自社政権誕生劇(村山政変)検証 |
(最新見直し2006.4.4日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2004.5.13日 れんだいこ拝 |
1994(平成6)年 |
【村山政権誕生】 |
6.27日、社会党とさきがけが基本政策について合意が成立。 6.28日、社会党が連立政権復帰も模索。村山委員長と与党7党派の党首・代表会議で政策協議に入ることを合意。 6.29日、社会党と旧与党の政策協議が税制改革などをめぐって決裂。自民党が社さ両党の政策合意に同調して国会は村山首班を指名。連立側は自民を離党表明した海部俊樹元首相を擁立。決選投票の結果、村山が首相に指名された。 この時、キャスティングボードを握っていたのは社会党であった。社会党が、連立側か自民党のどちらにつくかで勝負が決まる状況であった。ここで、自民党は政権復帰への執念を見せ、社会党委員長の村山富市に首相の座を差し出し、自社連立のための接着剤としてさきがけをパートナーとした。これに対して、小沢一郎は、自民党を離党した海部俊樹元首相を連立側の首相候補に擁立し、自民党の分裂をねらった。しかし、決選投票の結果、村山が首相に指名された。新生党は野党へと転落する。 6.30日、自社さ連立の村山連立内閣が発足。副総理・外相に河野洋平自民党総裁。 村山内閣は、武村、村山、河野洋平の3党首をシンボルとするハト派政権を目指した。首班には、自民党を離党した海部俊樹との対決を制した村山富市社会党委員長が選ばれ、さきがけからは武村蔵相、井出厚相、園田官房副長官が入閣した。また錦織淳が首相補佐に就いた。村山内閣の当初の支持率は35%。 |
新生党は野党に転落し、小沢は、新生党代表幹事の辞表を提出した。しかし、それは受理されず、その後の撤回もなされなかったため、うやむやになった。渡部恒三氏が党務代行。党内では、かねてから小沢の専制的なやり方に対する反発が目立っていたが、8月になって小沢は批判派と妥協し、民主的な集団指導体制で運営するようになった。新生党は、政権交代可能性のある健全な政治を目指し、二大政党制への移行を主張する。そして、小選挙区比例代表制をにらみ、野党を結集する新・新党運動を主導し、「新進党」へと発展的解党を遂げる。 その中でさきがけは、55年体制の下でイデオロギー対立を続けてきた自民・社会両党の接着剤役を果たそうとした。自衛隊合憲や日米安保維持といった基本政策の転換を社会党に迫るとともに、逆に自民党単独政権ではなし得なかった水俣病問題や被爆者援護法、従軍慰安婦問題の解決などを実現した。 しかし、特殊法人の改革問題で自民党と激しく対立し、北海道や三重県の知事選への対応を巡って社会党の反発を呼ぶなど、自社両党の板挟みの中で苦しい政権運営が続いた。しかも特殊法人問題での大蔵省との協力姿勢や、二信組救済問題での渋々の処理策追認は、党代表でもある武村蔵相への配慮と改革志向とのジレンマをさらけ出すことになった。 |
7.4日、新生、公明、民社、日本新党が新党準備で一致。 7.4日、鳩山由紀夫がさきがけの新代表幹事に就任。 7.5日、中島章夫、枝野幸男、荒井聰、前原誠司、高見裕一、五十嵐ふみひこの6名が入党。衆議院の会派名を「新党さきがけ」に変更。 7.7日、旧連立与党「改革推進委員会」発足。細川が最高顧問に。 7.14日、日本新党常任幹事会「新・新党」を了承せず。 7.15日、参院の小林正、新生党へ。新生党、参院で14人に。 7.20日、村山首相が国会答弁で「自衛隊合憲」「日米安保体制の堅持」を明言。 さきがけが、95年度予算で、自社両党の特別枠要求に同調しないことを決定。 8.1日、新生党の愛野氏、新・新党結成で小沢氏主導は「いけない」と反旗。 8.14日、 「侵略戦争」を否定する発言をした桜井環境庁長官が辞任。 8.18日、新生党、小沢一郎代表幹事が留任。党結束を優先し、批判派と妥協。顧問会議を新設。「集団指導体制」で出直し。 8.31日、日本新党常任幹事会で「年内に」新党結成を確認。 9.5日、村山連立政権へ対抗する形で旧連立勢力の合同首脳会議が開かれた。この時、「責任ある政治を求めて――新党結成への基本理念」と「新党結成に向けての国民へのアピール」を発表した。