細川政権誕生劇(細川政変)検証

 (れんだいこのショートメッセージ)

 1993年の衆院選挙後、「改革」を掲げてあれよあれよという間に首相の座につき、圧倒的な国民的人気を博しながら、さっさと政権を投げ出してしまった細川護煕氏。わずか8カ月で終わった細川政権。この「細川政変劇」をどう見るべきか、未だに観点のすりあわせが為されていない。この時期の続々たる新党誕生をどう見るべきかこの考察がからきし為されていない。出来事を羅列しただけでは何の意味も無い。本来、それらの事象の原因と本質を見極めることこそ肝要であるのに、これができていない。ここに研究者の口先のインテリ性とは別の知の貧困が垣間見られる。

 れんだいこはかって「さざなみ通信」でこの問題をめぐって論議したことがある。根深い観点の相違を双方が晒しただけで、論争の決着には至らなかった。今、「細川政変劇」を再考察してみようとするのは、来る「小沢政変劇」に関わってくるからである。全否定的対応という同じ愚をさせてはならない、我々はどこを保持しどこを後押しするのか妥協するのかを今から明確にしておかねばならない、とれんだいこは考えている。

 政変劇を通じ「左傾化」させていくことこそ肝要であり、徒に敵対するのは反動的対応でしかないと心得る。日共党中央はかってそのような対応に終始したが、危機のときこそ本質が現れることを思えば、日共党中央の反動性こそ怜悧に確認しておかねばならないだろう。そして、我々は、それを掣肘せねばなるまい。

 2004.5.16日 れんだいこ拝



 手がけてみたものの一朝一夕には行かない。まだ見せるには至らないがそれでもサイトアップしちまえ。


1993(平成5)年

【細川政権誕生ドラマ考】
 7.29日、非自民・非共産の8党派が党首会談開催。細川を首相とする連立政権を組むことで意思一致し、連立政権に関する合意事項(「7党1会派覚え書き」)を発表する。

 「8党派連立」は、新生党の小沢一郎の政治手腕に寄るところが大きかった。選挙前既に新生・社会・公明・民社・社民連の5党による非自民・非共産の連立政権構想を確認していたが、選挙結果では非自民・非共産5党の議席の合計は過半数に届かず、政権を握るためにはさきがけと日本新党の取り込みが必須となった。このことを素早く見抜き、行動に移ったのが小沢であった。小沢は、首相の座を、有力視されていた新生党の羽田にではなく、また、さきの5党中の最大勢力の社会党にでもなく、日本新党の細川を指名し、細川は小沢の要請を受け入れた。まさにウルトラCと云うべきで、このウルトラCを民主改革連合を加えた7党1会派による8党派が受け入れ、連立政権が実現する運びとなった。総裁選で時日を費やしていた自民党は既に時遅しで、打つ手が封ぜられていた。

 1993.8.9日、細川連立政権が誕生した。実に38年ぶりの政権交代であった。キャスティング・ボートを握る立場にあった日本新党の党首細川氏が、社会党や新生党などより大きな政党の党首を排除して、首相となった。小沢采配が光った。

 組閣人事では、首相官邸が首相・細川、官房長官・武村、副官房長官・鳩山、代表幹事・園田、政策幹事・井出、首相特別補佐・田中秀征らによる統一会派「さきがけ日本新党」で固められた。国会でも総理会派ということで各議員が要職に就いた。大臣人事では、社会6、新生5、公明4、民社1、さきがけ1、社民連(日本新の枠)1、民間から2。このうち女性が3人含まれていた。新生党が主要閣僚を固め政権の中枢を担った。社会党は、書記長に久保、衆院議長に土井たか子が就任する。女性議長は国会で初。この流れを国民は歓迎し、細川内閣の当初の支持率は71%で、国民に大きな期待を感じさせるものとなった。
(私論.私見) 「細川政権樹立に果たした小沢采配」考
 細川政権樹立は小沢采配無しにはできなかった。そういう意味で、「細川政権樹立に果たした小沢采配」をどう評するべきか。れんだいこは、政権政党として且つ戦後保守主流派を形成してきたハト派の最大派閥田中派の俊英として教育されてきた責任政治感覚に拠るものが大きいと読む。政権とって何ぼのものであるとする責任政治感覚こそ野党が身に着けていないものであり、賞賛に値するであろう。

