管首相の所信表明演説考 |
(最新見直し2010.10.01日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、菅首相の所信表明演説を確認しておくことにする。 |
【所信表明演説全文】 | ||||||
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Re::れんだいこのカンテラ時評746 | れんだいこ | 2010/06/12 |
【鳩山、菅の所信表明演説の物足りなさ、角栄のそれの素晴らしさ考】 2009年の政権交代により鳩山民主党連合政権が生まれ、鳩山首相は「友愛政治」を詠った。続く2010.6月の突然の鳩山首相−小沢幹事長同時退任劇を受けて菅政権が誕生し、菅首相は「リーダーシップ政治」を打ち出した。物足りなさを覚えたれんだいこはふと田中角栄の政治を仰ぎ見たくなった。角栄は、首相就任直後の所信表明演説で「決断と実行の政治」を詠っている。 比較するに、鳩山、管のそれの総花的言葉遊びの感触を得るのに対し、角栄のそれは簡潔明瞭、数等倍もより人民大衆生活擁護的である。興味があれば下記の演説で確認するが良かろう。問題は、既に角栄の立派な所信表明演説内容が呈示されていると云うのに、自公からの政権交代を掲げて登場している鳩山、菅が何故にこのラインから大きく後退した線しか打ち出せないのであろうかということにある。誰か、この問題を解いて見せてくれないだろうか。資質問題に拘わることではなかろうか。 「1972.10.28日、第70回国会に於ける角栄の初の所信表明演説」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/enzetu/syoshinhyomei.htm) 付言すれば、角栄は、所信表明演説で約束したテーマを次から次へと履行していることである。中国との国交正常化、成長経済政策の維持、国土の均衡ある発展、魅力的な地方都市育成、社会保障・年金・医療制度の充実、高齢者の雇用対策、公務員給与の改善、公共投資の充実による社会資本整備、平和憲法の擁護等々を目標に掲げ、単に口先で云うだけでなく具体的な施策を講じている。鳩山には耳が痛いだろうが、次のように述べている。「政治家は、国民にテーマを示して具体的な目標を明らかにし、期限を示して政策の実現に全力を傾けるべきであります」。 以上は前置きである。ここでは、「ポスト佐藤の政権取り抗争に於ける角栄の対福田先取の是非」を考察しておきたい。今まで考察したかったのにしていなかった。ここで取り組む。世評の一部では、ロッキード事件で潰された角栄に対し、年の若い角栄が先に福田に譲り、その後に政権取りに向かうのが順序であり、これを顧慮しなかった角栄の自業自得であるなる論を唱えている者が居る。結果論で云えば一理ありそうではあるが正論であろうか、これを問いたい。これを逆に云うと、角栄はなぜ福田より先に政権取りに向かったのか、その真意は奈辺にありやということになる。れんだいこはずっと気になっている。誰か、これを解いて説いてくれないだろうか。 れんだいこが思うに、角栄と福田では、同じ自民党の且つ同じ佐藤派の重役でありながら、歴史観、社会観、政治観、それらを一まとめにしての政治哲学が違い過ぎていたのではなかろうか。それ故に、角栄は福田に政権を渡せなかったのであり、福田に先んじて角栄政治を実践敷設したかったのではなかろうか。角栄にとって、政治の内実はそれほど真剣なものであり、年齢の順序による政権たらい回しなぞ許されなかったのではなかろうか。これが角福戦争の真意であり、政治史的位置づけになるべきではなかろうか。 では、福田と角栄の政治にはいかほどの間隔があったのか。これを見ていおくことは興味深いが紙数を増すので割愛する。要するに、福田政治は官僚派のそれであり体制的であり且つ現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の御用聞きとセットされたものであった。他方、角栄政治は党人派のそれであり新体制的であり且つ国際金融資本帝国主義と対抗する在地土着派的な民族主義のものであった。この原理的な対立が両者を非和解的にしたのではなかろうか。 もとより政治的な意味においてである。実際の両者は同じ自民党の同じ佐藤派の席を並べ合う仲であり、大人の芸でほどよく付き合っていた。日本政治の特質である半ば抗争半ば和睦と云う高等な暗闘関係を維持していた。