自社政権誕生劇(村山政変)検証

 (最新見直し2006.4.4日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2004.5.13日 れんだいこ拝



1994(平成6)年

【村山政権誕生】
 6.27日、社会党とさきがけが基本政策について合意が成立。

 6.28日、社会党が連立政権復帰も模索。村山委員長と与党7党派の党首・代表会議で政策協議に入ることを合意。

 6.29日、社会党と旧与党の政策協議が税制改革などをめぐって決裂。自民党が社さ両党の政策合意に同調して国会は村山首班を指名。連立側は自民を離党表明した海部俊樹元首相を擁立。決選投票の結果、村山が首相に指名された。

 この時、キャスティングボードを握っていたのは社会党であった。社会党が、連立側か自民党のどちらにつくかで勝負が決まる状況であった。ここで、自民党は政権復帰への執念を見せ、社会党委員長の村山富市に首相の座を差し出し、自社連立のための接着剤としてさきがけをパートナーとした。これに対して、小沢一郎は、自民党を離党した海部俊樹元首相を連立側の首相候補に擁立し、自民党の分裂をねらった。しかし、決選投票の結果、村山が首相に指名された。新生党は野党へと転落する。

 6.30日、自社さ連立の村山連立内閣が発足。副総理・外相に河野洋平自民党総裁。

 村山内閣は、武村、村山、河野洋平の3党首をシンボルとするハト派政権を目指した。首班には、自民党を離党した海部俊樹との対決を制した村山富市社会党委員長が選ばれ、さきがけからは武村蔵相、井出厚相、園田官房副長官が入閣した。また錦織淳が首相補佐に就いた。村山内閣の当初の支持率は35%。

 新生党は野党に転落し、小沢は、新生党代表幹事の辞表を提出した。しかし、それは受理されず、その後の撤回もなされなかったため、うやむやになった。渡部恒三氏が党務代行。党内では、かねてから小沢の専制的なやり方に対する反発が目立っていたが、8月になって小沢は批判派と妥協し、民主的な集団指導体制で運営するようになった。新生党は、政権交代可能性のある健全な政治を目指し、二大政党制への移行を主張する。そして、小選挙区比例代表制をにらみ、野党を結集する新・新党運動を主導し、「新進党」へと発展的解党を遂げる。

 その中でさきがけは、55年体制の下でイデオロギー対立を続けてきた自民・社会両党の接着剤役を果たそうとした。自衛隊合憲や日米安保維持といった基本政策の転換を社会党に迫るとともに、逆に自民党単独政権ではなし得なかった水俣病問題や被爆者援護法、従軍慰安婦問題の解決などを実現した。

 しかし、特殊法人の改革問題で自民党と激しく対立し、北海道や三重県の知事選への対応を巡って社会党の反発を呼ぶなど、自社両党の板挟みの中で苦しい政権運営が続いた。しかも特殊法人問題での大蔵省との協力姿勢や、二信組救済問題での渋々の処理策追認は、党代表でもある武村蔵相への配慮と改革志向とのジレンマをさらけ出すことになった。

 7.4日、新生、公明、民社、日本新党が新党準備で一致。

 7.4日、鳩山由紀夫がさきがけの新代表幹事に就任。

 7.5日、中島章夫、枝野幸男、荒井聰、前原誠司、高見裕一、五十嵐ふみひこの6名が入党。衆議院の会派名を「新党さきがけ」に変更。


 7.7日、旧連立与党「改革推進委員会」発足。細川が最高顧問に。

 7.14日、日本新党常任幹事会「新・新党」を了承せず。

 7.15日、参院の小林正、新生党へ。新生党、参院で14人に。

 7.20日、村山首相が国会答弁で「自衛隊合憲」「日米安保体制の堅持」を明言。 さきがけが、95年度予算で、自社両党の特別枠要求に同調しないことを決定

 8.1日、新生党の愛野氏、新・新党結成で小沢氏主導は「いけない」と反旗。


 8.14日、 「侵略戦争」を否定する発言をした桜井環境庁長官が辞任。

 8.18日、新生党、小沢一郎代表幹事が留任。党結束を優先し、批判派と妥協。顧問会議を新設。「集団指導体制」で出直し。

 8.31日、日本新党常任幹事会で「年内に」新党結成を確認。

 9.5日、村山連立政権へ対抗する形で旧連立勢力の合同首脳会議が開かれた。この時、「責任ある政治を求めて――新党結成への基本理念」と「新党結成に向けての国民へのアピール」を発表した。基本理念の特徴としては「責任ある政治」「たゆまざる改革」を掲げる改革の内容:政治改革・行財政改革・地方主権の確立・経済改革・教育改革、「長寿福祉社会の基礎確立」「男女共同参画社会」を目指す「一国平和主義・一国繁栄主義からの決別」を表明、国連安保理常任理事国入り問題→旧連立勢力内に異論→基本理念への明記は見送る、などが挙げられる。

 9.9日、新党協議会の第2回世話人会で小沢一郎新生党代表幹事を世話人会座長に選任。
   
 9.11日、村山内閣で初の国政選挙である参院愛知再選挙で、旧連立グループの推す都築譲が、連立与党の推す水野時朗に約39万票の大差で圧勝。

 9.22日、与党3党が、97年4月から消費税率を5%に引き上げることを決定。

 9.22日、公明党拡大中央執行委員会が新・新党に参加することを正式に決定。

 9.27日、海江田万里、石田、遠藤、牧野が「改革」「新党準備会」に不参加を決定。寺沢、武田、小島「新党準備会」入り。「改革」187名で結成。

 9.28日、新生、公明、日本新、民社など共産を除く野党の各党派187名が、参院の統一会派「改革」結成。自民党の200人に継ぐ衆院第2勢力が誕生した。午後には衆院186人、参院39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足。新党準備実行委員長に新生党の小沢一郎代表幹事が選出された。新・新党の党名は公募により「新進党」に決定した。新進党への参加方式でもめた公明党は、分党方式をとることを決めた。

 9.28日、新党準備会発足式(キャピトル東急ホテル)衆参で225名。海江田らが「民主新党クラブ」結成届け出。

 9.29日、新生党の長城計画・日本中国交流使節団(団長石井一前自治相)236人が出発。新生党の16国会議員が参加、中国の喬石全人代常務委員長ら要人と交歓(10月4日帰国)。

 9.30日、新党準備会役員人事発表。海江田、石井、遠藤、牧野が常任幹事を辞任し、統一会派「改革」より離脱。日本新党が党大会で、解党・新党参加を正式決定。

 10.5日、羽田孜新生党党首、衆院本会議で「改革」を代表して代表質問に立ち、小選挙区区割り法の成立後すみやかに衆院の解散・総選挙をするよう要 求。

 10.5日、自民党が鳩山由紀夫に、北海道知事選出馬を打診していたことが明らかになる。11.21日、鳩山由紀夫が北海道知事選への出馬を断念。

 10.9日、新生党の小沢、国会欠席し仏へ。心臓病検査の憶測も。

 10.24日、さきがけの田中秀征が社会党の山花貞夫と会談。

 10.30日、第一回日本新党党大会開催(東京プリンスホテル)。

 11.2日、行政改革委員会設置法が成立。

 11.5日、公明党は党大会で、新生党などとつくる新・新党に大半の国会議員が参加、地方議員などは当面従来の党組織に残るという活動方針を採択し、「分党」を決定。
 11.8日、鳩山代表幹事が、社会党が提唱している新党構想に当面同調しない考えを表明。

 11.14日、社会党から、さきがけとの統一会派構想が浮上。

 11.16日、新生党全国代表者会議。12月9日に新党に移行するため新生党を解党すること、同10日に公明、日本新、民社など野党各党派と新・新党を結成する方針を決定。

 11.16日、さきがけが、知事・政令指定都市長に関し、4選以上の候補を公認・推薦しない方針を決定。田中秀征が、社会党との統一会派結成の可能性を否定。
 11.21日、衆院の300小選挙区の区割り法(改正公職選挙法)が成立。12月25日施行。

 11.24日、政治改革関連法案のうち、区割り法案など4法案が成立。

 11.24日、新・新党の党名は、公募により「新進党」に決定。綱領、規約、当面する重点政策を決定。

 12.1日、細川「新・新党」の党首選に不出馬を表明。石井離党。

 12.5日、公明党が第34回臨時全国大会を開催。新進党に参加する「公明新党」の設立総会と残留する参院議員と地方議員からなる「公明」の結党大会を開催。公明党が「分党」方式で新進党に参加することを決定。

 12.6日、参院新生党有志、新進党の党首の選挙による選出を申し合わせ。新生党の栗本、日本新党の小泉らは新進党に不参加の方向。
 
 12.8日、新進党の党首選挙で海部俊樹、羽田孜、米沢隆の3氏が争った結果、海部俊樹元首相が当選。幹事長は小沢一郎が無投票で選出。

 12.9日、新生党、日本新党、民社党などが解党、新進党へ。 新生党は正式に解党をして1年半に及ぶ活動に幕を閉じた。民社党が第40回臨時全国大会を開催し、民社党の解党、新進党への参加を決定。

