羽田政権考 |
(最新見直し2006.4.4日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2004.5.13日 れんだいこ拝 |
1994(平成6)年 |
【ポスト細川を廻る与党の分裂】 |
ポスト細川を廻る次期政権構想を廻って、連立与党内は制御不能に陥った。新生・公明・日本新の3党と社会・さきがけ・民社などの4党派が対立し、分裂状態になった。小沢はこの時、渡辺美智雄、鹿野道彦・前総務庁長官ら自民党内の一部と連携することも視野に入れていた。しかし、渡辺は動かなかった。結局、連立与党は羽田を擁立することで合意した。ただし、さきがけは、新生・公明主導の政権運営を警戒し、次期政権では閣外協力に転じることを決定した。これに社会・民社の一部が連携する構えを見せた。 4.8日、日本新党は統一会派「さきがけ日本新党」から離脱、新会派「改革」(日本新党、社民連 40名)を結成。 連立与党は次期政権に関する協議に入った。この中でさきがけは「新政権づくりに臨む基本姿勢」を発表し、新生・公明ブロックの政治手法に危機感を強める社会・民社両党と連携する構えを見せた。だが、党内に「連立維持派」と「離脱派」を抱える両党は、党の分裂回避を優先させて連立政権に残留することになり、さきがけだけが閣外協力に転じた。この結果羽田孜が内閣総理大臣に指名されるのだが、その後の統一会派「改新」騒動をめぐって社会党が政権を離脱、以後さきがけとの連携を深めることになる。 細川首相の後継問題の調整において、連立与党内の対立が表面化した。調整を行う場を代表者会議にするか、党首会談にするかで、新生・公明・日本新の3党と社会・さきがけ・民社などの4党派が分裂状態になった。代表者会議であれば、「一・一ライン」が参加できる、というのが論点であった。 小沢一郎は、新生党との協力を考えていた渡辺美智雄ら自民党内の一部29)と連携することも視野に入れていた。しかし、結局、連立与党は連立維持の方向で羽田を擁立することで合意した。ただし、さきがけは新生・公明主導の政権運営を警戒し、次期政権では閣外協力に転じることを決定した。 4.11日、さきがけ、社会、民社などの4党派が開いた党首会談に、新生、公明、日本新の3党が欠席。加藤六月、田名部匡省、吹田幌、山岡賢次、古賀一成の5人、正式に新生党入り。新生党、衆院で60人に。 4.12日、自民党の河野洋平総裁が後継首相指名投票に出馬表明。与党は一転、連立の枠組み維持を優先することで基本的に合意。羽田孜副総理兼外相が後継候補に固まる。 4.15日、さきがけ、次期政権での閣外協力を決定。社会、民社両党は連立維持を前提にした政策協議入りを受け入れ、羽田擁立へ。自民党では鹿野道彦前総務庁長官ら5人が離党。渡辺美智雄元副総理・外相、自民離党、新党結成の意向を表明。 4.18日、石破茂代議士が新生党入党へ。 4.19日、渡辺美智雄、自民党離党を断念し、後継首相指名投票への出馬も断念。自民党は河野洋平擁立で一本化。自民党の林寛子・小坂憲次議員が新生党入党へ。新生党、衆院で62人に。 4.22日、連立与党は、首相後継候補に羽田副総理兼外相(新生党党首)を擁立することで決定する。 |
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【羽田政権誕生】 |
4.25日、新生、日本新、民社など5党派が、新生党を中心、社会党抜きで新統一会派「改新」が結成される。 4.25日、細川内閣が総辞職。衆院が新生党党首の羽田孜を首相に指名。非自民・非共産の連立政権が誕生した。羽田政権を支えたのは新生党を中心にした5党派で、社会党を抜いて新統一会派「改新」が結成された。この経緯で社会党が政権与党から離脱した。村山社会党は、さきがけ、自民党との連合に向かい始める。 4.26日、首班指名では連立に協力した社会党が連立政権を離脱。 4.27日、自民・社会、国会運営など協力へ。新生党批判でも一致。 4.28日、羽田内閣が39年ぶりの少数与党政権として成立。組閣人事では、新生党から8名、公明党から6名入閣し、両党で閣僚の3分の2を占めた。こうして羽田政権は、少数与党政権として出発することになった。 羽田は「改革と協調」を掲げ、街頭での辻立ち演説まで行った。少数与党状態の解消のため、連立与党と社会党との間で、政策協議が行われたものの決裂した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田内閣は、解散総選挙という手段もあったが、結局、6月25日に内閣を総辞職した32)。羽田内閣は在任58日間という戦後2番目の短命政権に終わった。 新生・公明主導の連立与党は、次第に社会・さきがけの協力が得られなくなっていく。細川内閣退陣後に成立した羽田内閣が少数与党内閣になり、短命に終わったのは、必然だったのかもしれない。 |
