れんだいこの「立花隆の緊急投稿」緊急批判

 (最新見直し2010.2.3日)

 小沢キード事件で、やはり立花隆がしゃしゃり出てきた。以下、「立花隆緊急寄稿(1)異例の再聴取の裏を読む『小沢はもう終わりだ』」、「立花隆緊急寄稿(2)小沢不起訴」の先を読む」、「立花隆緊急寄稿(3)小沢と検察、両者の会見から読み取れるもの」を評しておく。


Re::れんだいこのカンテラ時評662 れんだいこ 2010/02/03
 【れんだいこの立花隆の緊急投稿批判】

 小沢キード事件で、立花がおとなしいと思っていたら案の定、2.2日、小沢の不起訴模様がマスコミ各社から伝えられたと同じ頃、見図るように「立花隆が緊急寄稿(1)異例の再聴取の裏を読む『小沢はもう終わりだ』」が配信されている。文芸評論家・山崎行太郎の政治ブログ「毒蛇山荘日記」の2010.2.3日付けブログ「立花隆はもう終わりだ。(笑)」が既にコメントしている。れんだいこも加勢しておく。全文転載は「ヤフ―ニュース」、「毒蛇山荘日記」その他に譲り、ここでは逐条コメント付けする。

 立花は、小沢が二度目の検察事情聴取を受けたことをもって、「小沢は生きのびられるのか?小沢は基本的に終った!あと一日、二日は生きのびるかもしれないが、小沢の政治生命はすでに終っている、と私は思っている」と見立てている。

 立花よ、検察が不退転の意思で小沢をヤルカヤラレルカで特捜していることは事実だ。しかし、検察が権力を発動した以上どうにもならない、観念せよとするのは権力側、その呼応組の発想でしかない。お前は見事に検察の思惑を吐露し代弁し説法しているに過ぎない。れんだいこ的には、お前の如く検察べったりの評論が評価されること自体が理解できないしケシカランと思う。

 立花は続いて、検察に代わって、概要「一見、こたびの嫌疑の筋がただの形式犯にしか問えないようなもののように見えるがさに非ず」と云う。概要「金丸信訴追事件以降、政治資金規正法中心に取り締まりの流れを変えたのである」と云う。「取り締まりラインをあまり低く設定すると、違反事例が多くなりすぎて事務処理に困る。結局、国会議員クラスをやる場合は、違反金額が一億円を超えるケースというのが、ここ数年の事案でなんとなくできかけていたガイドラインだった」。こう胡椒を振りかけて次のように云う。「そのガイドラインからみて、小沢のケースは、四億円(ないし八億円)であるから、文句なしに大きすぎるほど大きい。小沢の四億円は、田中角栄ロッキード事件の五億円、金丸信の五億円(佐川急便事件)とくらべて金額的に文句なしに同列にならぶ事件なのである」と云う。

 立花よ。検察がそういう風にシフト替えしてきたことは認めよう。しかしながら、それを是認するかどうかは全く別問題であろう。幾ら積み重ねても形式犯は形式犯である。針は針で棒にはならない。例えば、住所移転不届け即ち住民票移動せずを幾ら繰り返しても殺人罪にはならないのと同様である。我々は、「形式犯の金額選別重罪化」にそもそも疑念を持っている。政治資金規正法を、そういう風に使わうこと疑念を持っている。更に云えば、その基準による政治家選別による恣意的適用を訝っている。立花よ、ジャーナリズムがジャーナリズムとして機能する為には、法の下の平等適用を第一公理とせねばならぬのではないのか。この基準を抜け落とし、検察捜査に徒にエールし続ける立花とは何者ぞ。中曽根、小泉、竹中の際には沈黙し続け、角栄、小沢となると途端に舌鋒を振るわんとする立花とは何者ぞ、我々はか疑念している。

