細川政権論考

 (最新見直し2009.9.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2004参院選で民主党が躍進した。れんだいこの歴史眼によれば、「細川政権以来苦節十年の快挙」のように映る。しかし、日本左派運動は、民主党に対し、はっきり云うかどうかは別にして「徹底的な反労働者的な政党、第2自民党、労働者の敵」規定を弄んでいる。この観点は細川政権に対してぶつけられたものの引き写しである。つまり、その源流は細川政権論にあると云える。ならば、細川政権とは何であったのかを解析せねばなるまい。

 ところが、れんだいこは、「理論の貧困と云うべきか臆病な知性と云うべきか」まともな細為替違憲論に出くわしたことが無い。日共系の渡辺治なる者が何やら書き付けているようであるが、漏れ伝わる観点からして読むだに値しないとして目を通していない。いずれ決着つけようと思う。「財界が仕掛けた政権選択選挙(1)「二大政党制」狙いの“前史”」なる見解も出されている。

 とりあえず、れんだいこ流の細川政権論試案を提供して世の識者と見解のすりあわせをしてみたいと思う。

 2004.7.15日 れんだいこ拝


【「さざなみ通信」誌上での吉野氏とのやり取り】
 れんだいこ(当時れんだいじのハンドルネーム)は、かって細川政権論を廻って議論したことがある。「さざなみ通信」での吉野氏との遣り取りがそれである。議論は途中で打ち切ったが、やはりここを避けては通れない。この時の遣り取りをサイトアップし、もう一度愚考してみることにする。

 まず、れんだいこが次の一文を提供した。


【題名/社会党凋落をどう読むべきか】(れんだいじ、1999/6/21)
 社会党凋落は真夏の夜の夢の椿事であった。社会党系譜の諸党は今では骨董的でしかなく、これを論ずる現実的な価値はない。とはいえ、運動論的に見てその没落の原因を尋ね、「他山の石」としての教訓を得ておくことは大事であると思われる。そういう観点から以下、私なりのスケッチをお伝えして批評を待ちたいと思います。

 社会党崩落の第一幕は、皮肉なことに89年7月の参議院選挙での大躍進から始まる。戦後は自社二大政党による「55年体制」がシフトされ、この間しだいに公明党と共産党の進出が見られるようになってくるという変動はあるものの、世界的な政治潮流にあっては珍しく安定的な政党政治の枠組みとして機能してきた。しかし、80年代に入ってさすがに長期化の腐敗が噴出し始め、あわせて社会党の長期低落傾向が目立ち始めた。このような中で社会党は土井たかこという史上初の女性党首を据えることで劣勢挽回を図ろうとしていた。ちょうどこの時消費税が浮上し、その導入の是非を最大争点とする選挙が争われることになった。この選挙を社会党は「山を動かそう」というキャッチフレーズーのもとに果敢に戦い、これが見事奏功し、参議院での与野党逆転を招くほどの大戦果を得た。

 運動論的に見た場合、この経過は次のようにいえたのではないか。労働者大衆は、単に消費税反対で社会党を支持したのではなく、久しぶりに見せる「山を動かそう」という土井党首の戦いの呼びかけに共感を寄せたのではないのか。すでに大衆は永田町の裏取引政治に飽き飽きさせられており、「何も変わらない」絶望と政治不信に沈殿していた状況下に彼女の呼びかけは新鮮であり、その言葉に信を置いたのではないか。私は、そういう願いが託された結果の社会党の大躍進であったように思料している。なお、名キャッチフレーズが戦いに有効な道具となることが証左された点も記憶に値する。

 さて、いただくものはいただいた後、社会党がどう動いたか。これが次の舞台となる。第二幕は、細川連立政権の誕生をピークにして推移する。この当時自民党は派閥政治の長患いで満身創痍になっており、求心力と制御能力を失った由々しき事態を迎えていた。そのような背景の中から92年になって細川党首の「日本新党」、武村党首の「新党さきがけ」、羽田党首の「新生党」が生まれた。これらの党はいずれもかっての自民党議員を主力としつつ野党勢力をも巻き込んでいたことに特徴があり、その意義は名前の通りそれぞれに新政治勢力の結集を目指していたことにあった。これらの潮流はいずれも「55年体制」に対する造反であり、とりわけ自民党議員にとっては政権与党からの離脱であったという点で評価されるべきであろう。いずれの新党結集者にとっても政治的な賭けであり、捨て身の出奔的な政治行動であったであろう。今日の地点から総括すれば、まさにこの時期こそ「55年体制」に終わりを告げる鬨の声であったということになる。

 なお、これら新党の特徴として旧田中派の動きが注目される。各新党執行部はいずれも旧田中派の面々が占めており、自民党もまた政権中枢を旧田中派が担っていたことを勘案すれば、旧田中派は二分三分しながらなおかつそれぞれが党内の主流派を形成するという旺盛な生命力を見せているということになる。余談ではあるがこの傾向は今日も変わらない。さらに余談ではあるが、良し悪し抜きにしてこの政局に呼応した共産党議員は一人もいない。

 さて、この政界再編成の渦潮に社会党が交合して、93年8月細川連立政権が誕生するという政局の新展開が創り出された。社会党委員長土井たかこが衆議院議長におさまるなど、社会党が絶頂期の階段を登り始めた瞬間であった。この結果を自民党サイドから見れば、自民党は結党以来初めて政権から下野させられるという最大の政治的危機に直面したということになる。まさに「55年体制」の崩壊の瞬間であった。これが細川政権登場の政治史的意義である。

 ところで、これ以降社会党がどう動いたか。ここが本稿のテーマである(ここに至るまでの経過として最小限以上のことが踏まえられておかないと意味をなさないので紙数を費やした。この投稿は長くなりそうだなぁ)。社会党はこうして政権与党の立場にたつことになった。与党とは政権維持を責任とし使命とするが、果たして社会党はどう動いたか。何と!、この社会党は与党政治を担う能力と気概に欠けていたということよりも、それ以前の問題を露呈する。骨の髄まで野党根性に汚染されており、政権維持のために汗を掻くよりも政権与党の地位をいつ投げ出しても良いかのような日和見に終始し続けたのである。こうして細川連立政権は呉越同舟政治の波間に漂うことになった。

 ここから我々は何を学ぶべきか。社会党は政権に近づけば近づくほど幼稚な行動を取るということがわかった。考えてみれば万年野党として自民党政策のケチ付けとおこぼれに終始してきた政党であり、与党的責任は能力不相応な苦痛以外の何物でもなかったというわけである。わかりやすく言えば、世上にもよく見受けられるええ格好しいの楽チン主義者がお似合いだったということである。

 かくして、94年5月社会党は連立政権から離脱した。こうした経過を通じてやはり自民党でなくては駄目だという国民的気分が醸成されていくことになる。こうして久しぶりに浮上した社会党支持の大票田の多くは再び政治不信として政党離れに向かうことになった。一部は自民党に一部は共産党に流れていったと推測される。