基本理念の特徴としては「責任ある政治」「たゆまざる改革」を掲げる改革の内容:政治改革・行財政改革・地方主権の確立・経済改革・教育改革、「長寿福祉社会の基礎確立」「男女共同参画社会」を目指す「一国平和主義・一国繁栄主義からの決別」を表明、国連安保理常任理事国入り問題→旧連立勢力内に異論→基本理念への明記は見送る、などが挙げられる。 9.9日、新党協議会の第2回世話人会で小沢一郎新生党代表幹事を世話人会座長に選任。 9.11日、村山内閣で初の国政選挙である参院愛知再選挙で、旧連立グループの推す都築譲が、連立与党の推す水野時朗に約39万票の大差で圧勝。 9.22日、与党3党が、97年4月から消費税率を5%に引き上げることを決定。 9.22日、公明党拡大中央執行委員会が新・新党に参加することを正式に決定。 9.27日、海江田万里、石田、遠藤、牧野が「改革」「新党準備会」に不参加を決定。寺沢、武田、小島「新党準備会」入り。「改革」187名で結成。 9.28日、新生、公明、日本新、民社など共産を除く野党の各党派187名が、参院の統一会派「改革」結成。自民党の200人に継ぐ衆院第2勢力が誕生した。午後には衆院186人、参院39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足。新党準備実行委員長に新生党の小沢一郎代表幹事が選出された。新・新党の党名は公募により「新進党」に決定した。新進党への参加方式でもめた公明党は、分党方式をとることを決めた。 9.28日、新党準備会発足式(キャピトル東急ホテル)衆参で225名。海江田らが「民主新党クラブ」結成届け出。 9.29日、新生党の長城計画・日本中国交流使節団(団長石井一前自治相)236人が出発。新生党の16国会議員が参加、中国の喬石全人代常務委員長ら要人と交歓(10月4日帰国)。 9.30日、新党準備会役員人事発表。海江田、石井、遠藤、牧野が常任幹事を辞任し、統一会派「改革」より離脱。日本新党が党大会で、解党・新党参加を正式決定。 10.5日、羽田孜新生党党首、衆院本会議で「改革」を代表して代表質問に立ち、小選挙区区割り法の成立後すみやかに衆院の解散・総選挙をするよう要 求。 10.5日、自民党が鳩山由紀夫に、北海道知事選出馬を打診していたことが明らかになる。11.21日、鳩山由紀夫が北海道知事選への出馬を断念。 10.9日、新生党の小沢、国会欠席し仏へ。心臓病検査の憶測も。 10.24日、さきがけの田中秀征が社会党の山花貞夫と会談。 10.30日、第一回日本新党党大会開催(東京プリンスホテル)。 11.2日、行政改革委員会設置法が成立。 11.5日、公明党は党大会で、新生党などとつくる新・新党に大半の国会議員が参加、地方議員などは当面従来の党組織に残るという活動方針を採択し、「分党」を決定。 11.8日、鳩山代表幹事が、社会党が提唱している新党構想に当面同調しない考えを表明。 11.14日、社会党から、さきがけとの統一会派構想が浮上。 11.16日、新生党全国代表者会議。12月9日に新党に移行するため新生党を解党すること、同10日に公明、日本新、民社など野党各党派と新・新党を結成する方針を決定。 11.16日、さきがけが、知事・政令指定都市長に関し、4選以上の候補を公認・推薦しない方針を決定。田中秀征が、社会党との統一会派結成の可能性を否定。 11.21日、衆院の300小選挙区の区割り法(改正公職選挙法)が成立。12月25日施行。 11.24日、政治改革関連法案のうち、区割り法案など4法案が成立。 11.24日、新・新党の党名は、公募により「新進党」に決定。綱領、規約、当面する重点政策を決定。 12.1日、細川「新・新党」の党首選に不出馬を表明。石井離党。 12.5日、公明党が第34回臨時全国大会を開催。新進党に参加する「公明新党」の設立総会と残留する参院議員と地方議員からなる「公明」の結党大会を開催。公明党が「分党」方式で新進党に参加することを決定。 12.6日、参院新生党有志、新進党の党首の選挙による選出を申し合わせ。新生党の栗本、日本新党の小泉らは新進党に不参加の方向。 12.8日、新進党の党首選挙で海部俊樹、羽田孜、米沢隆の3氏が争った結果、海部俊樹元首相が当選。幹事長は小沢一郎が無投票で選出。 12.9日、新生党、日本新党、民社党などが解党、新進党へ。 新生党は正式に解党をして1年半に及ぶ活動に幕を閉じた。