「1992年細川新生党結党以来の新党の歩み」

 (暫定整理中、最新見直し2005.9.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 細川連立政権に結集していった新党諸派の興亡史が、「新党全記録」で確認できる。これだけの追跡を為しているのは他では見られない。

 90年代初頭に輩出した新党諸派は、戦後の混乱期から1955年までの政党盛衰史以来のほぼ50年ぶりの政治ドラマであることに意義が認められる。92.5月結党の「日本新党」に始まる「新党さきがけ」、「新生党」、「新進党」、「太陽党」の5党の流れを追うことにする。



1991(平成3)年

【宮沢政権下の抗争】
 1991.10月、海部俊樹総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選が行われ、11.5日、宮沢内閣が誕生する。この時、宮澤喜一(宮澤派)・渡辺美智雄(渡辺派)・三塚博(安倍派→三塚派)の3名が立候補し、竹下派会長代行にして海部政権時代の幹事長として手腕を振るった小沢が、3候補を個別に面接(「小沢面接」)したことで物議を醸している。この頃既に竹下登と小沢一郎が水面下で主導権争いをしていた。  
(私論.私見) 「小沢面接」考

 この時の「小沢面接」がその後の政界変動の大いなるベクトルになっている、と見るのがれんだいこ史観である。どういうことか。この頃、竹下派内における小沢−羽田グループの台頭が、竹下派内を揺さぶり始めた。つまり、小沢−羽田グループが竹下派を乗り越えようとし始めたことがその後の政界再編成の要因となっている、ということである。

 竹下派は、かって「鉄の軍団」と云われたその田中派を解体せしめたいわば裏切りグループであるが、その後の歩みにおいて竹下直系は、当局奥の院側の意向に従い、引き続きハト派的イデオロギーの濃厚な田中派の骨抜き解体、非イデオロギー的な利権集団としての竹下派への転化を促進させようとしていた。しかし、角栄の薫陶宜しかった親衛隊・小沢−羽田グループがそれに反発した。かっての田中派解体は閉塞状況に陥った田中派の苦境打破のための便宜的な竹下−金丸グループへの同調でしかなく、その意味では竹下派そのものも又便宜的なものでしかなかった。小沢−羽田グループは、田中政治のハト派的見識、田中ハト派政治の再興を志しており、それは同時に中曽根政権以来のタカ派的潮流に対する闘いでもあった。

 つまり、田中派解体の歴史的総括を廻って両派が微妙に対立を見せ始めていたことになる。旧田中派内は、ロッキード事件以降の余震を引き続き内向させ、各自の自問自答が続いていた、ということになる。この対立をどう評するのか、つまりはロッキード事件をどう読み取るのかが問われており、そういう意味でロッキード事件問題は未だに未解明の最高級な政治課題となっていることになる。凡俗な政治評論家はここのところを全く理解しない又は事大主義的に「反角栄」で対応することにより伴食している。 

 竹下−金丸は縁戚関係の絆を持っており、運命共同体的であったが、小沢は金丸の庇護の下で頭角を現し、そのことはとりもなおさず竹下と小沢の水面下の闘いを加速させていった。最大派閥竹下派の底流でのこうした暗闘こそその後の新党創出の真因であるとみなすのが、れんだいこ史観である。


1992(平成4)年

【日本新党(細川代表)結成】
 5.7日、細川護煕氏が「自由社会連合(仮称)」結党構想を発表し、同趣旨文が文芸春秋6月号に掲載される。これが「政界再編の狼煙となる」。 

 (細川護煕氏のプロフィール。1938年、東京都千代田区で生まれる。1963年、上智大法卒、朝日新聞入社、鹿児島支局などを経て東京本社社会部へ。1969年、総選挙に熊本一区から。落選。1971年、参院全国区から自民党公認で初当選。33才の最年少議員。田中派所属。その後、田中内閣で参院予算委理事を皮切りに参院議運委理事、自民党副幹事長、参院議運委筆頭理事。1983年、参院議員の任期を残し、熊本県知事選に自民党公認で当選。1987年、熊本県知事に再選。1990年、翌2月の熊本知事三選への不出馬を表明。1991年、臨時行政改革推進審議会(第三次行革審)「豊かなくらし部会」部会長に就任。国から地方へ試験的に権限を移す「パイロット自治体構想」を提言。

 5.22日、「日本新党(JAPAN NEW PARTY、代表・細川護煕)」が結成される。
(私論.私見) 「日本新党」考
 結果的に、これが「政界再編の狼煙となる」。これが「政界再編の第一ベクトル」である。

【日本新党が最初の選挙戦で4議席獲得】
 7.8日、第16回参議院議員選挙が公示され、日本新党は、参議院比例代表に16名を名簿登載して選挙戦に入った。準備不足と他党との競合を避けるということで、比例の全国区のみに候補者を立てることになった。

