橋本政権考

 (最新見直し2006.4.4日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2004.5.13日 れんだいこ拝


1996年(平成8年) 

 1月、新進党内反小沢派が「興志会」結成

 1.5日、村山首相が突然の辞意表明。

 1.6日、新政権に向けての与党3党の政策合意が成立。最重点課題として、大蔵省による金融行政の大幅な改革、農協系金融機関を含めた農林関係組織の改革、薬害エイズの真相究明と薬事行政の改革、という3点が掲げられたが、これらはいずれもさきがけが強く主張して盛り込まれたものだった。この合意を受けて自社さ3党は、橋本龍太郎を首班候補に擁立、さきがけからは田中秀経企庁長官と菅厚相が入閣した。同時に武村が羽田内閣時以来1年半ぶりに党務に復帰し、更なる政界再編に向けて再び動きを強めていくことになる。

 1.11日、第1次橋本内閣が発足。田中秀征経企庁長官、菅厚生大臣が入閣。

 橋本内閣の発足に伴って党務に復帰した武村代表は、あくまで社民党との合併による新党結成を模索したが、園田博之を始めとした党内の反発を受けて断念した。そんな中、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化し、以後新党を模索する動きは鳩山を中心に進むことになる。鳩山は友愛精神を基軸にしたリベラル新党の結成を目指し、新進党に所属する弟邦夫とともに自民党や新進党も視野に入れた、既成の枠組みにとらわれない政界再編の道を模索した。特殊法人改革、住専処理などを通じてイメージを低下させていた武村代表に対する不満や、小選挙区制の選挙に対する不安を抱える党内の若手議員、特に前回の総選挙で新党ブームに乗って当選した1年生議員は、こうした鳩山の動きに対して期待を寄せていった。しかしながら、ただでさえ存在感を喪失しつつある小政党にとって内部の路線対立ばかりが報じられるのは致命的であり、党勢はますます衰え、それに伴って選挙への不安が高まるといった具合に悪循環に陥りだした。

 武村と鳩山由紀夫の路線対立は、さきがけの発展的解消、新党結成という方針で一旦は収束するかに見えた。しかし、さきがけ主導の新党に危機感を抱く弟邦夫の意向もあって兄由紀夫が態度を硬化、個人単位での結集と武村・村山両氏の不参加を主張し始める。事態収拾のため96年8月に行われた武村・鳩山会談も不調に終わり、鳩山とその同調者が離党する結果となる。武村は責任を取って代表を辞任し後任には、菅直人が代表就任要請を固辞したために井出正一が選ばれ、菅と田中秀征を副代表、園田を代表幹事とする新体制が発足した。以前からさきがけのメンバー全員が新党に移行することを望んでいた菅副代表が、鳩山新党との仲介役として登場するが、幹部を中心にさきがけ残留の声が高まり、結局菅は多くの若手議員とともにさきがけを離れて鳩山とともに民主党を結成する。

 1.13日、羽田、「21世紀」の荒井将敬代表と連携に向けた協議を開始。

 1.16日、 田中秀征・園田博之の副代表就任などを内定。
 1.18日、石井紘基が入党。鳩山代表幹事が、党独自の調査から総選挙で1ケタに なるとの見通しを示す
 1.19日、 社会党が定期大会で党名を「社会民主党」に変更。
 1.19日、新進党第2回定期全国大会を日比谷公会堂で開催。
   

 1.20日、太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置。
 1.20日、鳩山代表幹事が、新党結成に向けて党内の意見調整を急ぐ考えを示す。

 1.21日、太陽、新進、民主三党の国会対策責任者は、平成8年度補正予算案の対応について共同で修正案を出すことを確認
 1.22日、羽田グループの政策勉強会の旗揚げが行われる。
 1.23日、民主党の鳩山由起夫、太陽党の羽田党首は、統一会派を視野に入れた週一回の定期協議を開くことを再確認
 1.24日、社民党と政策に関する定期協議を行うことで合意。自民党のグループ・新世紀が会則を改め、さきがけなど他党派議員の加入を認める。
 1.28日、鳩山代表幹事が既成政党の枠組みにこだわらない政界再編の必要性を改めて強調。

