 福島第一原発事故から2年。これまで「原子力ムラ」の弊害はさまざまに語られてきたが、彼らがどう結びつき、どう活動していたのか、その実態を示す証拠は少ない。しかし、動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現在の日本原子力研究開発機構)の総務部次長だった故・西村成生(しげお)氏(当時49)が残した膨大な資料には、そのすべてが記録されていた。ジャーナリストの今西憲之氏と本誌取材班が、この「西村ファイル」を独占入手した。
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 西村氏は1996年1月13日、宿泊先のホテルで変死体で発見された。妻と上司、同僚に宛てた3通の遺書が発見され、警察は飛び降り自殺と断定。マスコミでも、“ナゾの死”は大きく報じられた。しかし、妻のトシ子さんはこう話す。「夫の死について動燃に説明を求めても、ほとんど情報を出してくれない。会社にあったはずの遺品も返してくれず、逆にこちらの動向を探るような対応ばかりだった。遺書の内容や遺体の状況にも不審な点が多く、『これはおかしいな』と思い始めたんです」。不信感を募らせた遺族は、旧動燃を相手どって損害賠償を求める訴訟を起こしたが、2012年1月、敗訴が確定。しかしいまもトシ子さんは夫の死に疑念を持ち続けている。その理由の一つが、西村さんの残したファイルの存在だった。

 中央大学法学部を卒業した69年に動燃に就職した西村氏は、20代半ばでトシ子さんと社内結婚、主に文書課や秘書課など事務畑を歩み、文書課長、総務部次長と順調に出世の階段を上っていった。「文書課では、科学技術庁や通商産業省など国に提出する文書作成の責任者でした。文書の文言から句読点まで細かく気にしていた。そんな経歴もあって、幹部が出席する会合に同席し、議事録を取ることも重要な仕事でした」(トシ子さん)。 几帳面でまじめな性格だった西村氏は、自らの仕事にかかわる資料を逐一、ファイルに収集し、保管し続けていた。そのファイルを読むと、西村さんが長年、家族にも話さなかった“秘密の業務”に従事させられていたことがわかる。西村氏は、動燃のさまざまな“暗部”に触れざるを得ない立場だったのだ。トシ子さんが続ける。「社内結婚ですから、私も動燃のことはある程度、理解できます。でも、役職が上がるにつれて夫は家で仕事の話をあまりしなくなりました。仕事内容はおろか、出張先すら教えてくれない。亡くなる直前、珍しく会社の話をしたときは、『もんじゅの事故調査を命じられたが、もうイヤだ』と言っていた。残された資料を見て初めて、夫がさまざまなトラブル処理や“工作”にかかわっていたことがわかり、驚きました」。 

 ■原発施設反対派に露骨な“監視”する動燃 

 1996年1月13日、高速増殖原型炉「もんじゅ」の事故隠蔽問題について調査を担当していた、西村成生(しげお)氏(当時49)が変死体となって発見された。動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現在の日本原子力研究開発機構)の総務部次長だった西村氏は生前、動燃のさまざまな“暗部”に触れざるを得ない立場にあった。その西村氏が残した膨大な資料、「西村ファイル」をひもとくと、原発や関連施設をめぐる反対派の市民運動家へ露骨な“監視”の様子が記されていた。ジャーナリストの今西憲之氏と本誌取材班が明らかにする。
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 1988年、岡山県と鳥取県の県境にあるウラン鉱山・人形峠で、「ウラン残土問題」をめぐって住民と動燃の対立が起きた。これに関する資料では、動燃が住民について詳細に調べ上げていたことが分かる。住民の名前、生年月日、職業のほか、動燃に対する理解、住民に対する「工作方法」などについても記載があった。調査は家族関係にも及び、多くの世帯で家族の勤務先や家庭事情まで詳細に書かれていた。