 7.26日、最初の選挙の洗礼で361万7235票、4議席(細川護熙、小池百合子、寺沢芳男、武田邦太郎)を獲得する。このことが日本新党のみならず新党創出を勢いづかせることになる。その後、地方選、首長選にも取り組む。

【金丸自民党副総裁失脚】
 8.27日、金丸自民党副総裁が東京佐川急便からの5億円献金を公表、副総裁の辞意を表明。

【新党さきがけ結成準備に入る】
 9月、同時並行的に細川、田中秀征、武村正義(知事時代に細川と面識があった)の3者会談が行われ、田中秀征、武村正義らが自民党を離党し行動を共にすることを確認、同志を募り始めている。当時武村は、政治家とカネに関する問題をきっかけに発足した勉強会「ユートピア政治研究会」を率いており、そのメンバーにも声がかけられた。こうして実際に離党予備軍として集まったメンバーは、武村、田中、園田に加えて、井出正一、佐藤謙一郎、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦の計8人となった。

 10月、行政改革をテーマにした超党派の勉強会「制度改革研究会」が発足。武村が座長、田中が事務局長を務め、運営委員となった細川が学者や評論家、経済界、労働界からメンバーを集めた。この時、社民連の菅直人なども参加しており、与野党問わずの流れを生み出している。結果的にはこれが「新党さきがけ」結成を準備していくことになる。 


【竹下派が小渕派と小沢派に分裂抗争開始する】
 10.14日、金丸自民党副総裁が、東京佐川急便事件の責任を取って議員辞職、竹下派会長を辞任。会長ポストの争奪で派内の対立が激化し、小沢をめぐる擁護派と小沢に反発する批判派(梶山静六、橋本龍太郎ら)が発生する。10.28日、竹下派後継会長に小渕恵三が決定する。小沢系の議員は後継会長に羽田孜3)を推したが、竹下系の議員は派内での主導権を奪い返すべく小渕恵三を推した。結局、竹下系が押し切り、小渕が後継会長に決定した。小沢グループが「改革フォーラム21」旗揚げ。これにより、竹下派「経世会」は竹下系の議員からなる小渕派と、小沢系の羽田派「改革フォーラム21」に分裂していくことになる。 

【小沢・羽田派が「改革フォー ラム21」結成】
 12.10日、自民党竹下派「経世界」が小渕派と小沢・羽田派に分裂。小沢・羽田派が「改革フォー ラム21」を結成。12.18日、44名が参加して、羽田、小沢派を旗揚げした。1987.7月に結成された経世会が分裂し、竹下派は党内最大派閥の座から転落した。

 12.11日、宮沢内閣改造。旧竹下派勢力の相対的な後退。 

 1993.1.11日、「改革フォーラム21」3ヶ月以上にわたる全国遊説開始。1.19日、 「改革フォーラム21」の事務所を開設(千代田区紀尾井町1−11戸 田紀尾井町ビル3階)。
(私論.私見) 「金丸失脚」 、小沢・羽田派の「改革フォー ラム21」結成考
 この時点での「金丸失脚」の背景は何であったか。検察摘発を指図した当局奥の院の意図はどこにあったのか。れんだいこが読み取るのに、金丸会長の庇護の下で勢いづき始めていた小沢−羽田グループに対する当局奥の院側の牽制であったと思われる。それほどまでに田中政治が忌避されているということになる。それはともかく小沢−羽田派による「改革フォーラム21」旗揚げが「政界再編の第二ベクトル」である。

1993(平成5)年

【金丸前自民党副総裁が逮捕される】
 3.6日、金丸が、18億5000万円の巨額脱税容疑で逮捕される。政治改革についての論議がいっそう高まり、改革派と守旧派7の対立も深まった。守旧派と呼ばれた梶山静六らの自民党執行部は政治改革に関して消極的な姿勢を続けていた。宮沢喜一首相がテレビの会見で今国会中の政治改革の成立を発言したが、実現するに及ばなかった。

【日本新党の細川代表が政治改革論文発表】
 4.13日、日本新党の細川代表が「政治腐敗防止特別措置法」法律案要綱(骨子)発表。5.10日、「政権交代期成同盟の提唱」を中央公論に発表。

【宮沢内閣不信任案成立】
 6.18日、衆議院本会議で宮沢内閣不信任案可決される。その内訳は、賛成255、反対220、欠席21であり、自民党の小沢・羽田派34名を中心に39名の賛成票、18名の欠席で、可決されたことが判明する。宮沢政権は衆議院解散を打ち出し、第40回総選挙が行われることになった。 
(私論.私見) 「宮沢内閣不信任案可決」考
 宮沢内閣不信任案可決の要因を見れば、小沢・羽田派こそが政界再編成の引き金を引いたことが分かる。

