植民地支配期間は、1910年8月22日の「日韓併合」から1945年8月15日「日本敗戦」までの35年間です(『事典』P.292)。
強制連行者は、1945年日本敗戦時点における在日朝鮮人250〜260万人中、150万人でした(『事典』P.159)。残りの100万人・40%は、日本への自主的移住者です。(4)日本軍は、若くて未婚の5〜7万人を従軍慰安婦に強要し、戦場で「朝鮮ピー」と呼ばれるなど言語に絶する恥辱を受けさせ、敗戦とともに戦場に捨てました(『事典』P.189)。(5)創氏改名は、1939年11月の「朝鮮民事令」公布によるもので、日本国家・朝鮮総督府は、1940年8月10日の期限までに、約322万戸・80%を強要し、日本人名に改名させました(『事典』P.248)。
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(私論.私見)
在日朝鮮人運動史1945年解放以前 (1)在日朝鮮人運動年表(上)『部落解放研究』第4号(1975.3)
解説
日本に朝鮮人が来るようになり社会的な団体がうまれたのは1906年の朝鮮聯合耶蘇教会の創立が最初である。しかし、来日できたのは宗教家や高官達であり朝鮮の出先機関的性格が強かった。皮肉にも併合前に留学できたエリート達の中から併合反対の声があがった。この先駆的な行動は以後の朝鮮人運動にうけつがれていったのである。
1910年以後の運動を時代をおって若干の説明を加えていこう。まず1910年代初めには留学生の自然発生的な親睦会がうまれており12年末には統一した中央組織である学友会が結成され、20年代初期まで学生運動の中枢になっている。特に20年の時点で留学生中の82.4%も占めていた東京を中心に国権回復、民族独立の運動が展開されている。思想的には、朴殷植の「韓国痛史」にみられるような民族主義に共鳴しており、上海政府や朝鮮国内の言論界とも連繋しながらすすめられている。17年頃には留学生内部にもデカダンスや「黄金万能主義」の傾向が問題になってかり、さらに日本名に改名する学生もでている。これらが内部批判の対象となっている。l0年代末になると総督府の政治に対する不満を前提にして、デカダンス、自治主義、実力培養論、急進的独立論等の分化がはじまっているが、全体としては独立それ自体の論議の深化をみせており、共産主義思想への接近も試みられている。19年、3・1独立運動の導火線となった東京留学生2・8独立宣言連動はそれらを集約したものであり、民族運動の最大のピークをつくっている。
大阪での留学生の動きは、東京と違って一般労働者との結びつきが強く、早くも14年には一時的にせよ労働者救護をかかげた在阪朝鮮人親睦会(35人)が組織されている。大阪では3・1独立運動への呼応も労働者へのよびかけが中心であり、全国にさきがけて種々の親睦団体がみられる。20年代に入ると、自然発生的な労働争議と朝鮮本国および日本の融和運動が学生運動と共にラインをそろえる。留学生達は吉野作造らの黎明会に加入したり、日本人社会主義者や進歩的な日本人との交流を通じて思想研究も盛んに行うようになり明確なマルクス主義も芽ばえる。21年黒涛会の結成と1年後のアナ、ボルの黒友会、北星会両団体への分裂は内的な変化を示唆している。
意識化された労働運動のきざしは、22年の初めてのメーデー参加、東京・大阪での労働団体成立からで、本格化するのは25年の在日朝鮮労働総同盟結成以後である。23年には朝鮮人運動の高まりを恐れた内務省の各庁府県長官宛ての通牒も出されており朝鮮人の流入の阻止と監視が要請されている。(5.14)各府県での対応も22年頃から京都を筆頭に、23年大阪市の本格的な朝鮮人労働者の実態調査が始められた。24年香川、25年神奈川と全国主要府県で行われるようになり「朝鮮人月報」が作成され情報交換も行なわれ朝鮮人対策がたてられた。具体的に内鮮協和会創立や、職業紹介所、宿泊所、日本語学校等が運営されるのは23年末から24年頃からである。朝鮮人の親睦団体の増加と融和的性格の増大は日本当局の政策とタイアップしている。日本人労働団体の勧誘もあったが、大半の朝鮮人はむしろ親睦融和団体を選ぶ傾向が強かった。意識的な朝鮮人ですら、先進的日本人プロレタリアートへの期待をもちながらも鋭い批判をなげかけている。(25.3『政治研究』安光泉論文)