 かつて一・一ラインと言われて盟友だった市川雄一が「通常国会終了後に旧公明で勉強会を」(朝日新聞)と発言したり(1月20日)、羽田グループが勉強会「興志会」を発足させたり(2月1日)、細川護熙が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会を発足させる(2月13日)など不穏な動きが活発化した。

 2.1日、羽田グループの初会合、勉強会「興志会」(66人)を正式に設立する。

 細川が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会発足へ。

 2.5日、自民党の加藤紘一幹事長、社民、さきがけとの連立を基本としながらも、行政改革実現などのため、太陽、民主両党との連携を目指す考えを表明。
 
 2.6日、自民党、財政削減へ協力要請、太陽、民主両党などと政策協議。
   
 
2.16日、菅厚相が薬害エイズ問題で国の責任を認め、患者・家族に直接謝罪。鳩山代表幹事が、小選挙区制の見直し論議に慎重な姿勢を示す。
 2.20日、鹿野道彦・田名部匡省・増子輝彦を中心に「政治改革・政党政治を推進する会」を結成。
 2.21日、社民党との合併を前提とした新党協議を棚上げ。住専問題に関係した金融機関からの政治献金受領を最低1年間自粛。
 2.22日、自民党のグループ・新世紀が社さ議員を加えて総会、さきがけから7人参加。
 2.25日、京都市長選挙、新進を含む5党が推薦した桝本頼兼が当選。

 1996年の通常国会では住専問題が最大の焦点となった。この住専処理に対して政府・与党は6850億円の税金を投入しようとして世論の批判を浴びたので、これを機に政局を揺さぶろうと新進党は3月4日から25日までの22日間、国会内でピケ戦術を採ったがこれが思いの外、不評で世論にそっぽを向かれてしまい結局失敗に終わった。

 3.19日、住専問題を巡り、小沢党首と橋本首相のトップ会談。
 3.25日、土井衆院衆議院議長の仲介で与党側と新進党が合意、ピケ戦術を解除。

 3.28日、田中秀征が細川護煕、小泉純一郎とともに行革の勉強会を発足。

 4.1日、船田が鳩山由紀夫と「次の総選挙の前後に新党結成」で合意。
    
 4.2日、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化。4.4日、鳩山代表幹事が船田元との新党構想に対して、当分は自粛すると表明。
 4.5日、鳩山代表幹事が新党構想に関して、新進・自民にまず呼びかける考えを表明。
 4.7日、鳩山邸で花見会を実施、鳩山兄弟の他に市民リーグや社民党の新党推進派が一同に会する。
 4.8日、 「社さ新党」の結成を事実上断念。
 4.21日、武村代表が衆院選に関して、単独で100人の擁立を目指す考えを表明。
 4.22日、小沢党首が橋本首相と会談。
 4.24日、鳩山代表幹事が、消費税率再引き上げの必要性を指摘。
 5.7日、鳩山代表幹事が友愛精神を基軸にした新党構想を雑誌に発表。


そして5月10日に住専処理策を含む平成8年度予算案が参議院本会議で可決・成立し、住専予算の削減はなかった。こうして新進党はますます混迷の度を深めていった。

 5.10日、武村代表が米軍用地収容のための特別立法に関して検討容認の考えを示す。政党交付金の使途をホームページで公開。住専処理に税金を投入する96年度予算案が成立。

 5.23日、船田が前日の発言の責任を取り党総務会長代理を辞任。
 
 5.31日、新進党の鳩山邦夫が、兄由紀夫にさきがけからの離党を促す。NPO法案について、新進党と意見交換を行うことが決定。

 
6.11日、グループ・新世紀の総会で、鳩山代表幹事が新党構想を語る。
 6.18日、住専処理関連法が成立。

 6.20日、小沢が細川・羽田と会談して「挙党一致」を確認し、また6月25日から7月18日の間に6回にわたって「小沢党首対話フォーラム」を開催するなどして党内融和を図ったがその後、鳩山邦夫や船田元など党内有力者の離党が相次いだ。