【初期細川政権考】
 細川政権は、政治政策として政治改革法案、経済政策として「規制緩和、コメ輸入」、社会政策として「高齢化が活力に結びつく社会の構築」、「豊かで質の高い生活基盤の構築」などを柱とする「21世紀ビジョン」を掲げた。軍事・防衛問題については具体的な言及が為されていない。
(私論.私見) 「細川政権の政策」考
 細川政権の政策を俯瞰すれば、これは紛れもなくハト派系のものであり、そのように評さないデマゴギーを垂れ流しているのが日本左派運動のイデオローグである。中でも「自民党より悪質な新帝国主義政権」なる規定を弄ぶ者は「その罪万死に値する」であろう。

 8.10日、細川首相記者会見。政治改革法案の年内成立に政治責任を表明、最大目標とした。細川政権は、「選挙制度改革を含む政治改革」を政権の使命とした。「金のかからない政党本位の選挙」を目指して中選挙区制から小選挙区制へと大胆な転換をするというものであったが、社会党がこれに抵抗した。しかし、社会党は、それまでの小選挙区制反対路線からの180度転換し、政治改革担当大臣の山花前委員長と自治大臣の佐藤観樹前副委員長という選挙制度改革担当の2大臣を出し、積極的に小選挙区制導入の中心的役割をはたした。


 8.25日、細川首相、「穏健な多党制に収斂」と表明。


 8.10日、田中秀征が党代表代行に就任。8.11日、田中秀征が首相特別補佐に就任。


 8.27日、 連立与党の政治改革法案の内容固まる。定数小選挙区250、比例区250、企業団体献金は政党だけ。政党助成金は国民一人当たり500円、総額600億円。


 8.30日、新生党の羽田党首、二大政党を中心とした体制が望ましいと発言。


 9.16日、政府が緊急経済対策を決定。規制緩和、円高差益還元、総額6兆円の景気テコ入れ策など。


 9.16日、参議院院内統一会派「日本新党・民主改革連合」結成届け出。


 政治改革法案の動きは次の通り。「選挙制度改革を含む政治改革」は細川政権の悲願であった。社会党は、それまでの小選挙区制反対路線からの180度転換し、政治改革担当大臣の山花前委員長と自治大臣の佐藤観樹前副委員長という選挙制度改革担当の2大臣を出し、積極的に小選挙区制導入の中心的役割をはたした。

 9.17日、政府が政治改革4法案を臨時国会に提出。「定数小選挙区250、比例区250の小選挙区比例代表並立制という小選挙区制の導入。企業団体献金は政党だけ。政党助成金は国民一人当たり500円、総額600億円」案を取りまとめた。その後、政党助成金は国民一人あたり335円、総額414億円に減額修正する。自民党は、「小選挙区300、比例区171」案で対抗した。


 9.20日、社会党委員長選挙で、村山富市を選出。山花貞夫政治改革担当相と交代。9.25日、村山富市が社会党新委員長に。  


 9.21日、臨時国会開会(細川首相所信表明)。


 9.30日、政府、コメ輸入など冷害対策を決定。


 10.12日、栗本慎一郎氏、新生党入り。


 11.1日、緊急景気対策記者会見。


 11.5日、小沢一郎新生党代表幹事への鹿島献金問題、連立与党内にも批判。11.8日、新生党の小沢、鹿島献金問題に関して記者会見。


 11.16日、細川首相と河野洋平自民党総裁の会談で、細川首相が、「定数小選挙区274、比例区226、政党助成金を国民一人当たり250円、総額309億円」を提示。自民は拒否。
(私論.私見) 「細川政権の選挙制度改革法案」考
 この時骨格が定まった「細川政権の選挙制度改革法案」の功罪は歴史的見て決着がついていない。しかしながら、「小選挙区制導入による金のかからない、、政党本位の選挙」化へ流れをきったことは疑いない。政権党に有利であるかの如き批評を為すものがいるが、それは為にする批判であろう。

