菅直人氏は9月4日の午後、代々木の「婦選会館」を訪れ、婦人運動家の故市川房枝元参院議員の記念展示室を見学した。報道によると、菅直人氏は「市川氏の写真に手を合わせた後、当時の自らの写真も懐かしそうに見入った。記名帳には「政治の浄化を訴えつづけられた市川先生の思いをこれからも大切にしてゆきます」と書き、「内閣総理大臣菅直人」と署名。見学後、記者団に政治浄化の問題は「わたしにとっても原点」とアピールしていた。」(時事ドットコム9月4日付記事)とのことだ。
菅直人氏は6月11日の所信表明演説でも市川房枝氏の名前を引いた。「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参議院議員選挙に立候補された市川房枝先生の応援から始まりました。市民運動を母体とした選挙活動で、私は事務局長を務めました。ボランティアの青年が、ジープで全国を横断するキャラバンを組むなど、まさに草の根の選挙を展開しました。そして当選直後、市川先生は青島幸男さんとともに経団連の土光会長を訪ね、経団連による企業献金の斡旋(あつせん)を中止する約束を取り付けられたのです。
この約束は、その後骨抜きになってしまいましたが、まさに本年、経団連は企業献金への組織的関与の廃止を決めました。「一票の力が政治を変える」。当時の強烈な体験が私の政治の原点となりました。政治は国民の力で変えられる。この信念を胸に、与えられた責任を全うしていきたいと考えております。」(6月11日菅直人氏所信表明演説より)
これだけを見ると、菅直人氏は市川房枝氏から信頼され、「政治の浄化」に邁進してきたかのように見える。しかし、肝心の市川房枝氏がすでに鬼籍に入られているので、市川氏の感想を聞くことは誰にもできない。しかし、その市川氏が菅直人氏に対してどのような感想を抱いていたのかを示す重要な資料が存在する。「復刻 私の国会報告」(1992年財団法人市川房枝記念会刊)だ。
ここに、市川房枝氏による以下の記述があるそうだ。「菅氏は1976年12月5日の衆議院選挙の際、東京都第7区から無所属候補として立候補した。このときは立候補をしてから私の応援を求めて来た。そのとき推薦応援はしなかったが、50万円のカンパと秘書(市川氏の)らが手伝えるように配慮し、「自力で闘いなさい」といった。ところが選挙が始まると、私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異なっていた。」
「政治とカネ」の問題がクローズアップされ、菅直人氏は小沢一郎氏に対して、根拠も示さずに「金と数の力にものを言わせる古いタイプの政治家」だと、聞いている者が驚くような非礼な発言を示した。小沢氏は激高することもなく、人間性に欠陥のある菅直人氏の傍若無人の振る舞いに苦笑を示していたが、NHK番組では、「政治とカネ」に一点のやましい部分もないこと、民主主義において数は重要であることを丁寧に説明した。
菅直人氏が所信表明でわざわざ名前を出し、代表選のさなかに記念展示室を訪問した市川房枝氏は、上記の記述を見る限り、菅直人氏に対して極めて強い不信感を抱いていたことが分かる。文章にしてこのような表現を後世に伝えるのは、菅直人氏に対する不信感が半端なものではなかったことを物語っている。菅直人氏は、いまは発言することのできない市川房枝氏を政治的に利用しているだけに見える。市川房枝氏が菅直人氏のことを絶賛していたのなら、市川房枝氏を紹介するのもうなずけるが、市川氏自身が菅直人氏に対して、極めて警戒的な気持ちを抱いていたのだとすると、菅直人氏の行動はいよいよ見苦しい。市川房枝氏の指摘は、菅直人氏の「政治とカネ」問題そのものである。菅直人氏の政治資金の取り扱いに適正でない点、許し難い点があったことについて市川氏は菅直人氏を激しく批判したのだ。
「天網恢恢疎にして漏らさず」というのか「やぶへび」と言うのか、菅直人氏はあまり市川房枝氏のことを引き合いに出さない方が身のためである。市川房枝氏の菅直人氏に対する批評が広く世間に伝達され、菅直人氏の人物像が、より現実に近いものに修正されてゆくことになるからだ。