 新生党は自民党の派閥を割り、政権交代を実現させる中心となり、久々に政治に劇的な緊張感を生み出した。しかし、自民党時代と変わらぬ一面39)を見せたり、権力闘争に明け暮れるなど40)のマイナスのイメージがつきまとった。新生党は、1年半というわずかな期間ではあったが、政界再編の激動期にあって、小沢一郎のビジョンと政治力によって、良くも悪くも政界をかき回した存在意義の大きな政党であったと言えよう。

 12.10日、新進党結党大会を横浜市みなとみらい21「パシフィコ横浜」で開催。結党大会には新生党、公明新党、日本新党、民社党などから衆参2214名の議員が参加。新進党発足。海部俊樹党首=小沢一郎幹事長体制で始まることとなった。「自由、公正、友愛、共生」を基本理念として、「たゆまざる改革」と「責任ある政治」を推進することを決議した。

 日本新党は当初から、新党さきがけとの合併を予定していたが、選挙制度改革により小選挙区が誕生するのに伴い元々新人議員が多く地盤が弱い日本新党の議員では小選挙区を戦えないという懸念が出始め、もっと大きな規模での党の合併が目指される素地はあった。また、連立政権が出来た頃から連立与党の合併による新党作りの話が出るようになり始めた。日本新党の中には民社党との連携を先にすることを望む声もあり、新党準備会が発足した後にも、新・新党への参加が常任幹事会で了承されない程であったが、結局は新・新党の結成に参加することになった。そして1994年10月30日の第一回の党大会でそれが了承され、第一回の党大会が解党大会となった。こうして日本新党は、活動の基盤を確立することが出来ず、風に乗って誕生し、風のように時代を駆け抜けて、歴史の表舞台から姿を消した。


 12.27日、「明日の内閣」(政策準備委員会)発足。

1995(平成7)年

 1.9日、新進党両員議員総会を開催。「明日の内閣」の第1回の会合開催。    

 1.12日、社会党の村山首相が、さきがけとの統一会派結成に積極的な姿勢を表明。1.13日、武村代表も、社会党との統一会派に積極的な姿勢を表明

 1.13日、反小沢派」(愛知・愛野ら)が勉強会。川端達夫(旧民社党)が新進党離党。

 1.17日、阪神・淡路大震災発生。

 1.18日、三重県知事選、新進党など北川を擁立→新会派「民主連合・民主新党クラブ」が正式に結成されるまで無所属。

 1.20日、第132国会召集。新進党組織委員会が入党運動の要綱を策定、目標は300万党員。

 2.25日、田中秀征が、不戦決議採択は当然との見解を表明。

 2.5日、前新進党衆議院議員の木村守男が青森県知事選挙で当選。  

 2.14日、山口敏男、幹事長代理を辞任。3.22日、山口敏夫、新進党を離党。2信組問題で「党に迷惑かけた」。

 3.7日、参議院選挙と統一地方選挙の「選挙対策本部」を党本部に設置。小沢幹事長が連合(鷲尾悦也事務局長)と初の首脳会談、選挙協力など合意。友愛会(服部光朗ゼンキン連合会長)との幹部初会合。

 3.15日、さきがけが、政策大綱「われわれがめざす日本の進路」を発表。月刊の党機関紙「党報さきがけ」(後に「通信さきがけ」)を創刊。

 3.20日、地下鉄サリン事件発生。

 3.28日、鳩山、菅の2名が与党代表団の一員として北朝鮮を訪問。

 4.9日、新進党推薦候補が岩手県(増田寛也)、三重県(北川正恭)など重点知事選挙で勝利。道府県議会議員・指定都市市議会議員選挙などでも躍進。

 4.23日、政令指定都市以外の市長・市議会議員、特別区の区長、町村の町村長、町村議会議員の各選挙の投票が行われ、新進党公認・推薦候補が多数当選した。

 5.1日、社会党と政策研究会の設置で合意。5.4日、武村代表が、社会党との新党結成の可能性について言及。5.5日、社会党の村山首相が、さきがけとの連携について意欲を表明。5.9日、社会党との政策協議で、新党準備会参加に慎重な姿勢を表明。

 5.8日、野末陳平が新進党から離党。参院会派は平成会にとどまる。5.10日、太田誠一も新進党離党の届。5.25日、小林正が新進党を離党。参院会派は平成会にとどまる。

 5.27日、社会党が臨時党大会で新党結成を明記した「95年宣言」を採択。

 5.28日、鳩山代表幹事が戦後50年決議に関して、歴史観が違えば連立解消も辞さないと表明。
 6.8日、さきがけが、ゴラン高原PKOへの自衛隊参加を条件付きで容認。

 6.12日、新進党が「村山内閣不信任決議案」を提出したが、与党3党などの反対多数で否決。自社さ3党首が、新3党合意を急ぐことを確認。

 6.16日、さきがけが、フランスの核実験再開決定に反対する党声明を発表。6.22日、武村代表らがフランス大使館を訪れ、核実験再開に抗議。

 6.16日、水俣病解決へ向けて与党3党が合意。政府が北朝鮮に対するコメ支援を決定。

 6.30日、与党3党が「新3党合意」を決定。

 7.3日、結党2周年パーティーを開催。

 7.17日、菅直人が「みなし配当課税」凍結を提案。「危機管理体制強化の提言」を発表。

 7.18日、住専処理策を発表。

 7.20日、初めて政党助成金が交付される。

 7.23日、第17回参議院通常選挙投開票。新進党が大躍進。新進党は、2.5日の青森県知事選挙では前新進党衆議院議員の木村守男が当選、4月には党推薦候補が岩手県、三重県など重点知事選挙で勝利した。また政令都市以外の市長・市議会議員、特別区の区長などの各選挙でも新進党公認・推薦候補が多数当選した。そして7.23日の第17回参議院通常選挙でも比例区で自民党を上回るなど、改選議席19を倍増する40議席へ躍進した。この選挙では比例区で1,250万票余りを獲得して18議席を占め、選挙区では1,100万票余りを獲得して22議席を占めて新進党の最盛期となった。

 しかし「親小沢」「反小沢」の確執が始まり、離党者が出始めたのもこのころだった。1月13日には「反小沢派」とされる愛知和男・愛野興一郎が勉強会を開き、同じ日に、旧民社党の川端達夫が離党した。続いて3月22日に山口敏夫が、5月8日に野末陳平が、10日に太田誠一が、25日に小林正が相次いで離党した。

 さきがけは3議席を獲得(奥村展三、水野誠一が初当選)、目標には及ばなかった。

 7.31日、参議院に院内会派を結成(代表は堂本暁子)。


 8.4日、第133臨時国会召集。  

 8.8日、第2次村山内閣が発足。武村蔵相が留任、経企庁長官に民間の宮崎勇氏を推薦。

 8.9日、武村代表が、解党的決意で第三勢力を結集する意欲を示す。社会党の村山首相が、さきがけを連携相手に想定して新党構想を進める考えを表明。

 8.10日、 菅直人が、東京で第三勢力結集を目指すため海江田万里らと会合。

 8.12日、武村代表の進める社党との新党構想に対して、鳩山代表幹事が否定的な考えを表明。

 8.15日、村山首相が「戦後50年」の首相談話を発表、英兵捕虜問題で謝罪。村山内閣の閣僚9人が靖国神社に参拝。

 8.24日、ゴラン高原へのPKO派遣を了承。さきがけの要求を受け、村山首相が私的諮問機関「国連問題懇談会」設置の方針。

 8.28日、武村正義が、参院選の責任を取って代表の辞意を表明。第2期さきがけ塾開講。武村蔵相が、大蔵省財政金融研究所長を解任。8.29日、武村正義が代表の辞意を撤回。8.30日、武村代表が、「第三極」結集に関して社会党との連携を進める考えを表明。井出正一が党政務幹事に就任、総務会長には中島章夫が昇格。

 そこでさきがけは第2次村山内閣成立に際して、連立継続の前提として4項目の緊急課題(総理官邸機能の強化、審議会の公開、土地バンクの創設、国連改革検討機関の設置)を提唱するとともに、さきがけ枠の経企庁長官に民間人を推薦するなど、存在感をアピールしようとした。またフランスの核実験に対しては、「環境重視」「非軍事的国際貢献」という党理念を体現すべく、タヒチでの抗議行動に参加した。宇佐美登、田中甲がフランス海軍に拿捕されるという事件が起きたが、おおむね世間の評価は高かった。