 なお、この時共産党がどう反応したかも考察されるに値する。「よりましな政府」を今ごろ言うのであれば、何より細川連立政権こそ「よりましな政府」の一里塚ではなかったのか。それとも何か、共産党自身が与党の一部に組み込まれない限り「よりましな政府」にはならないという意味なのか。反共シフト連合であったという評価は問題である。自民党のそれよりもどうなのかが問われねばならない。何より自民党を野党化せしめている連立政権である点で最大の功績持ちの政権ではなかったのか。「よりましな政府」を本気で願うならこの政権は一歩譲って「よりましな」ものを引き出すことが可能な双葉の芽を持つ連合政権ではなかったのか。確かに共産党にお呼びはかからなかったにせよ、この連合政権を第二自民党呼ばわりしてその意義を減殺させたことは犯罪的でもあり、党利党略が過ぎてはいないか。

 結果的に、不破執行部はこの連合政権を見殺しにするというよりは倒閣に精を出すところとなった。こうして細川政権は右と左から挟撃されることになった。この問題を究明することはかなり意味深である。日本左翼の一般的常識でもあるが、共産党は過去大衆闘争の昂揚期を迎えるとここ一番のところから運動鎮静化に乗り出すという知られた史実があり、苦い経験を持つものも少なくない。この度の細川連立政権に対して取った態度もまたそのようなものとして記憶されるべきではなかろうか。

 この経過を見れば、日本共産党の「よりましな政府」構想も推して正体が知れることになる。不破執行部もまた社会党がそうであったように批判政党として存在したがっているのであり、本気で自民党政治との決別は望んではいないのではないか。チェックマンとアドバイザーとオンブズマンとコメンテーターとして棲息しようとしているのであって、この域から出ようとする試みに対しては左から敵対する癖があるのではないか。労働者大衆はこのことを阿吽の呼吸で知りつつあり、深い溜息に沈潜しているのではないか。

 そうは思わないという方にあらかじめ課題を与えておこう。社会党が与党経験時に見せた安直な態度を共産党ならそうはならないという根拠を示してみた見たまえ。現に党内の状況はどうなんだ。新時代を切り開けるだけの気概と能力と責任を引き受けようとする体を張る作風が存在するのか考えても見よ。現に党内に無いものが政権に入ったら急に生まれるというような奇跡信仰は良くない。政権を取るということは新たな政策を生むということに意義がある。新しい政策は、敵対政党との命がけの闘争を覚悟することなしにはできない。その経過は鬼ごっこでもかくれんぼでもチャンバラでもない。大衆的な真剣白刃の綱渡りである。

 さて、前語りが長くなったが、第三幕はあっと驚く為五郎的事態の勃発から始まる。その6月村山自社政権が登場した。何のことはない、すったもんだの挙句の「55年体制」復活の姿でもあった。その歴史的意義は、自民党の政権与党復帰にある。下野させられた自民党にとって政権復帰は執念であった。時が長引けば長引くほど不利になることを知っている彼らは、この執念を如何にして結実させたか。先の社会党の細川連立政権離脱時において既にシナリオができていたということになろうが、ええ格好を社会党に譲り実を自民党が取るという苦肉の離れ業を演じ、社会党がその仕掛けにまんまと乗った。つまり、村山政権誕生とは、自民党の与党復帰の権謀術数戦の勝利の瞬間であり、社会党の正体が露になったツーショットシーンでもあった。労働者大衆から見れば、政界の複雑怪奇さというよりは社会党の馬鹿さ加減にびっくりこいたというべきであろう。

 この経過に対する政治通の興味は次のことにある。自民党の最大危機を誰が助け起こしたのか? 何のことはない社会党左派系であった。万事窮地のときこそ正体が露になる。なるほどそうか。戦後の「55年体制」の正体というのは単に自社の協調的対立だったのではなく、自民党と社会党左派が結託した裏取引政治であったのか! そういう姿があぶりだされたというわけだ。馬鹿を見たのは社会党右派の連中。これまで、社会党左派のマルクス主義的イデオロギー体質と一線を画し自民党と是々非々の協調路線を模索していた右派こそが本来その指定席券を手にする資格があったと云えよう。事実はさにあらず。その右派がとんびの油揚げ取りにあわされたというへんちくりん。

 労働者大衆にとってこれらのことがまずもっての失望であったが、次の失望を招くまでにそう時間もかからなかった。社会党は、安保防衛・治安等々矢継ぎ早に政策綱領の変更に乗りだし、財政政策等においてもなし崩し的に自民党政策に歩み寄っていくことになる。もとをただせば社会党大躍進と政局浮上は消費税導入阻止を掲げて果敢に戦ったところから始まる。あろうことか今や消費税の安定化と税率アップの道さえ開こうとする協調体制を見せ始める。この時点で大衆は怒ることさえやめた。向けることさえ厭うあの白々とした視線を漂わせることになった。(これを解きほぐすのはややこしいゾ)

 第四幕は、同年暮れの11月「新進党」の結成により幕が開く。その意味するところは、社会党裏切りの政界余波であり、もはや帰る波止場を持てない者同士の大同団結であったように思料される。表面的には細川・海部・羽田等、総理経験者複数を擁する本格的な影響力を持つ新党として結党されたが、自社連合には及ばない。にわか仕立ての寄り合い所帯であり、いずれ破綻の予兆を感じさせる新党でしかなかった。社会党の取りこみに失敗した失意を漂わせる中での船出であり、落日の陽射し以上のものではなかった。

 マスコミもまたこの新進党攻撃に一枚噛むことになる。その由来は別途考察されるに値するが、マスコミは田中角栄及びその系流に即応性のアレルギーを植え付けられており、この時も幹事長小沢一郎に集中砲火を浴びせる。こうして小沢は今に至るも「悪の権化」というピエロ役を背負わされることになる。余談となるが、いったい金権政治というものの起源に田中角栄を措定するという論拠は馬鹿馬鹿し過ぎはしないか。彼が金権能力により長けていたことは事実としても、金権的であるということは戦後の政治・経済・選挙構造の総体としての仕組みから派生する現象であり、少なくとも個人を元凶視する論理はナンセンスではないか。とりわけマルキストにあっては、単に政敵を倒せば良いというのではなく、政敵を倒す論理そのものもマルクス主義的であらねばならないのではないのか。

 さて、以降現在までに至る経過が第五幕である。新時代のシナリオにはいくつかの選択肢があるのであろう、離合集散が繰り返されている。今後どう展開していくにせよ、自由党、民主党の動きも目が離せなくなった。公明党の動きは常に不気味でさえある。この党は今後共産党と正面からぶつかりあうことになることを知っている。皆さん大丈夫かなぁ。さて、最後に社会党の総括をしておこう。労働者大衆は一連の劇場で演じた社会党役者の姿を見終えた感がある。舞台のかぶりつきから一度去った大衆を呼び寄せることはもはや困難であろう。