 11.18日、政治改革4法案が衆議院で可決。賛成270、反対226、棄権10。賛成には自民党から西岡武夫ら13人、反対には社会党左派の岩垂寿嘉男ら5人。


 11.18日、参院の日本新党・民改連、新生党が参議院統一会派記者発表(名称「日本・新生・改革連合」)。さきがけ、日本新党政治改革キャンペーン。政治改革法案衆院で可決。


 12.2日、改憲発言で中西防衛庁長官が辞任。後任に愛知和夫。


 細川政権の「ウルグアイ・ランドを廻るコメの部分開放」の動きは次の通り。

 12.13日、細川首相、ウルグアイ・ラウンドでコメの部分開放を決断。12.14日、コメの部分開放を閣議決定。


 12.15日、衆議院で45日間の会期延長が強行可決される。自民党は欠席(出席4人)。社会党から欠席6人。 


 12.16日、田中角栄が死去。
(私論.私見) 「この時期の角栄逝去」考
 この時期の角栄の死も考えさせられる。角栄はどういう思いで息を引き取ったのだろうか。

 12.17日、さきがけ日本新党「コメ部分輸入受け入れ」に対処するための緊急記者発表。


【与党間の足並みの乱れ】
 12.17日、94年度予算案の越年編成を決定。1993年末、予算案の越年編成やむなしとする小沢に対して、武村が年内編成を主張し、亀裂が生じた。

 12月末、政治改革法案優先か平成6年度予算編成を優先させるかを廻って、1994年度予算案の越年編成やむなしとして政治改革を優先しようとする小沢に対して、武村が景気対策に繋がる予算編成優先を主張し対立した。結局、細川首相が小沢の補正予算による措置案を採用したが、国会の会期延長を廻ってそれを拒否しようとする自民党との攻防が待ち受けていた。
(私論.私見) 「細川連立政権の寄り合い世帯」考
 細川政権は、発足当初はさきがけと日本新党の二人三脚で運営されてきたが、細川連立政権の寄り合い世帯には、成立当初から、さまざまな亀裂が存在していた。ある種ガラス細工のようなものであった。そのひとつが、社会党と他の連立与党との政策面での相違であり、もうひとつは、小沢と新党さきがけ代表の武村正義との対立であった。

 社会党は、9.20日の社会党委員長選挙で、山花貞夫から村山富市へバトンタッチした。村山委員長は、政権与党としての下支えに向かうよりも、やがて自身が首相になり自民党と連立するというウルトラDを画策していくことになる。細川政権は、この社会党を取り込んだことで苦労を重ねていくことになる。

 もう一つの悩みは、小沢と新党さきがけ代表の武村正の対立であった。「与党内では次第に小沢−武村の対立が顕在化しろ、それに引きずられるように細川−武村の関係も悪化していった」(平野貞夫「日本を呪縛した8人の政治家」)。武村自身も、「12月26日の細川・小沢・市川会談以降、急に細川さんの態度がよそよそしくなった。」と述べている。


 細川政権下で新生党の小沢とさきがけの武村の確執が生まれ、小沢は、市川雄一書記長を代表とする公明党に接近し始める。それは、新生・公明ブロックこそが政権運営能力を持っていたことによると思われる。細川首相は必然的に新生・公明ブロックに軸足を次第に移し始めていくことになる。「12.26日の細川・小沢・市川会談以降、急に細川さんの態度がよそよそしくなった」とあるように、武村氏が浮き始める。こうして、女房役の武村官房長官との「官邸内離婚」が囁かれ始めた。

 小沢と竹村の対立の背景は、政界再編成を通しての権構想の違いにあった。小沢は、新生党、公明党、日本新党、さきがけ、民社党、自民党ハト派、社会党右派を含めたハト派系政治の再興を期そうとしていた。竹村にはそういうイデオロギー的なものがなく、むしろ排除しようとしていた。ここに両者の対立があった。