  村山首相とは阿吽の呼吸で「社さ新党」に向けた発言を繰り返し、政策協議、選挙協力、新党構想など様々な計画が浮上しては消えていった。この背景には、党内の保守系議員の中に社会党に対するアレルギーがあったことと、労組主体の党運営を恐れた若手議員の賛同が得られなかったことが考えられる。結局この武村・村山主導による「社さ新党」構想は、田中秀征を中心として10月に設置された基本戦略委員会の抵抗に遭って頓挫し、自民党議員や学者・文化人も参加する勉強会の設置で決着した。(96年1月発足のフォーラム「日本の進路」) またこうした問題とは別に東京では、菅直人が中心になってリベラル勢力の結集を目指す動きが見られた。

 8.31日、 菅直人が、「リベラル結集を目指す東京会議」準備会を発足。

 9.7日、田中秀征が、首相の私的諮問機関「国連問題懇談会」に関して申し入れ。政治資金収支報告書をホームページで公開。村山首相が全国知事会議で「官官接待」の自粛を要請。

 9.13、 社会党とさきがけが、次期総選挙での選挙協力を進めることを確認。9.21日、社会党の新党結成方針に対し、田中秀征が合流しないとの考えを表明。

 9.22日、自民党総裁に橋本龍太郎氏が就任。外務省に対して「外相国連演説に対しての再要望」を提出。鳩山代表幹事が、社会党が設置を予定している新党結成委員会にも不参加を表明。


 9.29日  第134臨時国会召集。新進・海部党首、旧公明はずし?人事構想、唐突と市川ら猛反発。市川政務会長が退任、党内にしこり残す――新進党人事。

 10.1日、鳩山代表幹事が、総選挙前に第三極結集を実現する意欲を示す。

 10.3日、「明日の内閣」 改造に伴い、新党役員人事を発表。市川雄一衆議院議員に代わり渡辺恒三衆議院議員が政務会長に就任。

 10.5日、 村山首相が、第三極結集に向けて学者や文化人中心のフォーラム設置を提唱。

 10.6日、ゴランPKOに関して機関銃の携行を認める。薬害エイズ問題の真相解明を要求。臓器移植法案の採決に関して、党議拘束を外す方針を確認。

 10.7日、鳩山代表幹事が、社会党との合併による新党結成を否定。10.15日、鳩山代表幹事が、社会党主導の新党参加を改めて否定し、党の独自性強調を表明。

 10.12日、鳩山代表幹事が、自民党首相政権に対する抵抗感が薄れているとの認識を示す。

 10.13日、自民党の江藤総務庁長官が辞任。

 10.14日、菅、枝野の2名が厚生省に「血液製剤によるHIV感染薬害に関する質問趣意書」提出。

 10.17日、鳩山代表幹事が、社会党の新党結成の手法を批判。

 10.19日、前北海道知事の横路孝弘が、さきがけとの連携を重視する考えを表明。宝珠山防衛施設庁長官が辞任。

 10.20日、社会党支持の労組会議から、武村正義を中心とする第三極構想(武村新党)が浮上。

 10.21日、社会党の村山首相が第三極結集に関して、武村正義との連携を重視する考えを強調。10.23日、鳩山代表幹事が「武村新党」に関して、時間をかけて進めるべきとの考えを示す。

 10.24日、新進党・共産党とともに、薬害エイズに関する集中審議を要求。

 10.25日、田中秀征が、「武村新党」に同調せず社会党主導の新党にも合流しない考えを表明。

 10.26日、社会党との会談で、新党への早期合流を拒否。菅直人が、沖縄振興のための特別立法を提唱。社会党との勉強会構想を最終的に受け入れる方針。鳩山代表幹事が、新進党の羽田陣営の離党に期待感を示す。

 10.27日、社会党の村山首相が、さきがけとの勉強会設置に改めて意欲を示す。社会党との勉強会「フォーラム日本の進路」に自民党議員も加えることを決定。新進党の小沢一郎が新党首に就任。

 10.28日、政府が新防衛計画大綱を閣議決定。

 10.28日、武村代表が、社会党議員が個々で参加する形の新勢力結成に前向きな姿勢を示す。

 10.31日、さきがけが、自民党と選挙協力についての正式な協議を開始。

 11.10日、友愛会、新進に組織的参加へ

 11.25日、「幹事長は小沢以外」羽田出馬へ意向固める―新進党首選。11.29日、小沢擁立へ署名集め検討、新進に新グループ若手ら「第三の候補」検討。

 12.2日、武村代表が、さきがけ主導の新党結成に改めて意欲を示す。
 
 12.19日、 武村蔵相、住専処理策決定。村山首相が提唱している第三極結集に向けた協議の場作りで同調する方針を決定。

 12.20日、住専処理問題で、武村蔵相を支えていくことを確認。

 12.22日、基本戦略委員会で、社会党との第三極結集に向けた協議の場作りの方針を撤回。

 12.24日、自民党のグループ・新世紀と、相互の交流を深めていくことを確認。武村代表が、基本戦略委の「同調撤回」に不満を表明。


 12.28日、新進党党首選。「公開党首選」で行い、小沢一郎が羽田孜を112万票対56万票で大差をつけて破った。羽田が小沢一郎幹事長に敗北する。参加条件は18歳以上で参加料1000円を払うというものだった。

 12.29日、新進幹事長に米沢隆元民社党委員長。党務・選対は小沢側近。

 小沢は大差をつけて当選したものの、海部、船田、鳩山らが立候補の動きを見せるなどしたため、このころから新進党内の溝が深まっていった。また、この党首選は羽田不在の間に党首選に関するさまざまなことが決められたり投票用紙が捨てられて一般参加の投票者に確認がとれなくなるなど「不明朗な選挙」(羽田)だったため、小沢と羽田との間に確執が生まれた。党首選後、小沢は党務・選対に渡辺恒三や二階俊博、西岡武夫などの側近を登用して自らの回りを固めた。

 これにより新進党が分裂含みとなる。翌96.1月に反小沢派「興志会」が結成される。「興志会」の結成の背景には、羽田らが小沢の政治手法に対して反発していたこと、感情的なしこりが存在していたことなどが推測されているが、それ以外に既に「保保志向」か「野党結集」かの路線上の対立があったのではないかと思われる。新党の立ち上げは、第一に政党助成法上の規定から12月の末がリミットであること、第二に10月の衆院選で新進党が事実上敗北し、その将来が見えてきたこと、があり、12月26日となった。その過程で羽田は、小沢に対し「分党」を認めるように要求したが、これは認められなかった。(ここで「分党」という言葉を使い「離党」と言わないのは、政党交付金の配分が異なるからである。政党交付金は所属国会議員数と国政選挙の得票率に応じて配分される。政党助成法上の「分割」=分党を行えば「議員数割」と「得票率」の両方が支給されるが、「離党・新党結成」の場合には、「議員数割」だけで、交付金はほぼ半額になる1)。もっとも、党の解散を伴う分党を小沢等が認めるはずもなく、羽田らは、離党することを余儀なくされた訳である。)分裂は比較的スムーズに行われる。その背景には、ここでガス抜きをすれば自らのリーダーシップの強化に繋がるとの小沢の思惑もあったのではないだろうか。新党結成が固まった12月7日の段階で羽田は、「30人規模にしたい」と発言していたが、12月13日には作曲家の三枝成彰に「15人くらいがちょうどいいんだ。30人も、40人もいると(党の)顔が見えなくなる。国民が反対することをいえる政党を作りたい。」と述べている。現実に衆参合わせて13人でのスタートとなった。

1996(平成8)年

 1月、新進党内反小沢派が「興志会」結成

 1.5日、村山首相が突然の辞意表明。

 1.6日、新政権に向けての与党3党の政策合意が成立。最重点課題として、大蔵省による金融行政の大幅な改革、農協系金融機関を含めた農林関係組織の改革、薬害エイズの真相究明と薬事行政の改革、という3点が掲げられたが、これらはいずれもさきがけが強く主張して盛り込まれたものだった。この合意を受けて自社さ3党は、橋本龍太郎を首班候補に擁立、さきがけからは田中秀経企庁長官と菅厚相が入閣した。同時に武村が羽田内閣時以来1年半ぶりに党務に復帰し、更なる政界再編に向けて再び動きを強めていくことになる。

 1.11日、第1次橋本内閣が発足。田中秀征経企庁長官、菅厚生大臣が入閣。

 橋本内閣の発足に伴って党務に復帰した武村代表は、あくまで社民党との合併による新党結成を模索したが、園田博之を始めとした党内の反発を受けて断念した。そんな中、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化し、以後新党を模索する動きは鳩山を中心に進むことになる。鳩山は友愛精神を基軸にしたリベラル新党の結成を目指し、新進党に所属する弟邦夫とともに自民党や新進党も視野に入れた、既成の枠組みにとらわれない政界再編の道を模索した。特殊法人改革、住専処理などを通じてイメージを低下させていた武村代表に対する不満や、小選挙区制の選挙に対する不安を抱える党内の若手議員、特に前回の総選挙で新党ブームに乗って当選した1年生議員は、こうした鳩山の動きに対して期待を寄せていった。しかしながら、ただでさえ存在感を喪失しつつある小政党にとって内部の路線対立ばかりが報じられるのは致命的であり、党勢はますます衰え、それに伴って選挙への不安が高まるといった具合に悪循環に陥りだした。

