村八分とは何か

 (最新見直し2006.3.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、古くて新しい「村八分とは何か」を確認しておく。

 2002.11.20日 れんだいこ拝


【村八分(むらはちぶ)とは】
 「村八分」(むらはちぶ)とは一般的に、「村のしきたりや約束を守らなかった者を、村民全体がのけ者にし圧迫して苦しめる、集団行動主義の日本社会における代表的な私的制裁であり、いじめの代名詞」と云うふうに、人権無視の封建的遺制として受け取られている。これを歴史的に検証すると趣が異なり、それなりの合理性があった面もある。これを総合的に俯瞰して認識する必要があろう。

 「村八分」は、放火、殺人、窃盗、非行などの刑事犯罪行為を働いて秩序を乱した場合、それを繰返す者が対象となる。村の共有地の使用慣行や農事の共同作業、村の行事に協力せず、村や組の共同決定事項に違反する自分勝手な行動を取り続ける者も対象となる。これにの者に対し、村寄合の席で村民全体が申し合わせて決める。その内容は、村人としての交際十分(①成人冠、②結婚、③葬儀、④増改築建築、⑤火事、⑥病気見舞いや祈願、⑦出産、⑧水害、⑨旅行(旅立ち)、⑩年忌法事)のうち、葬式の際の埋葬と火事の際の消火活動の二分だけを別として、残り八分のお付き合いを断つと云う村落共同体の掟(おきて)としての「絶交処分言い渡しによる仲間はずれ」の意味がある。「村ばね」、「村はぶき」ともいう。「八分」は「じく、はちる」はの意とも云われる。払い除けて信用しない意味の「撥撫(はつむ)」が転じ、「八分」になったとする説もある。

 村として戸主ないしその家に対して扶助を行わないことを決めたり、村の共有財産の使用、入会 (いりあい) 権などを失い、村寄合への出席が停止される。所によっては赤ずきんをかぶせたり村から退去させる。「この秩序の攪乱者は、村八分の制裁を受けねばならなかったのである」。 八分を受けると共同生活体としての村での生活は不自由になるため元どおり交際してもらう挨拶が行われるが、これを「わびを入れる」という。有力者を仲介に立て,酒食を提供して詫(わび)を入れると許されるが、以後ほとんど発言権はなくなる。現代では法律上,共同絶交とも呼ばれ、人権侵害の違法行為とされ脅迫罪などに該当するとも云われるが、村落共同体の規制力が弱まるにつれ無力化した。

 二分の理由について、「自分たちに被害が及ぶことを防ぐ止むを得ない共同説」が主流である。日本の考古学者の第一人者、樋口清之氏は著書『梅干と日本刀』で、この悲劇の時だけは村のみんなで悲しみを共有しようじゃないかとしていたいう「共同体としての最終絆説」説を唱えて次のように述べている。「人間は助け合っていかないと生きていけない動物だから、どんな人に対しても最低限の助け合いは必要なんだ。と、当時の日本人は考えた。だから、村八分は非人道的ではなく、むしろ義理人情溢れる優しい懲罰なんだ!」(本書p.242)。