 新生・公明の結びつきが強くなり、小沢を代表とする新生党と市川雄一書記長を代表とする公明党が引っ張り、日本新党が概ね追随し、さきがけ、民社党が追認、社会党が抵抗すると言う形で政策決定していった。しかし、この「一・一ライン」が他党の反発を招くことになる。  

 具体的には94年度予算の越年編成をめぐる対立や政治改革法案成立後の求心力低下、国民福祉税構想、武村官房長官更迭を目的とした内閣改造問題などを経て、94年4月日本新党との合併構想の撤回、統一会派解消に至る。武村自身も、「12月26日の細川・小沢・市川会談以降、急に細川さんの態度がよそよそしくなった。」と述べている。

 こうした動きに反発した日本新党の親さきがけ派の議員は後に日本新党を離党し、統一会派「さきがけ・青雲」などを経てさきがけに合流することになる。

 この間、与党第一党の社会党は、与党にあるまじき日和見的な動きを繰り返した。今日、細川政権ができた直後から、自民党の社会党に対する工作が始まっていたことが判明している。自社両党の「国対」ルートが作動し始めていた。社会党は、細川連立政権の与党として汗をかくよりも、いわば「自社55年体制の夢よもう一度」という復古的対応を採ったことになる。小沢の「愛想尽かし」の非を責められようか。  

 「細川連立政権の寄り合い世帯」による求心力の無さを必要以上に指摘されるべきだろうか。それは端から分かっていたことであり、むしろ、支える側でなく分裂させる側で動いた社会党、新党さきがけを取り込んでいたことに原因を求めるべきではなかろうか。ちなみに、その後の社会党も新党さきがけも三日天下の挙句政治史から消えていった。政治哲学無き安逸な遊泳術のツケであろう。

 12.30日、細川首相、「高齢化が活力に結びつく社会の構築」「豊かで質の高い生活基盤の構築」などを柱とする「21世紀ビジョン」を発表。


1994(平成6)年

 1.4日、自民党を離党した西岡武夫、石破茂、笹川堯、大石正光の各代議士と鳩山邦夫代議士が、西岡氏を代表とする新会派結成を衆院事務局に届け出た。


 1.4日、政府が防衛計画大綱見直しを1年繰り上げ。


 1.5日、参院で政治改革法案、自民党欠席で審議開始。


 1.7日、自民党が、ウルグアイ・ラウンドでの政府のコメ市場部分開放受け入れについて、羽田外相・畑農水相の問責決議案を参院に提出する。


 1.10日、連立与党は参院政治改革特別委で、17日の中央公聴会開会を求める緊急動議を提出、賛成多数で可決。


 1.21日、参院で政治改革法案が賛成118、反対130で否決されるというハプニングとなった。賛成に自民5、反対に社会17の「造反」があった。衆議院ではなんとか可決されたものの参議院では又もや社会党から反対する議員がでて否決されてしまった。結局、社会党の与党にあるまじきこの対応が細川政権の致命傷になる。


 1.24日、さきがけ日本新党が、政治改革関連法の成立求める緊急アピールを採択。


 1.26日、両院協議会開催。翌27日決裂。


 1.28日、細川首相は、土井衆院議長の仲介で河野自民党総裁とのトップ会談を行い、自民党の譲歩案を飲むかたちで1.29日なんとか政治改革関連4法案を成立させた。「定数小選挙区300、比例区200、比例区は全国11ブロック、企業団体献金は1団体を認め、1企業50万円。政党助成は、政党の前年収支の40%」となった。何とか政治改革法案を成立させ政権の最大公約を果たした細川内閣の支持率は高く2.1日の朝日新聞の世論調査では71%であった。 


 1.29日、政治改革関連4法案法案が修正の上、国会で政治改革関連4法案が成立。


 1.30日、自民造反の参院議員3人(石井一二、木暮山人、星野朋市)新生党入り。


 1.31日、新党さきがけの田中秀征が政治改革法成立で区切りがついたとして首相特別補佐を辞任。この頃、社民連の江田五月、阿部昭吾、菅直人が統一会派「さきがけ日本新党」入り。星野朋一、石井一二、小暮山人、自民党を離党し新生党に入党統一会派入りし自民党離党組が続く。 
 