【新党さきがけ結成】
 本会議後、武村、田中、園田に加えて、井出正一、佐藤謙一郎、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦、この8名に岩谷毅、簗瀬進を新たに加えた10名が離党を表明。 6.21日、「新党さきがけ」結成。代表に武村正義。田中が執筆を担当した結成宣言、政治理念、政策の基本姿勢を発表。

【小沢・羽田派(「改革フォーラム21」)が自民党を離党、新政党結成】
 宮沢内閣不信任案に反対した武村他10名が自民党を飛び出て「新党さきがけ」を結成したことが、宮沢内閣不信任案に賛成した「改革フォーラム21」に衝撃を与えた。平野貞夫は、「日本を呪縛した8人の政治家」の中で次のように記している。「これでは筋が通らなかった。状況は一変し、筋書きのない展開に進んでいった」。

 6.22日、竹下派から分派した小沢・羽田派(「改革フォーラム21」)が自民党を離党。6.23日、自民党竹下派から分裂した羽田派「改革フォーラム21」の44名(衆議院議員35名、参議院議員9名)らが新生党(党首・羽田孜、代表幹事・小沢一郎)を結成する。顧問に小沢辰男、代表幹事代行に渡部恒三が就任した。ここに、「日本新党」、「新党さきがけ」、「新生党」が揃い踏みした。この三党が共同戦線を張り、政界再編を急加速させ、非自民連立政権の中核として細川政権を樹立していくことになる。但し、日本新党。新党さきがけは、小沢・羽田派の動きに対して慎重に様子見した。

 新生党は、「守旧」ではなく、「自己革新的新保守」の再興を目指し、基本理念を「自立」と「共生」に置く。選挙に当たって、政治改革の実現、新政権の中核的役割を担うことを宣言する。しかし、田中―竹下―金丸系譜が金権派閥政治に荷担していた連中であると批判されていくことになる。
(私論.私見) 「日本新党、新党さきがけ、新生党の三党揃い踏み」考
 「日本新党、新党さきがけ、新生党の三党揃い踏み」が細川政権樹立の原動力となる。この現象が偶然か歴史の摩訶不思議か仕掛人がいるのか不明であるが、いよいよ「自民党一党支配による長期安定政権時代」が崩れ去る時代が到来したのは間違いない。

【新生、社会、公明、民社、社民連の5党が、非自民・非共産連立政権を目指すことに合意】
 小沢は自民党を離党して総選挙に望んだ。小沢が戦略として目指していたのは、非自民、非共産勢力で衆院の過半数を制することである。小沢は非自民連立政権の実現へと猛然と走り始めていくことになる。連合の山岸会長と極秘に会談し、社会党、民社党の公明党を取り込み、選挙日を目前にした時点で社会・新生・公明・民社・社民連の5党が選挙後に非自民・非共産の連立政権を目指すことに合意、連立政権構想が完了した。

 6.24日、新生、社会、公明、民社、社民連の5党首が、非自民・非共産連立政権を目指すことに合意。選挙協力と「三項目の合意事項」を確認した。「三項目の合意事項」とは、1・総選挙での協力、2・外交・防衛などの国の基本政策はこれまでの政策を継承する、3・新政治創出のための連絡協議会の設置というものであった。この時、久保亘(わたる)社会党副委員長は、「2・外交・防衛などの国の基本政策はこれまでの政策を継承する」に難色を示し、「これは党の役員会には諮れない。私の責任でやるからそのつもりでいてほしい」と発言している。日本新党の細川は、新生党に対して「いかがわしい人々」と発言。武村は、「カレーライスを食いながら、一時間で決めた軽薄なもの」と酷評した。

【新政党が、都議会で躍進】
 6.27日、東京都議会議員選挙が行われ、新政党の公認候補20名(トップ当選9名)推薦候補7名当選。一気に都議会において第三党に躍進した。

【日本新党代表が、選挙後さきがけとの合流を表明】
 6.30日、細川護熙日本新党代表が、選挙後さきがけとの合流を表明。

【第40回衆議院議員選挙前の動き】
 7.1日、新生党が、基本政策発表。小選挙区比例代表並立制など。「自民離党がけじめ」と過去に異例の“反省”も。さきがけが「政策理念と基本課題」発表。

 7.3日、新生党が、第40回衆議院議員選挙候補者90名発表(公認候補55名、推薦候補22名、支持13名)。日本新党と新党さきがけが、衆院選での選挙協力、政策協議機関の設置の2点を合意、合意事項発表。