27年頃から急激に運動の質が変化してくる。特に5月以降、朝鮮共産党日本総局、高麗共産青年会日本部の結成により労総、学友会、新幹会支会の運動が統一され、きわめて極左的運動が展開されるようになる。しかしこれと対照的に労働者達の大半は、賞金不払が原因で紛争が発生。ストにまで発展できず日本人労働者との乱闘にすりかえられるという状況に呻吟していた。
凡例
1)この運動年表は朝鮮人の渡日か本格化する19l0年以降、1945年までを収める。使宜上、社会共産、無政府、民族、協和の4つに大別した。各項の内容は下のとおりである。<社会共産>朝鮮共産党日本総局(朝共)
高麗共産青年会日本部(商共青)在日朝鮮労働総同盟(朝労総)日本共産党(日共)日本労働組合全国協議会(全協)日本反帝同盟(反帝)日本解放運動犠牲者救援会(解救)
其の他、共産主義運動関係
<無政府>黒友聯盟、東興労働同盟会、朝鮮自由労働者組合、黒旗労働者聯盟、東方労働聯盟、極東労働組合、等其の他、無政府主義運動関係
<民族>新幹会関係、学生団体(学友会、留学生同窓会等)宗教団体(天道教宗理院、朝鮮基督教青年会、女子青年会、朝鮮耶蘇教会等)其の他民族主義運動関係(テロも含む)不明団体もいれた。
<協和>相愛会、中央朝鮮協会、協和会関係等、融和団体の運動
2)1)のく社会共産>の()内は略記で、年表の中で使用した。この他、以下のごとく名称を簡単にした。
日本(日)、朝鮮(朝)、労働組合(労組)、総同盟(総)、同盟(同)、在日朝鮮青年同盟(朝青同)、失業(失)、朝鮮少年同盟(朝少同)、日本赤色救援会(赤救)、関東自由労働者組合(関東自労組)、中国(中)
3) 各事項の最初の〔数字〕及び途中の−数字は日付けを示す。印は其の月におこったことを意味する。項目の終りの記号は参考にした資料の記号である。以下記号の説明をする。
(A)-1『朝日新聞朝鮮版』、(A)-2同『大阪版』
(B)『東亜日報』(トンアイルボ)
(C)『中央公論』
(H)坪江汕二『朝鮮民族独立運動秘史』
(J)労働事情調査所『在留朝鮮人労働運動の概況』(社会科学講座、12)1932.1
(K)『韓末韓国雑誌目次総録』(韓国国会図書館)
(M)『韓国新聞雑誌総目録』、((K)と同)
(N)-1
警保局保安課「朝鮮人概況」(1916.6.30)
(N)-2 同「在留朝鮮人学生の運動」『みすず現代資料』、朝鮮2、所収)
(N)-3
同、「朝鮮人概況」(1920.6.30)
(N)-4 朝鮮総督府警務局東京出張貝「在京朝鮮人概況」(1924.5)
(N)-5
警保局「大正14年中に於ける在留朝鮮人の状況」((N)-1、3、5は金正柱編『朝鮮統治史料』第7巻所収)
(O)大阪地裁検事局思想部「大阪府下に於ける思想労働等概況」(31.5.1調)
(P)出版警察報(警保局)(28.10)
(R)-1
『日本労働年鑑』(大原社研)
(R)-2 『労働年鑑』(労働年鑑編集所編、1920.6)
(R)-3
『労働年鑑』、(産業労働調査所、1925)
(R)-4
日労総同盟、『全国大会報告書』(1927.10、1928.10)
(S)内務省警保局『社会運動の状況』(各年度版)
(T)同『特高月報』(各年月版)
(W)『我国における共産上義運動史概論』(思想研究資料特輯第56号、1939.2)
(Z)『政治研究』1925年3月号