 細川政権は呉越同舟化し始める。


 2.3日、細川首相が高い支持率を頼みに、いきなり7%の国民福祉税構想を発表した。武村官房長官が「寝耳に水」発言し、両面あいまって与党内に衝撃を与えた。細川が総理大臣になってから党との関係が疎遠になっていたことを不満に思っていた議員たちが、党になんの連絡もなしにその構想を発表したことに怒り首相官邸に押し掛ける事態となった。社会党は政権離脱の構えで反対し、さきがけ、民社党からも批判が噴出した。翌2.4日、細川首相はすぐに構想を撤回した。新生・公明の「一・一・ライン」の独断専行として批判された。
(私論.私見) 「細川首相と武村官房長官の対立」考
 「細川さんと武村さんの仲は決定的に悪くなった」。この事件が細川連立政権の潮目を変え、細川政権崩壊への転回点となる。

 2.4日、参議院新会派「新緑風会」結成。

 2.8日、政府与党、6兆円の減税先行、1年間の時限、財源問題は年内国会で結論と決定。政府、総合経済対策を決定。2.10日、連立内閣で初の税制大綱と政府予算案の閣議決定。


 2.14日、国民福祉税構想騒動後、細川は内閣改造を打診。「新生・公明による社会・さきがけ外し、武村外しの思惑」が取りざたされ、社会党の村山、民社党の大内啓伍、官房長官武村が揃って反対し、3.2日、細川首相が内閣改造を断念。結局、内閣改造は断念せざるを得なくなった。
(私論.私見) 「細川首相の内閣改造断念」考
 日本新党、さきがけの蜜月時代が終わったことを意味する。連立与党内の一連の争いは「一・一ライン」vs.「村・村コンビ」と揶揄された。「後になって分かったことだが、この時既に自民党と社会党左派、そしてさきがけの間で、細川連立政権つぶしの話がまとまっていたようだ」。

 2.16日、社会党の久保書記長が、「社会党は新生党と一つの党になれぬ」と語る。

 2.18日、細川首相が、9ヵ月ぶり党本部に出向き議員職員懇談会を開いた。この時、細川は党の人間との関係修復のために「官邸にも気軽に来てください」などかなり気を使った発言をしている。党との関係は収まりそうな気配を感じさせたが、さきがけとの関係はさらに悪化することとなった。

 細川が総理になって以来、日本新党内には、武村官房長官、鳩山官房副長官、田中首相特別補佐とさきがけの優遇がひどすぎるのではないかとの不満がくすぶり、さらに連立政権内で唯一与党の中核にいた経験をもち連立政権のなかでの存在感、発言権が圧倒的に大きかった新生党の小沢一郎と武村の確執が囁かれ、細川が小沢よりの態度を示すようになったため、そのあとの合併構想は一向に話が進まなかった。そうしたところに細川と小沢が中心となった国民福祉税構想がでてきたのである。その後、細川は小沢の指示により1994年2月15日に武村を官房長官から外すための内閣改造を企図した。それは実現せず、3月2日に断念されたが、4月に入り日本新党、さきがけ、共に合併を断念、そのことにより日本新党内の親さきがけ派の離党が相次ぐことになる。


 2.22日、衆院予算委、細川首相が佐川急便から1億円を借金した問題で、国会法104条により東京地検、国税庁に資料提出を要求。両庁は拒否。


 3.4日、修正政治改革法案が成立。細川首相、施政方針演説。


 3.8日、日本新党の松岡新代表幹事が、さきがけとの合併に消極的な見解。3.24日、日本新党の松岡代表幹事が、統一会派の人事見直しをさきがけに要求。


 3.16日、新生・日本新の「統一会派構想」浮上。3.17日、新生・日本新・民社、連立各党による新党の結成へ、努力をすることで一致。


 3.27日、連立政権誕生後初の自民党との対決となる石川県知事選で、連立与党推薦の谷本正憲前副知事が初当選。


 3.31日、参院予算委員会で細川の佐川疑惑を集中審議。日本新党とさきがけが合併を断念した頃、細川内閣も存続のピンチを迎えていた。細川の佐川急便からの一億円借金問題が国会で追及されたからである。この細川の一億円借金問題は日本新党が最初の参議院議員選挙に出馬したころから噂されていたことであるが、ここにきて細川の証人喚問が要求されることになってきた。細川は4.8日にあっさりと退陣を表明してしまう。


