「朝鮮維新」敗北史
 日本の明治維新を研究すると、関連してこの時朝鮮はどのような経過を見せていたのか知りたくなる。歴史的に見て、日朝中関係は地政的に隣接していることもあって常に影響を及ぼしあってきた。我が国の明治維新の情報は逸早く朝鮮半島に伝わり、同じような維新活動が起こったはずである。さて、その首尾顛末は如何に。朝鮮近代史はここから始まると見るべきだ。

 いわゆる日帝の朝鮮侵略は、「朝鮮維新」の失敗に関連している。なぜ失敗したのか、逆に日本はなぜ成功し得たのか、日本の場合その後の展開で如何に帝国主義に染まっていったのか、この時、幕末草莽運動はなぜ失敗したのか、こういう観点抜きに日帝の朝鮮侵略論を批判的に満展開して事足れりとし、その競い合いするのにそれほど意味があるだろうか。

 そういう一面化批判ばかりで経過してきたのが日本左派運動の習性である。れんだいこから観れば、軟弱左派という共通基盤の上での穏和糸と急進主義系のセクト的観点闘争でしかなく、検証以外に実りが少ない。

 本来の革命硬派は、「朝鮮維新」の失敗の原因の究明に向かう。その絡みで日帝の朝鮮進出と侵略の経過を追う。これが学問的態度であり、実践的な必要からも解明されるべきテーマである。だがしかし、ここの研究が立ち遅れているということは、硬派がいないということだろう。

 2003.1.25日れんだいこ拝


 「排外主義克服の為の朝鮮史」(梶村秀樹、青年アジア研究会、1990.4.19日初版)その他を参照した。

 戦前の朝鮮史は、左派運動史の観点から見れば、次の四期に分析できる。
1860年代〜1894年  農民主体の反封建、反侵略戦争闘争の段階
1895年〜1919年  ブルジョア民族主義運動の段階
1919年〜1945年  労働者、農民を主体とする社会主義反帝闘争の段階
1945年〜  南朝鮮における反帝闘争が持続される段階

 朝鮮に対する世界列強の威嚇は、1860年代に至って露骨になる。朝鮮社会内部から封建制を乗り越えようとする動きが起こり、農民闘争が展開していった。1860年はその歴史的不可逆的展開を見せた年であり、近代の始点となる。この当時、右から@・体制擁護的且つ攘夷的保守的衛正斥邪論者、A・両班(ヤンパン)官僚を中心とする宮廷内改革派、B・反封建体制闘争として親日的な金玉均並びに開化派貴族、C・東学農民闘争派、D・農民闘争指導者金ボン準、E・義兵闘争、F・活貧党の諸党派が林立していた。

 そのうち、金玉均派の運動が注目される。金玉均は、上流貴族出身の改革派で、日本の明治維新を朝鮮で夢見て、近代主義運動を指導した。この「明治維新にならって朝鮮の開化運動を目指す」観点が、金玉均派をして親日開明派と称される所以のところとなっている。実際にも福沢諭吉と繋がりをもっていた。金玉均派は、愛国啓蒙的大衆運動を組織し、国権回復運動に乗り出そうとしていた。
 
 しかし、明治維新政府は、1885(明治17)年以降、それまでの日朝の一衣帯水的連衡政策の手のひらを返し、侵略主義へ転身し始める。

 1894年、甲午農民戦争。農民の班権力闘争の総決算。東学党の乱とも云う。東学とは、西洋教学に対する意であり、この乱は、朝鮮中央政府への抵抗運動にとどまらず、「斥倭洋唱義」(わようを斥け義を唱う)のスローガンの下に、攘夷運動を高めていた。いわば、朝鮮版明治維新を目指していた。
 1910.8.22日、「日韓併合」。朝鮮はこれにより日帝の植民地となった。この状態が1945.8.15日の「日帝敗戦」までの35年間続くことになる。

 1919年、3.1日、「3.1運動」が起り、反帝闘争に向う。同時期に日本の米騒動、中国の5.4運動が発生しており、いずれもロシア革命の影響が認められる。「3.1運動」から後、1920年代に至って民族解放闘争化し始める。この頃、マルクス主義も移入される。これにより、それまでのブルジョア民族主義運動にマルクス主義運動が浸透し始めた。日帝は、全人民的蜂起を防ぐために、かなり意識的に分断の楔を打ち込んでいく。

 1919年、高麗共産党が設立される。しかし、高麗共産党は、コミンテルンの公式承認を得るにはいたら無かった。

 1920年代前半、サークル的な活動が生まれ、暗中模索の時代を迎える。義烈団の活動も活発化する。

 1925年、朝鮮共産党が設立される。この時期の創設は、中国や日本に較べてに、三年遅かったことになる。朝鮮共産党は、非合法組織として結社せざるを得ず、その為活動が制約され、大衆との接点を持つ活動が困難であった。以降、1年に1回の割合で弾圧され、再建していくという繰り返しとなる。

 1926年、6.10日、「6.10運動」が発生する。「6.10運動」は、共産主義者が単独で政治課題を正面に掲げて組織した最初の大衆示威行動となった。

 極東民族大会には、朝鮮人の主として在外活動家が非常に多く参加している。日本よりも中国よりも多かった。

 1926年、日本の共産党運動の福本イズムによる「方向転換論」の影響を受け、ML派が結成される。この流れが新幹会と云われる大衆運動を創り出す。「方向転換論」の内容とは、「今まで共産主義者が個別経済闘争に重点を置き、それだけをやってきたので不十分であったから、政治闘争そのものを課題として自覚的に追求しなければならない。意識的に対権力の政治闘争の組織をマルクス主義者が担っていかなくてはならない」ということの強調であった。具体的には、マルクス主義がイニシアをとりつつ、ブルジョア左派と手を組んだ幅の広い大衆的政治運動体の形式に主力を注ぐべきだという主張になった。つまり、福本イズムの発想から始まり山川イズムに至るという奇妙な論旨となっている。