 今読み直してみても、れんだいこのこの時の観点と現在の観点はいささかも変わらない。この一文に吉野氏が次のようなレスを付けた。


【題名/細川内閣の性格について>れんだいじさんへ】(吉野傍、1999/6/24)

 れんだいじさんの「社会党の凋落をどう見るか」(「日本共産党の理論、政策、歴史」欄に掲載)に反論させていただきます。まずは、少し長いですが、れんだいじさんの投稿から引用させていただきます。

 「なお、この時共産党がどう反応したかも考察されるに値する。『よりましな政府』を今ごろ言うのであれば、何より細川連立政権こそ『よりましな政府』の一里塚ではなかったのか。それとも何か、共産党自身が与党の一部に組み込まれない限り『よりましな政府』にはならないという意味なのか。反共シフト連合であったという評価は問題である。自民党のそれよりもどうなのかが問われねばならない。何より自民党を野党化せしめている連立政権である点で最大の功績持ちの政権ではなかったのか。『よりましな政府』を本気で願うならこの政権は一歩譲って『よりましな』ものを引き出すことが可能な双葉の芽を持つ連合政権ではなかったのか。確かに共産党にお呼びはかからなかったにせよ、この連合政権を第二自民党呼ばわりしてその意義を減殺させたことは犯罪的でもあり、党利党略が過ぎてはいないか。結果的に、不破執行部はこの連合政権を見殺しにするというよりは倒閣に精を出すところとなった。こうして細川政権は右と左から挟撃されることになった」。

 以上の議論をまとめれば、要するに、細川連立政権は、自民党政府に代わる「よりましな政府」になりうる可能性があったにもかかわらず、共産党はセクト主義的対応に終始して、せっかくの細川内閣を見殺しにした、ということになります。しかし、はたして細川連立内閣はそのような「よりましな政府」になりうる政権だったのでしょうか? 自民党政権を倒し、野党化させたのが最大の功績だとれんだいじさんは言いますが、それ自体は功績でも何でもありません。問題は、政権を倒すことそのものではなく、どのような方向で倒すかです。自民党政権を倒して、自民党でさえできなかった悪政を実行するのだとしたら、そのような政権は「よりましな政府」どころか、「より悪い政府」でしかありません。

 その点を考慮するなら、そもそも細川連立政権が何を使命として成立した政権であったかを思い出す必要があります。この政権は何よりも「政治改革政権」として出発しました。この「政治改革」を断行するという一点を除けば、基本的に自民党政治を受け継ぐということを政党間で合意した連立政権です。つまり、「政治改革」をやる以外は、基本的に自民党と同じなのですから、この政権の性格のいっさいは、この「政治改革」の中身によって規定されます。

 この「政治改革」とはいったい何でしょうか? 「政治改革」は当初、リクルート汚職事件をはじめとして、戦後何度も繰り返されてきた汚職事件など政治の腐敗を一掃するということが課題でした。ところが、小沢一郎のヘゲモニーのもと、「政治改革」の意味はしだいに変質し、それはいつしか、中選挙区制を廃止して、小選挙区制を導入するということにすり変えられていきました。当時もその後も小沢自身が繰り返し主張したように、この「政治改革」の根本的目的は、政治腐敗を一掃することではなく(その名目自体は、その後も続きましたが)、戦後のぬるま湯構造を打破すること、直接的には、小選挙区制の導入によって社会党を解体して、戦後民主主義的な抵抗勢力を一掃し、次に自民党を2つに割って、保守2大政党制を実現し、この2大政党の競い合いによって、さまざまな帝国主義的改革(自衛隊の大ぴらな海外派遣や憲法改悪)を断行していくということです。

 このような政治的課題は、小沢の妄想の産物ではなく、当時、日本の財界やアメリカ政府筋を中心にして、繰り返し日本の支配層に対して要請されてきたことです。この要請に対して、政府自民党は、自らの支持基盤になお根強く存在する平和主義的な志向などに制約されて、尻込みを続けてきました。小沢は当初は自民党を牛耳って、こうした改革を断行しようとしましたが、実際には現在の自民党には不可能であることを、湾岸戦争での対応などから判断するとともに、ちょうどリクルート事件などで自民党政治への批判が猛烈に起こってきたのを利用して、自民党を飛び出して新生党をつくることで、外からやることにしたのです。

 このような動きにちょうど呼応するように、別の方向からやはり自民党政治に対する不満が渦巻いていました。その不満とは、自民党政治による農村保護や自営業者保護の「利益政治」に対する、都市の中上層市民の不満です。俺たちの収めている税金が、農民や自営業者や土建業者の懐をうるおすのに使われるのはごめんだ、もっと市場原理を活用し、能力のある者がアメリカ並に豊かになれるような社会にしよう、競争力のないやつ(弱者)を保護するのはもうやめよう、という声がマスコミと大企業サラリーマンなどから出てきたのです。この声を吸収して急速に成長したのが日本新党であり、その政策的中心課題は、規制緩和、公営部門の民営化、自立自助、市場開放、直接税・法人税減税、消費税増税、といった新自由主義政策です。

 つまり、細川内閣とは何よりも、帝国主義改革をめざすグループと、新自由主義的改革をめざすグループとの政治的ブロックだったのです。この二つのグループこそが、細川内閣の基本姿勢を決定したし、したがってその政策も決定しました。この細川内閣が実行した主要な政策が、小選挙区制の導入と、米の輸入自由化、消費税増税(中途半端なまま倒閣しましたが)であったことは、このことを如実に示しています。

 したがって、細川内閣は、自民党政治を右から改革することを目的とした政権であり、このような政権に対し共産党がきっぱりと対決姿勢をもって臨んだことは、絶対に正しかったのです。細川内閣は、左右から挟撃されたのではなく、細川内閣こそが最も右に位置する政権だったのです。

 問題は、このような新保守主義政権に、あろうことか社会党が加わったことです。このような奇妙な事態は、当時における「政治改革幻想」、自民党政権でなければとにかく何でもよいという雰囲気(あの本多勝一や佐高信でさえ、自民党でなければどこでもよいと絶叫していました)、右から左までのマスコミの熱狂、などによって、そして何よりも社会党内部における右派議員の台頭によってもたらされました。社会党のこの入閣は致命的であり、社会党の崩壊をもたらしました。この内閣にいかなる幻想も持たず、きっぱりと対決した共産党は、当時は苦戦しましたが、その後世論の幻想がさめると、躍進を開始しました。当時正しかったのは誰か、今でははっきりしています。

 もちろん、当時の共産党指導部は、細川内閣の階級的本質について正しく理解しておらず、「第2自民党」などという的外れな批判をしていました。細川政権は「第2自民党」などではなく、自民党を右から乗り越える帝国主義連合だったのです。以上の政局の流れと背景については、渡辺治氏の『政治改革と憲法改正』(青木書店)をお読みください。非常にすばらしい力作です。