 6.25日、 橋本政権が消費税率を97年4月から5%に引き上げることを閣議決定。
 6.29日、鳩山代表幹事が、船田元らとの信頼関係を強調。
 7.2日、沖縄米軍用地収容に関して、特別立法論議を急ぐことに懸念を表明。
 7.18日、岩国哲人らが「新風会」発足。
 7.23日、「興志会」が解散。


 7.24日、岡山県知事選立候補のために江田五月が離党(落選)。
 8.26日、鳩山邦夫が党東京都連会長を辞任。
 9.3日、鳩山邦夫が離党(東京2区で当選、民主党)。
    
 9.11日、武村代表が行財政改革に関する三つの提案を発表、選挙後の行革政権を提唱。園田博之が鳩山代表幹事の新党構想に関して、理念の必要性を指摘しつつ支持を表明。
 9.26日、住宅金融債権管理機構が発足。
 9.27日、鳩山代表幹事と菅直人が、さきがけを発展的に解党して新党を結成する考えを示す。田中秀征が、さきがけのまま総選挙に臨むべきとの考えを         表明。
 9.27日、衆議院解散。石破茂(鳥取1区で当選、「21世紀」に参加)・今津寛(北海道6区で落選、自民党)が離党の意向を表明。
 9.28日、武村代表が、さきがけが結束して新党に移行する可能性を探る考えを示す。
 8.2日、鳩山代表幹事が、9月中に新党準備会を結成する方針を表明。
 8.3日、園田博之が、新党の枠組みよりも行革を柱とする政策論議を先行すべきと主張。
 8.13、鳩山代表幹事が、臨時国会前に準備会を経ずに新党結成もありうるとの考えを示す。
 8.15日、鳩山代表幹事と菅直人が会談し臨時国会前の新党準備会結成で一致。菅直人は、さきがけの大半が新党に移行する道を探るべきとの考えも示す。
 8.17日、田中秀征、園田博之、菅直人が新党移行の方針で一致。鳩山代表幹事も理解を示す。
 8.20日、武村代表も加えた幹部会議で先の方針を確認。鳩山代表幹事は最終判断を留保。整備新幹線の建設費を全額公費とする自民党案に同意しない方針を固める。
 8.21日、発展的解党・新党移行の方針を固める。鳩山代表幹事も基本的に理解を示す。
 8.24日、武村正義が、新党では後衛に回るとの考えを表明。
 8.25日、鳩山代表幹事が、結党時には武村正義の参加を拒む意向を表明。
 8.27日、鳩山由紀夫が党代表幹事の辞表を提出。武村・鳩山会談(〜28日)。
 8.28日、鳩山由紀夫が、さきがけを離党し9月中旬に新党を結成する意向を正式に表明。武村正義が、党代表を辞任する意向を固める。
 8.29日、臨時総務会で武村代表の辞任を了承。新人候補者への経過説明会。菅直人が、代表就任を推す声に対して固辞する考えを示す。
 8.30日、新代表に井出正一を、新代表幹事に園田博之を選出。菅直人は副代表に。 鳩山、簗瀬、五十嵐の3名が離党。
 9.1日、さきがけの井出代表らによる新体制が発足。
 9.2日、園田博之が、行革政権構想を軸に鳩山新党との連携を探る考えを示す。井出正一が、さきがけのまま総選挙に臨むことを前提に選挙準備を進め         る考えを示す。
 9.3日、代表幹事の役職名を幹事長と改める
 9.5日、鳩山新党と社民党に対し個人参加の新党を提案。田中甲が離党。
 9.7日、井出正一が、社民・さきがけ・鳩山グループの協議を1週間以内に始める意欲を示す。
 9.9日、菅直人と鳩山由紀夫が、第三極結集に向けた新党準備会の設立で合意。10.10日、菅直人の報告を了承。メンバーのほぼ全員が参加する見通しに。
 9.12日、菅直人が民主党結成の呼びかけについて報告。参加は個々の判断によることを確認。
 9.17日、菅直人・鳩山由紀夫が、さきがけ幹部に対し民主党に参加するよう要請。井出正一らはさきがけ残留を決定、当選一回議員の民主党参加は容認。
 9.18日、小平忠正が離党。10.25日、石井紘基が離党。10.26日、荒井聰、小沢鋭仁、中尾則幸、中島章夫がさきがけから離党。
 9.20日、さきがけが社民党と選挙協力を進めることで一致。
 