 武村と鳩山由紀夫の路線対立は、さきがけの発展的解消、新党結成という方針で一旦は収束するかに見えた。しかし、さきがけ主導の新党に危機感を抱く弟邦夫の意向もあって兄由紀夫が態度を硬化、個人単位での結集と武村・村山両氏の不参加を主張し始める。事態収拾のため96年8月に行われた武村・鳩山会談も不調に終わり、鳩山とその同調者が離党する結果となる。武村は責任を取って代表を辞任し後任には、菅直人が代表就任要請を固辞したために井出正一が選ばれ、菅と田中秀征を副代表、園田を代表幹事とする新体制が発足した。以前からさきがけのメンバー全員が新党に移行することを望んでいた菅副代表が、鳩山新党との仲介役として登場するが、幹部を中心にさきがけ残留の声が高まり、結局菅は多くの若手議員とともにさきがけを離れて鳩山とともに民主党を結成する。

 1.13日、羽田、「21世紀」の荒井将敬代表と連携に向けた協議を開始。

 1.16日、 田中秀征・園田博之の副代表就任などを内定。

 1.18日、石井紘基が入党。鳩山代表幹事が、党独自の調査から総選挙で1ケタに なるとの見通しを示す

 1.19日、 社会党が定期大会で党名を「社会民主党」に変更。

 1.19日、新進党第2回定期全国大会を日比谷公会堂で開催。
   

 1.20日、太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置。

 1.20日、鳩山代表幹事が、新党結成に向けて党内の意見調整を急ぐ考えを示す。

 1.21日、太陽、新進、民主三党の国会対策責任者は、平成8年度補正予算案の対応について共同で修正案を出すことを確認

 1.22日、羽田グループの政策勉強会の旗揚げが行われる。

 1.23日、民主党の鳩山由起夫、太陽党の羽田党首は、統一会派を視野に入れた週一回の定期協議を開くことを再確認

 1.24日、社民党と政策に関する定期協議を行うことで合意。自民党のグループ・新世紀が会則を改め、さきがけなど他党派議員の加入を認める。
 1.28日、鳩山代表幹事が既成政党の枠組みにこだわらない政界再編の必要性を改めて強調。

 かつて一・一ラインと言われて盟友だった市川雄一が「通常国会終了後に旧公明で勉強会を」(朝日新聞)と発言したり(1月20日)、羽田グループが勉強会「興志会」を発足させたり(2月1日)、細川護熙が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会を発足させる(2月13日)など不穏な動きが活発化した。

 2.1日、羽田グループの初会合、勉強会「興志会」(66人)を正式に設立する。

 細川が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会発足へ。

 2.5日、自民党の加藤紘一幹事長、社民、さきがけとの連立を基本としながらも、行政改革実現などのため、太陽、民主両党との連携を目指す考えを表明。
 
 2.6日、自民党、財政削減へ協力要請、太陽、民主両党などと政策協議。
   
 
2.16日、菅厚相が薬害エイズ問題で国の責任を認め、患者・家族に直接謝罪。鳩山代表幹事が、小選挙区制の見直し論議に慎重な姿勢を示す。

 2.20日、鹿野道彦・田名部匡省・増子輝彦を中心に「政治改革・政党政治を推進する会」を結成。

 2.21日、社民党との合併を前提とした新党協議を棚上げ。住専問題に関係した金融機関からの政治献金受領を最低1年間自粛。

 2.22日、自民党のグループ・新世紀が社さ議員を加えて総会、さきがけから7人参加。

 2.25日、京都市長選挙、新進を含む5党が推薦した桝本頼兼が当選。

 1996年の通常国会では住専問題が最大の焦点となった。この住専処理に対して政府・与党は6850億円の税金を投入しようとして世論の批判を浴びたので、これを機に政局を揺さぶろうと新進党は3月4日から25日までの22日間、国会内でピケ戦術を採ったがこれが思いの外、不評で世論にそっぽを向かれてしまい結局失敗に終わった。

 3.19日、住専問題を巡り、小沢党首と橋本首相のトップ会談。

 3.25日、土井衆院衆議院議長の仲介で与党側と新進党が合意、ピケ戦術を解除。

 3.28日、田中秀征が細川護煕、小泉純一郎とともに行革の勉強会を発足。

 4.1日、船田が鳩山由紀夫と「次の総選挙の前後に新党結成」で合意。
    
 4.2日、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化。4.4日、鳩山代表幹事が船田元との新党構想に対して、当分は自粛すると表明。

 4.5日、鳩山代表幹事が新党構想に関して、新進・自民にまず呼びかける考えを表明。

 4.7日、鳩山邸で花見会を実施、鳩山兄弟の他に市民リーグや社民党の新党推進派が一同に会する。

 4.8日、 「社さ新党」の結成を事実上断念。

 4.21日、武村代表が衆院選に関して、単独で100人の擁立を目指す考えを表明。

 4.22日、小沢党首が橋本首相と会談。

 4.24日、鳩山代表幹事が、消費税率再引き上げの必要性を指摘。

 5.7日、鳩山代表幹事が友愛精神を基軸にした新党構想を雑誌に発表。

そして5月10日に住専処理策を含む平成8年度予算案が参議院本会議で可決・成立し、住専予算の削減はなかった。こうして新進党はますます混迷の度を深めていった。

 5.10日、武村代表が米軍用地収容のための特別立法に関して検討容認の考えを示す。政党交付金の使途をホームページで公開。住専処理に税金を投入する96年度予算案が成立。

 5.23日、船田が前日の発言の責任を取り党総務会長代理を辞任。
 
 5.31日、新進党の鳩山邦夫が、兄由紀夫にさきがけからの離党を促す。NPO法案について、新進党と意見交換を行うことが決定。

 
6.11日、グループ・新世紀の総会で、鳩山代表幹事が新党構想を語る。

 6.18日、住専処理関連法が成立。

 6.20日、小沢が細川・羽田と会談して「挙党一致」を確認し、また6月25日から7月18日の間に6回にわたって「小沢党首対話フォーラム」を開催するなどして党内融和を図ったがその後、鳩山邦夫や船田元など党内有力者の離党が相次いだ。

 6.25日、 橋本政権が消費税率を97年4月から5%に引き上げることを閣議決定。

 6.29日、鳩山代表幹事が、船田元らとの信頼関係を強調。

 7.2日、沖縄米軍用地収容に関して、特別立法論議を急ぐことに懸念を表明。

 7.18日、岩国哲人らが「新風会」発足。

 7.23日、「興志会」が解散。


 7.24日、岡山県知事選立候補のために江田五月が離党(落選)。  

 8.2日、鳩山代表幹事が、9月中に新党準備会を結成する方針を表明。

 8.3日、園田博之が、新党の枠組みよりも行革を柱とする政策論議を先行すべきと主張。
 8.13日、鳩山代表幹事が、臨時国会前に準備会を経ずに新党結成もありうるとの考えを示す。
  8.15日、鳩山代表幹事と菅直人が会談し臨時国会前の新党準備会結成で一致。菅直人は、さきがけの大半が新党に移行する道を探るべきとの考えも示す。