 立花は続いて、田中−金丸−小沢ラインの金権手法を嘲笑している。「小沢の場合は、ユーレイ企業の代りに陸山会などの政治資金団体名義にしていたわけで、カタチこそちがえ、構造的には、田中角栄がやっていたこととそっくりである。ここにおいても師匠ゆずりの手法が習い性となっていたといえるのではあるまいか」と云う。ここも臭い分析である。

 いわゆる吉田学校生が戦後保守主流派となり、1980年代初頭まで戦後日本の与党政治を取り仕切ってきた。池田以降一様に内地主義を掲げ、その限りで公共事業を優先し、その利権に与ってきたことは事実である。しかしそれを云うなら、かの時反主流派して位置していた岸、福田、中曽根、三木らは清廉潔白で有り得たのか。事実は外治的と云うべきか軍事利権、原子力利権に与ってきたのではないのか。その金額たるや、こちらの方が巨額でもある。立花よ、田中−金丸−小沢ラインの金権手法を嘲笑する暇があるなら、同じ論理と論法でなぜ軍事利権、原子力利権にも言及しないのか。俗に云う片手落ちだろう。お前の癖はここに極まっていよう。

 立花は続いて次のように述べている。「小沢は終るが、これで民主党が終るわけではない。もちろん自民党が復活するわけではない。前回選挙で獲得した民主党の議席をここで捨てなければいけないというわけではない。今回の不祥事は小沢一郎という異常な性癖を持った政治家個人の不祥事であって、民主党という政党の不祥事ではないから、この際、責任は小沢に押しつけて、民主党政権は維持しつづけてよい。今回の小沢の不祥事は、むしろ小沢の中の自民党的体質部分がしからしめたものといってもよいのだから、この際、日本の政界は、小沢に日本の政治の古い体質を全部押しつける形でその責任をとらせ、むしろ事件の再発防止にエネルギーを注ぎ、ここで抜本的に日本型政治の古い体質に抜きがたく存続してきた政治資金問題の最終解決をはかれるのがよいと思う」。

 この観点こそが小沢キード事件仕立て人のそれであろう。立花がアケスケにそれを代弁していることが分かり興味深い。立花よ、人民大衆はそんなに頭が悪くない。小沢が岡田民主、前原民主時代の低迷を打ち破り、今日の鳩山政権創出の立役者にして名参謀であることを見抜けぬバカではない。立花が、小沢抜きの民主党を願望すればするほど、我々は、小沢抜きの民主党の先行きを危ぶむ。元の木阿弥になることを恐れる。それよりむしろ、小沢抜きの民主党を願望するお前の魂胆こそが怪しい。そうやってお前は、国際金融資本帝国主義の意向を代弁し続けてきたのではないのか。

 この傾向は80年代以降とみに強まり、現在の日本は国体的に見て末期的状況を迎えている。GNP1%枠の防衛費を5%以上に押し上げ、更なる思いやり予算を計上し続け、国債を刷りまくり、外資企業の日本企業乗っ取りを促進し、金融はむろん食糧までコントロールされ、国民的資産である郵貯資金にまで手をつけられようとしていた。どこのどいつか、貧乏人は金持ちの栄耀栄華に拍手する自由があるとまでのたもうた。世界一を目指すと云ってかどうか、いつの間にやら国債累積債務は先進国中随一を誇るようになっている。自衛隊の武装派兵も常習化し始めている。
 
 昨秋、そういう日本ではダメだと国民が決起し、投票一揆により民主党政権を樹立した。その際の大功労者が雇われマダム小沢であり、次に反小泉で自民党を飛び出た国民新党、日本新党、大地の党らのスクラムであった。幸いなことに、この結束は強く、検察権力の介入なしには崩されない。否、検察の強権介入もこたびのように失態する憂き目に遭う。

 時代の潮流が変わり、売弁政治時代のピエロとして活躍してきたお前の悪事が晒される日は近い。それ故に、延命の道を願望するのは勝手である。その道が小沢抜きの民主党であるということも分かった。だがしかし、潮の流れは変わらない。お前の時代は終わりにせねばならぬ。