 9.27日、衆議院解散。

 9.28日、民主党結党。社民党の土井たか子が新党首に就任。

 10.2日、さきがけが、民主党と総選挙後に行革政権構想について協議することで一致。

 10.13日、園田博之が民主党に対して、行革政権に参加するよう期待を表明。
 10.15日、総選挙後の行革政権で進める重点政策案を発表。社民党が、さきがけの提唱する行革政権に対し積極的に対応する考えを示す。

 10.20日、第41回衆議院総選挙衆院選投開票。新進党、衆院選で伸び悩み(事実上の敗北)。新進党は、小選挙区96名、比例代表60名(計156名)が当選、党の有力者では田名部や米沢が落選。改選前の160議席を4議席減らして156議席となり、事実上敗北とも言える結果だった。この選挙では比例区での順位決定に関して総選挙対策本部の顧問兼本部長代理である羽田の頭越しに決められ執行部の独走ぶりが目立った。

 10.21日、党最高諮問会議で羽田や細川が分党の意向を伝え小沢も了承した。しかし創価学会や党内の支持が得られず、分党問題はひとまず収束することになった。

 さきがけは、武村・園田の2議席を獲得とたのみで惨敗した。井出正一が代表を辞任する意向を示す。代表を務める井出や経企庁長官だった田中などが落選し、衆参合わせても5人という小政党に転落した。この結果、堂本暁子が議員団座長に就任するなど党組織は大きく変化し、第2次橋本内閣に対しても社民党とともに閣外協力に転ずることになる。

 この時政権離脱をしなかったのは、参院社民党勢力を政権に残留させるためにも自民党がさきがけを必要としたという外部要因と、たとえ小政党となろうとも与党に留まることで少しでも政権に対する影響力を維持したいという内部要因があったと思われる。しかし自民党中心の連立政権の中で党の存在感は以前に増して薄くなっているのが現状である。

 10.24日、熊谷弘に除名通告。10.31日、米田健三が離党届提出。11.5日、高市早苗が離党(12・27自民党へ)。11.6日、笹川が離党

 10.28日、羽田・細川「分党構想」断念。

 10.21日 自民・社民、さきがけが、政権継続を前提に政策協議を開始。
 10.22日、さきがけが、行政改革の推進を条件に、新政権に閣外協力する方針を決定。井出正一の代表辞任を了承、堂本暁子を議員団の座長に選出。
 
 10.29日、政調会長に水野誠一が就任、総務会長は堂本暁子が兼務。参院補選で芦尾長司の推薦を決定。
 10.31日、自民・社民、さきがけが政策合意書に署名。

 11月 7日、新進党は、首班指名選挙では多数の党議拘束違反者(=小沢党首以外に投票)を出し党内の混乱ぶりを露呈した。第2次橋本内閣発足。さきがけは社民とともに閣外協力。畑恵が離党を提出(12.18日、自民党へ)。田浦直・米田健三を除名処分にする。

 11.29日、新進党と民主党の政策責任者による協議を開催。


 12月 2日 日米の特別行動委員会が沖縄の米軍基地の整理・縮小策で最終報告。

 12.4日、警視庁は、岡光序治・前厚生事務次官を収賄の疑いで逮捕。

 12.4日、羽田、羽田グループ閣僚経験者との会談の席で、離党に強い決意。12.7日、民主党との連携を早くも模索。
 12.10日、新進党結成2周年。
 12.7日、郵政省とNTTがNTTの分離・分割を合意。
 12.12日、この日から16日まで3回の羽田・小沢会談(平行線をたどる)。羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめた。小沢と羽田の間の政治手法の違いや小沢チルドレンと呼ばれる議員たちが垣根を作って羽田らを寄せ付けなかったことなどが原因だった。