民社党が第40回臨時全国大会を開催し、民社党の解党、新進党への参加を決定。 新生党は自民党の派閥を割り、政権交代を実現させる中心となり、久々に政治に劇的な緊張感を生み出した。しかし、自民党時代と変わらぬ一面39)を見せたり、権力闘争に明け暮れるなど40)のマイナスのイメージがつきまとった。新生党は、1年半というわずかな期間ではあったが、政界再編の激動期にあって、小沢一郎のビジョンと政治力によって、良くも悪くも政界をかき回した存在意義の大きな政党であったと言えよう。 12.10日、新進党結党大会を横浜市みなとみらい21「パシフィコ横浜」で開催。結党大会には新生党、公明新党、日本新党、民社党などから衆参2214名の議員が参加。新進党発足。海部俊樹党首=小沢一郎幹事長体制で始まることとなった。「自由、公正、友愛、共生」を基本理念として、「たゆまざる改革」と「責任ある政治」を推進することを決議した。 日本新党は当初から、新党さきがけとの合併を予定していたが、選挙制度改革により小選挙区が誕生するのに伴い元々新人議員が多く地盤が弱い日本新党の議員では小選挙区を戦えないという懸念が出始め、もっと大きな規模での党の合併が目指される素地はあった。また、連立政権が出来た頃から連立与党の合併による新党作りの話が出るようになり始めた。日本新党の中には民社党との連携を先にすることを望む声もあり、新党準備会が発足した後にも、新・新党への参加が常任幹事会で了承されない程であったが、結局は新・新党の結成に参加することになった。そして1994年10月30日の第一回の党大会でそれが了承され、第一回の党大会が解党大会となった。こうして日本新党は、活動の基盤を確立することが出来ず、風に乗って誕生し、風のように時代を駆け抜けて、歴史の表舞台から姿を消した。 12.27日、「明日の内閣」(政策準備委員会)発足。 |
1995(平成7)年 |
7.31日、参議院に院内会派を結成(代表は堂本暁子)。
1996(平成8)年 |
1997(平成9)年 |
1997.1.29日、新進党の友部達夫議員がオレンジ共済詐欺容疑で逮捕された。これは新進党の友部達夫議員の政治団体が運営する「オレンジ共済組合」が出資法違反や詐欺などに問われた事件で、これに関連して友部達夫が比例区で初当選した1995年の参院選の際に細川護熙など党関係者が友部から金銭を受け取って名簿順位に手心を加えたという疑惑であった。 2.5日、記者会見で友部議員問題で釈明をした細川は公認への関与を否定し、新進党内のこれまでの調査で「人選は相当部分、旧党派の責任者にゆだねられていた」(西岡武夫幹事長)(朝日新聞)とされているのとは食い違いを見せており混乱ぶりが目立つ格好となった。また3月末には細川が軽井沢に所有する別荘地が他人の借金の担保になっていたことが明らかになるなど党内のスキャンダルが絶えなかった。 2.16日、細川、党役職(最高諮問会議)辞職へ。2.17日、小沢党首、細川と離党をめぐって会談。3.3日、小沢党首が自民党の竹下登元首相と都内で会談。3.10日、新進党が太陽党と共同チームを作ることで合意。 こうした党内のゴタゴタに嫌気が差した小沢は自民党右派との連携をにらんだ「保保路線」を本格的に模索するようになった。3月には小沢側近議員と自民党議員による「日本の危機と安全保障を考える会」が発足した。そして4.2−3日には今通常国会最大の懸案となっていた沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で小沢党首は橋本首相と会談し3項目で合意。また5月2日には自民党の森喜朗総務会長とロンドンで会談するなど、保保路線色を鮮明にした。その一方で自民と新進の若手議員が、「保保」に対抗して会合を開くなど「反保保」の動きも党内にあった。 4.3日、太陽、民主党の協議が行われ、民主党が両党に新党さきがけを加えた三党で国会内の統一会派結成を目指すことを提案、太陽党はこれを了承。 4.18日、第1回党大会 羽田党首、今後の政界再編への対応について、与野党の枠組みにこだわらずに「民主的勢力の結集」を目指し、自民、新進両党の一部や民主党などとの対話を積極的に進めていく方針を打ちだす。同時に、「保保連合構想」を批判。また、新進抜きの民主との連携には慎重。 4.21日、羽田党首、講演の中で自民党の一部を含めた幅広い「保守・リベラル勢 力」の結集を目指す考えを示す。