 で、その後、自民党は、野党の苦汁を味わうとともに、与党に復帰してからも、95年参院選での新進党の躍進などによってすっかり肝をつぶし、帝国主義的改革と新自由主義改革に邁進するようになりました。こうして、かつては深刻であった、自民党主流と小沢派との対立はますます小さくなり、かくして、昨年から今年にかけてついに「自自連合」(野中ー小沢連合)が成立したのです。

 現在、共産党は、細川内閣時の原則的な姿勢を忘れ、そのときの社会党と同じく、新自由主義政党(当時は日本新党、現在は民主党)と組んで「よりましな政権」ができるかのような幻想を抱いています。この幻想は遅かれ早かれ打ち砕かれるでしょう。しかし、社会党のように没落してから、自らの誤りに気づいても遅いのです。ですから、今から警鐘を鳴らし、社会党の二の舞にならないよう、声を大にして訴えなければならないのです。

(私論.私見) 吉野見解考1

 今読み直してみて、吉野見解は、日本左派運動における日共内左派系理論の代表的見解であることが分かる。概要「細川内閣こそが最も右に位置する政権だった。自民党を右から乗り越える帝国主義連合だった。これと毅然として闘った共産党方針は正しかった」としており、イデオローグとして渡辺治を紹介し、「政治改革と憲法改正」(青木書店)を「非常にすばらしい力作」と持ち上げている。吉野氏は今もこの見解をますます確信しているのだろうか。

 これに対して、れんだいこは次のレスをつけた。


【題名/細川内閣の性格についての所感】(れんだいじ、1999/6/26)
 吉野さんの早速のご注進読ませていただきました。吉野さんの先日の代議員選出の各種方法についてのご教授、勉強になりました。共産党の場合いつ頃から現在の選出方法が確定したのか興味がわきますので、さらに教えていただければなおありがたいです。

 さて、「細川政権をどう見るべきであったか」ということですが、これは当面は水掛け論になってしまいそうです。私はそのように理解しているということであって、認識の当否のほどはいずれ歴史が降って一段落した際にならなければ明確にならないと思います。今は只中ですから喧喧諤諤でよろしいのではないでしょうか。ちょうど反対の見解になっていますので、いろんな方から賛否両論していただけたら有益なのではないでしょうか。

 私は、こういっては何なのですが「カン」のようなものをベースにしており、細川政権の個々の動きを詳細に追跡したわけではありません。こういう言い方は通常は無責任的な言いまわしのように受け止められると思いますが、ここではかなり積極的・肯定的な意味で使っています。「カン」とは、物事を嗅ぎ取る臭いのようなものであり、学者の百万言の言葉より正確な場合もあるという思いを込めて表現しています。

 例えば、知らない人と出会った場合に、その人がどういう人であるのか最初に受け止めた印象が、意外に正確な場合があるという場合の例に似せて「カン」というものを評価しています。さらに言えば、近づきすぎてとらわれ過ぎることを「木を見て森を見ず」の例えで表現することがありますが、この例の場合、森を「カン」として考えていただければ良いかと思いますが、「カン」を頼りに部分に分け入った方が道にまよわなくてすむということもあるわけです。庶民的な知恵というものはたいていの場合そのようなものとして働いているように思います。マルクス主義における「大衆から学ぶ」必要のいわれとは、大衆は表現能力において劣るものの、えてして事柄の本質をつかんでいる場合が多く、単に指導される対象という以上のものを持っており、逆に大衆から学ばねばならないこともあるという警句としての意味が込められているのではないでしょうか。

 私の細川政権肯定評価論が大衆の知恵を代弁したものであるのかどうかは一応別です。あくまで私の「カン」のようなものであり、私も大衆の一人であることからして大衆の気分の一認識の仕方であることには違いないのですが、吉野さんと私のどちらの見解が正しいのかをめぐって机上の結論を出すには及ばないと思います。要は、私の先の投稿のような捉え方もあるという程度のいろんな見方の一つとして受け止めてくだされば良いかと思われます。

 ちなみに、先日オウム関連のHPを初めて見ましたが、マスコミに出てこないいろんな情報が書きこみされていました。なるほど連中はああいう世界観・社会観でマインド.コントロールされているんだなぁということがわかり、興味深くもありました。そう、私の意見もそういう土俵で興味深く聞き流しして下さった方が良いのかも。事態の客観認識への接近度は実践によって検証される以外になく、渦中においてはさまざまな諸見解が発生するべく複雑に推移しているのではないでしょうか。事態の進展と弁証の進展により否応なく見解は修正されて行くことになり、または修正されていくべきものと心得ています。

 なお、ここで私自身の発言に責任を持つ立場から再反論させていただきます。吉野さんの御注進にも関わらず湧く疑問をお伝えしておこうと思います。細川-羽田政権の経過に自民党よりも右翼的な性格を見るというのは、そうでなかった場合には非常な自民党美化論につながることになりますが、このあたりは認識していただけますでしょうか。逆にいえば、私の細川政権「よりまし論」が間違いであった場合には、細川政権美化論という犯罪的な認識を伝えたことになります。お互いに議論に責任を負うということは怖いですねぇ。HPでの議論の良さは軽い意見の交換の場として活用できるということにしましょうよねぇ。

 さて、細川連立政権は、吉野さんが言うように、確かに帝国主義的な再編成を目指す動きを随所に見せました。私に言わせれば、そのような動きは細川政権がなそうとしたというよりは、官僚機構の背後にいる意思者の指示であり、細川政権のパーソナリティーとは思っていません。したがって、むしろいかにサボタージュしたかを見ておくほうが肝腎かなと考えています。(無責任ですが、この観点から実証するデーターを揃える時間を持っておりませんので、これも「カン」ということにしてください)

 細川政権以降今日までの系譜は、自民党的な綱領の枠組み内においていかにして自民党に代わる新党を樹立するかをめぐってうごめいていると理解しております。今日の政治状況を考えるときに前提にすべきは、今日が時代の変わり目であるという認識です。この変化の時代の対応の仕方として、左翼陣営のだらしなさに規定されてとも言えると思いますが、政権与党の自民党の周辺にこそ活力が旺盛であったのであり、そういう結果として細川連立政権が誕生したという認識をしています。目指すところは「55年体制」に替わる二大政権党政治であり、イギリス的またはアメリカ的な政権交替により、政策の幅を持たせようとしているという普通の読みで良いのではないでしょうか。

 細川政権の方が自民党のそれより右翼的であったとは思えません。それは、ためにする批判であり、むしろリベラルな傾向が強い新党派の結集であったと考える方が素直なのではないでしょうか。例えば、ロシアとの経済交流を深めようとする場合に、旧来の自民党内ではどうしても賛同一致にはならない複雑さを持っており、甲論乙論が飛びかい動きが取れないわけです。こうした時に自民党に替わる有力政党を育成しておき、その政権で事を進めるとかの選択肢が必要なわけです。そういう意図から体制安定的であり、かつ自民党に替わる有力政党が期待されているというのが実際なのではないのでしょうか。