 8.17日、田中秀征、園田博之、菅直人が新党移行の方針で一致。鳩山代表幹事も理解を示す。

 8.20日、武村代表も加えた幹部会議で先の方針を確認。鳩山代表幹事は最終判断を留保。整備新幹線の建設費を全額公費とする自民党案に同意しない方針を固める。

 8.21日、発展的解党・新党移行の方針を固める。鳩山代表幹事も基本的に理解を示す。

 8.24日、武村正義が、新党では後衛に回るとの考えを表明。

 8.25日、鳩山代表幹事が、結党時には武村正義の参加を拒む意向を表明。 

 8.26日、鳩山邦夫が党東京都連会長を辞任。

 8.27日、鳩山由紀夫が党代表幹事の辞表を提出。武村・鳩山会談(〜28日)。

 8.28日、鳩山由紀夫が、さきがけを離党し9月中旬に新党を結成する意向を正式に表明。武村正義が、党代表を辞任する意向を固める。

 8.29日、臨時総務会で武村代表の辞任を了承。新人候補者への経過説明会。菅直人が、代表就任を推す声に対して固辞する考えを示す。

 8.30日、新代表に井出正一を、新代表幹事に園田博之を選出。菅直人は副代表に。 鳩山、簗瀬、五十嵐の3名が離党。  

 9.1日、さきがけの井出代表らによる新体制が発足。

 9.2日、園田博之が、行革政権構想を軸に鳩山新党との連携を探る考えを示す。井出正一が、さきがけのまま総選挙に臨むことを前提に選挙準備を進める考えを示す。

 9.3日、代表幹事の役職名を幹事長と改める。

 9.3日、鳩山邦夫が離党(東京2区で当選、民主党)。

 9.5日、鳩山新党と社民党に対し個人参加の新党を提案。田中甲が離党。

 9.7日、井出正一が、社民・さきがけ・鳩山グループの協議を1週間以内に始める意欲を示す。

 9.9日、菅直人と鳩山由紀夫が、第三極結集に向けた新党準備会の設立で合意。10.10日、菅直人の報告を了承。メンバーのほぼ全員が参加する見通しに。 

 9.11日、武村代表が行財政改革に関する三つの提案を発表、選挙後の行革政権を提唱。園田博之が鳩山代表幹事の新党構想に関して、理念の必要性を指摘しつつ支持を表明。

 9.12日、菅直人が民主党結成の呼びかけについて報告。参加は個々の判断によることを確認。

 9.17日、菅直人・鳩山由紀夫が、さきがけ幹部に対し民主党に参加するよう要請。井出正一らはさきがけ残留を決定、当選一回議員の民主党参加は容認。

 9.18日、小平忠正が離党。10.25日、石井紘基が離党。10.26日、荒井聰、小沢鋭仁、中尾則幸、中島章夫がさきがけから離党。

 9.20日、さきがけが社民党と選挙協力を進めることで一致。  

 9.26日、住宅金融債権管理機構が発足。

 9.27日、鳩山代表幹事と菅直人が、さきがけを発展的に解党して新党を結成する考えを示す。田中秀征が、さきがけのまま総選挙に臨むべきとの考えを表明。

 9.27日、衆議院解散。石破茂(鳥取1区で当選、「21世紀」に参加)・今津寛(北海道6区で落選、自民党)が離党の意向を表明。

 9.28日、武村代表が、さきがけが結束して新党に移行する可能性を探る考えを示す。

 9.28日、民主党結党。

 9.28日、社民党の土井たか子が新党首に就任。

 10.2日、さきがけが、民主党と総選挙後に行革政権構想について協議することで一致。

 10.13日、園田博之が民主党に対して、行革政権に参加するよう期待を表明。

 10.15日、総選挙後の行革政権で進める重点政策案を発表。社民党が、さきがけの提唱する行革政権に対し積極的に対応する考えを示す。

 10.20日、第41回衆議院総選挙衆院選投開票。新進党、衆院選で伸び悩み(事実上の敗北)。新進党は、小選挙区96名、比例代表60名(計156名)が当選、党の有力者では田名部や米沢が落選。改選前の160議席を4議席減らして156議席となり、事実上敗北とも言える結果だった。この選挙では比例区での順位決定に関して総選挙対策本部の顧問兼本部長代理である羽田の頭越しに決められ執行部の独走ぶりが目立った。 

 10.21日、自民・社民、さきがけが、政権継続を前提に政策協議を開始。

 10.21日、党最高諮問会議で羽田や細川が分党の意向を伝え小沢も了承した。しかし創価学会や党内の支持が得られず、分党問題はひとまず収束することになった。

 さきがけは、武村・園田の2議席を獲得とたのみで惨敗した。井出正一が代表を辞任する意向を示す。代表を務める井出や経企庁長官だった田中などが落選し、衆参合わせても5人という小政党に転落した。この結果、堂本暁子が議員団座長に就任するなど党組織は大きく変化し、第2次橋本内閣に対しても社民党とともに閣外協力に転ずることになる。

 この時政権離脱をしなかったのは、参院社民党勢力を政権に残留させるためにも自民党がさきがけを必要としたという外部要因と、たとえ小政党となろうとも与党に留まることで少しでも政権に対する影響力を維持したいという内部要因があったと思われる。しかし自民党中心の連立政権の中で党の存在感は以前に増して薄くなっているのが現状である。 

 10.22日、さきがけが、行政改革の推進を条件に、新政権に閣外協力する方針を決定。井出正一の代表辞任を了承、堂本暁子を議員団の座長に選出。

 10.24日、熊谷弘に除名通告。10.31日、米田健三が離党届提出。11.5日、高市早苗が離党(12・27自民党へ)。11.6日、笹川が離党

 10.28日、羽田・細川「分党構想」断念。
 
 10.29日、政調会長に水野誠一が就任、総務会長は堂本暁子が兼務。参院補選で芦尾長司の推薦を決定。

 10.31日、自民・社民、さきがけが政策合意書に署名。

 11.7日、新進党は、首班指名選挙では多数の党議拘束違反者(=小沢党首以外に投票)を出し党内の混乱ぶりを露呈した。第2次橋本内閣発足。さきがけは社民とともに閣外協力。畑恵が離党を提出(12.18日、自民党へ)。田浦直・米田健三を除名処分にする。

 11.29日、新進党と民主党の政策責任者による協議を開催。

 12月 2日 日米の特別行動委員会が沖縄の米軍基地の整理・縮小策で最終報告。

 12.4日、警視庁は、岡光序治・前厚生事務次官を収賄の疑いで逮捕。

 12.4日、羽田、羽田グループ閣僚経験者との会談の席で、離党に強い決意。12.7日、民主党との連携を早くも模索。

 12.7日、郵政省とNTTがNTTの分離・分割を合意。 

 12.10日、新進党結成2周年。

 12.12日、この日から16日まで3回の羽田・小沢会談(平行線をたどる)。羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめた。小沢と羽田の間の政治手法の違いや小沢チルドレンと呼ばれる議員たちが垣根を作って羽田らを寄せ付けなかったことなどが原因だった。

 12.13日、さきがけが、建設国債発行額で異論を唱え、補正予算編成を延期。

 12.16日 さきがけが、補正予算編成に関して、主張が通らねば賛成しない姿勢を確認。小沢と羽田の3回目の会談、羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめる。

 12.20日、補正予算案に反対する方針を確認。与党3党が医療保険制度改革案を合意。

 12.26日、与党3党が金融検査・監督の分離を合意。この間に奥田・岩國が正式に「羽田新党」参加決定。

 12.26日、羽田・岩国ら13人が離党し、新党「太陽党」を結成した。
  

 12.26日、羽田孜元首相等(旧新生党を中心とする衆院10人、参院3人)が新進党を離党し、「太陽党」を結成。  羽田らは記者会見で「日本政治の機能を取り戻すきっかけを作りたい」と述べ、「対立と清掃の政治から対話と実行の政治への転換」を掲げた結党宣言を公表。「政界再編の起爆剤となる」との決意を表明し、規制緩和や地方分権など「自由と自己責任」の実現、各国との「和と共生」による国際協力などの基本理念を掲げた。(基本政策の内容については別箇所参照)極めて当たり障りのない内容が盛り込まれているが、その理由も「政界再編の起爆剤となる」ためにほかならない。すなわち、衆参合わせて13人の政党で政策実現がかなうはずもなく、羽田党首が表明したとうり、太陽党の当面の目標は「新進党と民主党の橋渡し」(こういう政党を政治学では「要の政党」という)なのであり、橋渡しには政策を固定化しない方が有利なのである。イデオロギー政党色を脱した、プラグマティズム政党としての具体例は、憲法問題にも現れる。

 96年2月の議員研修会において、新進党内では異論を主張しなかったが、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について、「憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめた。同時に、介護保険法案についても政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。明確に、個々の政策について是々非々の態度をとるプラグマティズム政党の姿勢を表明したといえよう。なお、 党名は、「羽田氏の明るく、ぬくもりのあるイメージと勢力結集の核になる」(参院議員)として「太陽党」となった。 


 結党当初より羽田党首は、「野党結集の接着剤となることを目指す」とか「あくまで野党勢力の結集を目指す」、「健全な野党として各党をつなぐ触媒の役割を果たし、自民党に対抗するもう一つの極を作り出す核になる。」(結党翌日の96年12月27日)との考えを示している。具体的に、「触媒」とは、新進党の反小沢グループと民主党とのつなぎ目となることを意味している。しかし小沢が現新進党党首である以上、新進党との距離を縮めるには限界がある。そこで必然的に最初のアプローチは民主党に向けられたが、それは必ずしもスムーズに進んでいるとはいえない。例えば97年11月7日の世話人会の席(年表参照)で鳩山副党首は、構想中の統一会派への参加を当面見合わせることを表明している。(菅党首は別の場所で「政党の再編をあまり急ぐと数合わせになる」と述べている)これはそもそも菅・鳩山のイタリアの中道・左翼連合「オリーブの木」をモデルにした構想は、それぞれの政党が統一の首相候補や政権構想を掲げて選挙協力する「政党連合」的なものであり、必ずしも統一会派や政党の合流は必要でないからに他ならない。民主党は苦労して作り上げた「民主党」というブランドを簡単には手放したくないのである。

