民主主義の原義と歴史的過程論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 民主主義とは何か。れんだいこは次のように考える。民主主義とは究極「特定権力者に対するチェック・アンド・バランスの思想であり制度であり、当時の社会的合意の水準」である。これは歴史的に歩一歩形成されてきており、今もその只中にある。問題は、民主主義はかなり高度な政治概念であるので、これを学ばずしては発展させ得ない、ということにある。しかも、その学び方において、その本質を理解せず学ぶなら実践上むしろ有害な面がある、ということが知られねばならない。

 どういうことかというと、民主主義とは「私物化に対する抵抗であり、代わりに機関運営主義」を提起するところに真髄がある。ここを踏まえずに、自らが私物化の極致に座しながら外へ向かって民主主義を説くなどというインチキは許されない。民主主義を叫ぶなら、その連中のたむろする党内の民主主義をまず確立させよ。その攪拌したものとして党内から党外の外界へ向けて民主主義的諸関係が構築されていくべきである。そういう関係でなければならない。その追求姿勢こそが民主主義精神であり、その限界点で革命が要求される、これが民主主義と革命の弁証法であろう。

 これらを踏まえずに、口先民主主義屋が跋扈し過ぎている。それで世間が通るのだから良いようなものだけれど、恰もフェミニストが裏でレイプ魔に転ずるような事例に至らないよう願うばかりである。形式的過度の善良ぶりっこはどこかでその反対物を暴発させるのも摂理であろうから。

 2003.6.28日 れんだいこ拝
 れんだいこの最新の民主主義論は上述のそれと違う。今は、そういう民主主義論は政治的画餅で、過去に実現されたこともないし現在も未来にもされないだろうと見据えている。民主的議会主義論なぞその典型で、議会の権力奥の院隠しのイチジクの葉としての役割、その正体を曖昧にさせるお遊び理論にほかならない。我々は一刻も早くそういう画餅的な政治的民主主義論と決別して、真に有為なる政治制度論、政治能力論、政治品格論を生み出して、その三者結合理論を生み出さねばならないのではなかろうか。そう思い始めている。  

 2019.7.22日 れんだいこ拝


【民主主義の原義】
 民主政治・民主主義は、「democracy(デモクラシー)」と呼ばれる西欧的政治概念である。「democracy(デモクラシー)」は、ギリシャ語の「demos」(人民・民衆)と「kratia」(支配・権力)の結合に由来する。意味するところは、君主や貴族の支配に対する民衆の支配(国民主権の政治制度や思想)である。市民には「徳」と云われる「公共精神」(自由の気風・ポリスへの義務・自己犠牲の精神・遵法精神)が要求された。

 古代ギリシアに一千はあったと言われる都市国家(ポリス)の中で、有力ポリスであったアテネで紀元前508年に発生した。アテネは古くから商業都市として繁栄しており、当初は貴族政であったが、都市を共同で守る必要があり、市民を中心とした重装歩兵が戦争に参加することになった。都市の防衛に参加するようになった市民は発言権を強め、民主政治を実現させた。つまり、古代アテネ民主制は、兵役義務の対価関係で生まれ政治参加に及んだということになる。

 アテネでは、都市の防衛に参加するすべての市民に平等に政治に参加する権利(isonomia)が与えられ、18歳以上の成年男子全員で構成される民会が、司法・立法・行政の最高機関となり、自由かつ平等な発言権isegoria)が保障され、直接民主主義を実現させた。この直接民主主義は、近代民主主義の代議員制とは異なる。

 しかし、ここでいう民衆とは奴隷を下層階級としてその上層に位置する市民層を指しており、今日的意味での市民一般概念で理解することは出来ない。アテネの民主政治は、奴隷制度によって支えられていた。ポリスの圧倒的多数は奴隷であり、彼らをして生産労働させることにより、アテネ市民は政治の舞台に参与することができた。なお、奴隷の他にも女性や在留外国人は参政権を持たなかった。

 さらに、アテネの民主政治は共同体社会の中で形成された民主主義であり、市民相互は基本的には似通った利害関係と意識を持ち、近代民主主義のような多様な利害や立場を持つ人々の緊張と対立は多くは見られなかった。