代表選を戦うなら、正々堂々とした前向きの論争を心がけるべきではないのか。とはいえ、菅直人氏は、7月11日の参院選について、菅政権に対する信任投票だと述べた。したがって、参院選で大敗した以上、自分の言葉に責任を持つなら、主権者国民の意思を尊重して、身を引く以外に選択肢はない。本来、代表選に出馬する資格はないわけだ。そのなかでの出馬だから、どうしても肩に力が入り、虚飾を施すことになってしまっているのだと思われる。
菅直人氏は道理から外れて総理の座に居座り続け、さらに代表選後も総理の座にとどまろうとしている。しかも、参院選前に主権者国民に示した「信任投票」で大敗した結果に対する行動について、国民にひとことの説明もない。要するに生きざまがフェアーでない。市川房枝氏が言いたかったのはこのことなのだと思う。市川房枝氏は自分のことを利用するのはやめてほしいと天上で切望しているに違いない。
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/05/post_573.html
郷原信郎:小沢幹事長再度の不起訴処分について
5月21日に開催された、コンプライアンス研究センター長定例記者レクで、郷原信郎(ごうはら・のぶお)氏は「小沢幹事長再度の不起訴処分」について、以下のように発言されています。その内容を全文掲載いたします。
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今日、小沢氏の再度先ほどネットのニュースで不起訴処分が出たということが報じられていました。
今回の検察審査会の起訴相当議決を受けて、検察が再捜査をした末にどういう処分を行なうかに関して、再度の不起訴処分になることは確実だと思っていました。同じ不起訴でも起訴猶予の場合と嫌疑不十分の場合とは全然意味が違うわけです。犯罪事実は認められるが、情状を考慮して起訴を猶予すべきだという検察の判断について検察審査会がそれは不当だと、起訴すべきだと言った場合には、そういう意見を受け入れて、処分を見直す余地は十分にあるわけですが、嫌疑不十分ということで不起訴にしたということは、検察としては起訴するに足る証拠がないと判断したわけで、それと基本的に同じ証拠関係のままであれば、起訴するという判断は同じ検察の判断としてはあり得ないわけです。ですから、関係者の再度の事情聴取を行なって、基本的に証拠関係は変わらないということで不起訴になった。当然の結果だと思います。
問題は、依然としてあまり新聞、テレビなどでは報じられてないのですが、検察審査会の議決で起訴相当とされた被疑事実というのが、当初の検察の捜査で焦点になっていた収入の問題、小沢氏個人から4億円の現金が陸山会に入った、その4億円について収支報告書に記載されていないという問題ではなく、不動産の取得時期と代金の支払の時期について、実際とは2カ月半ずれた記載が行なわれているという期ズレの問題を起訴相当としたにすぎないということです。
今後、検察の不起訴処分を受けて、検察審査会がまた再度審査を行なうことになるわけですが、そこでは1回目の検察審査会の議決で起訴相当とされた事実が期ズレ問題に過ぎないということがまさにポイントになるんじゃないかと思います。ここをきちんと報じていただかないと、今回の再度の検察審査会の審査において何が焦点になるのか、何が重要なのかというところが世の中に理解されないのではないかと思います。
今後、検察審査会で2回目の審査が行なわれますが、その審査の対象は当然この期ズレの問題です。検察審査会がほかの事実について、検察が石川議員を起訴した収入面の問題とか、そういったことについて審議するのは、それは勝手ですけれども、それは1回目で起訴相当とされてないので、仮にそれについて起訴相当だと言ったとしても、2回の起訴相当議決が出たということになりません。強制起訴になりません。ですから、この件についていろいろ新聞、テレビなどで騒がれている2回の起訴相当で強制起訴になるとすれば、1回目と同じように、この期ズレの問題......不動産の取得時期と代金の支払の時期が2カ月余りずれていたという問題について、もう1回検察審査会が起訴相当の議決をする、ということしかあり得ないわけです。