 羽田は新進党への離党届け提出の際、西岡新進党幹事長に「お互い改革という目標は同じだ。存分に連絡を取っていこう。」との趣旨の発言をしている。これに対し小沢は「離党・新党の結成は国民の期待に反する」と批判する一方で「改革の意志を同じくする人とは、協議するのは当たり前」とも述べている。両党の関係は比較的良好だったと言っていい。それを裏付けるように1月20日に太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置したものの太陽党畑英次郎幹事長は、統一会派については、「新進党を加えた協力が必要」の立場を崩さなかった。しかしその後、感情的なしこりや小沢の保保路線志向の表面化などにより関係は悪化していく。2月17日初の議員研修会の中で太陽党は、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について「常道の憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめたほか、介護保険法案でも対案の提出を検討している新進党とは 同一歩調をとらず、政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。さらに2月24日の講演の中で羽田は、オレンジ共済組合事件を巡る新進党両院協議会が質疑抜きで打ち切られたことに対し、小沢を批判している。これに対し新進党側も6月10日の党総務会で、太陽党に対する不満が続出し、太陽党との定期協議のあり方を見直すよう、注文がつく事態となる。結局、両者の完全な関係修復は新進党の解党まで待たれることになる。

 指摘しておかなければならないのが、わずかに13人の政党とはいえ太陽党には、路線上の対立があると言われていることである2)。構図としては、羽田、畑といった幹部が自民党に対抗する野党結集の核づくりを目指しているのに対し、中堅・若手は自民党への接近や復党を志向しているというものである。後者については、知名度を持たない中堅・若手が、小選挙区制度で生き残るための必然的な動きともいえる。

1997(平成9)年

 1997.1.29日、新進党の友部達夫議員がオレンジ共済詐欺容疑で逮捕された。これは新進党の友部達夫議員の政治団体が運営する「オレンジ共済組合」が出資法違反や詐欺などに問われた事件で、これに関連して友部達夫が比例区で初当選した1995年の参院選の際に細川護熙など党関係者が友部から金銭を受け取って名簿順位に手心を加えたという疑惑であった。

 2.5日、記者会見で友部議員問題で釈明をした細川は公認への関与を否定し、新進党内のこれまでの調査で「人選は相当部分、旧党派の責任者にゆだねられていた」(西岡武夫幹事長)(朝日新聞)とされているのとは食い違いを見せており混乱ぶりが目立つ格好となった。また3月末には細川が軽井沢に所有する別荘地が他人の借金の担保になっていたことが明らかになるなど党内のスキャンダルが絶えなかった。

 2.16日、細川、党役職(最高諮問会議)辞職へ。2.17日、小沢党首、細川と離党をめぐって会談。3.3日、小沢党首が自民党の竹下登元首相と都内で会談。3.10日、新進党が太陽党と共同チームを作ることで合意。

 こうした党内のゴタゴタに嫌気が差した小沢は自民党右派との連携をにらんだ「保保路線」を本格的に模索するようになった。3月には小沢側近議員と自民党議員による「日本の危機と安全保障を考える会」が発足した。そして4.2−3日には今通常国会最大の懸案となっていた沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で小沢党首は橋本首相と会談し3項目で合意。また5月2日には自民党の森喜朗総務会長とロンドンで会談するなど、保保路線色を鮮明にした。その一方で自民と新進の若手議員が、「保保」に対抗して会合を開くなど「反保保」の動きも党内にあった。

 4.3日、太陽、民主党の協議が行われ、民主党が両党に新党さきがけを加えた三党で国会内の統一会派結成を目指すことを提案、太陽党はこれを了承。

 4.18日、第1回党大会 羽田党首、今後の政界再編への対応について、与野党の枠組みにこだわらずに「民主的勢力の結集」を目指し、自民、新進両党の一部や民主党などとの対話を積極的に進めていく方針を打ちだす。同時に、「保保連合構想」を批判。また、新進抜きの民主との連携には慎重。

 4.21日、羽田党首、講演の中で自民党の一部を含めた幅広い「保守・リベラル勢 力」の結集を目指す考えを示す。「保保連合」について、「ガイドラインで強引に安易な道をとると、とんでもないことが起こる」と批判。 
 
 5.1日、第68回メーデーに新進党も積極参加。

 5.2日、小沢一郎党首、自民党の森嘉朗総務会長とロンドンで会談。

 5.3日 憲法施行満50周年記念アピール。
    
 6.9日 畑英次郎幹事長、ガイドライン見直しの中間報告に対し、「後方支援活動の範囲を、有事の際どこまで区別可能なのか疑問。有事法制整備への姿勢には一定の評価。政府は早急に法整備に取り組むべきだ。」、ガイドライン見直しの中間報告に対し、太陽党は、態度保留。

 6.11日、太陽党、民主党との協議で、両党による統一会は結成について、(1) 秋の臨時国会に向け、一段の環境醸成に努力する、(2)政権交代可能 な二大政治勢力形成を念頭に努力するの二点で合意。

 6.18日、細川氏が新進党を離党。細川が「既成のしがらみから一歩離れて、今の政治の流れがこのままでいいのか考えてみたい」(朝日新聞)として、突然離党した。

 7.6日、都議選で、新進党は議席ゼロの惨敗を喫し、対照的に公明は候補者24人全員が当選した。この結果を受けて、当初、「都議選後」とされていた公明所属の参院議員11人の新進党への合流が先送りされた。7月14日には5人が離党届を提出するなど徐々に崩壊し始めた。

 7.15日、「反保保」の勉強会「政党政治の将来を考える会」が発足、岡田克也が参加。

 7.17日、「改革会議」の旗揚げに民主・太陽と合意。

 7.25日、「反保保」の鹿野道彦元総務庁長官を中心に、野党各党の議員の勉強会「改革会議」が発足した。

 8.3日、小沢党首が藤井公明代表との会談で、公明参院議員の新進党移行の早期合流を要請。

 8.10日、羽田党首、鳩山・細川と会談。保守・中道路線のもとでの勢力結集を指すことを確認。同時に連携強化で一致。

 8.11日、第2次橋本改造内閣発足。

 8.16日、佐藤孝行総務庁長官の更迭を要求。

 8.25日、「改革会議」発足。(衆69人、参18人)、太陽党は全員参加。世話人の新進党鹿野氏、畑氏は、98年の参院選に向けて、公約をとりまと めていく方向で一致。

 9.2日、新進党が「日本再構築宣言」を正式決定。
   
 9.3日、「改革会議」世話人会、「対自民路線」で一致。同時に、各党幹部による協議を呼びかけることを確認。羽田党首、民主党の研修会で、「野党にあるものは結集すれば政権交代があり得るという確信を持つことが必 要。太陽党は、結合体の媒介役を果たしたい」。

 9.18日、太陽、民主、新進の野党三党、国会対策委員長会談を開き、佐藤孝行総務庁長官入閣問題で、不信任案提出を含めた対応を協議。

 9.18日、神崎武法総務会長が旧公明党グループの研修会で「反保保」を言明して小沢の党運営の手法の限界を印象づけた。

 9.22日、 さきがけ・民主の幹部が会談、復縁の道を探る。

 9.27日、新進党幹事長西岡氏、太陽、民主との国会共闘について歩調をそろえていくことを強調。

 10.3日、羽田党首、衆院代表質問で「佐藤孝行の入閣は改革への国民の期待に対する裏切り」、「景気低迷の責任は、政府の楽観的な景気判断と経済運営にある。法人税・所得税の減額、土地税制の改革など速やかに実施すべき」、「今回の行革は、単なる数あわせ」「政府の財政構造改革法案は、構造改革の名に値しない」。

 10.21日、小沢、菅、羽田の3党首が会談。

 10.31日、党勢不振の責任を問うために鹿野道彦元総務庁長官が党首選に立候補することを表明した。これに対し小沢は臨時国会の会期中であることを理由に党首選への立候補の意思をなかなか明確にしなかった。

 11.7日、太陽、民主両党などの国会議員による野党結集を目指す懇談会の初の世話人会を開催(世話人会は羽田、鳩山、畑らが発足)。

 11.28日、大蔵省の財政・金融分離問題で、施行期日を2001年までとする方針を確認。公的資金投入を前提にした、金融システム安定化緊急対策案をまとめる。

 11.28日、公明(藤井富雄代表)が常任幹事会で来年夏の参院選の比例区を独自で戦う方針を決めた。

 12.5日、羽田、細川、菅の3者会談で、「懇談会」を軸に、今後とも野党結集路線を進める方針を確認。

 12.9日、太陽、民主、新進の3党欠席のまま預金保険法改正案が衆院本会議で可決。

 12.17日、羽田、細川、太陽党と細川グループなどによる統一会派の年内結成を目指すことで一致。

 12.18日、新進党首選挙。結果は小沢が230票対182票で鹿野を破った。太陽党は野党結集を行う上で都合の良い鹿野道彦が当選することを望んでいたが、鹿野は小沢に破れる。羽田、細川、鳩山3者会談、今後も新進党にも野党協力を呼びかける必要があるとの認識で一致。