 細川政権を自民党よりも右翼的・反動的な政権と規定した場合、あの奇妙な政権投げっぷりは一体なんだったんでしょうねぇ。新日本帝国主義者はそんなにひ弱な腰砕けな方たちなんでしょうか。そんな帝国主義者が相手なら楽ですねぇ。押せ押せで大衆闘争やり抜いて政権奪取まで一気呵成に向かいたいですねぇ。あれは、素直に読めば、やはり政界に対する殿様的な嫌気でしょぉ。元殿様はそんなに頑張らなくても飯は孫子以下の代まで食えるわけでしょうから、いくら国家百年のためとはいえ、嫌なことが続くと嫌になりますよ。

 注意すべきは、新しい政界潮流に国際的な新世界秩序派の後押しがあるという事実です。私は、このことに関しては今のところ次のように考えています。国際的な新世界秩序派の要請を何もかもアメリカ帝国主義の非道な要請とみなすには及ばないのではないか。単に経済のグローバル化時代の効率化要請としての規制緩和もあるのであって、あるいは環境保全の観点からなされている場合もあるのであって、人民的利益から見て歓迎されるべきことも結構あるのではないですか。戦後の農地開放や財閥解体の例により経済の活性化がもたらされたように、われわれの社会の改良的政策を指示している面もあるのではないかと。それこそ我らが共産党が言うように、大企業有利の官僚統制または規制の網の目が必要以上に張り巡らされており、日本人大衆は従順に受け入れるけども、連中は「オカシイではないか」と言ってる面も多々あるのではないかと思われます。

 へんちくりんなことは、このたびも、またしてもというべきか、内政干渉的とも言える手法で「上」から「外」から「お与え」の改革が進行中なのであり、このたびの「お与え」もまた、人民大衆が対権力闘争により勝ち取ろうとしているのではないことにあります。この背景には、日本の官僚機構の保守性と日本人一般の温和性との見事な調和に対する蔑視とそのことに関するあきれた了解がないまぜにされているのではないでしょうか。

 今読み直してみて、訂正する箇所はない。吉野氏から次のレスが為された。


【題名/いささか疲れ気味>れんだいじさんへ】(吉野傍、1999/6/29)

 最近、長~い投稿を立て続けに書いたので、少し疲れ気味です。活動の方も、自自公による悪法が次から次へと来て、はっきり言って、運動の方もたいへんです。悪法を通す方は、国会で数の論理でやればいいから楽でしょうが、反対する方は、いちいち運動を構築するので、本当たいへんです。それはそうと、れんだいじさんの投稿へのレスですが、いちいち論じていると、またまた長くなってしまうので、2点だけ。 

 れんだいじさん、wrote 「吉野さんの先日の代議員選出の各種方法についてのご教授、勉強になりました。共産党の場合いつ頃から現在の選出方法が確定したのか興味がわきますので、さらに教えていただければなおありがたいです」。私が入党したときにはすでにこの選出方法になっていましたので、いつからかはわかりません。おそらく、結党以来じゃないでしょうか? 少なくとも、戦後はずっとそうでしょう。この点はむしろ、私が知りたいです。

 れんだいじさん、wrote  「細川政権を自民党よりも右翼的・反動的な政権と規定した場合、あの奇妙な政権投げっぷりは一体なんだったんでしょうねぇ。新日本帝国主義者はそんなにひ弱な腰砕けな方たちなんでしょうか」。

 あの政権の中で、一貫して日本の帝国主義的利害を自覚していたのは、小沢派だけです。細川は、その点、まったく帝国主義的指導者として不適格であったと思います。そのような不適格者が首相になったのは、一時的に大衆的人気を獲得したからで、その人気を小沢が利用したからです。小沢一郎はけっして自分が首相になったりせず、あくまでも参謀長として政権を操作することを目的にしており、それはきわめて合理的です。彼は、細川人気を利用して、細川政権をつくって小選挙区制を通し、目的通り社会党をつぶしました。もっとも、当初の予定と違って、小選挙区制→自民党分裂という順序ではなく、自民党分裂→小選挙区制になりましたが。

 その後、新進党を作って自民党に揺さぶりをかけ、自民党をより帝国主義化させ、自自連立として、見事に新保守主義政権をつくりあげました。もっとも、これも当初の予定と違い、正面から新保守主義政党として単独政権を取るのではなく、自民党と連合することで目的を達しましたが。このように、少しづつ当初の予定とは異なる道をとりましたが、基本的には小沢が描いていたような日本の改革構想が着実に実現していっています。

 と いうわけで、簡単ですがレスさせていただきました。これを最後に、しばらく休みます(とかなんとか言って、すぐまた投稿したりして)。 P・S この投稿を『さざ波通信』に送信してから、「お知らせ」欄で、例の党員同志からの非公開メッセージが公開になったという情報を知りました。ということは、しばらくお休みというわけにもいかなくなりました。が、精神的に疲れているので、少しづつレスしたいと思います。

(私論.私見) 吉野見解考2

 ここで、吉野氏は、「小沢帝国主義第一人者論」的見解を披瀝している。日本左派運動内における「小沢帝国主義第一人者論」的見方が根強くはびこっていることが分かる。れんだいこは、この見解に反論を試みようと思えばできぬ訳ではなかったが、このレスに対する再レスはしなかった。

 以上の遣り取りを経て細川政権論に関する議論を終息させた。という経緯がある。れんだいこは、未解明に残したこの議論を引き継ぐ機会を得ぬまま今日まで至った。しかし、2004参院選後の政界流動局面に際していつまでも有耶無耶にできぬことを理解している。そういうわけでステップアップさせてみる。



【日共党中央の細川政権否定論、その後の混迷、現在の観点】
 2004.8.2号「かけはし」に樋口芳広(日本共産党員)氏の「七月参院選と日本共産党の大敗-98年『不破政権論』以来の路線的誤りの根本的総括が必要である-」その他の資料を参照する。観点が全く異なるので、資料のみをいただく。

 1、細川政権時の日共党中央の対応

 不破指導部は、細川政権の特質を次のように見立てている。意訳概要「1990年代初頭、日本資本のグローバル化に対応する新自由主義的改革その他諸々の政策転換を目指す流れが生み出され、自民党にかわりうるもうひとつの保守政党づくりがさまざまな形で模索されていくことになった。財界の一部からもこの流れに期待する声が出ていた。こうして1993年、細川非自民連立政権が誕生した」。かく見立てて、細川政権を第二自民党規定し、「政界総自民党化論」を唱え、徹底批判戦略を採った。

 2、細川-羽田政権崩壊時の日共党中央の対応

 細川-羽田政権が崩壊し、社会党との連合という変則形で自民党政権が復古するが、これについてどのようにコメントしていたのか不明である。「細川-羽田政権が崩壊して良かった論、自民党政権が復古したのはけしからん論」でも述べていたのだろうか。

 3、1995年以降の一時期における日本共産党の「歴史的躍進」について

 1997年の第21回党大会決議で、「いまおこっている躍進の流れは、60年代から70年代前半の躍進とくらべても、いっそう強固な基盤のうえにたったものである」と自負した。その後の流れは、この時の自負が何の根拠もなかったことを明らかにした。