 4月、日本新党との合併構想の撤回、統一会派解消に至る。

 4.6日、加藤六月氏らが新生党に入党へ。新生党、衆院で60人に。


 4.6日、日本新党の常任幹事会で、さきがけとの合併を事実上撤回。4.7日、さきがけの武村も合併断念を表明。


【細川政権突然の幕切れ考】
 4.8日、細川首相が総理大臣を辞任表明。細川政権はわずか8ヶ月で崩壊した。新生・公明の結びつきが強くなり、「一・一ライン」が裏で強引に主導する二重権力構造が他党の反発を招いた。
(私論.私見) 「細川首相の内閣改造断念」考 
 細川総理は、自民党から執拗にいわゆる佐川急便スキャンダルを追及され、耐えきれずに退陣した。突如の辞任には、連立与党内の対立による政権の行き詰まりも考えられる。振り返ってみれば、細川政権は政治改革法の成立で燃え尽きていたのかも知れない。それ以後の細川政権の政策・構想で目ぼしいものはない。
(私論.私見) 「細川政権崩壊考」
 細川政権の意義を考察することはままされている。崩壊を考察されることも意義深いがさほど為されているように見えない。れんだいこが総括するのに次のように列挙できよう。
@  政権のイデオロギー基準が曖昧のまま終始し、最低限綱領の一致さえない寄り合い世帯であったこと。つまり、政権与党として押し出す見解の整合性を欠いていたこと。
A  @に規定される「改革の青写真不足」。各党各々の基本政策が異なっているそれを擦り合わせる作業は困難を極めた。連立与党間には、自民党を政権の座から引き摺り下ろし、政治改革関連法案を成立させること以外に共通目的はなく、法案成立後、連立維持が困難になったのは、当然の結果といえる。
B  長年野党慣れしていた社・公・民に政権担当能力が無く、政権下支えを放棄し、与党にありながら旧野党感覚で終始したこと。
C  日本新党、さきがけ、新生党間の体質の違いによる対立が尾を引き、自民党以上のまとまり不足を呈した。




(私論.私見)

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ディビッド・ロックフェラーの忠犬・竹下登と「竹下のスパイ」武村正義が細川政権潰しを画策、板垣英憲
http://www.asyura2.com/10/senkyo103/msg/249.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2010 年 12 月 28 日 11:51:19: 4sIKljvd9SgGs

(回答先: 武村元官房長官:「小沢さん、隠居を」引退を勧告(毎日jp) 投稿者 赤かぶ 日時 2010 年 12 月 28 日 10:33:08)

http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/c2c7fd6caa5bf27eeaa13aad2de34604
ディビッド・ロックフェラーの忠犬・竹下登と「竹下のスパイ」武村正義が細川政権潰しを画策
2010年10月08日 22時56分52秒 | 政治

 この日本の安全保障政策の考え方の違いが、小沢一郎元代表の自民党離党の一つの要因となっていく。平成5年6月18日、野党が提出した宮沢内閣不信任案に、小沢一郎元代表ら44人が賛成してしまい、衆院解散を招き、その弾みで6月23日、離党せざるを得なくなったのである。

◆自民党離党のもう一つの理由は、竹下元首相が、竹下派の後継者に、橋本龍太郎元厚相を指名したことにあった。小沢一郎元代表の後見人だった金丸信副総裁は、「小沢を後継に」と主張、小沢一郎元代表には「ポスト海部の総理大臣になれ」と勧めたのだが、心臓疾患を理由に受けなかった。小沢一郎元代表の脳裏には、総理大臣になって、それで一丁上がりにされたくなかったのである。とにかく、アメリカと戦い、当面は、「サーキットブレーカー」をセットしなくてはならないと闘志を燃やしていたとも言える。
 小沢一郎元代表らの離党より、一歩先に、自民党の武村正義や鳩山由紀夫、三原朝彦らが、離党して、新党さきがけを立ち上げた。宮沢内閣不信任案に反対していながらの行動った。不信任案に賛成した立場として自民党にいられないという空気のなか、これに触発されて離党、新生党(羽田務代表、小沢一郎代表幹事)を設立することになった。そして、7月18日の総選挙で自民党を過半数割れさせ、8月9日、細川護熙政権を誕生させる。