【慣習に見る合理性考】
 「吉川 美津子ブログ」参照。
 「死者に夜通し付き添った人が謹慎する理由」が次のように解説されている。

 通夜は死者の側に近親者が夜通し付き添う行為で夜伽(よとぎ)とも云われる。親しい人とのお別れの場としての儀式であるが、通夜に死者と共に過ごした人は一定期間(7日~10日程度)の「忌み」がかかり、喪が明けるまで外出が許されず喪家で過ごす「忌み籠り(いみごもり)」を要請されていた。これは、かって死者の周囲から感染が広がっていった経験的事実に対する賢明な処方であったかもしれない。親族が通し故人の側にいる理由も、死者の弔いという理由の外に、死臭を察して寄ってくる野獣から守るためであったかもしれない。「線香やロウソクを絶やしてはいけない」も然りで、野獣除け、虫除け、死臭を消すためという目的もあったと思われる。通夜や葬儀・告別式の後、「通夜ぶるまい」や「精進落とし」、「精進上げ」と称される食事が振るまわれる地域が多いが、この際の食事について、喪家は口を出さず隣近所にまかせるという方式をとっていた地域が多い。これも疫病と無関係ではないように思われる。家族は納棺、通夜などを通じて死者と密接な「濃厚接触者」関係にある。その家のかまどを使い、その家族が料理をすることは衛生的にNGだったと考えられる。通常用いる火とは別の火を使用することを「別火(べっか)」といい、通夜ぶるまいや精進落とし等でふるまわれる料理は他家で準備される。また喪家とは別のかまどで炊いた握り飯を持参するところもあった。

 村八分から「火事」と「葬式」が漏れた理由が次のように解説されている。

 火事は類焼し、周りの人達の生命や財産が危うくする。死臭は村人へ疫病を伝染させる。これを防ぐため、やむをえずであっても助け合わなければいけないというもの。家族は、臨終から通夜等を通じて故人との「濃厚接触者」であり、その者たちが葬儀の準備等の為に家の外に出ることによって感染が拡大してしまうことも考えられる。死体の処理ができず放置されてしまうと事態は悪化する。そういう理由もあって、当家以外の男性も加わって墓穴を掘り、女性も然りで賄い仕事などを分担したのではなかろうか。

 一定期間の忌み籠りが終わることを「忌明け(いみあけ)」という。かつてはこれをヒアケと呼ぶ地域があった。ヒアケは「火明け」と書くが、これをもって近隣の人と喪家が同じ火を使って調理することが可能となる。それまでは死穢のある家の火を他人の家の火と混ぜると死穢が伝染し、拡散していくと考えられた。このように一定期間を過ぎると、死者を不浄視するような物理的条件が取り除かれていく。戦国時代では、家族の死後数週間は主人の館に出仕できず、その期間が過ぎると衣服を着替えて参上したとか、漁村では四十九日を過ぎると漁が解禁になるというところもあった。また、四十九日餅といって、四十九日にお供えされるお餅もある。これは喪家でついた餅で、これを隣近所に分けたり、寺や墓に持っていくことで喪家にかかっていた穢れは解かれるというもの。霊的な恐怖というより、目に見えない疫病から一定期間遠ざけるための方法として、先人たちが生み出した知恵なのかもしれません。


 なぜ塩が「穢れ」を払うのか?

 古事記にはイザナギノミコトが海で禊祓い(みそぎはらい)をした神話から、塩は民間信仰のひとつとして「清め」のシーンで多く使用されていた。塩そのものに殺菌性や防腐性はありませんが、塩を使うことによる作用により殺菌・防腐の効果が認められる。そのため、昔の人は葬儀を終えた後、塩を身体に振りかけて家に入っていた。他にも米、味噌、大豆、魚、餅、団子などを食べることで「清め」とする地域もある。また小豆も赤飯や煮豆、粥といったものに形を変え、葬送儀礼のシーンでは広く食されていた。これらき免疫食であったと考えられる。土葬の場合、穴掘り作業が必要となるが、穴掘りには労力を費やすだけではなく、死体に接することから身体を守るためのさまざまな工夫がなされ、そこからしきたりが生まれた。穴を掘る人は精力をつけるため握り飯や豆腐などを持参したり届けられたりもした。酒を持っていくところもあるが、これは消毒の意味もある。また、必ず火を焚きながら掘るというところもある。なお、持参したり届けられた握り飯や酒は残さず食するか、そのまま置いて帰る。穴掘りに使用した道具も持ち帰らずに、そのまま墓地に一週間程度置きっぱなしにするが、これも感染症対策と無関係とは言い切れない。ちなみに現在でも、火葬場に持っていったものや、火葬場で購入したものを持って帰ってはいけないと言われているところもあるが、こういったしきたりの名残ではないでしょうか。





(私論.私見)