 1927年、合法公然組織として新幹会運動。新幹会は、新韓会の合法転語。ブルジョア左派を通じてマルクス主義者は次第に大衆的な影響を持つようになり、新幹会運動の後半には、多分にその指導性をとっていくようになる。この指導が1931年まで続く。この時期、朝鮮共産党のイニシアティブをML派が掌握する。

 1928年、朝鮮共産党が、コミンテルンにより支部としての承認が取り消され、その指示により解散となる(1945年まで回復せず)。「28年以降、中国東北にいた人たちは中国共産党に入り、日本にいる朝鮮人は日本共産党に加入してそれぞれ現住国のために闘って国際主義を貫くことが朝鮮人の任務である。朝鮮国内の活動家は別として、在外活動家は、現住国の党に加入せよ」なる指示が与えられた。

 コミンテルンの指示は絶対だったとはいえ、首肯し難きものがあり、これを受け入れるかどうか内部で激しく議論された。結局、1930年頃、中国でも日本でも相前後して多くの活動家が現住国の党に加入していくことになる。しかし、このことは、朝鮮革命がそれとして措定されず、中国革命の体系の中にあるいは日本革命の体系の中に位置付けられたことを意味する。

 新幹会は合法組織であったため、日帝時代の運動体としては最も大衆化することができた。4万を越える会員を持ち、全国の3分の2くらいの郡に支部があり、指導部をプルジョア左派が、その下でマルクス主義者が実務面を担い、大衆との接点をつくっていた。

 この経過で、大衆の啓発が進んでいった。この当時の指導者ないし覚醒者が、日帝の敗戦後、立ち上がっていくことになる。

 しかし、新幹会運動は、左右両派の内部分裂に見舞われる。

 コミンテルン第6回大会で、指導部は、「ファシズム戦争を前にして、ソ同盟を守れ」という観点から、各国の共産主義者にドラスチックにブルジョアジーとの連携を断つことを指示した。これは、民族改良主義、社会改良主義、朝鮮ML派の共同戦線路線の否定を意味した。

 1930年代前半、赤色労働組合・農民組合運動。赤色労働組合は芽のうちに摘み取られたが、赤色農民組合運動は北半部のハムギョンド一帯で維持される。一時的に解放区を生みだすが、弾圧され、又生み出し弾圧されるという繰り返しになった。こうして、二重権力状況が生まれていた。


 中国との国境を接する朝鮮北部のカンド(間島)地方では、抗日パルチザン運動、赤色遊撃隊運動が組織されていく。但し、朝鮮共産党の自主的運動と中国共産党の支配下での運動との理論的解明が為されぬまま、コミンテルンの指示に従い国際主義化運動=中国共産党員化に転換していくことになる。朝鮮民族固有の課題への取り組みを主張している人たちに対して、小ブル的偏向だと決めつけた。

 この頃、「民生団活動」が発生している。「民生団」は、投降した朝鮮人ブルジョアジーを使って組織された。主にカンド(間島)地方で活発に活動し、「日本帝国主義の支配、指導に服するならば、それを条件として朝鮮人には一定の特権的な地位が与えられる。例えば、延辺自治政府といったようなものを朝鮮人を中心として構成することも可能である。その為に朝鮮時の内部から運動していこうじゃないか」というキャンペーンをパルチザン運動の激しかったところに集中して行った。これに日帝の指示が噛んでいた。資金も豊富で執拗に「民生団」活動が展開された。日帝の諜報機関の差し金で、国「民生団」が解放区の中に送り込まれ、謀略文書が流され、撹乱工作が行われた。

 1934年から1935年にかけて、党機関が撹乱された。査問が行われ、党機関が冷静な判断力を失った。「査問によって、ごく一部は本当のスパイが摘発されたが、それよりもずっと多かったのが、忠実な朝鮮人活動家に全く身に覚えの無い烙印を押し、耐えかねて、白色区に逃げ出さねばならないところまで追い込んだ例が多い」。その結果、「30年代前半まで活発だった間島地方の大衆運動が、これ以後、他の東北諸地域とは対照的にすっかり沈静してしまう」。


 1936年、金日成が祖国光復会という大衆団体を組織。30年代後半、金日成を指導者とする新幹会運動とは別路線の抗日パルチザン抵抗運動が活発化する。


 コミンテルンの指示を受け、朝共の中共化、日共化が進められたが、在日朝鮮時の日共化の流れは次の通り。それまで在日朝鮮人労働総同盟があり、新幹会の日本支部など大衆団体があり、それらと不即不離の関係で朝鮮共産党日本総局が組織されていた。

 1931年、金斗鎔(キムドウヨン)が「従来の独自の組織を日共の中に解消していく転換」を指導し、論文を発表。この転換の可否について激しく議論が闘わされ、幾人かの活動家が運動から身を引く。この体制はその後も続き、敗戦後も日朝混交化し続け、55年に在日朝鮮人総連合会ができ、朝鮮民主主義人民共和国公民と自己規定するときまで続くことになる。

 従来、朝鮮共産党日本総局に拠っていた在日朝鮮人活動家の多くは、金斗鎔論文を認めて日共へ入党し、大衆団体レベルでも合体が進む。例えば、在日朝鮮人労働総同盟傘下の朝鮮人労働者は、全協に加盟していく。他にも反帝同盟も。

 路線転換に従った部分の一人に金天海がいる。非転向獄中。





(私論.私見)