 立花は最後に次のように述べている。「小沢、小沢で騒ぐのはもういいかげんでヤメにして、日本の政治をよりよくするために、小沢の終りをいかに利用するか、という方向に発想の転換をはかるべきではないか」。その言や良しとしよう。ところで質問がある。お前がロッキード事件で角栄を葬り、それ以降のスッタモンダの挙句、中曽根が登場し、小泉が登場して以来、日本はろくな目にあっていないではないか。この時、お前は沈黙し続けた。ならば、お前には、中曽根時代、小泉時代よりまし論を開陳せねばならない責務がある。これを聞かせてくれ。そうすれば、お前の正体がもっと分かり易く見えてくることになろう。

 これがれんだいこ見解である。「立花隆緊急寄稿」を知らせてくれた山崎氏は次のように評している。「これまで、ことあるごとにそれなりの重要な役割を演じてきた立花隆というジャーナリストが、ついに馬脚を現したということのようで、つまり立花隆が、『小沢一郎』に異常ともいえるこだわりを持っていることはわかった」、「頓珍漢なコラムを書いているのを読んで、ちょっと気の毒だが、『終わっているのは小沢一郎ではなく、オマエだろう』と思わないわけにはいかなかった」、「ジャーナリストという存在を、東京地検特捜部の代理人としてしか見ていないということで、東京地検特捜部という組織こそ、権力を象徴する暴力装置だということが、立花隆には、まったく見えていないということだ。結果的には、日本の国益を毀損することになった『田中角栄研究』の中身もかなり怪しいものだったが、いずれにしろ、東京地検特捜部が日本の総理経験者・田中角栄を逮捕するのに貢献した、その時の立花隆のジャーナリストとしての名声の賞味期限もとうに尽きていたのである」、「立花隆みたいな時代的に使い物にならない、またその胡散臭さも時代が十分に証明した人を引っ張り出すくらいしかアイデアが浮かばない媒体も媒体で、ある意味お気の毒ですね。検察もこのまま小沢氏を、無茶苦茶な越権裁量でおかしなことをするならば、国民の不満も頂点に達するでしょう」。

 その通りであろう。付言しておけば、「立花隆緊急寄稿」は、小沢を不起訴にした東京地検特捜部に対して起訴せよと叱咤している政治主義文書である可能性が強い。となれば、これはこれで問題である。立花が誰の意向を挺してかくなる発言をしてるのか、この辺りも解明せねばなるまい。

 2010.2.3日 れんだいこ拝

【れんだいこの立花隆の緊急投稿批判その2】
 立花は、小沢が二度目の検察事情聴取を受けたことをもって、「小沢は生きのびられるのか? 小沢は基本的に終った! あと一日、二日は生きのびるかもしれないが、小沢の政治生命はすでに終っている、と私は思っている」と見立てている。

 立花よ、検察が不退転の意思で小沢をヤルカヤラレルカで特捜していることは事実だ。しかし、検察が権力を行使した以上どうにもならない、観念せよとするのは権力側の発想でしかない。お前は見事に検察の思惑を吐露し代弁し説法しているに過ぎない。れんだいこ的には、お前の如く検察べったりの評論が評価されること自体が理解できないしケシカランと思う。

 立花は続いて、検察に代わって、概要「一見、こたびの嫌疑の筋がただの形式犯にしか問えないようなもののように見えるがさに非ず」と云う。金丸信訴追事件以降、「政治資金規正法中心に取り締まりの流れを変えたのである」と云う。「取り締まりラインをあまり低く設定すると、違反事例が多くなりすぎて事務処理に困る。結局、国会議員クラスをやる場合は、違反金額が一億円を超えるケースというのが、ここ数年の事案でなんとなくできかけていたガイドラインだった」。こう胡椒を振りかけて次のように云う。「そのガイドラインからみて、小沢のケースは、四億円(ないし八億円)であるから、文句なしに大きすぎるほど大きい。小沢の四億円は、田中角栄ロッキード事件の五億円、金丸信の五億円(佐川急便事件)とくらべて金額的に文句なしに同列にならぶ事件なのである」と云う。