4)依拠した文献は主に『特高月報』『社会運動の状況』の2種類でその他は補充的に扱った。
在日朝鮮人運動史1945年解放以前 (2)在日朝鮮人運動年表(中)『部落解放研究』第6号(1976.2)
解説
20年代の日朝労働者の連帯の状況をみよう。22年頃から労働者の虐殺事件や待遇問題での衝突がめだってくる。23年には非連帯のシンボルともいうべき6,000人朝鮮人虐殺が敢行された。結果的に排外主義は一層、合法的なものとなった。これは以後の朝鮮人にとって忘れることの出来ない事件となり、常に日本の民族排外主義的傾向との関連で問題とされねばならない状況が続いている。
24年頃から労働争議の中で自主的な日本人との共同した闘いも始まる。しかし、まだ意識のズレは大きかった。この年のメーデーには始めて参加権をえた朝鮮人団体の提出した「植民地解放」のスローガンのため、出席を拒否されるという一幕もある。24年末の神戸3・1無産青年会の植民地解放演説会には水平社が援助している点が注目される。のち、水害救済連動や26年の三重県事件にも支援しており、水平運動との連帯の質も検討されよう。又、この24年には大阪で始めての借家紛争がおこり、以後の生活権拡大の闘いの火ぶたとなる。
25年に入り日本の労働団体、とくに日本労働総同盟との結びつきが強まる。朝鮮水害救済、震災惨死者追悼会、小樽高商問題、26年の三重県事件其他日本人団体の行事及集会等に朝鮮人と日本人の協力関係がみられる。この時期、日本労働団体との結びつきをめぐって解明されねばならない問題がある。一つは地域差である。東京よりも大阪のほうが一貫して結びつきが強いようである。運動それ自体の質に違いがあるのかどうか。東京は朝鮮の解放連動の延長としてのとらえ方が一般に強く、大阪は土着的民族主義を保存しながらも、生活に根ざしたところで日本人労動運動との連携が強いようである。例えば、朝鮮水害救済運動への展開のしかたや、「日鮮無産者提携」の第−声をあげている点等。又、水害救済連動で、東京は1月会と朝労総が中心となっている時に、大阪では朝労同に幾分反対のアナグループ、堺市自労組らが大きな役割を果たしている。のちにアナ・ボルの対立がおこるが、この点と関連して検討されよう。
25〜26年には朝鮮人の左翼運動に対して、日本当局は公然と仮想敵とみなす軍事演習を行うようになる。神奈川県では27年に内鮮係が創設され、神戸でも朝鮮指導委員制をひく。この歩みは急速に拡大される。28年3・15、29年4・16の2回にわたる日共党員検挙、治安維持法改悪、全国への特高課設置等、社会運動への大弾圧体制がひかれていく。朝鮮共産党日本総局も、28年9月、29年5月の両次にわたる検挙で組織の中枢は破壊されてしまう。この弾圧とコミンテルンの「一国一党原則」の適用により、在日朝鮮人左翼運動は大転換を行う。
即ち、29〜30年にかけて朝鮮人団体は解体し、日本全協に加入、合同過程がはじまる。これに対し大阪の青年は解体に先立ち青年としての役割を強調し、共産青年同盟の組織化を図るが、のち解消している点の検討が残されている。この時期に改めて朝労総の運動に対する検討がなされている。それは一言でいうならば「一方においては全民族的共同闘争の展開に関係せしめ、他方においては日本の労働階級と共同闘争を展開するといったような中ぶらりんの運動」という批判である。結論的には労働者の階級性を抹殺する解党的運動であると規定した。(金斗鎔論文『在日朝鮮人労働連動は如何に展開すべきか』1929.ll)