そうなると、検察審査会のそういう判断の前提として、政治資金規正法というのはどういう目的の法律で、政治資金規正法で裁かれる、処罰されるべき行為はどういうことなのかということをしっかり理解した上で審査員の人たちが起訴すべきかどうことを判断してもらう必要があります。第1回目の審査では明らかにその点の理解が不十分だったわけです。ですから、この次の検察審査会の審査の中ではそこの点についてしっかりとした説明が補助弁護士から、そして検察官の側からきちんと行なわれるかどうかというところが重要です。
当然のことなんですが、政治資金規正法が目的としている政治資金の収支の公開というのは、そこで公開すべきものは何なのか、何が一番重要なことなのかと言えば、それはその政治家や政党の政治資金がいったい誰の資金によってあるいはどういう企業の資金の提供によって賄われているのかということ。そして、その資金がどのように使われているのか。それは政治資金規正法上、収支の公開の対象になるべきもっとも重要な事実です。ですから、それらの点について公開すべき事実を隠しているとか、ウソを書いているということであれば、あえて罰則を適用してまで厳しい処罰をするべき事件ということが言えるわけです。
私がこの件について以前からずっと指摘してきたように、そもそもこの4億円の収入の不記載ということ自体も、これがほんとに不記載なのかどうかということも問題ですが、仮にそれが不記載であったとしても、身内のお金がぐるぐるっと陸山会との間で回った、あるいは出たり入ったりしたというだけのことであって、どこかの企業とか、どこかの個人から政治資金の提供を受けていたことを隠したということじゃないかぎり、それ自体悪質な政治資金規正法違反で罰則の適用の対象とは言えないわけです。
ましてや、不動産を取得したことも、代金を支払ったということも収支報告書に書いているのに、その時期がたった2カ月余りずれたということだけであれば、これに対して罰則を適用すべきだという判断は常識ではあり得ません。その辺がきちんと検察審査会の審査員に理解してもらえるような説明を補助弁護士も検察官も行なわないといけないと思います。検察官は当然、今回はしっかりとした説明を行なうと思います。前回は少しその説明が不十分だった可能性がありますが、今回は改めてきちんと基本的なところから説明すると思いますが、どうもこの前の議決のときの補助弁護士さんは、あまりそのところが理解されてなかったんじゃないかと思えるような議決の内容でした。今回はもっとしっかり政治資金規正法を理解されている弁護士が補助弁護士として関わる必要があるんじゃないかと思います。
今回の検察の不起訴処分でどういう事実が対象とされたのか。そこがほとんど報道されていないのですが、一回目の検察審査会の議決で起訴相当としたのが期ズレ問題だけですから、期ズレの点についてだけしか今回の不起訴処分の対象になっていないはずです。検審で起訴相当とされた被疑事実について再捜査すればいいわけですから。そうだとすると、2回目の検察審査会は、検察が再度不起訴にしたことに対する再度の審査だから、今度は期ズレの問題についてだけ審理することになります。その期ズレが起訴相当だと言うんであれば、それは起訴強制になるでしょう。しかし、それは常識では考えられない。それだけの問題だと思います。
そういう、今後の検察審査会の審査のポイントがなぜきちんと報じられないのか。まったくわかりません。報じるのが当然のことを報じないというのは、これまで、企業不祥事などで、マスコミが企業の追及にさんざん使ってきた「消極的な隠蔽」そのものじゃないですか。重要な事実を、真実を、報道する、伝える義務があるのに、それを何らかの意図で、敢えて報じないとすると、それは隠蔽そのものでしょう。
この問題に関連して、小沢氏側が検察審査会に対して上申書を提出することを検討しているということが報じられていますが、法律上は、上申書の提出というのは定められてないと思いますが、上申書が提出されれば、それを検察審査会の審査員の人たちに読んでもらい、被疑者側の言い分も十分に理解した上で、議決をしてもらうということ。これはある意味では必要なことだし、そういうふうに上申書が取扱われることを否定する理由はまったくないと思います。