5.7日、日本新党結党二周年。 5.9日、日本新党を離党したグループと、「さきがけ」が統一会派「さきがけ・青雲」を結成。 5.10日、羽田孜首相が衆参両院本会議で所信表明演説。基本理念は「改革と協調」。最重要課題に政治改革。衆院小選挙区の区割り法案の早期成立、新選挙制度での次期総選挙、税制改革の年内実現を表明。 5.10日、政務次官人事発表。郵政政務次官−永井英慈、環境政務次官−鴨下一郎、 農林水産政務次官−木幡弘道、総務政務次官−石井紘基、法務政務次官−牧野聖修。日本新党議員懇談会。 5.12日、衆院で代表質問。自民党の河野、社会党の村山それぞれ、羽田政権の「強権的政治手法」、「二重権力」構造などを批判。 5.13日、参院でも代表質問が始まる。 5.17日、衆院議院運営委員会理事会、自民党が提出した奥田敬和議運委員長(新生党)解任決議案の採決を棚上げ。社会党、採決の延期を要請。自民党、受け入れ。 5.19日、新生党、愛野氏を議運理事から外す異例の人事。小沢批判が原因か。野末陳平新生党入り。 5.20日、公共料金値上げの年内凍結を、閣議決定。 5.20日、荒井聡、枝野幸男、前原誠司、高見裕一が離党(民主の風へ)。 5.22日、さきがけ議員団(武村、鳩山、錦織)訪米、28日帰国。 5.22日、社民連解党、日本新党と合併。 5.22日、さきがけ議員団(武村、鳩山、錦織)訪米、28日帰国。 5.23日、衆院予算委の総括質疑始まる。連立与党の政策合意にある普遍的安全保障と集団的安全保障の関係について、羽田孜首相「ほぼ同じ意義を有する」と答弁。 5.26日、社会党の久保亘書記長、羽田首相と会談。予算成立後に内閣が自発的に総辞職すれば社会党の政権復帰もあり得ると伝えた。首相は「任務を懸 命に果たすのみ」と回答。新生・公明主導の連立与党からなる羽田政権は、社会党、さきがけを取り込もうと努力したが不調に終わった。 この間の5.22日、社民連が解党し、日本新党と合併している。 5.28日、社会党が連立政権離脱後初めての中央委員会を開催。村山富市委員長が羽田政権に対して総辞職による新たな連立政権づくりか、衆院の解散・ 総選挙を求める考えを表明。 5.29日、社会党執行部は中央委員会で、羽田内閣が自主的な総辞職に応じれば、新たな安定政権づくりに参加し、総辞職しない場合は解散・総選挙を求める、との両にらみの戦略を訴え、了承を得た。 5.31日、統一会派を「さきがけ・青雲・民主の風」に改める。 6.1日、民社党の大内啓伍が「改新」結成問題で辞任。6.8日、米沢隆が民社党の新委員長に。 6.6日、北朝鮮の核問題に関して、羽田孜首相は、柿沢弘治外相、熊谷弘官房長官らに中国への働きかけなど外交努力による平和的解決に努めるよう指 示。 6.16日、 佐川問題に関連して細川の証人喚問が決定。細川の証人喚問に対する抗議(談話)発表。細川の証人喚問に対する申し入れを行なう。 6.19日、新生党閣僚と山花貞夫・社会党前閣僚らが会談。 6.21日、細川証人喚問(衆院予算委員会)。 6.22日、22日、社会党が政権構想「新たな連立政権の樹立に関する確認事項」を連立与党に提示、政策協議へ。 6.23日、自民党、94年度予算の成立直後、内閣不信任決議案を衆院に提出。 6.23日、新政党、結党一周年に当たり、東京・渋谷のハチ公前広場で街頭記念演説 会を開催。 |
6.23日、園田代表幹事が社会党に「村山首相」構想を提案。 6.24日、社会党が、内閣が「自主的総辞職」をした場合、羽田首相の再任はありえないとの考えを示したことで、連立与党と社会党の政策協議は事実上決裂。連立与党と社会党の政策協議が不調に終わる。 6.25日、内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田内閣は、解散総選挙に出ず内閣総辞職を選び閣議決定した。羽田内閣は少数与党政権に苦吟しつつ在任58日間という戦後2番目の短命政権に終わった。 さきがけは、新政権樹立に向けて「共存への貢献と行政改革」と題する声明を発表し、民権政治の実現、行政改革の推進、安保理常任理事国入り問題などに対する見解を示した。同じく独自の政権構想を発表していた社会党は、連立復帰を求めるグループと自民党との連携を模索するグループに分かれていた。そこでさきがけは早々と「村山首班」構想を社会党に提示し、両党は基本政策に関して合意に達した。社会党とさきがけが新たな政権構想を合同でまとめることで合意。 その後社会党は、連立与党および自民党との両にらみで協議を進めたが、さきがけと新生・公明ブロックとの対立は解消できなかった。結局社さ両党の合意に自民党が無条件で同意する形で「自社さ連立」政権が決まる。 6.26日、新生党、社会党からの政策協議の再開申し入れを拒否。社会党、自民党からの政策協議に応じることを決定。 6.27日、新生党の小沢、羽田再任改めて否定。自民党の河野洋平総裁と社会党の村山富市委員長が会談。事態の早期収拾と、国会会期延長は避けるとの方針で一致。 |