 立花よ。検察がそういう風にシフト替えしてきたことは認めよう。しかしながら、それを是認するかどうかは全く別問題であろう。幾ら積み重ねても形式犯は形式犯である。針は針で棒にはならない。例えば、住所移転不届け即ち住民票移動せずを幾ら繰り返しても殺人罪にはならないのと同様である。我々は、「形式犯の金額選別重罪化」にそもそも疑念を持っている。政治資金規正法を、そういう風に使わうこと疑念を持っている。更に云えば、その基準による政治家選別による恣意的適用を訝っている。立花よ、ジャーナリズムがジャーナリズムとして機能する為には、法の下の平等適用を第一公理とせねばならぬのではないのか。この基準を抜け落とし、検察捜査に徒にエールし続ける立花とは何者ぞ。中曽根、小泉、竹中の際には沈黙し続け、角栄、小沢となると途端に舌鋒を振るわんとする立花とは何者ぞ、我々はか疑念している。

 立花は続いて、田中−金丸−小沢ラインの金権手法を嘲笑している。「小沢の場合は、ユーレイ企業の代りに陸山会などの政治資金団体名義にしていたわけで、カタチこそちがえ、構造的には、田中角栄がやっていたこととそっくりである。ここにおいても師匠ゆずりの手法が習い性となっていたといえるのではあるまいか」と云う。ここも臭い分析である。

 いわゆる吉田学校生が戦後保守主流派となり、1980年代初頭まで戦後日本の与党政治を取り仕切ってきた。池田以降一様に内地主義を掲げ、その限りで公共事業を優先し、その利権に与ってきたことは事実である。しかしそれを云うなら、かの時反主流派して位置していた岸、福田、中曽根、三木らは清廉潔白で有り得たのか。事実は外治的と云うべきか軍事利権、原子力利権に与ってきたのではないのか。その金額たるや、こちらの方が巨額でもある。立花よ、田中−金丸−小沢ラインの金権手法を嘲笑する暇があるなら、同じ論理と論法でなぜ軍事利権、原子力利権にも言及しないのか。俗に云う片手落ちだろう。お前の癖はここに極まっていよう。

 立花は続いて次のように述べている。「小沢は終るが、これで民主党が終るわけではない。もちろん自民党が復活するわけではない。前回選挙で獲得した民主党の議席をここで捨てなければいけないというわけではない。今回の不祥事は小沢一郎という異常な性癖を持った政治家個人の不祥事であって、民主党という政党の不祥事ではないから、この際、責任は小沢に押しつけて、民主党政権は維持しつづけてよい。今回の小沢の不祥事は、むしろ小沢の中の自民党的体質部分がしからしめたものといってもよいのだから、この際、日本の政界は、小沢に日本の政治の古い体質を全部押しつける形でその責任をとらせ、むしろ事件の再発防止にエネルギーを注ぎ、ここで抜本的に日本型政治の古い体質に抜きがたく存続してきた政治資金問題の最終解決をはかれるのがよいと思う」。

 この観点こそが小沢キード事件仕立て人のそれであろう。立花がアケスケにそれを代弁していることが分かり興味深い。立花よ、人民大衆はそんなに頭が悪くない。小沢が岡田民主、前原民主時代の低迷を打ち破り、今日の鳩山政権創出の立役者にして名参謀であることを見抜けぬバカではない。立花が、小沢抜きの民主党を願望すればするほど、我々は、小沢抜きの民主党の先行きを危ぶむ。元の木阿弥になることを恐れる。それよりむしろ、小沢抜きの民主党を願望するお前の魂胆こそが怪しい。そうやってお前は、国際金融資本帝国主義の意向を代弁し続けてきたのではないのか。