 動燃は、都会から離れた小さな集落ならではの濃密な人間関係を、巧妙に「工作」に利用しようとしていた。たとえば、地元の有力地権者Aさんの項目には、〈本人は養子のため、養母、妻の意見に従うようである。方面(かたも)地区内の親しい知人、親せき等を説得し理解を求めたい〉。農家Bさんについては、〈本家の○○を使い説得〉などと記載されている。ほかを見ても、「工作」方法はいよいよ具体的だ。〈地元では、○○と本家分家の関係にある ○○町議→○○→本人の説得〉(県職員Cさん)〈本人は養子のため、実権は養母にある。区内の動きに従うことが多く、婦人会、親せき等の利用も考えられる〉(教員Dさん)。地域独特の本家、分家や養子縁組と言った関係や地区の婦人会などを利用し、「工作」に使おうとしていたのだ。資料には、頻繁に「町議」の名前が出てくる。東郷町議だった前田勝美氏(現・湯梨浜町議)のことだ。本人がこう語る。「その時の動燃人形峠事業所の所長が私の親類だった関係で、地元住民の説得を頼まれました」。 実際、その依頼で住民の説得をしたという。動燃は、政治家まで動員して“懐柔”に動いていたのである。

 ■「孤立が効果的」動燃が対立住民に「工作」

 「あれれぇ! この資料、どっから? いや、まいったな。確かに私が作成したものだが、ヤバいよ、これは。わかるでしょう!」。動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現在の日本原子力研究開発機構)OBの1人は頭に手を当てて何度も天井を仰ぎ、しきりに「まずい、まずい」と繰り返した――。彼がこれほど慌てふためいたのは、高速増殖原型炉「もんじゅ」の事故隠蔽問題について調査を担当し、1996年1月13日に謎の死を遂げた西村成生(しげお)氏(当時49)の残した「西村ファイル」の存在だった。その中に「方面(かたも)地区住民資料」と題された、A3用紙6枚分にわたる手書きの極秘資料があった。ジャーナリストの今西憲之氏と本誌取材班が明らかにする。
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 動燃は1990年前後、岡山県と鳥取県の県境・人形峠の住民と「ウラン残土」撤去をめぐって対立していた。「西村ファイル」には、動燃が地元住民に対して詳細な素行調査や思想チェックを行った驚くべき「工作」の記録が残されていた。特に反対派住民は入念にマークしていた。反対運動の中心になった住民の榎本益美さん(77)についても、実に細かく調べ上げていた。〈昨年(88年)8月15日以来、反対の筆頭に立っている〉〈元鉱山労働者として放射能の恐ろしさをPNCが教育していなかった等、被害者意識が強く、市民グループ、社会党、プレス等をバックに「全面撤去」を主張し、全区民を巻き添えにしている〉。さらに榎本さんに対する「工作」方法を具体的に説明している。〈社会党対策会議の○○(原文は実名、以下同)、共同通信記者、市民グループとの関係を切ることであろうが、当面、本人を孤立させ相手にしないことが効果的である〉。反対運動の中心である榎本さんを地区から孤立させ、周囲の住民から先に切り崩していこうという作戦が読み取れる。この動燃の「工作」は一時は成功し、榎本さんは孤立を深めていた。地元住民の一人は、こんな場面を覚えている。「ある町議が地区の人間を呼んでウラン残土問題についての説明会を開いたとき、榎本さんが会場にやってくると、町議が『お前は呼んどらん、帰れ!』と怒鳴りつけた。町民を守るはずの議員がなんてことを言うのかと驚いた」。

 ※週刊朝日 2013年3月22日号

 ■動燃の「原発推進」工作で名前の挙がったあの人

 週刊朝日が詳報した旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)の「住民工作資料」は、岡山県と鳥取県の県境に位置する人形峠周辺、ウラン鉱山の一つがあった鳥取県東郷町(現・湯梨浜町)方面地区において、組織ぐるみで住民たちの個人情報を集め、「思想チェック」「素行調査」をしていた――というものだった。しかし、旧動燃が手を染めていた「工作」は、それだけではない。〈K機関(後にKチームに改名)特務隊のアクションプログラム 第1案〉と題された内部資料の驚くべき内容を、ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が暴露する。
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 「Kチーム」は具体的にどんな工作をしたのか。当時、本社の核燃料サイクル技術開発部の幹部だったY氏が作成した「第1案」は、実に過激だ。〈JC(青年会議所)ラインの利用 K機関で確保しているタレントとの会談を企画し、洗脳する〉〈マスコミ対応 (1)K機関タレントの利用 K機関で所掌しているタレントとの会食を通じて洗脳〉。「洗脳」とは穏やかでないが、どうやら「タレントとの会食」というおいしい“エサ”で、動燃シンパを増やそうとしていたようだ。別の資科では、こんな名前が挙がっていた。〈竹村健一 石原慎太郎の活用〉、〈石原氏へは、アプローチの仕方について要検討〉。評論家の竹村氏と前東京都知事の石原氏は、ともに原発推進派である。資料では動燃と関係が深い大手ゼネコンの名も挙がり、〈協力隊を出してもらう〉との記述もあった。