 12.13日、さきがけが、建設国債発行額で異論を唱え、補正予算編成を延期。
 12.16日 さきがけが、補正予算編成に関して、主張が通らねば賛成しない姿勢を確認。小沢と羽田の3回目の会談、羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめる。
 12.20日、補正予算案に反対する方針を確認。与党3党が医療保険制度改革案を合意。

 12.26日、与党3党が金融検査・監督の分離を合意。この間に奥田・岩國が正式に「羽田新党」参加決定。

 12.26日、羽田・岩国ら13人が離党し、新党「太陽党」を結成した。
  

 12.26日、羽田孜元首相等(旧新生党を中心とする衆院10人、参院3人)が新進党を離党し、「太陽党」を結成。  羽田らは記者会見で「日本政治の機能を取り戻すきっかけを作りたい」と述べ、「対立と清掃の政治から対話と実行の政治への転換」を掲げた結党宣言を公表。「政界再編の起爆剤となる」との決意を表明し、規制緩和や地方分権など「自由と自己責任」の実現、各国との「和と共生」による国際協力などの基本理念を掲げた。(基本政策の内容については別箇所参照)極めて当たり障りのない内容が盛り込まれているが、その理由も「政界再編の起爆剤となる」ためにほかならない。すなわち、衆参合わせて13人の政党で政策実現がかなうはずもなく、羽田党首が表明したとうり、太陽党の当面の目標は「新進党と民主党の橋渡し」(こういう政党を政治学では「要の政党」という)なのであり、橋渡しには政策を固定化しない方が有利なのである。イデオロギー政党色を脱した、プラグマティズム政党としての具体例は、憲法問題にも現れる。

 96年2月の議員研修会において、新進党内では異論を主張しなかったが、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について、「憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめた。同時に、介護保険法案についても政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。明確に、個々の政策について是々非々の態度をとるプラグマティズム政党の姿勢を表明したといえよう。なお、 党名は、「羽田氏の明るく、ぬくもりのあるイメージと勢力結集の核になる」(参院議員)として「太陽党」となった。 


 結党当初より羽田党首は、「野党結集の接着剤となることを目指す」とか「あくまで野党勢力の結集を目指す」、「健全な野党として各党をつなぐ触媒の役割を果たし、自民党に対抗するもう一つの極を作り出す核になる。」(結党翌日の96年12月27日)との考えを示している。具体的に、「触媒」とは、新進党の反小沢グループと民主党とのつなぎ目となることを意味している。しかし小沢が現新進党党首である以上、新進党との距離を縮めるには限界がある。そこで必然的に最初のアプローチは民主党に向けられたが、それは必ずしもスムーズに進んでいるとはいえない。例えば97年11月7日の世話人会の席(年表参照)で鳩山副党首は、構想中の統一会派への参加を当面見合わせることを表明している。(菅党首は別の場所で「政党の再編をあまり急ぐと数合わせになる」と述べている)これはそもそも菅・鳩山のイタリアの中道・左翼連合「オリーブの木」をモデルにした構想は、それぞれの政党が統一の首相候補や政権構想を掲げて選挙協力する「政党連合」的なものであり、必ずしも統一会派や政党の合流は必要でないからに他ならない。民主党は苦労して作り上げた「民主党」というブランドを簡単には手放したくないのである。