 この傾向は80年代以降とみに強まり、現在の日本は国体的に見て末期的状況を迎えている。GNP1%枠の防衛費を5%以上に押し上げ、更なる思いやり予算を計上し続け、国債を刷りまくり、外資企業の日本企業乗っ取りを促進し、金融はむろん食糧までコントロールされ、国民的資産である郵貯資金にまで手をつけられようとしていた。どこのどいつか、貧乏人は金持ちの栄耀栄華に拍手する自由があるとまでのたもうた。世界一を目指すと云ってかどうか、いつの間にやら国債累積債務は先進国中随一を誇るようになっている。自衛隊の武装派兵も常習化し始めている。
 
 昨秋、そういう日本ではダメだと国民が決起し、投票一揆により民主党政権を樹立した。その際の大功労者が雇われマダム小沢であり、次に反小泉で自民党を飛び出た国民新党、日本新党、大地の党らのスクラムであった。幸いなことに、この結束は強く、検察権力の介入なしには崩されない。否、検察の強権介入もこたびのように失態する憂き目に遭う。

 時代の潮流が変わり、売弁政治時代のピエロとして活躍してきたお前の悪事が晒される日は近い。それ故に、延命の道を願望するのは勝手である。その道が小沢抜きの民主党であるということも分かった。だがしかし、潮の流れは変わらない。お前の時代は終わりにせねばならぬ。

 立花は最後に次のように述べている。「小沢、小沢で騒ぐのはもういいかげんでヤメにして、日本の政治をよりよくするために、小沢の終りをいかに利用するか、という方向に発想の転換をはかるべきではないか」。その言や良しとしよう。ところで質問がある。お前がロッキード事件で角栄を葬り、それ以降のスッタモンダの挙句、中曽根が登場し、小泉が登場して以来、日本はろくな目にあっていないではないか。この時、お前は沈黙し続けた。ならば、お前には、中曽根時代、小泉時代よりまし善政論を開陳せねばならない責務がある。これを聞かせてくれ。そうすれば、お前の正体がもっと分かり易く見えてくることになろう。


 これがれんだいこ見解である。「立花隆緊急寄稿」を知らせてくれた山崎氏は次のように評している。「これまで、ことあるごとにそれなりの重要な役割を演じてきた立花隆というジャーナリストが、ついに馬脚を現したということのようで、つまり立花隆が、『小沢一郎』に異常ともいえるこだわりを持っていることはわかった」、「頓珍漢なコラムを書いているのを読んで、ちょっと気の毒だが、『終わっているのは小沢一郎ではなく、オマエだろう』と思わないわけにはいかなかった」、「ジャーナリストという存在を、東京地検特捜部の代理人としてしか見ていないということで、東京地検特捜部という組織こそ、権力を象徴する暴力装置だということが、立花隆には、まったく見えていないということだ。結果的には、日本の国益を毀損することになった『田中角栄研究』の中身もかなり怪しいものだったが、いずれにしろ、東京地検特捜部が日本の総理経験者・田中角栄を逮捕するのに貢献した、その時の立花隆のジャーナリストとしての名声の賞味期限もとうに尽きていたのである」、「立花隆みたいな時代的に使い物にならない、またその胡散臭さも時代が十分に証明した人を引っ張り出すくらいしかアイデアが浮かばない媒体も媒体で、ある意味お気の毒ですね。検察もこのまま小沢氏を、無茶苦茶な越権裁量でおかしなことをするならば、国民の不満も頂点に達するでしょう」。

 その通りであろう。付言しておけば、「立花隆緊急寄稿」は、小沢を不起訴にした東京地検特捜部に対して起訴せよと叱咤している政治主義文書である可能性が強い。となれば、これはこれで問題である。立花が誰の意向を挺してかくなる発言をしてるのか、この辺りも解明せねばなるまい。

 2010.2.3日 れんだいこ拝

【れんだいこの立花隆の緊急投稿批判その3】
 「立花隆が緊急寄稿(3)小沢と検察、両者の会見から読み取れるもの」を転載しておく。冒頭で、局面がこの御仁の思惑通りにならなかったことにつき、検察審査会に望みを繋げる旨弱々しく論じている。興味深いことに、指揮権発動史に触れて次のように記している。