 ■「仕事ほしければ言うこと聞け」動燃から協力要請か

 旧動燃の元総務部次長・西村成生氏が残した極秘資料「西村ファイル」。“原子力ムラ”の暗部にかかわる仕事に従事させられていた西村氏は、すでに謎の死を遂げている。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が独自入手した資料には、原子力ムラが仕掛けた「組織ぐるみ選挙」の動かぬ証拠が記されていた。1993年の衆院選、茨城1区からは3人の自民党候補が出馬した。後に財務大臣などを歴任し、現在は派閥の領袖となった額賀福志郎衆院議員と、葉梨信行氏(現在は政界引退)、中山利生氏(04年に他界)である。この選挙区でも「組総ぐるみ選挙」を示す資科が確認された。93年7月1日作成の(マル選 状況報告)は、選挙戦の途中経過の報告だ。そこに、こう書かれていた。〈取引業者については安推協、及び調達課・工務課が中心となり年間取引額500万円以上198社に協力要請中である〉。大口の取引先を中心に、自民党候補への投票を呼びかけていたのだ。ここにある「安推協」とは、動燃の下で働く業者でつくる「安全推進協議会」のこと。資料の中には、50社以上の社名や連絡先が書かれた一覧表もあった。従業員に東海村在住者がいる企業のリストだという。それぞれ契約高や従業員数、動燃内に派遣している従業員の人数も記載されていた。「安推協は、動燃から仕事をもらっている業者の集まり。原発関連からガソリンスタンド、書店まで、ここに名前がないと動燃では仕事ができない。契約高を書いているのは、企業への圧力のため。『仕事がほしければ、言うことを聞け』という意味ですよ」(動燃関係者)。地元有数の大企業である動燃からの「協力要請」を断れる業者があるだろうか。

 ※週刊朝日 2013年3月29日号

 ■動燃「組織ぐるみ選挙」示す? 極秘「西村ファイル」

 梶山静六3931票――。衆院選を舞台に、旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)は原発推進派の自民党候補を応援するため、茨城県東海村で徹底した選挙戦を繰り広げていた。週刊朝日が独占入手した極秘資料「西村ファイル」の中には「組織ぐるみ選挙」の証拠となる記述があった。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が、その驚愕の内容を検証した。動燃の元総務部次長・西村成生氏が残した膨大な量の資料。「取扱注意」「マル秘」などと書かれた文書も多く、西村氏が従事させられた「秘密の業務」の中でも、とりわけ重要だったことがわかる。

 舞台は茨城県東海村。現在、日本原子力研究開発機構(JAEA)が本部を置くこの地は、動燃の前身の原子燃科公社が1957年から拠点とし、81年には日本初の核燃科再処理施設が稼働した。同村は、言わずと知れたJCO臨界事故(99年)の現場であり、日本原子力発電の東海第二原発がある。いわば「原子力ムラ」の“牙城”だ。資料の多くは、93年の衆院選のときのものだった。宮沢喜一首相(当時)率いる自民党が惨敗し、細川護熙連立政権が誕生。55年体制が崩壊した歴史的選挙である。中選挙区制だった当時、東海村がある茨城2区は自民党幹事長の梶山静六氏(2000年に他界)、後に通産相となる塚原俊平氏(97年に他界)の2人の自民党候補が票を分け合っていた。動燃は、2人のために猛烈な「集票工作」を行っていた。そのことをはっきり示しているのが、動燃東海事業所総務課が93年6月に作成した〈過去集票実績〉というデータだ。90年の前回衆院選の集票実績として、こう記されている。