この時期の解消論は、日帝弾圧及資本攻勢に対する「労働者階級の団結」という図式が基調となる。個別的には、民族別組織の否定、民族共同戦線の否定、労総の再建に対しては解体を、民族意識には階級意識を、合法闘争には非合法闘争を、自由労働者には工場労働者中心を、街頭闘争には大工場、大鉱山中心を、朝鮮解放運動との連結には日本革命的労働運動との連結を、各々代置した。つまり日朝再組織の混乱弱体を日共中心「国際主義」として日本人優位→朝鮮人劣位の組織構造のもとに建てなおすことになった。当初、朝鮮人の民族的要求はおさえられ日本人大工場労働者の要求に従属される方向をとろうとしたが、逆に弾圧が厳しくなればなる程、朝鮮人達の闘いが日本労働運動の中軸を担うようになり、指導部分にも席を占めるようになる。朝鮮人の大半は臨時的、自由労働者であり、結果的には大工場に影響をもつよりも自由労働者が主力となった。日共の政策は当初から遅れていた。合同が進行後の31年5月、日共中央委員会で民族部設置決定、32年8月、日共地方委員会に少数民族部設置というように「連帯」の認識は弱い。
この時期の特徴を次にみよう。
第1に全体として日共指導部のセクト的極左方針は朝鮮人をひき入れることで一層、貫徹した。
第2に朝鮮人側は民族主義的傾向をおさえることで、朝労総朝鮮人の有効な再組織を妨げた。逆に一部の朝鮮人を共産に獲得した代りに、大半の朝鮮人を民族右翼及融和親睦団体においやった。名古屋同声会(31.6.7)の如きは典型ではないか。これについては詳細に、数量化を伴い検討を要する。
第3に、大阪地方では済州島出身者の東亜通航組合等が、全協のもつセクト的方針を、現場でのりこえ民族主義的要求をも組織化し、そのことで全協運動を逆に支えていた。しかし、のちに東亜は方向転換し全協から離れてしまう。
第4に、学生達は解消に反対の姿勢が強かった点である。東京では4割強の反対があり、大阪では反対派が優勢であった。
第5に、朝鮮人内部の対立、とりわけ解消派内の問題である。東京地方では労総解体後、朝鮮人委員会を設置し、再組織、産別の方向をとろうとしたのに反して、大阪では朝鮮人委員会を否定して独自に解消連動を展開する。はじめは「火曜派」が中心であったが、弾圧で壊滅すると「ソウル派」の済州島出身者が中心になっていく。火曜派は大阪化学労組を組織して対立し反帝大阪地方委員会結成に力を注ぐようになる。この対立の推移と質規定を詳細にあとづける作業はまだなされていない。
第6に、第5と関連するが、30年9月頃、大阪では旧朝労組への復古運動がおこっているが、この時提起された問題は何か。
第7に合同反対を唱える側の運動である。代表は「無産社」の主張である。朝鮮解放運動の延長として、相対的に言論等の自由な日本を基地としてとらえる。もっぱら朝鮮共産党再建運動に集約される。しかしこれもインテリの少数部分でしかなかった。のちに同志社(31.ll)のコップヘの解消で論議再燃。さらに労働階級社、コップ朝鮮協議会等の運動に表われるが、日共、其他から分裂行動という批判をうけ朝鮮共産党再建連動等は朝鮮に帰ってやるもの、朝鮮人だけが結集するのでなく、日本人を構成に加える、という方向で解消される。(32.6.16、32.9.29)在日朝鮮人の大半は植民地朝鮮の存在を前提としても、日本での生活を通しての問題に関心が大きく、この点を除いて朝鮮の独立を追求することは出来なかった。自覚した朝鮮人が朝鮮の革命のことを念頭におく、無産社−労働階級社一コップ朝協とたどることのできるジグザグな歩み=苦脳は今日の在日朝鮮人の半面の苦痛でもある。
1930年代半ばまでをピークとして、朝鮮人達は全協、共青、日共、反帝、赤救等の団体にとびこみ、或は弾圧に抗して再建運動の中で極左的運動を展開した。結局ファッシズムの中で広範な人民戦線を形成するに至らず孤立してしまった。この各々の組織の中での朝鮮人の闘い、日本人との関係、連帯の質を具体的に詳細にあとづける作業はまだ始ったばかりである。いずれにせよ日朝両民族が初めてプロレタリア連帯、植民地独立を媒介にして結びついた貴重な体験であった。他に植民地独立、民族排外主義克服という課題にせまる運動が当時としてどのようにありえたのか追求されねばならない。まさに30年代前半は「半島人の大阪に来る者はその本心社会主義でなくとも社会主義の仮面を被らないと大阪に居られなかった」という時代をつくった。(高権三『大阪と半島人』1938.10)