「保保連合」について、「ガイドラインで強引に安易な道をとると、とんでもないことが起こる」と批判。 5.1日、第68回メーデーに新進党も積極参加。 5.2日、小沢一郎党首、自民党の森嘉朗総務会長とロンドンで会談。 5.3日 憲法施行満50周年記念アピール。 6.9日 畑英次郎幹事長、ガイドライン見直しの中間報告に対し、「後方支援活動の範囲を、有事の際どこまで区別可能なのか疑問。有事法制整備への姿勢には一定の評価。政府は早急に法整備に取り組むべきだ。」、ガイドライン見直しの中間報告に対し、太陽党は、態度保留。 6.11日、太陽党、民主党との協議で、両党による統一会は結成について、(1) 秋の臨時国会に向け、一段の環境醸成に努力する、(2)政権交代可能 な二大政治勢力形成を念頭に努力するの二点で合意。 6.18日、細川氏が新進党を離党。細川が「既成のしがらみから一歩離れて、今の政治の流れがこのままでいいのか考えてみたい」(朝日新聞)として、突然離党した。 7.6日、都議選で、新進党は議席ゼロの惨敗を喫し、対照的に公明は候補者24人全員が当選した。この結果を受けて、当初、「都議選後」とされていた公明所属の参院議員11人の新進党への合流が先送りされた。7月14日には5人が離党届を提出するなど徐々に崩壊し始めた。 7.15日、「反保保」の勉強会「政党政治の将来を考える会」が発足、岡田克也が参加。 7.17日、「改革会議」の旗揚げに民主・太陽と合意。 7.25日、「反保保」の鹿野道彦元総務庁長官を中心に、野党各党の議員の勉強会「改革会議」が発足した。 8.3日、小沢党首が藤井公明代表との会談で、公明参院議員の新進党移行の早期合流を要請。 8.10日、羽田党首、鳩山・細川と会談。保守・中道路線のもとでの勢力結集を指すことを確認。同時に連携強化で一致。 8.11日、第2次橋本改造内閣発足。 8.16日、佐藤孝行総務庁長官の更迭を要求。 8.25日、「改革会議」発足。(衆69人、参18人)、太陽党は全員参加。世話人の新進党鹿野氏、畑氏は、98年の参院選に向けて、公約をとりまと めていく方向で一致。 9.2日、新進党が「日本再構築宣言」を正式決定。 9.3日、「改革会議」世話人会、「対自民路線」で一致。同時に、各党幹部による協議を呼びかけることを確認。羽田党首、民主党の研修会で、「野党にあるものは結集すれば政権交代があり得るという確信を持つことが必 要。太陽党は、結合体の媒介役を果たしたい」。 9.18日、太陽、民主、新進の野党三党、国会対策委員長会談を開き、佐藤孝行総務庁長官入閣問題で、不信任案提出を含めた対応を協議。 9.18日、神崎武法総務会長が旧公明党グループの研修会で「反保保」を言明して小沢の党運営の手法の限界を印象づけた。 9.22日、 さきがけ・民主の幹部が会談、復縁の道を探る。 9.27日、新進党幹事長西岡氏、太陽、民主との国会共闘について歩調をそろえていくことを強調。 10.3日、羽田党首、衆院代表質問で「佐藤孝行の入閣は改革への国民の期待に対する裏切り」、「景気低迷の責任は、政府の楽観的な景気判断と経済運営にある。法人税・所得税の減額、土地税制の改革など速やかに実施すべき」、「今回の行革は、単なる数あわせ」「政府の財政構造改革法案は、構造改革の名に値しない」。 10.21日、小沢、菅、羽田の3党首が会談。 10.31日、党勢不振の責任を問うために鹿野道彦元総務庁長官が党首選に立候補することを表明した。これに対し小沢は臨時国会の会期中であることを理由に党首選への立候補の意思をなかなか明確にしなかった。 11.7日、太陽、民主両党などの国会議員による野党結集を目指す懇談会の初の世話人会を開催(世話人会は羽田、鳩山、畑らが発足)。 11.28日、大蔵省の財政・金融分離問題で、施行期日を2001年までとする方針を確認。公的資金投入を前提にした、金融システム安定化緊急対策案をまとめる。 11.28日、公明(藤井富雄代表)が常任幹事会で来年夏の参院選の比例区を独自で戦う方針を決めた。 12.5日、羽田、細川、菅の3者会談で、「懇談会」を軸に、今後とも野党結集路線を進める方針を確認。 12.9日、太陽、民主、新進の3党欠席のまま預金保険法改正案が衆院本会議で可決。 