 ■元検事総長が綴った「指揮権発動」の真実

 ここで、いまひとつ異なる角度からこの一件を見直す必要があるという問題を提起しておきたい。それはこの不起訴決定の裏で、インフォーマルな指揮権発動があったのではないかという問題である。

 表向き、公然と行使された指揮権発動は、一九五四年の造船疑獄にあたって、検察が佐藤栄作自由党幹事長を収賄容疑で逮捕しようとしたのに対して、ときの犬養健法相がこれにストップをかけるために発動したもの一度きりということになっているが、実はそうではない。実はそうではないということは、指揮権発動問題に関していちばん権威あるとされる、伊藤栄樹元検事総長の『逐条解説 検察庁法』(良書普及会)に、はっきり次のようにある。

 「いわゆる指揮権発動は、昭和二九年四月、いわゆる造船汚職事件に関して行なわれたそれがもっとも有名であり、一般には、それが唯一の例であるかのようにいわれているが、必ずしもそうではない。」

 必ずしもそうではないどころか、重要事件については、むしろ、一般的といってもいいくらい行使されているというのだ。伊藤栄樹は次のように書いている。

 「まず、法務大臣は、あらかじめ、特に重要な事件について、捜査の着手または起訴、不起訴の処分について、法務大臣の指揮をうけるべき旨を、一般的に定めており、これにあたる場合には、具体的事件について、検事総長から法務大臣に対して請訓が行なわれ、これにこたえて法務大臣が指揮をすることとなっている。すなわち処分請訓規程(昭和二三年法務庁検務局秘第三六号訓令)および破壊活動防止法違反事件請訓規程(昭和二七年法務府検務局秘第一五七〇号訓令)に定める若干の事件がこれである。」

 政治資金規正法違反は新しい法律だからこの処分請訓規程に入っていないことは明きらかだが、その後身の現行処分請訓規程に入っているかどうかは不明である。しかし伊藤はさらに次のようにも書いている。

 「また、検事総長は、国会議員を逮捕する場合(ことに、国会の会期中)その他将来政治問題化することが予想されるような事件については、国会における検察権の代表者である法務大臣に対し、折りにふれて積極的に報告を行なうものと考えるが、そのような時、とくに法務大臣の指揮を仰ぐこともあると考えられる。」

 今回の事件は明きらかにこの範疇に入る事件だから、当然、最終処理にあたって、千葉景子法務大臣のところに処分請訓がなされているはずである。

 ■態度を一変させた小沢

 問題はそのとき千葉法務大臣が何といったかである。「しかるべく」(「検察がやりたいようにやりなさい」)といったかどうかである。そのような決定を下すにあたって、千葉法務大臣が小沢に連絡して、小沢の指示をあおいだりしなかったかどうかである。

 今回は、造船疑獄のときとちがって、「小沢不起訴」という方針は民主党政府と小沢の意に沿うものだったから、多分、「秘書三人起訴、小沢不起訴」という最終処分の内容を告げられても、千葉法務大臣は「それで結構です」としかいわなかったろう。

 ここで問題なのは、そのような検察最終処分方針の決定にあたって、検察がそもそも証拠を純粋に客観的に評価してそのような結論に導かれたのかどうかである。むしろ、検察側がいずれ法務大臣の指揮を仰がなければならなくなる事態を見こして、民主党政府と正面衝突しなければならないような最終処分方針(「小沢起訴」)は避けたということではないのかということである。


 立花は、「小沢不起訴にいたる決定過程」を疑惑して次のように述べている。

 ■阿吽の呼吸

 それがどのようなものであったかは、私も知らないが、あれほど強気だった小沢をもってして、検察を公平公正の権化のようにいわしめるような何かだったのだろう、とはいえる。その態度の変化から推しはかるに、検察は小沢を追いつめる相当の隠し玉を持っていることを小沢にある程度明かした。しかし、それを使わないで不起訴で結着をはかるという形で、小沢に大いなる恩を売ったということではないのだろうか。