その両者であるが、ポスト佐藤の後継争いの段になると両者申し合わせた上で死闘戦に及ぶことになる。これに決着するやルールに従う。勝者側の角栄は敗者を人事で労り、禍根を和らげて行く。決して勝てば官軍の論理で非情の采配を振るうことはない。まさに大人の政治芸を史実に刻んでいる。自民党が長らく政権を保持し得た秘密がここある。つまり政治能力が高いと云うことであろう。 れんだいこは、ポスト佐藤を廻る政権取り抗争出馬時、角栄が何故この争いに向かったのかの角栄語録、決意表明文を探しているが手に入らない。誰かに教えてくれないだろうか。これをなぜ欲するのかと云うと、角栄政治が如何にマジメなものであったのかを確認する為である。今日びの甘ちゃん政治の姿勢との違いを確認する為である。今や政治家は口をそろえて「政治とカネ」を頻りに云い、クリーン政治を第一に掲げる。しかし出てくるのは、マミー献金であったり、仮想事務所経費であったり、漫画やキャミソール代の経費計上であったりする。この連中が、小沢前幹事長の秘書寮建設の経緯に口を尖らせ、説明責任を唱えて憚らない。 れんだいこは、その要因は本質的には政治の遊び人性にあると考えている。政治にマジメであれば、自らがマミー献金、仮想事務所経費計上、漫画やキャミソール代経費を計上している場合には、「政治とカネ」問題では黙して語らないものである。それが実際には手前の不祥事が露見するまで他者に対しては説明責任ありと批判し抜くのが相場となっている。そんなみみっちいことより私の政治の質を見てくれ、そこで評価してくれと開き直るのならまだ良い。そうではなく、説明責任あり、役職辞任当然、証人喚問の要あり、議員辞職せよとして訴追運動に精出す。この手合いが如何に精力的にクリーン政治を弁じようとも、人間性に於いてそもフマジメと云うべきではなかろうか。 なぜこういうことを敢えて記しておきたいのか。それは、昨今ブーメランが手前の頭上に降りかかってくる者が多いからである。野党の自公がクリーン政治を云うのはお笑いでしかないのに、よほど野党ボケしたかクリーン政治の裾を引っ張って放さない。昨今の自民党諸君は口を調法に回す者が政治家とでも思っているのだろう。そういう政治家ばかりになっている気がする。連中がマジメそうにクリーン政治を云えば云うほど、ブーメランが戻って来た時に当たらなければ良いのだが心配してやらねばならない。世話の焼ける御仁たちではある。 もとへ。こうなると我々は、マジメさとはどういう意味なのか、根本から考察し直さなければならないのではなかろうか。その際、角栄政治のマジメさは鏡になると思う。よしんば二号をもとうが三号をもとうが、政治におけるマジメさは何ら毀損されない、と、れんだいこは考える。違うだろうか。最近は安っぽい正義派が多くて困る。これもネオシオニズム派が流行らしているように思えるのではあるが。なぜなら、かの著作権も連中がもたらしてきたものであり、当のアメリカではかっての著作権万能社会から抜け出しを始めているというのに、日本ではさぁこれからますます強化しようと云うのだから、トラック競技に例えれば既に二周ほど遅れ過ぎていることになる。よってレースにならない。この手合いが殊のほか安っぽい正義を好む。この安っぽい正義が徘徊しており、本当の政治に向かっていないように思えて仕方ない。 以上、十分ではないが云いたかったことを云い得たと思う。どなたかの参考になればよいとも思う。 2010.6.12日 れんだいこ拝 |
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Re::れんだいこのカンテラ時評814 | れんだいこ | 2010/10/01 |
【「2010.10.1日の菅首相の所信表明演説」考】 「2010.10.1日の菅首相の所信表明演説」をコメントしておく。総評として、菅首相の低能ぶりを示す稀にみる子供演説であるとしておく。こういう演説を許したとと云うことは、2009年の政権交代以来1年有余、政権交代効果がほぼ潰えたことになる。但し、それは鳩山−菅と続く党内右派によるアクセルではなくブレーキを踏み続けた結果であって、僅かの望みとして党内土着派の小沢政権であったらどうなっていただろうかと憶測し得る余地は残されている。 ここン十年、自民党もダメ、民主党もダメ、その他諸党もダメと云うダメ尽くしの政治が横行している。お陰で日本は往年の勢いをすっかり失い、米国の一州にされるのか中国の一省にされるのか、はたまた都市部は国際金融資本派に占拠され、日本人民は田舎の山岳に追いやられる悪夢のアジェンダシナリオに歩一歩近づいている気がする。