12.17日、羽田、細川、太陽党と細川グループなどによる統一会派の年内結成を目指すことで一致。 12.18日、新進党首選挙。結果は小沢が230票対182票で鹿野を破った。太陽党は野党結集を行う上で都合の良い鹿野道彦が当選することを望んでいたが、鹿野は小沢に破れる。羽田、細川、鳩山3者会談、今後も新進党にも野党協力を呼びかける必要があるとの認識で一致。 党首に再選された小沢は19日、新しい党体制づくりに乗り出し、党内の旧公明党グループ「公友会」の神崎武法代表幹事(党総務会長)、旧民社グループ「民友会」の中野寛成会長(党国会対策委員長)と相次いで会談した。小沢は党の結束を固めるためそれぞれの会を解散するよう求めた。中野会長は受け入れる姿勢を示し、神崎代表幹事も応じる方向となった。一方、「公明」は20日、党の拡大中央委員会で来年の参院選比例区は新進党とは別に、公明として独自に臨むことを決めた。 12.19日、太陽、細川グループ、民主改革連合、次期通常国会までに統一会派を結成することで合意。12.24日、「政党連合推進懇談会」の会合。 12.25日、小沢は突然、公明の藤井富雄代表に参院の旧公明党議員を「分党」して公明に合流させるべきだとの考えを示し藤井代表も分党に賛成した。小沢はこの合意に伴い、新進党の解党―保守新党結成に踏切り、準備に着手した。小沢は解党することを決断。 12.25日、細川は、太陽党や民主党と接触を続けてきたが、依然無所属として活動を行ってきた。しかしやはり政党助成法上の規定で年末までに結党することを迫られていた。そこでようやく12月25日になって、衆参合わせて5人という助成が受けられるぎりぎりの議員数で結党することとなった。そもそも羽田と細川は羽田が新進党を離党する際に行動をともにすることを検討した程に近い関係にあり、遠くない将来において両党が合同することが予想される。 12.25日、太陽、参院の3人が、民主党・新緑風会に合流(参院の太陽党は解散、しかし3人の太陽党籍は残す)。細川ら、衆参5議員「フロム・ファイ ブ」結成で合意。 12.26日、細川護熙が新党「フロムファイブ」を結党。 12.27日、新進党が衆参両院議員総会を開き解党を正式決定し、新進党は3年余りでその歴史に幕を下ろした。そして自民党より右寄りと言われる小沢一郎率いる自由党(54人=衆議院42人、参議院12人)、旧民社党系の中野寛成率いる新党友愛(23人=衆議院14人、参議院9人)、旧公明の衆議院政党である神崎武法率いる新党平和(37人)、旧公明の参議院政党である黎明クラブ(18人)、新進党崩壊の引き金を引いたともいえる鹿野道彦率いる国民の声(18人=衆議院15人、参議院3人)、そして長老格の小沢辰男率いる改革クラブ(12人=衆議院9人、参議院3人)の6党に分かれた。 12.29日、羽田、細川、鳩山、「公明」の藤井富雄代表と会談・野党結集に向けた連携を要請。 12.30日、太陽、フロム・ファイブ、国民の声の間で新・新党結成に向けた本格協議を開始することで合意が成立している。注目すべきは、その前日の29日に羽田、細川、鳩山が「公明」に対して野党結集に向けた協力を要請していることであろう。羽田の言う「太陽党の発展的解消」も射程内に入ったと思われる。 |
(私論.私見)
社会党、新党さきがけの連立離脱により、少数与党政権となった羽田内閣は、1994年6月23日、わずか65日で内閣不信任案を前にして総辞職した。代わって、6月29日、村山富一社会党委員長が首相に指名され、自民、社会、さきがけの3党による、連立政権が発足した。自民党にとっては、約11ヶ月ぶりの政権復帰であった。
自民党は、1993年の衆院選後、宮沢に代わって、河野洋平を総裁に選出していた。また、政権を失った反省から、党の体質の変革が試みられ、その柱として、派閥解消が唱えられた。実際に、派閥事務所の閉鎖の申し合わせが行われ、マスコミは、各派閥に「旧」の文字を付けることにしたが、この派閥解消は表面的なものであり、実質的に派閥の活動は続けられた。自民党が短期間に政権復帰を果たしてしまったことで、自民党の派閥解消をはじめとする体質改善は実行されることなく、立ち消えとなる。