 4、1998年以降、再び長期安定化し始めた自民党政権に対する全野党共闘論の誕生について

 1998年以降、再び長期安定化し始めた自民党政権に対する全野党共闘論(「限定的な政策課題で日本共産党を排除しない野党共闘」)が生まれ始めた。不破指導部は、細川政権時の論拠に何の弁明も無いまま民主党を核とする連合政権論を唱え始めた。1998.4月、21回大会期2中総の不破委員長発言は、「新進党の解体と国会での野党共闘の前進」という事態を受けて、それまでの「政界総自民党化論」放棄し、野党による暫定連合政権の樹立の可能性について触れ始め、民主党との連立政権の可能性について饒舌し始めた。

 れんだいこに云わせればこうなる。肝心なここ一番の細川政権時にはその打倒を呼号した。細川-羽田政権が崩壊し、その流れを汲む新進党が解体したとなるや、野党共闘をぶり返し始めた。政界流動局面ではこれを阻止しようとし、政界旧態依然局面に戻ると流動化を言い始めると云う常にチグハグなこの姿勢を凝視せよ。

 2000.1月、21回大会期5中総で、志位書記局長は、「野党共闘の政治的一致点は現状では大変部分的なものですが、それを大切にしながら誠実に共闘を積み重ねていくならば、さらに一致点が広がっていくことはありうることであり、わが党はそのために力を尽くすものであります」と述べている。不破=志位指導部は、この時期、民主党批判を控え、民主党との政治的一致点の追求に向かった。

 民主党への接近は、日共の右傾化を促進させた。2000年の第22回大会決議における自衛隊活用論、安保廃棄棚上げ論、愛子誕生の際の国会での賀詞決議への賛成、海上保安庁法「改正」への賛成、海上保安庁による不審船撃沈への沈黙など、従来の見解、路線、諸原則を次々と投げ捨てて「現実的対応」を推し進めることとなった。「それは、民主党に連立相手として認めてもらうための涙ぐましい努力だった」。

 この時期、不破=志位指導部は、財界との親疎性を見せている。「穏和式日本改革の提案」を発表し、日本共産党の存在と躍進が財界にとって人畜無害であることをアピールしている。22回大会決議では、「わが党は、この間、幅広い経済人、財界人と懇談や対話をおこなってきたが、そこでは日本経済の現状をたてなおすには、わが党が提唱している経済の民主的改革しか道はないという、広範な認識の一致がえられた」などと誇らしげに述べている。

 2001.5.10日付け赤旗には、志位委員長や穀田国対委員長らが、財界団体の中でも保守「二大政党」づくりにもっとも熱心であった経済同友会の代表幹事たちと懇談し、「日本共産党が『大企業は敵』と考えているのは誤解」と述べて「日本経済の健全な発展」のために「相互理解を深めて真剣に議論して一致点を見いだそう」と訴えた、とある。後に再び財界批判に転じることになるが、。この時期財界との蜜月ぶりをピーアールしていた史実は消せない。

 1999.2月、インターネット上に登場した現役党員による批判的サイト「さざ波通信」は、不破指導部の細川政権時の弁明から全野党連合政権論への転換に当たっての無節操さを指弾し、細川政権時の弁明に基づくべしとして、「民主党が反動的な本質を持った政党であり日本共産党にとって政権共闘の相手にはなりえないことを繰り返し指摘し、不破=志位指導部が1998年以来の路線をとり続けるかぎり、致命的な結果を招きかねない」ことを警告し続けた。

 また、渡辺治氏も、民主党の新自由主義的傾向について繰り返し指摘し、2000年総選挙における日本共産党の後退については、「自民党政権打倒最優先の立場から、民主党が新自由主義改革を掲げていたにもかかわらず、野党共闘を配慮して批判を抑制し、自民党批判に終始した」(『「構造改革」で日本は幸せになるのか?』萌文社、二〇〇一)として、不破=志位指導部の路線に対する慎重だが公然たる批判をおこなった。

 れんだいこに云わせればこうなる。「さざ波通信」編集部も渡辺治なるものも、細川政権時の日共弁明こそ再精査すべきなのに、全く馬鹿げたことに、細川政権時の弁明を是として、全野党連合政権論を非とする立場から日共党中央批判を繰り返している。これをサカシマ見解と云う。批判する観点が逆なのだ。もっとも、宮顕-不破系指導部が仮に全野党連合政権に傾斜していったとしても、有害無益な関与しか為しえないからして迷惑なことでは有るが。

 2003.11月、総選挙の直前、不破=志位指導部が、民主党への批判を本格的に始めた。民主党と自由党の合併による新民主党の誕生という事態を、「二大政党」を目指す財界戦力による政党状況の激変ととらえ、これへの批判を徹底的におこなう、という戦術をとり始めた。

 2003.12月、総選挙での惨敗を受けて開催された22回大会期10中総で、志位委員長は、「わが党以外の野党が、『反自民』をかかげる限りでは野党性をしめすものの、国政の基本問題では自民党政治の枠内にとどまり、その枠組みを打破する立場を確立できていない――こうした二つの側面をもつ過渡的状況」と折衷見解に戻った。

 財界論についても、「この財界戦略が、政党地図――政党状況の変化という形で顕在化したのは解散の直前のことでした。しかし、財界戦略そのものは、昨年来からのものでした」として、財界戦略は2002年から現れ始めていたのに党中央はこれに気づかず的確な分析と批判が遅れたという弁解の下で財界非反論に先祖がえりした。

 2004年の二三大会で、綱領の全面的な改良主義的修正がおこなわれた。これは、自衛隊活用論などを後景に退かせてはいるものの、基本的にこの間の右傾化路線を綱領レベルにおいて確認するものとなっている。

Re::れんだいこのカンテラ時評602 れんだいこ 2009/09/09
 評論家として一定名の売れている森田実が、相も変わらぬ小沢パッシングで悦に入っている。「すべての権力は小沢一郎氏に一元化された。鳩山・小沢並立時代は終わり、小沢氏が唯一の大権力者になった。もはや二重権力ではない。「小沢独裁」だ。小沢氏へのオールゴマスリに抵抗する」、「鳩山氏は小沢氏に大政奉還した。権力は小沢一郎氏に一元化されたのだ。「鳩山」という名の小沢政権なのである」、「重ねていう。新聞は真実を報道すべきだ。権力者におもねってはならない」 などとコメントしている。
 ttp://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C05652.HTML

 この御仁の底の浅さが透けて見えてくる話ではある。この間の歴史的必然の政治ドラマを、小沢パッシング史観、その奥にあるのは角栄パッシング史観であろうが、どんな政権ができても、できようとしていても万年俗説正義の弁舌をして事足れりとする羨ましい知性の御仁ではある。れんだいこに云わせれば、政治闘争の流れが全く見えていない奴である。いずれはっきりさせようと思う。