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羽田内閣が発足する過程で、小沢と社会党、さきがけとの対立が決定的になり、この両党は連立政権を離脱する。少数与党政権となった羽田内閣は、結局、自民党が提出した内閣不信任案を前に、わずか65日で総辞職することになる。その結果、自・社・さきがけ連合による村山政権が誕生することになり、それは「ひとたび壊された自社55年体制の修復」となり、それが自民党長期安定政権への道筋となる。 しかしながら、細川−羽田の二代にわたった非自民連立政権の誕生は、一時にせよ自民党一党支配を終わらせ、政権交代を実現したという点で、歴史的に大きな意味を持ったと云える。 |
1993年の政界再編をどう解すべきか。これを矮小に見立てれば、経世会内部の権力抗争が政界全体に波及したに過ぎないという見方もできる。これをもう少し大きく見立てれば、この時期のリクルート事件、佐川急便事件等、相次ぐ汚職事件によって自民党一党支配による55年体制の行き詰まりを感じ、政治改革、政界浄化に挑んだという見方になる。この政治改革、政界再編の主力は羽田、小沢グループであった。羽田、小沢グループが宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党離党、新生党を立ち上げた。羽田、小沢グループの大きな賭けであった。
小沢が目指した「政治改革」とは、何だったのだろうか。小沢は、1980年代後半から常に党運営の中枢に携わり、特に、海部内閣時代には幹事長として政権運営の中心にあった。「その時期、小沢は、対米経済摩擦と湾岸戦争という、2つの国際的な問題の処理を任され、そこから、日本政治における発想の根本的転換の必要を痛感するようになった。
小沢の『改革』の主張は、何よりも、こうした対外的な交渉を通じて形成された危機意識が背後にあり、日本が、より積極的な国際的役割を果たすことが不可欠であるという認識を確たるものとした」と評されている。
そして、小沢は、従来の自社両党による「55年体制」が続く限り、改革を進めることは出来ないという結論に達し、選挙制度改革によって、保守二大政党制に転換するしかないと判断した。リクルート事件以来、政治改革、政界浄化を選挙制度改革によって実現するという世論は高まっており、小沢は、そうした世論の動きに自らの構想実現のチャンスをみた。小沢の戦略は、衆議院の選挙制度を小選挙区制に改めることで、政界の自浄に期待した節がある。55年体制による「なれあい政治」の打破を目的としていた節もある。
小沢は、選挙制度を中選挙区制から小選挙区制に転換することで、政党主体の政治への転換を夢見た。小選挙区制を導入することで、「個人後援会中心の選挙」から「党営選挙」に改めようとした。しかし、小選挙区制は、公認権を握る党執行部の権力をして派閥に代わって絶大になることをも意味していた。つまり両刃の剣となった。「このように、小沢の『政治改革』のねらいは、自民党の中央集権化と社会党の解体、保守二大政党化の2つにより、憲法見直しをはじめとする、日本の政治、軍事大国化に必要な諸政策を機動的に遂行しうる体制づくりをねらっていたといえる」と評されている。
だが、小沢が目指した政治改革は、完全には実現することなく、挫折に終わることになる。細川内閣において、政治改革関連法案が成立し、選挙制度改革は実行されたが、選挙制度改革によって金権選挙の打破、政界浄化、保守二大政党制への移行の流れは作り出せなかった。自民党の派閥政治、汚職、腐敗、金権政治は温存された。他方、新生党、公明党、民社党、日本新党などを合成して「新進党」を作るが呉越同舟の域を抜け出せなかった。何より政策の違いの溝が埋まらなかった。種々の理由により、小沢の「政治改革」は挫折に終わる。
結果的に、小沢の目指した改革と、それに伴う、経世会分裂以降の一連の行動は、選挙制度改革を実現し、政界再編という政党分野の離合集散を引き起こすにとどまった。結局、小沢は、自らの政治改革のうちの選挙制度改革以上の部分において日本政治の改革を成し遂げられなかった。
これの解説書として、次のような文献がある。どれもナンセンスなものでしかない。土屋繁 「自民党派閥興亡史」花伝社、渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店、
大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」中公新書、 渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店、大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」 中公新書。
(私論.私見)