 
 ところで、アテネ的民主制はやがて、ソフィスト(弁論術を駆使して詭弁を多用する人々)に乗っ取られていくいくことになる。敵対する都市国家スパルタとの戦争中に民主政治が腐敗して、衆愚政治におちいった。この時期、ソフィストを批判したソクラテスは、市民の裁判によって死刑を宣告されている。その弟子プラトンは、著書「国家論」において、民主政を本来の国政から逸脱した問題の多い政治体制であるとし、哲学に優れた哲人王が自己犠牲精神で共同体支配を行うことが最も優れた国政であると説いた。ギリシアの都市国家はいずこも内部に政治の腐敗と抗争、外部に大国の侵略が見舞われ、これに対処する能力を発揮し得なかったことで次第に衰退への道を歩むことになった。


【プラトンの民主制批判】
 当時の高名な哲学者プラトンは、著書「法律」の中で、母国アテネの民主制について次のように述べている。「万事に関して知恵があると思う、万人のうぬぼれや法の無視が、わたしたちの上に生じ、それと歩調を合わせて、万人の身勝手な自由が生まれてきた。というのも、かれらは、みずからを識者であるかのようにおもうところから、畏れなきものとなり、その無畏が無恥を生むことになった。思うに、思い上がりのために、自分よりすぐれた人物の意見をおそれないということ、まさにこのことこそ、悪徳ともいうべき無恥であり、それは、あまりにも思い上がった身勝手な自由から生じてきている」(「法律」・岩波文庫、216-217P参照)。

 つまり、プラトンは、この当時の民主政治について、「あまり良くない」と考えていたことが窺える。プラトン曰く概要「みんなうぬぼれてしまい、法律を無視し、自分勝手な行動を取り始める。注意する人がいても、その人の言うことを聞こうとしない。民主政治の現実の姿はこんなものである」。実際、アテネの民主制は次第に混乱して行き、世界政治の中心もローマに移ることになる。ローマでも民主制、貴族制、皇帝制が入り乱れる。

 要するに、民主主義は、仏教の経文のように単に有り難いもの、良いものとして無条件に支持される類のものではなく、逆に人々が好き勝手なことをやって混乱してしまう非常に悪い政治の形なんだという考え方もある、という両面から考察されねばならないということになる。

【近代民主主義概念の再生史】
 この辺りの考察は非常に難しくなるが、西欧ルネサンスを息吹として発生したと考えるのが史実的ではないかと考える。その考察はれんだいこ論文集「ルネサンス論」に譲るとして、ここでは具体的政治的諸制度として如何に生み出されたのかを検証しつつ後付する。

 西欧中世は、キリスト教の聖書的秩序に基づく「王権神授説」(国王の権力は神から授けられたもので、神聖不可侵であるとする政治思想)によりイデオロギー化された「絶対王政」(国王が強い権力をもち、中央集権的な官僚機構や常備軍、地方行政機構が整備された政治体制)にまで辿り着く。例として、イギリスのチューダー朝、スチュアート朝、フランスのブルボン朝、スペインのカルロス1世、フェリペ2世。

 この統治システムに対して、次第に批判的見解が生まれ始める。社会契約説はその代表的なもので、①・市民革命(ブルジョア革命)を支え、近代民主政治を基礎づけた思想、②・王権神授説を批判、③・社会と国家の成立の根拠を、自然権をもつ自由・平等な個人の契約に求める、④・今日の基本的人権の原型となる自然権…人間が生まれながらにしてもっている生命・自由・財産を確保する権利思想を生み出していた。【参考】「自然状態・自然権・国家」(稲葉振一郎・明治学院大学)  「基本的人権保障の思想」(田村 譲・松山大学) 

 社会契約説もその中身は多様で、以下代表的論者を掲げる。
トーマス=ホッブス

 Thomas Hobbes

(1588~1679) (英) 主著『リヴァイアサン』。自然状態を「万人の万人に対する闘争」という戦争状態。自然権を自己保存の権利。理想国家を平和国家。国家と個人の関係を「戦争状態から逃れ、各人が基本的人権を尊重しあって平和に生きるためには、国家の統治者である絶対主権者に自然権を譲渡し、絶対主権者によって平和が維持される」。影響・特徴として、絶対的権力を認め、絶対王政を擁護する結果となった。近代政治の思想・人権思想の原点となった。
ジョン=ロック(英)