 ついこの間まで、検察との対決姿勢を強めた小沢は、検察官人事に手を突っ込み、民間人から検事総長を起用するとか、検察庁の機構改革、取り調べ過程の可視化など、過激な改革策をいろいろ考えていると伝えられていたが、もしそうだとすれば、おそらく、そういう姿勢も含めて、小沢はこれから対検察の姿勢が大きく変っていくにちがいない。

 なにか大きなものを検察につかまれたままで、この事件が完全結着したとはいいがたい状況の中で、検察と小沢の間で阿吽の呼吸の大きな取引が進行したということが小沢不起訴の本当の裏側なのではないだろうか。阿吽というところが大事で、このような取引は決して言葉では明示されないし、いかなる形でも証拠は残さない。だから、後からどちらの側もあったとも、なかったともいうことができる。いってみれば、その後の小沢の大いなる態度の変化がそのような取引を受けたという意思表示といえる。

 ■小沢も検察も「安泰」か?

 小沢は実は、自民党の最大の実力者の一人として、政界の裏側をたっぷりのぞいてきた。政治と検察の関係の裏側もよく知っており、『小沢一郎 政権奪取論』(朝日新聞出版)の中で、指揮権発動に関して以下のようなことをいっている。伊藤栄樹とは別の意味で、指揮権発動なんて、何度も行われてきたといっているのだ。

小沢 犬養法相の場合は「やるな」というほうの指揮権発動だった。法相が疑獄捜査をとめたから、国民から批判されたのだ。しかし、田中先生と金丸さんについては「捜査をやれ」という指揮権発動だった。
――それでは、大物政治家に対する検察の捜査は、政権の側から「いいよ」という判断がないと、やりたくてもできないのですか。
小沢 検察が政界の大物を対象にした捜査をやるときは、必ず総理にお伺いを立てます。行政ですからね。金丸さんのときに、検察が政権のだれと話したか、僕は詳しくは知りませんけども。だけど、おそらく、あのときに首相だった宮沢喜一さんが、検察の捜査方針に「うん」と言ったんでしょうね。そうでなきゃ検察は捜査をやりっこないですから。そして、竹下派議員は少なくとも半分は、金丸さんの捜査を許容していた。
――竹下さん自身はどうだったのですか。
小沢 許容した側です。

 こういう経験を積んできた人間が、今回は政権中枢に座っており、しかも自分自身の政治生命にかかわる事態におちいったのだから、権限上も許される影響力を存分に行使したはずである。そしてそのような小沢の出方を十分に知っていた検察は、その捜査力を行使して、小沢に対する交渉力のもととなる材料をたっぷり仕込んだ上で、小沢との取引にのぞみ、「不起訴」決定と引きかえに、検察側も取るべきものはたっぷり取った(検察組織安泰)。しかし、そのような取引を表に出すわけにはいかないから、いまは検察の捜査がなぜどのように失敗したかというウラ話をさかんにリークして、それをマスコミがよろこんで書いているという状況ではないのか。

 おそらく、この事件の本当の裏側が外部にもれてくるのは二十年後、三十年後ということになるのではあるまいか。私は過去二回の記事で「小沢はもう終り」と書いてきたが、不測の事態が起きないかぎり(たとえばフリージャーナリストによるバクロ、検察審査会の起訴決定など)小沢の政治生命安泰、検察の組織安泰という日々がつづくのではないか。

 そして、造船疑獄を乗り切った佐藤栄作が、その後、検察主流と最も関係が深い政界実力者となり、政敵追い落としに検察権力を存分に利用し、史上最長の政権をきずくことになったなどという時代がもう一度現出することだけは願い下げにしたい。(文中一部敬称略)

 
 立花の逆立ち史観のサマが良く良かる話である。末尾で「この事件の本当の裏側が外部にもれてくるのは二十年後、三十年後ということになるのではあるまいか」と述べているが、その通り、ロッキード事件も30年後の今頃真相が見えてきつつある。この点だけは同意しておこう。

 2010.03.06日 れんだいこ拝




(私論.私見)