 党首に再選された小沢は19日、新しい党体制づくりに乗り出し、党内の旧公明党グループ「公友会」の神崎武法代表幹事(党総務会長)、旧民社グループ「民友会」の中野寛成会長(党国会対策委員長)と相次いで会談した。小沢は党の結束を固めるためそれぞれの会を解散するよう求めた。中野会長は受け入れる姿勢を示し、神崎代表幹事も応じる方向となった。一方、「公明」は20日、党の拡大中央委員会で来年の参院選比例区は新進党とは別に、公明として独自に臨むことを決めた。

 12.19日、太陽、細川グループ、民主改革連合、次期通常国会までに統一会派を結成することで合意。12.24日、「政党連合推進懇談会」の会合。

 12.25日、小沢は突然、公明の藤井富雄代表に参院の旧公明党議員を「分党」して公明に合流させるべきだとの考えを示し藤井代表も分党に賛成した。小沢はこの合意に伴い、新進党の解党―保守新党結成に踏切り、準備に着手した。小沢は解党することを決断。

 12.25日、細川は、太陽党や民主党と接触を続けてきたが、依然無所属として活動を行ってきた。しかしやはり政党助成法上の規定で年末までに結党することを迫られていた。そこでようやく12月25日になって、衆参合わせて5人という助成が受けられるぎりぎりの議員数で結党することとなった。そもそも羽田と細川は羽田が新進党を離党する際に行動をともにすることを検討した程に近い関係にあり、遠くない将来において両党が合同することが予想される。

 12.25日、太陽、参院の3人が、民主党・新緑風会に合流(参院の太陽党は解散、しかし3人の太陽党籍は残す)。細川ら、衆参5議員「フロム・ファイ ブ」結成で合意。

 12.26日、細川護熙が新党「フロムファイブ」を結党。
   
 12.27日、新進党が衆参両院議員総会を開き解党を正式決定し、新進党は3年余りでその歴史に幕を下ろした。そして自民党より右寄りと言われる小沢一郎率いる自由党(54人=衆議院42人、参議院12人)、旧民社党系の中野寛成率いる新党友愛(23人=衆議院14人、参議院9人)、旧公明の衆議院政党である神崎武法率いる新党平和(37人)、旧公明の参議院政党である黎明クラブ(18人)、新進党崩壊の引き金を引いたともいえる鹿野道彦率いる国民の声(18人=衆議院15人、参議院3人)、そして長老格の小沢辰男率いる改革クラブ(12人=衆議院9人、参議院3人)の6党に分かれた。

 12.29日、羽田、細川、鳩山、「公明」の藤井富雄代表と会談・野党結集に向けた連携を要請。

 12.30日、太陽、フロム・ファイブ、国民の声の間で新・新党結成に向けた本格協議を開始することで合意が成立している。注目すべきは、その前日の29日に羽田、細川、鳩山が「公明」に対して野党結集に向けた協力を要請していることであろう。羽田の言う「太陽党の発展的解消」も射程内に入ったと思われる。




(私論.私見)

 社会党、新党さきがけの連立離脱により、少数与党政権となった羽田内閣は、1994年6月23日、わずか65日で内閣不信任案を前にして総辞職した。代わって、6月29日、村山富一社会党委員長が首相に指名され、自民、社会、さきがけの3党による、連立政権が発足した。自民党にとっては、約11ヶ月ぶりの政権復帰であった。

 自民党は、1993年の衆院選後、宮沢に代わって、河野洋平を総裁に選出していた。また、政権を失った反省から、党の体質の変革が試みられ、その柱として、派閥解消が唱えられた。実際に、派閥事務所の閉鎖の申し合わせが行われ、マスコミは、各派閥に「旧」の文字を付けることにしたが、この派閥解消は表面的なものであり、実質的に派閥の活動は続けられた。自民党が短期間に政権復帰を果たしてしまったことで、自民党の派閥解消をはじめとする体質改善は実行されることなく、立ち消えとなる。

 村山連立政権は、1996年まで続くが、その間、1995年10月に、河野に代わり、経世会の橋本龍太郎が総裁に就任した。そして、村山内閣の後を受けて、1996年1月11日、2年半ぶりに自民党首班による、橋本内閣が発足した。経世会にとっては、竹下以来、2人目の首相であった。この年の10月、小選挙区比例代表並立制による、初めての総選挙が行われ、自民党は過半数には届かなかったものの、勝利し、選挙後の11月に発足した第二次橋本内閣は、3年3ヶ月ぶりに自民党単独政権になった。この時、経世会は88人で、三塚派86人、宮沢派73人を抜いて、党内最大派閥に復帰していた。

 1998年7月12日の参議院選挙で、自民党は敗北し、橋本首相は退陣する。これは、橋本内閣が、景気対策よりも財政再建を優先させ、消費税の5%への引き上げ等の政策を進めたことにより、景気が失速し、有権者の支持を失ったためである。経世会は、総裁選に、会長である、小渕恵三の擁立を決め、当時、幹事長代理だった野中広務らが、多数派工作を行い、優位に立った。7月24日の総裁選には、小渕、経世会を離脱した梶山静六、三塚派の小泉純一郎の3人が立候補し、小渕が選出された。小渕は、宮沢以来5年ぶりの派閥領袖の総理総裁となった。

 「小渕勝利の背景には、経世会という、党内最大派閥の全面支援と、加藤紘一、山崎拓ら、『ポスト小渕』を狙う、他派閥領袖の思惑、内閣、党のポストに就きたいという陣笠議員の心理が支持の広がりを生んだ。」(1)小渕内閣の誕生は、こうした点で、同じ経世会でも、行政改革を掲げ、「自民党再生の切り札」として、派閥横断的に支持を受けた橋本内閣の時とは異なり、名実共に、「経世会支配」の復活であったといえる。

 小渕は、1999年9月の総裁選でも、加藤、山崎を破って再選を果たすが、翌2000年4月2日、脳梗塞で倒れる。小渕内閣は総辞職し、4月5日、森喜朗が後継総裁に就任した。「森総裁誕生」の経緯は、小渕が倒れたことが、突然の出来事だったとはいえ、総裁選等、必要な手順を全く踏んでおらず、森や経世会の青木幹雄、野中広務ら「5人組」が談合して決定したものだった。この選出方法は、「密室で選んだ」と批判され、森退陣の際に、「次は、密室ではなく、開かれた総裁選で決めるべきだ。」(2)という党内の空気を醸成し、地方で、党員による予備選が実施されることに繋がる。

 「森内閣は、発足当初こそ、41.9%の支持率を得たが、『神の国』発言等、首相自身の相次ぐ失言により、支持率はすぐに下がり始めた。このため、2000年6月の衆院選では、都市部、比例区で自民党は惨敗を喫した。秋には、支持率20%を割り込み、加藤、山崎両氏が、退陣要求を突きつける『加藤の乱』にまで発展した。」(3)さらに、2001年2月10日に起きた、「えひめ丸沈没事故」への対応で、世論の支持を決定的に失い、党内の大勢も、森退陣へと動き、3月10日、森首相は、事実上の退陣表明となる、総裁選の前倒し実施を表明する。

 そして、この総裁選では、前述した、森総裁誕生の経緯への批判から、党の地方組織である道府県連が、党員による予備選の実施を強く要求し、結局、広島、山口を除いて、党員投票を行い、その結果によって、各都道府県に3票ずつ割り当てられた地方票が決定されることになった。

 総裁選には、経世会の橋本龍太郎、森派の小泉純一郎、江藤・亀井派の亀井静香、河野グループの麻生太郎の4人が立候補した。だが、実際には、橋本が、経世会に加えて、堀内派の支援を受け、それに、江藤・亀井派も決選投票では、橋本支持に回るとみられ、国会議員の数で圧倒的優位に立っていた。

 したがって、選挙の焦点は、小泉がどれだけ地方票を獲得できるかであり、実質的に「橋本対小泉」の図式となった。但し、江藤・亀井派が橋本支持に回った場合、国会議員数で、橋本と小泉の差は、約100人になり、地方の予備選で圧倒的な勝利を収めない限り、小泉の当選は絶望的な状況だった。

 しかし、予備選の蓋を開けてみると、小泉は、41都道府県で1位となり、123票を獲得したのに対して、橋本が1位になったのは、橋本の地元、岡山、青木の地元、島根、野中の地元、京都など5府県であり、わずか15票の獲得にとどまった。この結果により、小泉の勝利は決定的となり、亀井は本選を辞退し、江藤・亀井派は小泉支持に回り、堀内派も自主投票に方針転換した。そして、2001年4月24日、国会議員による投票が行われ、その結果、小泉は、正式に自民党総裁に選出された。