 John Locke

(1632~1704) (英) 主著『市民政府(ニ)論』。自然状態を「自由・平等・独立に支えられた平和状態」。自然権を生命・自由・財産権。理想国家を立憲制とし、立法権の執行権に対する優越を説き、権力分立論の先駆をなす。国家と個人の関係を「自然権を守るために国家がつくられる。最高権は人民にあり、、政府はその受託者にすぎない。政府が人民の信託(契約)を裏切って、その人権を踏みにじるようなことがあれば、人民の側はこれに抵抗し、政府を変更する権利(抵抗権=革命権)をもつ」。影響・特徴として、王権神授説を否定。名誉革命を理論的に擁護した。アメリカ独立革命をはじめ各国の市民革命の思想的原動力となった。
モンテスキュー
(C. L. Montesquieu )
1689~1755年 三権分立論 (『法の精神』 1748年)。国家権力を立法、執行、司法の三権に分け、三権相互間の抑制と均衡をはかることによって、権力の乱用が阻止される。
ジャン=ジャック=ルソー

 Jean-Jacques Rousseau

(1712~78) (仏) 主著 『社会契約論』。自然状態を自由・平等で自然と調和した理想的状態。自然権を自由の権利。理想国家を民主制。国家と個人の関係を「国家は、社会全体の利益の実現をめざす人民共通の意思(一般意志)による社会契約によってつくられる。主権は人民にあり、譲渡も分割もできない。政治は人民の一般意志によって行われる」。影響・特徴として、人民主権の概念を確立。フランス革命に大きな影響を与える。直接民主制を説く。

 これらの論考が実践的に試され時がやってくる。市民階級(ブルジョアジー)の成長と共に力を増し、やがて絶対王政との対立・闘争し始め、いわゆる市民革命(ブルジョア革命)を引き起こすことになる。イギリスがこれの先鞭を付け、 1642~49年清教徒(ピューリタン)革命、1688~89年名誉革命。続いて、アメリカの建国過程に現れ、1775~83年のアメリカ独立革命。次いでフランスに飛び火し、1789年~99年のフランス革命へと至る。いずれも市民革命後に近代民主政治の原理を人権宣言や近代憲法によって成文化したところに特質がある。  その法文体系を整理してみると次のように纏めることができる。

基本的人権保障の原理

①・バージニア権利章典(1776年、米) 「すべての人は生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有する」(第1条)、②・フランス人権宣言(1789年、仏)「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」(第1条)【参考】 フランス人権宣言(田村 譲・松山大学)  

国民主権の原理

①アメリカ独立宣言(1776年、米) 「権力は被治者の同意に由来する」【参考】 アメリカ独立宣言・全訳 (『アメリカ独立戦争』(上・下)(学研M文庫)著者のページ)、②フランス人権宣言(1789年、仏) 「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威をおこない得ない」(第3条)

権力分立の原理 フランス人権宣言第16条 「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものでない」
法の支配の原理

市民革命後(17世紀以降)にイギリスで確立した原則。①・「国王は何人の下にもない。しかし,神と法の下にある」(ブラクトン)…マグナ・カルタ当時の裁判官(13世紀)※イギリスの三大憲法文書…「議会の承認なければ課税なし」(財産権) 「法律なくして犯罪なし」(人身の自由)を求める。(1)マグナ・カルタ(大憲章・1215年)…王権を制限し、封建貴族の特権を擁護した。(2)権利請願(1628年)…市民階級による最初の近代民主主義的人権文書、エドワード・コークが起草。(3)権利章典(1689年)…近代議会の基礎を確立→「国王は君臨すれども統治せず」。

 権力者の恣意的支配(人の支配)を排し、治者(権力者)も被治者(国民)もともに自然法・正義法に拘束されるという原理。(1)人権保障のための法、(2)自然法(時代と場所を越えた効力を持つ人類普遍の法)・正義の法の支配、(3)悪法を排除。

法治主義 政治は法律に基づいて行うことが合理的だとする原理(法治行政の原則)。(1)支配の道具としての法  (2)悪法も法なり  (3)法律万能主義。
代表議会民主制

国民が代表者を選出(選挙)し、選出された代表者が立法・行政などの政治を行う→間接民主制、代議制(議会主義)。※「人民の、人民による、人民のための政治」(米大統領リンカーン、ゲティスバーグ演説、1863年) -- and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

   「人民の政治」…国民主権、「人民による政治」…代表民主制、「人民のための政治」…基本的人権保障。【参考】 ゲティスバーグ演説(岡田晃久+ 山形浩生 訳 c 2000 岡田晃久 プロジェクト杉田玄白正式参加)


 第二次世界大戦がおわった直後には、世界中が恒久平和実現への情熱にかりたてられた時期があった。一九四八年一二月一〇日に国連の第三回総会で採択された「世界人権宣言」は、その情熱の具体化であり、そこにはつぎのような人権と言論の自由に関する歴史的 な字句がきざまれていた。まず前文にはこうある。

「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利」「言論および信仰の自由」、「達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する」