 羽田は新進党への離党届け提出の際、西岡新進党幹事長に「お互い改革という目標は同じだ。存分に連絡を取っていこう。」との趣旨の発言をしている。これに対し小沢は「離党・新党の結成は国民の期待に反する」と批判する一方で「改革の意志を同じくする人とは、協議するのは当たり前」とも述べている。両党の関係は比較的良好だったと言っていい。それを裏付けるように1月20日に太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置したものの太陽党畑英次郎幹事長は、統一会派については、「新進党を加えた協力が必要」の立場を崩さなかった。しかしその後、感情的なしこりや小沢の保保路線志向の表面化などにより関係は悪化していく。2月17日初の議員研修会の中で太陽党は、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について「常道の憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめたほか、介護保険法案でも対案の提出を検討している新進党とは 同一歩調をとらず、政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。さらに2月24日の講演の中で羽田は、オレンジ共済組合事件を巡る新進党両院協議会が質疑抜きで打ち切られたことに対し、小沢を批判している。これに対し新進党側も6月10日の党総務会で、太陽党に対する不満が続出し、太陽党との定期協議のあり方を見直すよう、注文がつく事態となる。結局、両者の完全な関係修復は新進党の解党まで待たれることになる。

 指摘しておかなければならないのが、わずかに13人の政党とはいえ太陽党には、路線上の対立があると言われていることである2)。構図としては、羽田、畑といった幹部が自民党に対抗する野党結集の核づくりを目指しているのに対し、中堅・若手は自民党への接近や復党を志向しているというものである。後者については、知名度を持たない中堅・若手が、小選挙区制度で生き残るための必然的な動きともいえる。
1997年(平成9年)

 1997.1.29日、新進党の友部達夫議員がオレンジ共済詐欺容疑で逮捕された。これは新進党の友部達夫議員の政治団体が運営する「オレンジ共済組合」が出資法違反や詐欺などに問われた事件で、これに関連して友部達夫が比例区で初当選した1995年の参院選の際に細川護熙など党関係者が友部から金銭を受け取って名簿順位に手心を加えたという疑惑であった。

 2.5日、記者会見で友部議員問題で釈明をした細川は公認への関与を否定し、新進党内のこれまでの調査で「人選は相当部分、旧党派の責任者にゆだねられていた」(西岡武夫幹事長)(朝日新聞)とされているのとは食い違いを見せており混乱ぶりが目立つ格好となった。また3月末には細川が軽井沢に所有する別荘地が他人の借金の担保になっていたことが明らかになるなど党内のスキャンダルが絶えなかった。

 2.16日、細川、党役職(最高諮問会議)辞職へ。2.17日、小沢党首、細川と離党をめぐって会談。3.3日、小沢党首が自民党の竹下登元首相と都内で会談。3.10日、新進党が太陽党と共同チームを作ることで合意。

 こうした党内のゴタゴタに嫌気が差した小沢は自民党右派との連携をにらんだ「保保路線」を本格的に模索するようになった。3月には小沢側近議員と自民党議員による「日本の危機と安全保障を考える会」が発足した。そして4.2−3日には今通常国会最大の懸案となっていた沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で小沢党首は橋本首相と会談し3項目で合意。また5月2日には自民党の森喜朗総務会長とロンドンで会談するなど、保保路線色を鮮明にした。その一方で自民と新進の若手議員が、「保保」に対抗して会合を開くなど「反保保」の動きも党内にあった。

 4.3日、太陽、民主党の協議が行われ、民主党が両党に新党さきがけを加えた三党で国会内の統一会派結成を目指すことを提案、太陽党はこれを了承。
 4.18日、第1回党大会 羽田党首、今後の政界再編への対応について、与野党の枠組みにこだわらずに「民主的勢力の結集」を目指し、自民、新進両党         の一部や民主党などとの対話を積極的に進めていく方針を打ちだす。同時に、「保保連合構想」を批判。また、新進抜きの民主との連携には慎重。
 4.21日、羽田党首、講演の中で自民党の一部を含めた幅広い「保守・リベラル勢 力」の結集を目指す考えを示す。「保保連合」について、「ガイドラインで強引に安易な道をとると、とんでもないことが起こる」と批判。 
 