村山連立政権は、1996年まで続くが、その間、1995年10月に、河野に代わり、経世会の橋本龍太郎が総裁に就任した。そして、村山内閣の後を受けて、1996年1月11日、2年半ぶりに自民党首班による、橋本内閣が発足した。経世会にとっては、竹下以来、2人目の首相であった。この年の10月、小選挙区比例代表並立制による、初めての総選挙が行われ、自民党は過半数には届かなかったものの、勝利し、選挙後の11月に発足した第二次橋本内閣は、3年3ヶ月ぶりに自民党単独政権になった。この時、経世会は88人で、三塚派86人、宮沢派73人を抜いて、党内最大派閥に復帰していた。
1998年7月12日の参議院選挙で、自民党は敗北し、橋本首相は退陣する。これは、橋本内閣が、景気対策よりも財政再建を優先させ、消費税の5%への引き上げ等の政策を進めたことにより、景気が失速し、有権者の支持を失ったためである。経世会は、総裁選に、会長である、小渕恵三の擁立を決め、当時、幹事長代理だった野中広務らが、多数派工作を行い、優位に立った。7月24日の総裁選には、小渕、経世会を離脱した梶山静六、三塚派の小泉純一郎の3人が立候補し、小渕が選出された。小渕は、宮沢以来5年ぶりの派閥領袖の総理総裁となった。
「小渕勝利の背景には、経世会という、党内最大派閥の全面支援と、加藤紘一、山崎拓ら、『ポスト小渕』を狙う、他派閥領袖の思惑、内閣、党のポストに就きたいという陣笠議員の心理が支持の広がりを生んだ。」(1)小渕内閣の誕生は、こうした点で、同じ経世会でも、行政改革を掲げ、「自民党再生の切り札」として、派閥横断的に支持を受けた橋本内閣の時とは異なり、名実共に、「経世会支配」の復活であったといえる。
小渕は、1999年9月の総裁選でも、加藤、山崎を破って再選を果たすが、翌2000年4月2日、脳梗塞で倒れる。小渕内閣は総辞職し、4月5日、森喜朗が後継総裁に就任した。「森総裁誕生」の経緯は、小渕が倒れたことが、突然の出来事だったとはいえ、総裁選等、必要な手順を全く踏んでおらず、森や経世会の青木幹雄、野中広務ら「5人組」が談合して決定したものだった。この選出方法は、「密室で選んだ」と批判され、森退陣の際に、「次は、密室ではなく、開かれた総裁選で決めるべきだ。」(2)という党内の空気を醸成し、地方で、党員による予備選が実施されることに繋がる。
「森内閣は、発足当初こそ、41.9%の支持率を得たが、『神の国』発言等、首相自身の相次ぐ失言により、支持率はすぐに下がり始めた。このため、2000年6月の衆院選では、都市部、比例区で自民党は惨敗を喫した。秋には、支持率20%を割り込み、加藤、山崎両氏が、退陣要求を突きつける『加藤の乱』にまで発展した。」(3)さらに、2001年2月10日に起きた、「えひめ丸沈没事故」への対応で、世論の支持を決定的に失い、党内の大勢も、森退陣へと動き、3月10日、森首相は、事実上の退陣表明となる、総裁選の前倒し実施を表明する。
そして、この総裁選では、前述した、森総裁誕生の経緯への批判から、党の地方組織である道府県連が、党員による予備選の実施を強く要求し、結局、広島、山口を除いて、党員投票を行い、その結果によって、各都道府県に3票ずつ割り当てられた地方票が決定されることになった。
総裁選には、経世会の橋本龍太郎、森派の小泉純一郎、江藤・亀井派の亀井静香、河野グループの麻生太郎の4人が立候補した。だが、実際には、橋本が、経世会に加えて、堀内派の支援を受け、それに、江藤・亀井派も決選投票では、橋本支持に回るとみられ、国会議員の数で圧倒的優位に立っていた。
したがって、選挙の焦点は、小泉がどれだけ地方票を獲得できるかであり、実質的に「橋本対小泉」の図式となった。但し、江藤・亀井派が橋本支持に回った場合、国会議員数で、橋本と小泉の差は、約100人になり、地方の予備選で圧倒的な勝利を収めない限り、小泉の当選は絶望的な状況だった。
しかし、予備選の蓋を開けてみると、小泉は、41都道府県で1位となり、123票を獲得したのに対して、橋本が1位になったのは、橋本の地元、岡山、青木の地元、島根、野中の地元、京都など5府県であり、わずか15票の獲得にとどまった。この結果により、小泉の勝利は決定的となり、亀井は本選を辞退し、江藤・亀井派は小泉支持に回り、堀内派も自主投票に方針転換した。そして、2001年4月24日、国会議員による投票が行われ、その結果、小泉は、正式に自民党総裁に選出された。