在日朝鮮人運動史1945年解放以前 (3)在日朝鮮人運動年表(下)『部落解放研究』第7号(1975.5)
解説
33年には愛知の「愛国青年団」が積極的な反共主義をうちだし左右の分極化は進行した。33年に「忘国メーデー粉砕」をかかげ、国恥記念日(併合)には徴兵令を要求している。翌年には「朝鮮同胞よ真に赤子の実をあげよ」のビラを貼付する。左翼にとってはメーデーは36年より禁止されている。30年代後半の左翼運動は厳しい官憲の眼をさけ、合法的な労組、農民組合、親睦及融和団体等の中に入り反ファッシズム戦線の形成を図るが弾圧で壊滅する。(1935.1「勇進会」、1935.2
富山内鮮労親会、矯風会にも37.9.22、etc)
同様の時期に夜学教育の場も失われていく。(1936.4、5.14、8.7、1937.3
etc)のちに協和会主導の日本語等講習会に代置され拡大される。オリンピックマラソンで優勝した朝鮮人選手の歓迎会すらもつことも禁止したのである。(1936.10.17)
日中戦争の始まりは満州事変と同様に朝鮮人の中にも恥ずべき中国人蔑視、排外主義を生み出させている。
学生達は当初、集会における朝鮮語禁止に対して、集会を開くよりも流会を選んで抵抗した。ついには従わざるをえなかったが、反対署名運動や他の行事への変更等によってたえず抵抗している。さらに当局は「留学生」の語を禁句とした。実施時期の早さはその地域の戦い方で異っている。
宗教家ではキリスト教者が日本基督教との合同(1940.01.16)後も一部は最後まで抵抗するが、朝鮮仏教徒、天道教徒は公然と融和政策に加担していく。(1937.09)
朝鮮人の合法的な結集の場はことごとく奪われていき親睦的な団体すら解散させられていく。朝鮮人に対する当局の恐れは「結集」自体にあった。それはいつ民族的な内容に変化するかも知れないと言う恐れであった。
40年代には融和的意味あいをもつ場合でも解体させ協和会に吸収していったし、朝鮮人だけの集まりには警告を発し又禁止した。消防組加入に際しても朝鮮人が「全体の5%をこえないこと」を条件に入れるなど神経をとがらせた。(警保局発乙第736号、宮崎県知事宛、37.12.20通諜)また国防婦人会加入の場合も各府県別に異なり、むしろ初期には消極的で時期尚早として拒否した。(1937.11滋賀)加入させる時も朝鮮人だけを別に斑を創設するという形で処理された。(1938.05.20)
一般日本人民衆にあっては朝鮮人に対して積極的に自警団を組織し、竹槍千本等で武装する必要ありと実行する動きもでている。(1937.09.18大阪府堺)
1930年代末には3・1独立運動後、植民地朝鮮で生れた世代の抬頭が起っている。幼年少年期を植民地的条件の中で育った朝鮮人にとっては朝鮮及日本はどのように映ったろうか。また民族的自覚はどのようなものでありえたのか。気の遠くなるような民族蔑視、入学・進学差別、就職差別、差別賃金、差別待遇、文化言語の抹殺、かりに逃亡においてもわずらわしい渡航証明制度、協和会手帳所持による監視体制、等々あらゆる生活の場面で主体性をもぎとられ、日本帝国主義に屈服、服従の「自由」のみ許された。
この状況は朝鮮人青年に「民族的」苦脳=めざめを喚起させずにはおかなかった。結果的に苦脳の解消は独立以外にないと判断した。勿論一方では「完全なる日本人になる」ことを選択させられた人達もいた。しかしこの層にも絶えず、転向の契機はあり、睦軍志願者訓練所終了の朝鮮人が民族独立をめざす側に転化するケースもみられた。(1943.06.20)一朝鮮人は徴兵制に対し次のようにのべる。「吾々朝鮮青年が日本の為生命を捧げる事は出来ない。……せめて祖国でもあれば祖国愛に燃えて喜び勇んで戦場に出て生命を的に戦うこともできる。……今こそ吾々は決然起って民族解放運動に挺身せねば永久に時機を失するものだ」(大阪・朝鮮独立青年党の朝鮮人、1943.12