 梶(梶山氏)約3900名 職員1384名 業者2547名
 塚(塚原氏)約2300名 職員784名 業者1495名

 実に計6千票以上の票を集めたというのだ。最終的に、この選挙の2人の獲得票のうち東海村票は、梶山氏が4273票、塚原氏が3717票。動燃は、強大な集票力を誇っていたのである。もっとも、動燃側も違法性を自覚して、内部で検討していたふしがある。マル秘印が書かれた87年9月作成の〈課題〉と題された文書には、〈企業ぐるみ選挙 公選法違反の疑い〉との記述があった。違法行為の危険性をも示唆する書きっぷりだが、それもそのはず、続く記述には、〈資金面での援助〉〈団地内見張りの可否〉など“きな臭い”言葉がちりばめられているのだ。

 ※週刊朝日 2013年4月5日号

 ■動燃を所管する科技庁がNHKの番組に抗議していた

 動燃の元総務部次長・西村成生(しげお)氏が残した資料「西村ファイル」。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班がこれまで報じてきたように、旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)を中心とした「原子力ムラ」のさまざまな「工作」が記録されていた。そして今回、動燃の所管官庁だった科学技術庁(現在は文部科学省に統合)が、原発を扱ったNHKの番組に抗議していた資料を発見した。〈科学技術庁とNHKとのやりとり(概略メモ)〉というタイトルのA4用紙1枚分の文書は、1993年5月28日に動燃広報室が作成したものである。欄外には「取扱注意」の印が押されている。内容は、NHKの番組に関するものだ。93年5月21日と23日、NHKは2回シリーズでドキュメンタリー番組「NHKスペシャル 調査報告 プルトニウム大国・日本」を放送した。

 当時、国内では91年に高速増殖原型炉「もんじゅ」が試運転を開始するなど、燃やした核燃料からプルトニウムとウランを取り出す「核燃科サイクル」の試みが本格スタートした。しかし、アメリカなど諸外国からは、核兵器に転用可能なプルトニウムを日本が保有することは「核武装」につながりかねないと危惧する声があがっていた。また、高速増殖炉の開発は海外で次々と頓挫しており、その実現性や経済性などに疑問符がついていた。こうした問題点を国内外の取材で浮き彫りにしたのが、この番組だった。だが、2回目の放送から5日後の5月28日、NHKの担当ディレクターと科学文化部記者2人が科技庁の原子力局長室で抗議を受けたのだ。資料には〈16:30~17:50 原子力局長室にて〉とある。会談は、科技庁側が一方的に話す展開だったと思われる。

 〈NHKスペシャルに対する不満・誤りは全て言った〉。強い怒りが文面から伝わってくる。資料には、次のようなやり取りが記載されている。科技庁「技術的に間違いだった。説明の場を設けるべきである」。NHK「その予定はない。しかし上司には伝える」。NHK「番組に対するクレーム、指摘はなかった」。〈STA(科技庁の略称)が報道姿勢を非難したところ、NHKは反論。他の指摘については聞くだけ〉。会談は80分にも及んだものの、両者の主張は平行線を辿り、結論は得られなかった。番組にかかわったNHK関係者が語る。「放送後、科技庁に担当ディレクターらが呼ばれて抗議を受けたと聞いている。番組は当時のNHKが総力を挙げて取り組んだもの。隙がないように相当、知恵を絞って作ったが、国策に正面から疑問を呈する放送内容に納得できなかったのでしょう」。

 ■科技庁が作成 NHKへの「やらせ抗議」マニュアルの中身

 まさか、ここまでやっているとは! NHKのドキュメンタリー番組に対する組織的な「やらせ抗議」を旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)に指示したのは、なんと、霞が関の官僚だった。元総務部次長・西村成生(しげお)氏が残した「西村ファイル」には、その記録が克明に残されていた。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が追及した。

 問題となったのは、NHKが1993年5月21日と23日の2回シリーズで放送したドキュメンタリー番組「NHKスペシャル 調査報告 プルトニウム大国・日本」。当時も今も“国策”である「核燃科サイクル」に疑問を投げかける番組内容は、所管の科学技術庁(現在は文部科学省に統合)の官僚の逆鱗(げきりん)に触れたようだ。2回目の放送後、NHKの担当ディレクターと科学文化部記者2人が科技庁の原子力局長室で抗議を受けたのだ。そして資料によると、この会談後、科技庁から動燃に次のような“指示”があったという。〈STA(科技庁の略称)より、雑誌、新聞等のマスコミや有識者を用いたNHKへの反論や、寄稿、投稿、電話によるNHKへの対抗手段をお願いしたい、とのこと〉。これは「やらせ抗議」の指示としか読めない。国が出資する特殊法人である動燃は、科技庁に「命脈」を握られている。指示は、事実上の「命令」と考えていいだろう。