以前のように、検察審査会の議決に法的拘束力がないという、そういう時代であれば、検察審査会の議決というのはあくまで検察官の処分が適切であったかどうか、正当であったかどうかということを判断するだけですから、その審査の中で被疑者側が「ああしてくれ」「こうしてくれ」ということを口に出す余地は本来ないという考え方も十分あり得たと思います。しかし、検察審査会法の改正で今は検察審査会の2回の議決で強制起訴になるということで、まったくその法的効果が違ったものになっているわけですから、そういうような効果を本当に生じさせてもいいのかどうかということについて、被疑者側の言い分が上申書という形で出ているのであれば、それを審査員の方々にもちゃんと読んでもらうというのは必要なことじゃないかと思います。
1つの考え方としては、あくまで推定無罪なんだし、裁判にかけられたって有罪かどうかは最後は裁判で決まるんだから、そのときに裁判所で言えばいいじゃないか、上申書なんて、そんな早い段階で検審に出す必要ないじゃないか、という考え方もあり得ると思います。しかし、日本では少なくともこれまで公訴権、起訴の権限を検察官が独占していることが前提でしたが、起訴をされるということが非常に大きな意味を持って、それ自体で政治的、社会的にも被疑者、被告人が大きなダメージを受けるということが今まで刑事司法においてずっと続いてきたわけです。それが今回ももし起訴強制となったときには、これは検察官の起訴じゃないから、検審の議決による起訴だから、そんなものは結論はまだまだ先に出るんだと。裁判が続いている間はあんまりそういう先走ったものの見方はしないようにしよう、というふうに世の中が受け止めるかといったら、おそらくそうじゃないと思うんです。
今の状況からすると、起訴強制ということになった段階で、そのこと自体で結論が出たような扱いをする、ほとんど推定無罪......無罪の推定が働かないような、そんな世の中の論調にならないともかぎらないし、その可能性が強い。そうだとすれば、この検察審査会の審査の場で被疑者側の言い分、主張も十分に踏まえた判断をしてもらうというのは、ある意味ではバランス上重要なことではないかと思います。
そういった検察審査会での補助弁護士などの説明や検察官の説明、そして一方で被疑者側の上申書などが出されたりしたとすると、そういったものを踏まえて最終的に検察審査会の審査がもう一回行なわれて、その結果、起訴相当の議決が出るのか、それとも今回は不起訴が相当ということで収まるのか、ということが今後最大のポイントになってくるわけです。
その点に関しては一つ、ちょっと問題があるんじゃないかなと思えるのが、今回の検察審査会の第1回目の議決が11対0だったということが、議決が出た日に早々と報道されているということです。私はこれは非常に問題なんじゃないかと思います。裁判員制度で言えば、3人の裁判官と6人の裁判員がいったいどういう評決をしたのか、有罪の評決したか、無罪の評決をしたか、死刑が相当だと言ったか、無期でいいと言ったかという、そういう評決の中身は絶対に表に出ないこととされて、厳重な守秘義務が課されているわけですが、それは検察審査会も同様です。
それが今回のように11対0だということが、こんな早々と表に出てしまうと、この検察審査会の審査員が今回、この11人のうちの6人は交代して5人が残ったということになるとこの次、検察審査会の新たな11人による審査が行なわれるときに、元からのメンバーの5人は、これは全員起訴相当意見だということが全部わかってしまいます。これは改めて白紙から11人みんなで対等の立場で議論をしようとする場合には、非常に大きな支障になるんじゃないかと思います。そういう意味で、この検察審査会の審査の中身、その意見の内訳についての秘密というのはしっかり守られる必要があるのであって、こんなものが議決の当日に出てしまうというのは、とんでもないことだと思います。
投稿者: 《THE JOURNAL》編集部 日時: 2010年5月24日 20:09