小泉が、地方における予備選で、「地滑り的勝利」を収めた理由は、財政構造改革などの政策が受け入れられたことと同時に、小泉が掲げた、「脱派閥政治、反経世会」の政治姿勢が支持されたことが大きい。小泉は、この姿勢を鮮明にするために、総裁選以前に就いていた、森派会長職を辞め、派閥も離脱した。また、小泉は、海部内閣時代に、山崎、加藤と共に「YKKグループ」を結成して以来、事あるごとに経世会との対決姿勢をとってきたが、この総裁選では、改めて、派閥政治、経世会支配の打破を訴えた。
「派閥政治、経世会支配の打破」これは、リクルート事件以来、国民が望んできたものであったが、小選挙区制導入による「政治改革」を通しても、実現されることはなかった。そして、自民党の政権復帰後も、何ら変わることなく、経世会支配は続いた。しかし、総裁選が「橋本対小泉」の図式になった時、国民の大半は、小泉が橋本を破って、経世会支配を終わらせることに期待をかけた。それは、一般の国民とはややかけ離れた存在である、自民党員も同じだった。
小泉は、総裁選中、「私が勝てば、総裁選史上で初めて、最大派閥の支援を受けないで勝つ総裁になる。」と語っていた。小泉内閣の誕生は、大平内閣以来続いた田中支配と、それを受け継いだ経世会支配の終焉と言える。
(1)
土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社
(2) 読売新聞政治部 「小泉革命 自民党は生き残るか」 中公新書
(3)
同上
おわりに
1、派閥の弱体化と派閥人事の否定
2001年4月の総裁選予備選は、派閥の組織力が弱まりつつあるという事実を象徴す
る結果となった。元々、予備選でも、小泉よりも橋本のほうが有利と言われていた。なぜなら、
党員全体の65%が経世会の影響力が強い、各種団体の職域党員だからである。
過去をさかのぼると、自民党は党則に基づいて党員投票による予備選を実施したことが、
1978年と1982年の二度あるが、いずれも、経世会の前身である田中派が推した候補
が1位となった。特に、1978年は、現職首相だった福田赳夫が、田中派の全面支援を受け
た大平正芳に敗れたのであり、田中派の職域党員への影響力の強さを見せつけた。
田中派の流れを組む、経世会も、職域票獲得に自信を持っており、総裁選において、影響力
の強い有力支持組織を通じて、職域支部の党員票を押さえようとした。
しかし、予備選の結果は、小泉が、党員票の58%を獲得したのに対して、橋本は30.
2%にとどまり、小泉の圧勝だった。この結果は、「職域支部の締め付けは効かなかったと言
われている。」(1)ように、派閥の影響力の弱体化と、経世会が得意としてきた「組織型選挙」
の崩壊を示している。
小泉内閣の誕生は、確かに、経世会支配を終わらせたが、それは、一時的なものに終わる可
能性も十分あり、本当の意味での派閥政治の解消が実行されるかは、今後も注視していく必
要がある。
だが、小泉が、「脱派閥政治」に取り組んでいることは事実であり、それは、特に人事面で顕
著である。小泉は、経世会を党3役からはずし、閣僚人事でも、これまでの派閥人事を行わな
かった。従来、閣僚人事は、各派閥の推薦名簿から、大臣ポストを配分する「派閥均衡人事」だ
ったが、小泉は、派閥に関係なく、自分が適任と思う人物を選んで組閣を行ったのである。
この派閥人事を否定した意味は大きい。なぜなら、ポスト配分機能は、資金の配分と並ぶ、
派閥の権力の根幹であり、求心力である。派閥が人事に関する権限を失えば、その存在意義
は大きく薄らぐことになる。したがって、派閥人事の否定は、派閥解消への第一歩であると
言える。
2、小選挙区制と派閥政治の解消
最後に、政治改革を目指した、小選挙区比例代表並立制の導入は、完全な失敗に終わった
のかという点に触れたい。これに関しては、「政党本位の政治、政権交代は実現されず、政治
改革で目指していた政治像とは正反対の方向に向かっている。」(2)と言う研究者も多く、
あながち、間違っているとも言えない。
しかし、新制度の下での総選挙は、まだ2回しか行われておらず、小選挙区比例代表並立
制というシステムが、今後、効果を発揮していく可能性は残されている。また、新制度での2
度の選挙において、すでに、政党、政治家の行動と有権者の投票行動の双方に、徐々に変化が
見られるのも事実である。
その変化のひとつは、政党、とりわけ、野党が小選挙区制型の行動様式を取ることで、政権