 さらに生々しいのが、資料に添付された2枚の「マニュアル」だ。1枚目は〈NHK各放送局一覧〉と題され、東京や大阪など全国の主なNHK放送局の住所と電話番号が書かれていた。「経営委員会」「考査室」などと具体的な部署名まで記されている。その下に再放送の日時と、〈☆電話及び手紙をお願いします〉とある。2枚目は、さらに驚愕の内容だった。〈NHKスペシャル「調査報告 プルトニウム大国・日本」を見て(Example)〉と書かれ、電話や手紙による「やらせ」の例文がずらりと並んでいるのだ。〈日本がエネルギーを確保するために研究開発をすることがなぜいけない。日本は世界から大量のエネルギーを輸入している。将来、途上国が大量にエネルギーを使い出したら、どうするのか。足りるとでも思っているのか〉〈30年かけて研究開発に取り組んでいることへの非難がおかしい〉〈報道姿勢が無責任である〉〈将来のために研究している人に失礼だ。料金不払いも考える〉 「将来のために研究している人」というのは、つまり動燃のことである。

 ■動燃、反原発派の見学者に大パニック

 旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)の元総務部次長・西村成生(しげお)氏が残した資料「西村ファイル」には、「原子力ムラ」が仕掛けたさまざまな「工作」が記録されていた。住民をターゲットにした「思想・素行調査」、地元企業まで巻き込んだ「組総ぐるみ選挙」など露骨な策略の数々――そして今回、資料に記された「見学者」についての対応も、動燃の体質をよく表していた。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が明らかにする。

 〈アイリーン・スミス見学受入れの時系列〉という資料には、反原発運動家のアイリーン・美緒子・スミス氏が1990年4月に「もんじゅ」を見学した際の経緯が書かれていた。スミス氏からもんじゅ見学の申し入れがあったのは2月26日のこと。その後、動燃側と順調に手続きを進めていたが、3月9日に空気が一変する。〈国際部へアイリーン・スミスが原子力反対派であることが判明したとの連絡〉。どこで調べたのか、見学者が反原発派とわかっただけで“非常事態”であるかのような反応だ。その後、動燃内部で3日間かけて議論が行われた末に、〈アイリーン・スミスが原子力反対派であることが判ったため受入れについて広報、建設本部、総務と協議、検討の結果、受入れはやむをえないと判断〉。ところがその後、30人ほどの見学団の中に当時、もんじゅの運転差し止めを求めて訴訟を起こしていた原告団のメンバーがいたことから、またも動燃内部は紛糾。この対応について電力各社に問い合わせ、果ては法務省にまで助言を仰いでいる。こんな聞き取り記録が残っていた。〈事前に通産省に相談し、了解を得た上で受け入れた。(中略)施設そのものはメインコントロール・ルームだけを見せた〉(日本原子力発電)〈原告本人がガイガーカウンターを持参して、これで測らせてくれと言ったので、東北電力が信用できない(東北電力の測定)のであれば、見学をお断わりすると述べた〉(東北電力)〈法務省としては、なんとも言えません。(中略)断わるのが普通でしょう。ただ、断わると大変でしょう〉(法務省)。結局、原告による見学は拒否された。

 ※週刊朝日 2013年4月12日号

 ■旧動燃「情報統制」でランク分け 自民議員はAで、野党はB

 1993年1月5日早朝、フランスから喜望峰経由で3万キロの長旅を終えた輸送船「あかつき丸」が、茨城・東海港に到着した。原爆100個分のプルトニウムを日本に運んだことで、国際的にも大きな注目を集めていた。旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)が行ってきた「工作」の歴史が記録された「西村ファイル」には、当時の露骨な「情報操作」が記してあった。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が追及する。
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 「厳秘」と記された92年11月17日付の資料では、事前に情報を伝えるべき相手を「A」「B」の二つにランク分けしていた。説明書きには、こうある。
〈A…理解とご協力を得るため、積極的に説明する対象〉
〈B…報道その他の情勢により判断し、適宜安全性等を中心とした説明をする対象〉
「B」の相手には、報道などで真実がバレてしまったときに仕方なく説明する――ということなのか。