ここで回天させずんば日本丸いよいよ危うしであろう。その為に何を為すべきか。発想を変えないと生き延びられないとひしひしと思う。 「2010.10.1日の菅首相の所信表明演説」は、冒頭、「有言実行内閣」を詠う。解決すべき重要政策課題として、「経済成長」、「財政健全化」、「社会保障改革」の一体的実現、その前提としての「地域主権改革の推進」、「主体的な外交の展開」の五つ問題を掲げている。問題は中身である。どういう按配のものであろうか。 第一の「経済成長」について。何と、経済成長の為の基礎的要件として何を為すべきかに触れず雇用を増やせば全部解決するかのような「雇用万能論」にシフトしている。雇用自体を自己目的化している。極めて危険な経済音痴ではなかろうか。「円高、デフレ状況に対する緊急的な対応」として、第1段階、第2段階、第3段階と分け、それぞれの効能を詠っているが具体的なキモに触れていない。総じてコマーシャルになっている。首相の意向を受けた官僚作文の原稿読みに過ぎないことが分かる。 第二の「財政健全化」について。2015年度までに基礎的財政収支の赤字を対国内総生産(GDP)比で今年度の半分、20年度までに黒字化を達成するとしている。無駄を徹底削減した来年度予算を組むと云う。事業仕分けを継続し、引き続き強力に無駄の削減を徹底すると云う。国家公務員の総人件費の2割削減を云う。国の出先機関の統廃合を含め各府省の機構や定員をスリムにすると云う。云うのは勝手だが、できもしないのに或いはヤル気もないのに云うのを無責任と云う。 第三の「社会保障改革」について。何とここで「多少の負担をお願いしても安心できる社会を実現することが望ましい」として増税策を呈示している。「社会保障に必要な財源をどう確保するか一体的に議論する必要がある」、「結論を得て実施する際は、国民に信を問う」としている。要するに、社会保障を引き合いに出して増税論をぶっていることになる。社会保障に情熱があるのではなく、増税に力んでいることが分かる。誰かが知恵を付け、こう云わせているのであろう。 第四の「地域主権改革の推進」について。中央政権と地方自治との理念的在り方論を掲げ、大綱を示すと云う作風は微塵もない。元々確固とした政治哲学がないのだろうと思われる。「ひも付き補助金」の一括交付金化に着手する、各府省の枠を超えて投資的資金を集め、自由度の高い交付金に再編すると云う。「投資的資金を集め」とはどういう意味だろう。ギャンブルでもしようと云うのだろうか。 第五の「主体的な外交の展開」について、「防衛計画の大綱の見直しに当たっては、真に役に立つ実効的な防衛力を整備するため、これからの時代にふさわしいものを、本年中に策定する」と云う。どういうステキなものがでてくるのだろうか。「日米同盟基軸論」、「日中関係一衣帯水論」、「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)重視論」、「東南アジア諸国連合(ASEAN)環境整備論」、「北朝鮮注視論」をおざなりに述べている。補足として、「政治改革と議員定数削減」に触れ、「カネのかからないクリーンな政治の実現」、「企業・団体献金の禁止」、「国会議員の定数削減」について言及している。 一体、この首相所信表明演説は何なんだろうか。このところのそれがレベルが低いのは知られているが、こたびのそれは更に劣化させている。この内閣で第一に何を目指すのか。国内的には何を、国外的には何をと云う焦点になるものが一切ない。情況に合わせて漂う浮草政権論、つまり国家論をぶっているに過ぎないことになる。 れんだいこの予見では、こういう所信表明演説であるからして、トンデモナイおバカな政権であったことが知れる日は近いと思う。既に兆候が出ている。政治主導、官邸主導をを云いながら、それが問われる際になると官僚のしたこと検察のしたことで政府は与り知らぬと逃げの手を打っている。尖閣諸島事件では平然と「ビデオは見ていない」と云う。有り得て良いことだろうか。れんだいこには信じられない。 こうなると、問題は、国際金融資本帝国主義が、この政権をどう操作誘導しようとしているのかを窺うべきだろう。これが今後全ての政治事象、政変を説き明かすカギになりそうだ。国会質疑は一切ムダ、考証の必要なしと極論しておこう。 2010.10.1日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)