◆しかし、小沢一郎代表幹事は、この細川政権誕生に当たって、大変なミスを犯してしまう。8党派連立政権をつくろうとして、まず新党さきがけの武村正義代表に声をかけ、ホテルオークラの一室に招き、話を切り出し、「細川政権構想」を示したところ、話はトントン拍子に進んだ。武村正義代表は、官房長官に就任し、数10億円とも言われた官房機密費を掌握したのである。

 この武村正義代表が、とんだ食わせ物だった。衆院滋賀全県区選出の武村正義代表は昭和61年7月6日の総選挙(衆参同日選挙)で初当選した。福田派(後に、安倍派、安倍晋太郎元外相死後は、三塚派)に属していたのだが、これは便宜上のことにすぎなかった。実の姿は、「隠れ竹下派」だったのである。武村正義代表は、滋賀県八日市市長、滋賀県知事から中央政界に進出しようとした際、竹下派に所属したかった。自治官僚時代、ドイツに派遣されて都市政策を学んできた武村正義代表は、田中角栄元首相の著書「日本列島改造論」のゴーストライターの一人だったからである。

 だが、同じ滋賀全県区には、田中角栄元首相に寵愛された山下元利元防衛相がいたため、入れなかった。そこで竹下元首相が、一計を案じて、「竹ちゃん」「安倍ちゃん」と呼び合うほど仲の良かった安倍晋太郎元外相に武村正義代表の身柄を預けていた。小沢一郎元代表は、武村正義代表が「竹下元首相のスパイ」であることを見逃していたのである。武村正義代表がときどき、首相官邸をこっそり抜け出し、都内のホテルで竹下元首相の後継者に決まっていた橋本龍太郎元厚相と密会しているにのを、まったく気づかなかった。橋本龍太郎元厚相は、竹下元首相の命令で、「細川政権潰しの工作」に動いていたのである。平成6年に入り、ようやく気づいた小沢一郎元代表は、激怒して、細川首相に向かって声を張り上げた。「武村を切れェ〜!」

(つづく)

本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」

フリーメーソン情報によると、新任の「対日工作担当」ジョーンズ国家安全保障担当補佐官は「日本はアメリカの占領下にあるのを忘れたのか」と菅直人首相、仙谷由人官房長官、前原誠司外相を脅し、怒鳴りつけている

◆〔特別情報〕フリーメーソン情報によると、菅直人首相、仙谷由人官房長官、前原誠司外相を頭から雷を落とすように「日本はアメリカの占領下にあるのを忘れたのか」「余計なことをしゃべると命はないぞ」などと脅し、怒鳴りつけているのは、菅首相、仙谷官房長官とほぼ同世代(プレ団塊世代)の退役将軍ジェームズ・ローガン・ジョーンズ・ジュニア国家安全保障問題担当特別大統領補佐官(通称「国家安全保障担当補佐官」)という。駐日アメリカ大使館「対日工作担当」のマイケル・ジョナサン・グリーン戦略国際問題研究所(CSIS)上級顧問・日本部長(ジョージタウン大学外交政策学部准教授)の後任である。65歳。

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第三章 猶太民族の宗教

第一節概 説

 宗致民族……改宗ユダヤ人。

 前章に述べたユダヤ民族の特異性中最も大きなものばユダヤの宗致である。之こそユダヤ民族の生命とも云ふべきもので、彼等が今から千八百六年前に全然亡國になつても今猶ほ亡びずに雄心勃々として世界制覇を企てつりあるのは全く宗教の賜である。此く大事な事柄であるから別に一章を設けて之を比較的詳述するのである。叉本書の目的たるユダヤの思想及運動も實にユダヤ教に発足すると言ふても過言ではない。