交代の可能性を作り出した点である。まず、1996年10月の総選挙においては、新進党
が、小選挙区で235人の候補者を立て、比例区と合わせて、合計361人の候補者を立て、
また、2000年6月の総選挙では、民主党が、前回の新進党を上回る、262小選挙区で候
補者を立てて、過半数の議席獲得を目指した。結果的には、政権交代は起きなかったが、中選
挙区制時代の社会党が、1958年総選挙を除いて、一度も定数の過半数の候補者を立てな
かったことと比較すると、この野党の姿勢の変化は、十分、評価に値する。
もうひとつの変化として、選挙において、党首の存在の重要性が、非常に高まってきてい
ることが挙げられる。1996年総選挙では、政権交代を狙う新進党が、小沢一郎党首を首
相候補として明示し、有権者に政権選択を訴えたのに対し、自民党も、橋本龍太郎総裁を前
面に出して選挙を戦った。
逆に、2000年総選挙では、党首のマイナスのイメージが、選挙結果に影響を与えた。森
首相が、自身の度重なる失言により、国民の激しい反発を買ったため、自民党は支持を失い、
都市部、比例区で惨敗した。また、民主党についても、鳩山由紀夫代表に、全盛期の菅直人の
ような人気があれば、選挙結果において、自民党と民主党の差は、さらに縮まっていたと思
われる。
そして、2001年7月の参院選での自民党の勝利は、言うまでもなく、「小泉効果」によ
るものである。事実、小泉を総裁に選んだ自民党議員や、党員たちの投票行動は、間近に迫っ
ていた参院選、さらにその後の総選挙において、誰が、総裁なら勝てるかという判断による
ところが大きい。
選挙において、党首イメージが重要になってきている理由は、無党派層の投票行動に大き
く影響するからだと考えられる。朝日新聞の調査によると、「2000年の衆院選の比例区
では、無党派層の15%が自民に、37%が民主に投票したが、2001年の参院選では、無
党派層の27%が自民に投票したのに、民主には20%しか投票しなかった。」(3)この結
果は、無党派層の票が、森首相のときには、民主党に流れていたが、小泉首相になって、今度
は、自民党に流れたことを、よく表しており、党首の存在が、いかに選挙結果に影響を与える
かを物語っている。
小選挙区比例代表並立制における、党首イメージの重要性。ここに、自民党の「脱派閥政
治」へのヒントがあるように思われる。党首によって、選挙結果が、大きく左右されるとなれ
ば、必然的に、党首(総裁)の権限、リーダーシップは強化されることになる。前述したように、
1996年総選挙は、総裁である、橋本を前面に出して戦った、自民党は勝利したが、このこ
とは、選挙後、橋本の総裁としての立場を強化し、持論であった、行政改革を実行する上で、
強力な基盤となった。また、2001年参院選での自民党の勝利は、小泉内閣の政権基盤を
強化し、小泉が掲げる、構造改革の推進力となっている。
また、党首のイメージが重要となれば、それは、総裁の選出過程の透明性に繋がる。従来の
ように、派閥の論理や、一握りの人間だけで「密室」で総裁を決めていては、もはや、選挙に勝
てないことは森首相によって実証された。このことは、総裁選の在り方そのものを変えるか
もしれない。これまでは、総裁選こそが、派閥の最大の存在意義、究極の目的であり、派閥の
合従連衡で総裁選の結果は決まった。しかし、そのようにして、総裁を選ぶことに対しては、
いまや、国民ばかりか、地方の党員までもが反対であることが明らかになった。今後は、開か
れた総裁選を通じて、派閥とは全く関係なく、国民や党員に支持される人物を総裁に選ぶべ
きである。そして、このことは、派閥の存在価値をなくし、派閥解消にも繋がるだろう。
「近年の日本は、いわゆる無党派層が5割を超える状況であり、特に、都市部において、与
党としての利益配分の力のコントロールを超えるような投票動向が出現する可能性は絶え
ず存在する。」(4)言い換えれば、これは、政権交代が十分起こりうる状況だということが
出来る。そして、この状況の下で、自民党が、脱派閥政治を進め、民主党をはじめとする野党
が、常に、政権を担当する態勢を整え、自民党に対案を提示して、野党としての機能を果たす。
そうなって初めて、日本政治が、国民の望む形に近づき、「政治改革」が実現したと言えるの
ではないだろうか。