 5.1日、第68回メーデーに新進党も積極参加。
 5.2日、小沢一郎党首、自民党の森嘉朗総務会長とロンドンで会談。
 5.3日 憲法施行満50周年記念アピール。
    
 6.9日  畑英次郎幹事長、ガイドライン見直しの中間報告に対し、「後方支援活動の範囲を、有事の際どこまで区別可能なのか疑問。有事法制整備への         姿勢には一定の評価。政府は早急に法整備に取り組むべきだ。」、ガイドライン見直しの中間報告に対し、太陽党は、態度保留。
 6.11日、太陽党、民主党との協議で、両党による統一会は結成について、(1) 秋の臨時国会に向け、一段の環境醸成に努力する、(2)政権交代可能         な二大政治勢力形成を念頭に努力するの二点で合意。

 6.18日、細川氏が新進党を離党。細川が「既成のしがらみから一歩離れて、今の政治の流れがこのままでいいのか考えてみたい」(朝日新聞)として、突然離党した。

 7.6日、都議選で、新進党は議席ゼロの惨敗を喫し、対照的に公明は候補者24人全員が当選した。この結果を受けて、当初、「都議選後」とされていた公明所属の参院議員11人の新進党への合流が先送りされた。7月14日には5人が離党届を提出するなど徐々に崩壊し始めた。

 7.15日、「反保保」の勉強会「政党政治の将来を考える会」が発足、岡田克也が参加。
 7.17日、「改革会議」の旗揚げに民主・太陽と合意。

 7.25日、「反保保」の鹿野道彦元総務庁長官を中心に、野党各党の議員の勉強会「改革会議」が発足した。

 8.3日、小沢党首が藤井公明代表との会談で、公明参院議員の新進党移行の早期合流を要請。

 8.10日、羽田党首、鳩山・細川と会談。保守・中道路線のもとでの勢力結集を指すことを確認。同時に連携強化で一致。

 8.11日、第2次橋本改造内閣発足。

 8.16日、佐藤孝行総務庁長官の更迭を要求。

 8.25日、「改革会議」発足。(衆69人、参18人)、太陽党は全員参加。世話人の新進党鹿野氏、畑氏は、98年の参院選に向けて、公約をとりまと         めていく方向で一致。

 9.2日、新進党が「日本再構築宣言」を正式決定。
   
 9.3日、「改革会議」世話人会、「対自民路線」で一致。同時に、各党幹部による協議を呼びかけることを確認。羽田党首、民主党の研修会で、「野党         にあるものは結集すれば政権交代があり得るという確信を持つことが必 要。太陽党は、結合体の媒介役を果たしたい」。

 9.18日、太陽、民主、新進の野党三党、国会対策委員長会談を開き、佐藤孝行総務庁長官入閣問題で、不信任案提出を含めた対応を協議。

 9.18日、神崎武法総務会長が旧公明党グループの研修会で「反保保」を言明して小沢の党運営の手法の限界を印象づけた。

 9.22日、 さきがけ・民主の幹部が会談、復縁の道を探る。
 9.27日、新進党幹事長西岡氏、太陽、民主との国会共闘について歩調をそろえていくことを強調。

 10.3日、羽田党首、衆院代表質問で「佐藤孝行の入閣は改革への国民の期待に対する裏切り」、「景気低迷の責任は、政府の楽観的な景気判断と経済運営にある。法人税・所得税の減額、土地税制の改革など速やかに実施すべき」、「今回の行革は、単なる数あわせ」「政府の財政構造改革法案は、         構造改革の名に値しない」。

 10.21日、小沢、菅、羽田の3党首が会談。
 10.31日、党勢不振の責任を問うために鹿野道彦元総務庁長官が党首選に立候補することを表明した。これに対し小沢は臨時国会の会期中であることを理由に党首選への立候補の意思をなかなか明確にしなかった。
 11.7日、太陽、民主両党などの国会議員による野党結集を目指す懇談会の初の世話人会を開催(世話人会は羽田、鳩山、畑らが発足)。