 実際のランクを見ると、政治家では、地元茨城県選出の自民党衆院議員だった梶山静六元官房長官と塚原俊平元通産相(ともに故人)が「A」なのに対し、当時、社会党衆院議員だった大畠章宏氏(現・民主党衆院議員)は「B」。露骨な“与野党格差”だ。茨城県議は6人がリストに挙がっていたが、県連会長とS県議の2人だけが「A」で、残りは自民系なのに「B」。これについては、県庁幹部とのこんな打ち合わせ記録が残っていた。〈「S県議はやむを得ないにしても、その他の県議については説明をしないように。(中略)一般的に口が軽いことを想定しなければならないためである」〉。地元の東海村議に至っては、正副議長や自民系会派の会長ですら「B」で、「A」ランクは皆無。まったく眼中にない。ランクは全体的に中央を優先し、地元に辛くつけられていた。警察庁、警視庁、海上保安庁は「A」なのに、周辺自治体の関連部署は「B」。茨城県警や茨城県漁連も「B」扱いだった。事故があれば、もっとも影響を受ける人々に、重要な情報を隠していたのだ。「動燃が『地域とともに』と口癖のように言っているのが見せかけだけであることがよくわかった。ランクをつけるなんて許せない」。資料を見た元県漁連幹部は、怒りを隠さなかった。

 ■あかつき丸帰港 県庁も東海村も「知らないふり」だった

 1993年、原爆100個分のプルトニウムをフランスから日本に運んだことで、国際的にも大きな注目を集めた輸送船「あかつき丸」。厳しい「情報統制」が敷かれるなか、動燃は「極秘工作」を企てていた。旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)が行ってきた「工作」の歴史が記録された「西村ファイル」をもとに、ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が、その実態を暴く。
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 極秘で行われるはずだったプルトニウム輸送だが、フランス側が一定の情報を公開したことや、環境保護団体グリーンピースが船やヘリで「あかつき丸」を追尾して航路を公表したことで、計画は狂っていく。1992年11月27日には、読売新聞が「あかつき丸」の帰港先が茨城・東海港だとスクープ報道。動燃が関係各所に説明に回ると、何とも滑稽なやり取りが交わされた。〈県としては「PNC(動燃の略称、以下同)から何も聞いていない」ことで統一する〉(県庁幹部)〈何も聞いていないことで通す。国、PNCへクレームをつけたことにする〉(東海村企画課長)
〈我々は関知していないとの姿勢を通す(理由は原電はウソをつきたくないことから)〉(原電幹部)

 地元自治体や電力会社は真相を知っていながら、必死で「知らないふり」を演じていたのだ。特に東海港の持ち主である原電(日本原子力発電)は、港の使用契約をめぐって事前に動燃と綿密に打ち合わせた記録も残っていた。その記録は最重要の「極秘」扱いで、「関知していない」ことなどあり得ない。「情報管理」の名の下で「ウソ」の口裏合わせをしていたのだ。

 ※週刊朝日 2013年4月19日号

 ■「遺書」は改ざん もんじゅ事故調査中に起きた不可解な死

 1995年12月、高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故を受け、旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)の総務部次長だった西村成生(しげお)氏は内部調査チーム員として活動していた。しかし、氏は突然、ホテルで不可解な死を遂げる。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が関係者に話を聞いた。西村氏の「死」に、妻のトシ子さんが不審を抱くようになったきっかけは、その後の動燃側の対応の“異様さ”だった。死亡当日の96年1月13日午後、当時の動燃理事長、大石博氏(08年に死去)が会見で遺書を読み上げた。ところが、その内容が「改ざん」されていたのだ。〈私の勘異(違)いから理事長や役職員に多大の迷惑、むしろ「本当のウソ」といった体質論に反展(発展)させかねない事態を引き起こす恐れを生じさせてしまった〉(オリジナル)。〈私の対応のまずさから、深刻な事態を引き起こす恐れを生じさせてしまった〉(理事長読み上げ)。「本当のウソ」「体質論」などが削除されるなど、10カ所以上が改ざんされていた。ビデオだけでなく、遺書までもが「工作」に利用されていたのである。