 れんだいこの処女作「検証学生運動」との絡みで云えば、島-生田らが第一ブントを結成しようとしていた際に、それまでの学生運動の指導者の一人でありながら、その際の主力になり得なかった理由が分かろうと云うものだ。余りに凡庸過ぎる。それでいて知識だけは多いという、この種のインテリの標本みたいな御仁ということになる。

 2009.8.30政変以降の政治情勢の絡みで、評論家が真に言論すべきは、細川政変以来の政権交代の際に見せた社会党の無能、無責任に対して喝を入れ、二度とブザマな真似をするなと言い含めることであろうに。あの時の社会党は、細川-羽田と続く政権の与党側に位置していながら、好んで自民党にすり寄り、元の木阿弥政治に戻してしまった張本人である。これが人民大衆の怒りに触れ、解党を余儀なくされた。

 その流れを汲む社民党に、新政権内で汗を搔け、縁の下の力持ちを目指せと説くのが評論だろう。小沢が、かの時の経験を活かして最後のご苦労をしようとしているとき、小沢パッシングで堪能できるなどというのは、よほどよろづに斜め読みが好きな御仁とお見受けする。一言しておく。

 2009.9.9日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評603 れんだいこ 2009/09/10
 【鳩山新政権誕生前の関心事としての細川政権考】

 間もなく非自民系の鳩山新政権が誕生する。この政権考の前提として、先例である細川政変について確認しておくことにする。この政権がどのように誕生し、どのような経緯で推移し、どのように座礁転覆したのかを見ておくことにする。教訓は何なのか、鳩山新政権が二の舞にならないためには何を為すべきなのかを引き出してみたい。

 ところで、これをネット検索から引き出そうとすると、れんだいこの旧作が出てくるぐらいでお粗末な限りである。これは何も細川政変考に限らずで、真に知りたい有益なものに限って閉ざされている感がある。これは偶然ではなかろう。ネオシオニズム系の研究の際にしばしば現れる現象なので、連中が一枚噛んでいるのだろうということになる。よって、サイトヒットの順位を誇る云々など、本当は馬鹿げたことでしかないということになる。

 さてそういう訳で情況に合わせて急きょ、人に頼むにあたわずで、れんだいこが、サイト「細川政変考」を立ち上げた。まだ読み直しておらず、れんだいこコメントも付し切れておらずの不十分なものでしかないが、流れぐらいは分かるだろう。あるいは流れも、ひょっとして一部の年次がずれているところがあるかも知れぬ。そういうものでしかないが、ないよりはましだろう。どなたかの参考になればと思う。サイトは次の通り。

 「細川政変考」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/minsyutoron/hosokawaseihenco/top.html)

 れんだいこが受け止める教訓は、細川政権を支えた連合与党が、政治そのもののカオス性を認め、自派の思う通りにはならないことを弁える能力、そこから導き出される共同戦線論に立ち切れておらず、「俺が俺が」でツノ突き合わせた結果、下野させられていた自民党の復権力に負けてしまったという経緯に対する反省であろう。

 自民党復権に手を貸したのは社会党であった。それも党内ではやや左派系の連中によってであった。実にお粗末な限りであった。富市は今頃どうしているのだろうか。穴にも入らずのうのうと暮らしおおせているのだろうが、自己批判ぐらいはしておくべきだろう。ここに細川政変考をしておかねばならぬ重要性がある。その末裔の社民党は、今度こそはそういうお粗末な対応はしないであろうが、厳に戒めねばならないであろう。原則を打ち出しつつ和し、立場をキープしつつ影響力を行使することと、原則論を振り回し搔き乱し続け、最後には敵側と内通し呼応するのとは、在り方がまるで違う。どうか、後者にならないように願う。

 「細川政変考」からもう一つ判明することは、2009.8.30政権交代政変は、急きょ起った椿事ではなく、1993.8.9細川連立政権誕生以来の15年有余の苦闘史の結果であるということである。権力の蜜に群がらず、敢えて損の道を選んだ有徳の士の苦節ン十年の歴史の賜物としてもたらされた政権交代であるということが分かるということである。それを知るためにも、様々な角度からの「細川政変考」が必要なのではなかろうか。

 興味深いことは、自民党の格段の劣化である。細川政権の時には捲土重来力を遺していたが、今はない。あっても相当に困難なように思われる。なぜなら党内が大きく割れており、しかもそれが相当に根深いからである。2009衆院選前にも党内に怒号が飛び交ったが、選挙後にも相変わらず飛び交っている。これが建設的な怒号ならともかく、互いが修羅場を見ずには済まない対立だからどうにもならない。

 それはそうだろう。小泉改革は概ね正しかった、途中でやめるから変なことになったとする側と、小泉改革は基本的に間違っていた、過ちは改めるに如かずとする側とが、いくら話し合ってもろくなことになりはすまい。こうなると党を割るしかなかろう。問題を更にややこしくするのは、その両派が両派とも自民党を飛び出る胆力を持たないことにある。両派は、権力の蜜に群がってしか生き方を知らない点でのみ共通している似合いものでしかない。

 この連中には、小沢-羽田グループがかって党を飛び出し、細川政権の中核を担ったような万が一の冷や飯覚悟ができない。そういう連中ばかりが今の自民党に残っており、ああでもないこうでもないと坊ちゃん政治にうつつを抜かしてきた。せいぜいできるのはヤクザ的凄味を利かすことぐらいで、肝腎のオツムが弱い。それはそうだろう現代世界を牛耳る国際金融資本の御用聞きするには能があっては却ってできないだろう。

 そういう訳で、民主党政権は、八百万の神々に授けられた308議席に助けられると同時に、ブっつぶされた自民党の混迷にも助けられて政権が安定する。問題は、三本の矢、五本の矢的結束ができるかどうかにかかっている。誰が支え、汗をかき、誰がかきまぜばかりするのか、これを見るのが当面の関心になる。鳩山がどう動くのか、日本の国父になるのか、宇宙人になるのか、友愛メ―ソンになるのか、こういうところに関心が寄せられることになる。

 日本人民大衆の秘めた能力がここ一番で阿吽の呼吸で発揮され、お陰で政治が面白い時代になった。マスコミ評論士の愚論は既に食傷されているので、新たなコメンテーターが待ち望まれている。ネット言論か、ネットテレビで為になる言論の飛び交う空間を創出して欲しいと思う。これが早急に待ち望まれているように思うがどうだろう。

 2009.9.10日 れんだいこ拝

【渡辺治・氏の「政治改革と憲法改正」(青木書店)の珍論見解考】
 吉野氏によって「非常にすばらしい力作」と評価された渡辺治・氏の「政治改革と憲法改正」(青木書店)を確認しておくことにする。

 渡辺治(わたなべ おさむ )氏の履歴は次の通り。

 1947.3.2日、東京都生まれ。東大法学部四年次に東大闘争を経験。1972年3月、東京大学法学部政治学コースを卒業後、同年4月、法学部公法コースに学士入学。1973年3月、同コースを中退。同年4月、東京大学社会科学研究所助手。憲法学者である奥平康弘に師事。社会主義法の藤田勇のもとで共同研究を行う。治安維持法を研究。提出論文は川島武宜論。東大職員組合の委員長を1年間務めた。1979年10月、東京大学社会科学研究所助教授。

