森田実の田中角栄論、小沢一郎論の反動評論考 |
(最新見直し2010.1.31日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
第一次ブント草創期前の穏和系の指導者の一人であった森田実はその後、政治評論家として今日まで生き延びてきた。その言は、時の政権批判をしながらも、穏和的な政論に意義を見出され、空気抜き的批判として重用されたきた。第一次ブントの指導者・島―生田ラインの政論、生き様と相容れぬものであることは疑いない。その森田が、細川政権誕生過程前後から、遮二無二小沢一郎批判を開始して今日に至っている。相当な量の論文を書きつけており、これを一々読むほどの値打ちもないので、最新のものから批判的に検討して行くことにする。 2010.02.01日 れんだいこ拝 |
「![]() 森田は、小沢の国連至上主義論を批判する。「一つは国連至上主義である。国連決議があれば、それが安保理決議だろうと総会決議だろうと、憲法を超えて何でもできるという主張である。この主張は1990年代前半以来一貫している」と評している。1990年代初期の湾岸戦争の時、日本は大枚の戦争賛助金をむしり取られたが、その時の海部政権の自民党幹事長が小沢だった。その小沢が、「当時自衛隊のペルシャ湾派遣を模索したが、日米安保条約にもとづいて自衛隊が極東の範囲を越えて行動を起こすことに関して、自民党内にも国民的にも、非常に強い反発があったため、失敗に終わった」と評している。 森田よ、この云いは正確か。れんだいこは、湾岸戦争時の戦争協力金をむしり取られたことを批判しているが、それは何も小沢批判に結びつける必要はない。ものの見方を変えれば、「自衛隊派兵は到底無理だ。その代わりにカネを出す」とする立場から国際金融資本帝国主義と交渉した結果と受け止められない訳ではない。「自衛隊が極東の範囲を越えて行動を起こすことに関して、自民党内にも国民的にも、非常に強い反発があったため、失敗に終わった」と見立てるなら、小泉政権時の「カネも出す、自衛隊も出す」をどう説明するのか。この時、何故に「自民党内にも国民的にも、非常に強い反発」が起こらなかったのか。 問題は、「自民党内にも国民的にも、非常に強い反発」ではなく、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の「言いなりになるのか、多少の注文をつけるのか」の時の政権担当者の政治姿勢の違いではないのか。森田の如く、小沢をして小泉前の自衛隊の海外武装派兵論者とする見解には同意し難い。森田説は、流布されている「ユダヤ・ペットとしては、小泉の大先輩の売国奴」、「小沢一郎は、元祖媚米派。小泉純一郎は第二期媚米派」論と親疎している。しかしながら、「ユダヤ・ペット」を云うのなら歴代の自民党内タカ派の面々を論うべきだし、小沢を「元祖媚米派」と云いなすのなら、それ以前の岸、福田、中曽根はどうなるのだ。つまり、支離滅裂な論であり、森田がこれに安逸に同調していることのウソウソしさばかりが見えてくる。 小沢の国連至上主義論とは、それ自体評価し得るものではないのだが、敢えて評価するとすれば、中曽根―小泉式国際金融資本帝国主義の言いなり路線、即ち要請があればいつでもどこでもカネと兵隊を出す路線に対して、国連決議がなければできない論で対抗した節がある。森田の如く、「このとき小沢が考え出したのが『国連決議があれば何でもできる。自衛隊をどこにでも出すことができる』というゆがんだ論理だった。小沢は、20年近くたってもまだこのゆがんだ論理を使おうとしている。アフガニスタンに自衛隊を派遣したいと考えている小沢は、このゆがんだ論理をいまだ使い続けている」は、実際の小沢式国連中心主義論に対する詐術ではなかろうか。 もとより、れんだいこは、小沢式国連中心主義論に与するものではない。れんだいこは、戦後国是の非武装平和主義且つ国際協調主義を良しとしている。この立場から見れば、小沢式国連中心主義論は国際金融資本帝国主義に対する妥協であり、中曽根―小泉式国際責務論―日米運命共同体論は言いなりだと見立てている。森田の見立ては、これを逆に描こうとしている点で詐術であり許し難い。 次に森田は、小沢の「日本改造計画論」を叩いている。次のように評している。「『日本改造計画』の根底を流れているのは、『反日本』という思想であると私は判断している。『日本人はなあなあで、お互いに空気を読みながらなれ合いでことを進めていく』と小沢は日本的生き方を非難しつづけてきた。小沢は、いわゆる『日本的』な姿勢を嫌っている。アメリカ型の自由競争、厳しい自己責任社会がいいと考えているようである」。 森田よ。小沢を評してそのように描くなら、中曽根、小泉辺りはどうなるのだ。仮に小沢のところを小泉に云いかえればピッタリ当てはまる。次のようになる。「『自民党をぶっ壊す』の根底を流れているのは、『反日本』という思想であると私は判断している。『日本人はなあなあで、お互いに空気を読みながらなれ合いでことを進めていく』と小泉は日本的生き方を非難しつづけてきた。小泉は、いわゆる『日本的』な姿勢を嫌っている。アメリカ型の自由競争、厳しい自己責任社会がいいと考えているようである」。 問題は、森田が、小泉批判に投げかけるべきロジックを何故に小沢にぶつけているのかということにある。まさかカネで飼われているのではあるまいが。それともボケか。それともこの程度のミソと糞の違いが分からぬ俗人か。このどちらかになる。 森田は、どういう思惑があってか分からないが、どうしても小沢を酷評したいのだろう。小沢の「日本改造計画論」を角栄の「日本列島改造論」と似ても似つかぬものと断じて批判している。「根底に流れているものは正反対の考え方である。田中角栄は日本が好きだった。田中角栄は日本を生かそうとした。しかし小沢は日本が好きではない。小沢の日本改造計画の思想は『反日本』である」と云う。何を根拠に云っているのか分からないが、そう断じている。 それはそうと、森田よ、お前はいつから角栄を持ち上げるようになったのか。お前の過去の言説で、角栄をかように好評価している下りを知らない。自説を転換するのなら、過去の言説の自己批判をしてから為すのが筋と云うものだろう。次のように述べている。「田中角栄がめざしたものは豊かな日本をつくることだった。『日本列島改造論』で書いているとおり、田中角栄は過密・過疎の同時的解消、全国の道路交通網、鉄道網、航空網整備を目標として掲げた。越後偏重と言われたが、「故郷をよくしたい、豪雪地帯である越後を豊かにしたい」という基本理念から出発したものだった。田中角栄が政権をめざしたのも「故郷をよくしたい」という一念からだった。 しかし田中角栄の日本列島改造は挫折した。石油危機と過剰流動性につぶされたのだった。もし10年、時期がずれていれば彼のやりたいことは達成されたかもしれなかった。田中角栄は不運な政治家だったと言えるかもしれない。田中角栄は石油危機という国際政治の流れに押しつぶされたのだった」。 |
(私論.私見)