 さらに、自殺前後の状況にも不自然な点があった。西村氏は13日未明、ホテルの部屋で動燃本社から5枚のファクスを受け取った直後、3通の遺書を書いて自殺したとされている。ところが、そのファクスの現物がどこにもなく、いまだ行方不明なのだ。トシ子さんの訴訟の代理人となった海渡雄一弁護士がこう語る。「ファクスには、西村氏が何か重要なメッセージを書き残していたか、動燃職員が西村氏にあてて何かを書き込んでいた可能性があります。西村氏を自殺へ追い詰めた叱責の言葉だったかもしれない。そんな重要な証拠が出てこないのは、あまりにも奇妙です」。西村氏の死から17年。動燃を相手取った民事訴訟が終結した今も、トシ子さんは「疑惑」を消し去ることができないでいる。

 ■もんじゅ事故 「西村ファイル」に残された生々しい記録

 1995年12月8日に起きた高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故で、旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)の社会的信用を大きく揺るがしたのは、むしろ、その後の「ビデオ隠し」問題だった。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が追及する。当初、動燃は事故翌日の午後4時に現場を撮影したビデオ(「16時ビデオ」)を公表したが、これが編集されたものと発覚。さらに、それ以前の午前2時に撮影したビデオ(「2時ビデオ」)の存在まで明らかになった。

 次々と明らかになる「隠蔽工作」に、事故を「事象」と言い換えてごまかそうとする体質——。福島第一原発事故の直後に、政府が「爆発的事象」と説明したことを思い出させる。当時、「ウソつき動燃」との批判が飛び交う中、総務次長の西村成生(しげお)氏は不本意にも内部調査チームの一員となることを余儀なくされた。妻のトシ子さんが振り返る。「家で仕事の話をしない夫が、『とうとう、もんじゅの担当になってしまった』と、深刻な顔をしていました。調査は連日泊まりがけで、『家に帰れない』と電話で嘆いていた」。西村氏ら調査チームは「ビデオ隠し」にかかわった職員らに事情聴取を行った。カバンの中には多くの記録が残されていたが、その内容は当時、公に報告されたものよりはるかに生々しく、原子力ムラの隠蔽体質を如実に表したものだった。動燃は、事故をいかに矮小化し、ごまかすかに躍起になっていたのである。

 ■もんじゅ事故 シュレッダーで粉々にされていた現場写真

 1995年12月8日に起きた高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故。旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)の総務部次長だった西村成生(しげお)氏が残した「西村ファイル」には、当時の「もんじゅ」の幹部らによる隠蔽工作が記載されていた。ジャーナリストの今西憲之氏と週刊朝日取材班が検証した。

 西村氏による内部調査の聴取記録には、驚くべき新事実が含まれていた。事故翌日の12月9日の午前2時に職員が現場に立ち入った際、ビデオのほかにポラロイド写真も撮影していた。当時の報道では、現場の職員が「写真は煙ばかりでよくわからなかったので捨てた」と説明している。漏れ出したナトリウムが煙状に広がり、何も写っていなかったのだという。ところが、である。当時の「もんじゅ」技術課長の聴取記録に、まったく違うことが書かれていたのだ。〈県の調査の前に副所長はポラロイド写真をシュレッダーにかけさせていた。2時のポラロイドは後で強引に出させて見たがチャントうつっていた〉。なんと、写真は実はきちんと写っていたのだ。それを、S副所長の指示でシュレッダーにかけたという。新たに重大な「隠蔽」が発覚したというのに、その後、この問題について調査された形跡はなく、97年7月にようやくまとめられた動燃の調査報告書でも、一言も触れられていない。

 見過ごせない問題はまだある。事故当時の「もんじゅ」のプラント2課長への聴取によると、最初に事故現場に入る前に、S副所長とこんなやり取りをしたという。〈消防には入らせないようにしようということになった。(中略)何とか動燃だけ入って消防を入れさせないようにするため、入り口付近を覗くだけだし、消防は防護具やその使い方を知らないので不慣れであるから動燃だけ入れさせてくれと自身で消防に要望した〉。ナトリウムが燃焼する火災まで起きていたというのに、消防にまで「隠蔽」したのだ。




(私論.私見)