 11.28日、大蔵省の財政・金融分離問題で、施行期日を2001年までとする方針を確認。公的資金投入を前提にした、金融システム安定化緊急対策案をまとめる。

 11.28日、公明(藤井富雄代表)が常任幹事会で来年夏の参院選の比例区を独自で戦う方針を決めた。

 12.5日、羽田、細川、菅の3者会談で、「懇談会」を軸に、今後とも野党結集路線を進める方針を確認。
 12.9日、太陽、民主、新進の3党欠席のまま預金保険法改正案が衆院本会議で可決。
 12.17日、羽田、細川、太陽党と細川グループなどによる統一会派の年内結成を目指すことで一致。

 12.18日、新進党首選挙。結果は小沢が230票対182票で鹿野を破った。太陽党は野党結集を行う上で都合の良い鹿野道彦が当選することを望んでいたが、鹿野は小沢に破れる。羽田、細川、鳩山3者会談、今後も新進党にも野党協力を呼びかける必要があるとの認識で一致。

 党首に再選された小沢は19日、新しい党体制づくりに乗り出し、党内の旧公明党グループ「公友会」の神崎武法代表幹事(党総務会長)、旧民社グループ「民友会」の中野寛成会長(党国会対策委員長)と相次いで会談した。小沢は党の結束を固めるためそれぞれの会を解散するよう求めた。中野会長は受け入れる姿勢を示し、神崎代表幹事も応じる方向となった。一方、「公明」は20日、党の拡大中央委員会で来年の参院選比例区は新進党とは別に、公明として独自に臨むことを決めた。

 12.19日、太陽、細川グループ、民主改革連合、次期通常国会までに統一会派を結成することで合意。12.24日、「政党連合推進懇談会」の会合。

 12.25日、小沢は突然、公明の藤井富雄代表に参院の旧公明党議員を「分党」して公明に合流させるべきだとの考えを示し藤井代表も分党に賛成した。小沢はこの合意に伴い、新進党の解党―保守新党結成に踏切り、準備に着手した。小沢は解党することを決断。

 12.25日、細川は、太陽党や民主党と接触を続けてきたが、依然無所属として活動を行ってきた。しかしやはり政党助成法上の規定で年末までに結党することを迫られていた。そこでようやく12月25日になって、衆参合わせて5人という助成が受けられるぎりぎりの議員数で結党することとなった。そもそも羽田と細川は羽田が新進党を離党する際に行動をともにすることを検討した程に近い関係にあり、遠くない将来において両党が合同することが予想される。

 12.25日、太陽、参院の3人が、民主党・新緑風会に合流(参院の太陽党は解散、しかし3人の太陽党籍は残す)。細川ら、衆参5議員「フロム・ファイ         ブ」結成で合意。

 12.26日、細川護熙が新党「フロムファイブ」を結党。
   
 12.27日、新進党が衆参両院議員総会を開き解党を正式決定し、新進党は3年余りでその歴史に幕を下ろした。そして自民党より右寄りと言われる小沢一郎率いる自由党(54人=衆議院42人、参議院12人)、旧民社党系の中野寛成率いる新党友愛(23人=衆議院14人、参議院9人)、旧公明の衆議院政党である神崎武法率いる新党平和(37人)、旧公明の参議院政党である黎明クラブ(18人)、新進党崩壊の引き金を引いたともいえる鹿野道彦率いる国民の声(18人=衆議院15人、参議院3人)、そして長老格の小沢辰男率いる改革クラブ(12人=衆議院9人、参議院3人)の6党に分かれた。

 12.29日、羽田、細川、鳩山、「公明」の藤井富雄代表と会談・野党結集に向けた連携を要請。

 12.30日、太陽、フロム・ファイブ、国民の声の間で新・新党結成に向けた本格協議を開始することで合意が成立している。注目すべきは、その前日の29日に羽田、細川、鳩山が「公明」に対して野党結集に向けた協力を要請していることであろう。羽田の言う「太陽党の発展的解消」も射程内に入ったと思われる。





(私論.私見)