 小泉が、地方における予備選で、「地滑り的勝利」を収めた理由は、財政構造改革などの政策が受け入れられたことと同時に、小泉が掲げた、「脱派閥政治、反経世会」の政治姿勢が支持されたことが大きい。小泉は、この姿勢を鮮明にするために、総裁選以前に就いていた、森派会長職を辞め、派閥も離脱した。また、小泉は、海部内閣時代に、山崎、加藤と共に「YKKグループ」を結成して以来、事あるごとに経世会との対決姿勢をとってきたが、この総裁選では、改めて、派閥政治、経世会支配の打破を訴えた。

 「派閥政治、経世会支配の打破」これは、リクルート事件以来、国民が望んできたものであったが、小選挙区制導入による「政治改革」を通しても、実現されることはなかった。そして、自民党の政権復帰後も、何ら変わることなく、経世会支配は続いた。しかし、総裁選が「橋本対小泉」の図式になった時、国民の大半は、小泉が橋本を破って、経世会支配を終わらせることに期待をかけた。それは、一般の国民とはややかけ離れた存在である、自民党員も同じだった。

 小泉は、総裁選中、「私が勝てば、総裁選史上で初めて、最大派閥の支援を受けないで勝つ総裁になる。」と語っていた。小泉内閣の誕生は、大平内閣以来続いた田中支配と、それを受け継いだ経世会支配の終焉と言える。

 (1)  土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社
 (2)  読売新聞政治部 「小泉革命 自民党は生き残るか」 中公新書
 (3)  同上

おわりに

 1、派閥の弱体化と派閥人事の否定

 2001年4月の総裁選予備選は、派閥の組織力が弱まりつつあるという事実を象徴す
る結果となった。元々、予備選でも、小泉よりも橋本のほうが有利と言われていた。なぜなら、
党員全体の65%が経世会の影響力が強い、各種団体の職域党員だからである。
 過去をさかのぼると、自民党は党則に基づいて党員投票による予備選を実施したことが、
1978年と1982年の二度あるが、いずれも、経世会の前身である田中派が推した候補
が1位となった。特に、1978年は、現職首相だった福田赳夫が、田中派の全面支援を受け
た大平正芳に敗れたのであり、田中派の職域党員への影響力の強さを見せつけた。
 田中派の流れを組む、経世会も、職域票獲得に自信を持っており、総裁選において、影響力
の強い有力支持組織を通じて、職域支部の党員票を押さえようとした。
 しかし、予備選の結果は、小泉が、党員票の58%を獲得したのに対して、橋本は30.
2%にとどまり、小泉の圧勝だった。この結果は、「職域支部の締め付けは効かなかったと言
われている。」(1)ように、派閥の影響力の弱体化と、経世会が得意としてきた「組織型選挙」
の崩壊を示している。
 小泉内閣の誕生は、確かに、経世会支配を終わらせたが、それは、一時的なものに終わる可
能性も十分あり、本当の意味での派閥政治の解消が実行されるかは、今後も注視していく必
要がある。
 だが、小泉が、「脱派閥政治」に取り組んでいることは事実であり、それは、特に人事面で顕
著である。小泉は、経世会を党3役からはずし、閣僚人事でも、これまでの派閥人事を行わな
かった。従来、閣僚人事は、各派閥の推薦名簿から、大臣ポストを配分する「派閥均衡人事」だ
ったが、小泉は、派閥に関係なく、自分が適任と思う人物を選んで組閣を行ったのである。
 この派閥人事を否定した意味は大きい。なぜなら、ポスト配分機能は、資金の配分と並ぶ、
派閥の権力の根幹であり、求心力である。派閥が人事に関する権限を失えば、その存在意義
は大きく薄らぐことになる。したがって、派閥人事の否定は、派閥解消への第一歩であると
言える。

 2、小選挙区制と派閥政治の解消

 最後に、政治改革を目指した、小選挙区比例代表並立制の導入は、完全な失敗に終わった
のかという点に触れたい。これに関しては、「政党本位の政治、政権交代は実現されず、政治
改革で目指していた政治像とは正反対の方向に向かっている。」(2)と言う研究者も多く、
あながち、間違っているとも言えない。
 しかし、新制度の下での総選挙は、まだ2回しか行われておらず、小選挙区比例代表並立
制というシステムが、今後、効果を発揮していく可能性は残されている。また、新制度での2
度の選挙において、すでに、政党、政治家の行動と有権者の投票行動の双方に、徐々に変化が
見られるのも事実である。
 その変化のひとつは、政党、とりわけ、野党が小選挙区制型の行動様式を取ることで、政権
交代の可能性を作り出した点である。まず、1996年10月の総選挙においては、新進党
が、小選挙区で235人の候補者を立て、比例区と合わせて、合計361人の候補者を立て、
また、2000年6月の総選挙では、民主党が、前回の新進党を上回る、262小選挙区で候
補者を立てて、過半数の議席獲得を目指した。結果的には、政権交代は起きなかったが、中選
挙区制時代の社会党が、1958年総選挙を除いて、一度も定数の過半数の候補者を立てな
かったことと比較すると、この野党の姿勢の変化は、十分、評価に値する。
 もうひとつの変化として、選挙において、党首の存在の重要性が、非常に高まってきてい
ることが挙げられる。1996年総選挙では、政権交代を狙う新進党が、小沢一郎党首を首
相候補として明示し、有権者に政権選択を訴えたのに対し、自民党も、橋本龍太郎総裁を前
面に出して選挙を戦った。
 逆に、2000年総選挙では、党首のマイナスのイメージが、選挙結果に影響を与えた。森
首相が、自身の度重なる失言により、国民の激しい反発を買ったため、自民党は支持を失い、
都市部、比例区で惨敗した。また、民主党についても、鳩山由紀夫代表に、全盛期の菅直人の
ような人気があれば、選挙結果において、自民党と民主党の差は、さらに縮まっていたと思
われる。
 そして、2001年7月の参院選での自民党の勝利は、言うまでもなく、「小泉効果」によ
るものである。事実、小泉を総裁に選んだ自民党議員や、党員たちの投票行動は、間近に迫っ
ていた参院選、さらにその後の総選挙において、誰が、総裁なら勝てるかという判断による
ところが大きい。
 選挙において、党首イメージが重要になってきている理由は、無党派層の投票行動に大き
く影響するからだと考えられる。朝日新聞の調査によると、「2000年の衆院選の比例区
では、無党派層の15%が自民に、37%が民主に投票したが、2001年の参院選では、無
党派層の27%が自民に投票したのに、民主には20%しか投票しなかった。」(3)この結
果は、無党派層の票が、森首相のときには、民主党に流れていたが、小泉首相になって、今度
は、自民党に流れたことを、よく表しており、党首の存在が、いかに選挙結果に影響を与える
かを物語っている。
 小選挙区比例代表並立制における、党首イメージの重要性。ここに、自民党の「脱派閥政
治」へのヒントがあるように思われる。党首によって、選挙結果が、大きく左右されるとなれ
ば、必然的に、党首(総裁)の権限、リーダーシップは強化されることになる。前述したように、
1996年総選挙は、総裁である、橋本を前面に出して戦った、自民党は勝利したが、このこ
とは、選挙後、橋本の総裁としての立場を強化し、持論であった、行政改革を実行する上で、
強力な基盤となった。また、2001年参院選での自民党の勝利は、小泉内閣の政権基盤を
強化し、小泉が掲げる、構造改革の推進力となっている。
 また、党首のイメージが重要となれば、それは、総裁の選出過程の透明性に繋がる。従来の
ように、派閥の論理や、一握りの人間だけで「密室」で総裁を決めていては、もはや、選挙に勝
てないことは森首相によって実証された。このことは、総裁選の在り方そのものを変えるか
もしれない。これまでは、総裁選こそが、派閥の最大の存在意義、究極の目的であり、派閥の
合従連衡で総裁選の結果は決まった。しかし、そのようにして、総裁を選ぶことに対しては、
いまや、国民ばかりか、地方の党員までもが反対であることが明らかになった。今後は、開か
れた総裁選を通じて、派閥とは全く関係なく、国民や党員に支持される人物を総裁に選ぶべ
きである。そして、このことは、派閥の存在価値をなくし、派閥解消にも繋がるだろう。
 「近年の日本は、いわゆる無党派層が5割を超える状況であり、特に、都市部において、与
党としての利益配分の力のコントロールを超えるような投票動向が出現する可能性は絶え
ず存在する。」(4)言い換えれば、これは、政権交代が十分起こりうる状況だということが
出来る。そして、この状況の下で、自民党が、脱派閥政治を進め、民主党をはじめとする野党
が、常に、政権を担当する態勢を整え、自民党に対案を提示して、野党としての機能を果たす。
そうなって初めて、日本政治が、国民の望む形に近づき、「政治改革」が実現したと言えるの
ではないだろうか。