T.P.111)
果して日本の同化教育は貫徹しえたか。特高は一例を教えてくれる。「大阪府中河内郡牧岡国民学校初等科3年生の受持訓導が戦争完勝の訓話中、朝鮮児童は『先生はあんなに言うけれど、日本は負けるよ』と隣席の内地人児童に私語せるものあり」(警保局保安課『思想旬報』第3号、1943.04.30)さらに戦争に関する感想文で初等科3年生中「にほんはまけ以下不詳」と答案するものありという。(同上)
45年、解放までの運動は大きく2つである。1つは後でのべる移入労働者の絶え間ない、植民地的労務管理に対する戦いである。もう1つはある程度の定着牲をもつ、学生、勤労学生、職工、土工等労働者の民族独立運動である。さらにこの2つの運動を結びつけようとする動きも一部に起っていた。代表的なものは山形県坑夫のグループ(1942.09.11検挙)の運動である。
始めて民族主義運動が治維法の対象となったのは兵庫、北神商業学校留学生グループ(1939.03.18検挙)であった。41年頃までは東京を中心に早大、中大、日大、明大、東大及京都大、同志大、立命大、等の留学生のマルクス主義及唯物論研究会などが組織され、1941.12.09弾庄で壊滅する。これに併行して40年頃から高校生、中学生及勤労学生達の独立運動が活発になっている。さらに42年頃から職工、土工等労働者の独立運動が加わり、全体として独立啓蒙運動が澎湃としておこるようになる。これらのほとんどが日本の敗戦を確信し、敗戦が朝鮮の独立の機会であり、朝鮮国内、日本、アメリカ、ソ連、中国での独立運動が呼応して蜂起し一挙に独立をかちとろうというものであった。思想的には明確に共産主義を打ち出しているもの、反共、親ソ、親米等の具体的な国家像が曖昧なものもあり差異はあるものの大半は何よりも「独立こそすベて」という認識に変わりなかった。
多くは海外の運動に期待をもっており鹿児島実科中学生グループの合いことばは象徴している。「上海へ流れよう、我々を呼ぶ上海へ流れよう」(1941.10.T
P.98)
金日成に期待をよせているグループも多く、年表でも12件(40〜44年)名前がでている。特に44年6月検挙の兵庫職工グループの主張は興味をひく。「1945年8月金日成は朝鮮に侵攻することになっているから、内鮮呼応して一斉蜂起すべし」「金日成に参じ朝鮮の為に働くべきだ」
この他、落書としていたるところに、板塀、マッチ箱、便所壁、アルミ硬貨、紙幣、電話室(公衆)、演劇場、記念碑、関釜連絡船、駅構内、さらには留置所の中にまで、朝鮮独立の文字がかきこまれあるいは刻みこまれた。
流言についてはその対象の多くは日本人であり逆に密告されることで「事件」になりえた。
40年代に入り新たに移入労働者の闘いが加わり解放まで続発していく。投入された炭鉱山、工場、土木建築現場等で食事改善、賃金値上げ、其他待遇改善を要求しスト、怠業等が行なわれた。ここでは日本人労務係員の露骨な朝鮮人蔑視が原因で絶えることなく、係員の制裁→朝鮮人全体の反抗→積極的には暴力的報復、スト、怠業、消極的には逃亡→これに対する警察、軍隊等の弾圧、というサイクルがくりかえされた。
これらは敗戦近くになると食糧不足からの紛争が全体の過半数を占め、「解放」後は一度に帰国を要求し全国の鉱山、会社、工場、事業場で紛争がおこっている。以上簡単に運動の流れをみてきた。ちなみに45年8月「解放」直後の左翼の人数は約7千数百名(転向していない者)であったといわれる。(『終戦前後参考綴』「終戦終結ニ関スル廟議決定前後ニ於ケル治安状況」内務省1945.09.01)