 7.4日、第40回衆議院議員選挙告示。日本新党も初の衆院選に臨む。

 7.7日、新生党の小沢、政治改革で一括法案を選挙後提出する意向を表明。羽田、総選挙結果の尊重を促す。

 7.10日、新生党の小沢、連合3労組に追加支援要請。新党さきがけとの院内統一会派結成合意、発表。

 7.12日、新生党の羽田、戦争への反省を国会で決議することを提唱。 

 7.18日、投開票の衆院選を前にして、社会・新生・公明・民社・社民連の5党は選挙後に連立政権を目指すことに合意。これにより同じく選挙後に統一会派結成を合意していたさきがけ・日本新党は自民・非自民に続く第3勢力となり、キャスティングボートを担うことになる。

【日本新党代表が、選挙後さきがけとの合流を表明】
 7.18日、第40回衆議院議員選挙。投票率は総選挙史上最低の67%。選挙結果は自民党223、社会党70、新生党55、公明党51、日本新党35、共産党15、民社党15、さきがけ13、社民連4、無所属30。社会党の一人負けの惨敗、自民は現有議席維持、新党の躍進。この選挙では、非自民政権の誕生と政治改革の実現を期待する新党ブームの追い風が吹いた。

 新生党は、公認した立候補者69人のうち、55名が当選し、日本新党、さきがけ共々、議席数を伸ばした。

 さきがけは、公認候補35名、推薦候補15名、支持9名を擁立し、13議席を獲得(石田勝之、宇佐美登、田中甲、錦織淳が初当選)。(?)

 日本新党は細川代表と縁のあるもの、昔からのスタッフなど掻き集めて最終的には候補者を91名擁立し、公認候補35名を当選させ、後に公認した3名を加えて大きな発言権をもつことになる。

【第40回衆議院議員選挙後の動き】
 7.19日、新党さきがけと日本新党が、衆議院にて院内統一会派「さきがけ日本新党」結成、発表。この両党はキャスティングボートを握ることになった。

 7.21日、新生党の船田元幹事が、非自民連立政権でさきがけ・日本新党に対して協力を呼びかけ。

 7.22日、宮沢首相、党両院協議会で退陣を表明。

 7.23日、さきがけの武村正義が、日本新党の細川護煕との間で「政治改革を断行する政権」樹立を提唱を提唱。遠藤利明と近藤豊が無所属のまま統一会派入り。さきがけ・日本新党は、田中の提案で逆に両勢力に「政治改革政権」を提唱。両勢力が受け入れを表明したが、自民の対応は不十分と判断、全面的に受け入れた非自民勢力と連立政権を組むことになった。

 7.24日、小沢、平野貞夫、連合の山岸章会長、社会党右派の山花貞夫委員長、田辺誠前委員長の5名が鶴首会議。

 7.26日、新生、社民連も、社公民に続き、「政治改革政権」構想の受け入れを党議決定。

 7.27日、新生党の小沢、「羽田首相」に固執せぬ意向を表明。

【細川連立政権構想成る】
 7.29日、非自民・非共産の8党派(社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社民連、参議院会派・民主改革連合)が党首会談開催。日本新党の細川護煕代表を首相にあて、連立政権を組むことで一致し、連立政権に関する合意事項発表(7党1会派覚え書き発表)。

 新生党の小沢一郎の政治手腕に寄るところが大きかった。選挙前すでに新生・社会・公明・民社・社民連の5党首は非自民・非共産の連立政権の樹立を目指すことに合意していた。しかし、この非自民5党の議席の合計は過半数には届かなかった。一方、さきがけの武村正義と日本新党の細川護煕は、「本年中の政治改革の実現」をかなめに、「政治改革政権」構想を提唱していた。自民にとっても、非自民にとっても、過半数の議席を確保して政権を握るためには、このさきがけ・日本新党を取り込まなければならなかった。数字的には自民党が飛び抜けた第1党であったが、カギはさきがけ、日本新党が握る局面になった。このことを素早く見抜き、行動に移ったのが小沢であった。小沢は、首相の座を、有力視されていた新生党の羽田にではなく、また、さきの5党中の最大勢力の社会党にでもなく、日本新党の細川に差し出すというウルトラCをやってのけた。非自民5党はさきがけ・日本新党の「政治改革政権」構想を受け入れ、これに民主改革連合を加えた8党派が、首相に日本新党の細川をあて、連立政権を組むことで一致した。

【河野洋平が自民党総裁に就任】
 7.30日、自民党総裁選で河野洋平が渡辺美智雄元外相を破り総裁に就任。

【自民党の加藤六月氏ら5議員が、新生党との統一会派結成】
 8.2日、自民党の加藤六月氏ら5議員が、新生党との統一会派結成へ。





(私論.私見)