 1987年頃より精力的に著作して行くことになる。『日本国憲法「改正」史』(日本評論社、1987年)。『憲法はどう生きてきたか――平和と自由を求めた40年』(岩波書店、1987年)。『現代日本の支配構造分析――基軸と周辺』(花伝社、1988年)。藤田勇編『権威的秩序と国家』(東京大学出版会、1987年)で、加藤哲郎、戒能通厚、安田浩、田端博邦らと共著する。ここで得られた成果がのちに「企業社会論」に果実していく。従来の日本マルクス主義がとっていた「日本前近代性論」と「国家独占資本主義論」に対して、当時受容されつつあった新マルクス主義国家論を援用しつつ、生産点における資本の制覇が国家的関係を媒介に社会関係を規定していくという「基軸-周辺論」を提起。欧州福祉国家に対する特殊日本的な企業社会/国家論を展開する。また、憲法学では、渡辺洋三らマルクス主義法学者の「二つの法体系論」を批判しつつ、憲法9条を日本の政治経済過程に位置づけて論じた『日本国憲法「改正」史』は憲法学の古典になっている。90年代に入ってからはグローバル化・新自由主義化・帝国主義化をキーワードに、その日本政治へのインパクトを同時代的に論じている。

 1990年4月、一橋大学社会学部教授。『戦後政治史の中の天皇制』(青木書店、1990年)。『「豊かな社会」日本の構造』(労働旬報社、1990年)。『企業支配と国家』(青木書店、1991年)。共著(石川真澄・鷲野忠男・水島朝穂)『日本の政治はどうかわる――小選挙区比例代表制』(労働旬報社、1991年。共著(渡辺洋三)『国際平和と日本社会のゆくえ』(労働旬報社、1991年)。共著(三輪隆・和田進・浦田一郎・森英樹・浦部法穂)『憲法改正批判』(労働旬報社、1994年)。『90年代改憲を読む』(労働旬報社、1994年)。『政治改革と憲法改正――中曽根康弘から小沢一郎へ』(青木書店、1994年)。『現代日本の政治を読む』(かもがわ出版、1995年)。『講座現代日本(1)現代日本の帝国主義化・形成と構造』(大月書店、1996年)。『現代日本の大国化は何をめざすか――憲法の試される時代』(岩波書店、1997年)。『日本とはどういう国か どこへ向かって行くのか―「改革」の時代・日本の構造分析』(教育史料出版会、1998年)。『企業社会・日本はどこへ行くのか―「再編」の時代・日本の社会分析』(教育史料出版会、1999年)。『憲法「改正」は何をめざすか』(岩波書店、2001年)。『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成―天皇制ナショナリズムの模索と隘路』(桜井書店、2001年)。『「構造改革」で日本は幸せになるのか?―「構造改革」に対する「新しい福祉国家」への道』(萌文社、2001年)。共著(姜尚中・きくちゆみ・田島泰彦)『「イラク」後の世界と日本―いま考えるべきこと、言うべきこと』(岩波書店、2003年)。共著(小林節・伊藤真・畑山敏夫・今井一)『対論!戦争、軍隊、この国の行方 九条改憲・国民投票を考える』(青木書店、2004/4)。『憲法、「改正」―軍事大国化・構造改革から改憲へ』(旬報社、2005年/増補版、2005年)。『構造改革政治の時代―小泉政権論』(花伝社、2005年)。『安倍政権論―新自由主義から新保守主義へ』(旬報社、2007年)。

 2008年現在、九条の会の事務局等を務めている。

論文 [編集]

  • 「小沢一郎の改憲構想」(『法律時報』第66巻第6号、1994年)
  • 「政治改革・政界再編と憲法改正」(『憲法問題』通巻5号、1994年)
  • 「戦後改革と法」(渡辺洋三他編『講座革命と法3 市民革命と日本法』、日本評論社、1994年)
  • 「読売『憲法改正試案』の政治的意味とオルタナティブの道」(『法学セミナ-』1995年1月号、1995年)
  • 「日本国憲法運用史序説」(樋口陽一編『講座憲法学1 憲法と憲法学』、日本評論社、1995年)
  • 「戦後保守支配の構造」(『岩波講座日本通史20 現代』、岩波書店、1995年)
  • 「戦後50年・企業社会と『平和主義』の形成と成熟」(『法学セミナ-』1995年8月号、1995年)
  • 「日本の帝国主義化と総保守化の現段階」(『場・トポス』通巻7号、1995年)
  • 「破防法はなぜできたか、いかに使われようとしたか」(『法律時報』 1995年8月号、1995年)
  • 「解説・現代社会の変革とアナキズム思想の意味」(『八太舟三と日本のアナキズム(ジョン・クランプ著)』、青木書店、1996年)
  • 「階級の論理と市民の論理」(『講座世界史12 わたくし達の時代』、東京大学出版会、1996年)
  • 「日本の帝国主義化と企業支配・企業社会的統合」(『労働法律旬報』1997年6月号、1997年)
  • 「支配層の二一世紀戦略と教育改革」(『教育』1997年9月号、1997年)
  • 「医療・社会保障制度改革の政治経済的背景」(『月刊保団連』1997年9月号、1997年)
  • 「多国籍企業時代下の新自由主義的改革と対抗の戦略」(『女性労働研究』通巻33号、1998年)
  • 「新ガイドラインの日本側のねらい」(山内敏弘編『日米新ガイドラインと周辺事態法』、法律文化社、1999年)
  • 「日本の軍事大国化・新自由主義改革の世界史的位置」(『法律時報』1999年8月号、1999年)
  • 「戦後政治の大転換」(現代ジャーナリズム研究会編『日本の転換』、毎日新聞社、2000年)
  • 「憲法調査会の歴史的位置」(『法律時報』2000年5月号、2000年)
  • 「現代日本のナショナリズム」(後藤道夫・山科三郎編『講座戦争と現代4ナショナリズムと戦争』、大月書店、2004年6月)
  • 「現代国家の変貌」(『現代思想』第32巻第9号、青土社、2004年8月)
  • 「保守二大政党体制の形成と憲法改悪への接近」(『ポリティーク』 通巻8号、旬報社、2004年9月)
  • 「報告 改憲の2つの狙いと改憲論の諸類型」(『季刊ピープルズ・プラン』通巻29号、ピープルズプラン研究所、2005年2月)
  • 「憲法・教育基本法改正は何をめざすか?」(『人間と教育』通巻45号、旬報社、2005年3月)
  • 「改憲論のねらいと諸類型」(『歴史地理教育』通巻684号、歴史教育者協議会、2005年5月)
  • 「現代改憲動向の中の憲法調査会報告書」(『法律時報』2005年9月号、日本評論社、2005年)





(私論.私見)