 第一九条にはこうある。

「すべての人は、意見及び表現の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見を持つ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」 (『世界人権宣言』の訳による)

 ここで指摘された「あらゆる手段」こそがメディアの機能の問題である。

 歴史的にみると、活字を一本づつひろった技術段階の時代の言論の自由が、一七七六年一月一〇日にフィラデルフィアで『コモン・センス』の発行を可能にし、アメリカ人に独立への決意をうながした。『コモン・センス』でペインは、「イギリスの立憲政の構成部分」を「二つの昔ながらの専制の卑しい遺物と新しい共和政の素材との混合物」として、つぎのように分解して説明する。

 「第一は、国王個人が体現している君主政的専制の遺物。

 第二は、貴族院議員が体現している貴族政的専制の遺物。

 第三は、庶民院議員が体現している新しい共和政の素材であり、イギリスの自由はこの議員たちが備えている美徳に支えられているのである」(『史料が語るアメリカ史』の訳による)

 ただし、「庶民院議員」の「美徳」という評価は、あまりにも理想主義的で、あまかったといわざるをえない。だがこれも時代の制約というしかないだろう。

 『コモン・センス』がフィラデルフィアで発行され、熱狂的なベストセラーとなってから半年後の一七七六年七月四日には、おなじフィラデルフィアでひらかれた大陸会議で「独立宣言」が採択された。起草委員会の中心メンバーだったトマス・ジェファソン(のちの第二代大統領)は上流階級の出身だが、『コモン・センス』の発行以前からペインと親しい仲だったし、ペインの人柄からつよい影響をうけていた。「独立宣言」にはこうある。

「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利をあたえられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追及が含まれている。またこれらの権利を確保するために、人びとの間に政府を作り、その政府には被治者の合意の下で正当な権利が授けられる。そして、いかなる政府といえどもその目的を踏みにじるときには、政府を改廃して新たな政府を設立し、人民の安全と幸福を実現するのにもっともふさわしい原理にもとづいて政府の依って立つ基盤を作り直し、またもっともふさわしい形に権力のありかたを変えるのは、人民の権利である」(『史料が語るアメリカ史』の訳による)

 一七八九年八月二六日にはアメリカ独立宣言の影響のもとで、フランス国民議会が「人間と市民の権利の宣言」を採択する。その前文にはこうある。

「国民議会を構成するフランス人民の代表者たちは、人権についての無知、忘却あるいは軽視のみが、公衆の不幸および政府の腐敗の原因であることにかんがみ、人間のもつ譲渡不可能かつ神聖な自然権を荘重な宣言によって提示することを決意した」

 第一〇条にはこうある。

「いかなる者も、その主義主張について、たとえそれが宗教的なものであっても、その表明が法によって確立された秩序を乱さないのであれば、その表明を妨げられてはならない」

 第一一条にはこうある。

「思想および主義主張の自由な伝達は、人間のもっとも貴重な権利の一つである。それゆえいかなる市民も、法によって定められた場合にはこの自由の濫用について責任を負うという留保付きで、自由に発言し、著作し、出版することができる」 (『資料フランス革命』の訳による)

「市民=視聴者」ではなくて「市民=電波メディア主権者」の意識を確立した市民個々人が、「人間のもっとも貴重な権利」を同時にあらゆるメディアに対して主張することを、私は痛切にもとめる。

 体制側はいま、マルチメディアが「双方向機能」だなどとおおげさに宣伝し、無理を承知で売りこんでいる。だがその前に、人権の擁護と言論の自由の「双方向機能」こそが追及されなければならない。光ファイバ網がなくても、やる気がありさえすれば双方向の意思疎通はいますぐにでも可能である。

 まず最初にそれを実現すべきなのは既存の大手メディアである。まずそれをやって見せてからでなければ、あらたなメディアについての「バラ色の夢」などをかたっても信用すべきではない。現状をそのままにしてあやしげな構想をたかく売りつけようとする相手には、「まずここで飛べ!」と命じてみることだ。


 木村愛二氏の論考「カール・マルクスとその亜流の暴力革命思想への徹底批判(その1)」。
 マルクスは、なぜ、「労働者階級」の概念にこだわり、しかも、その「労働者階級」こそが、きたるべき最終的な革命の担い手であり、その革命によって永遠の「自由の王国」が築かれるのだと、強調したのか。その答えは、今の私にとっては、実に簡単である。マルクスの初期の覚書き、『ドイツ・イデオロギー』は、当然、『資本論』体系以前の著述であるが、そこには、「新しい階級」が、「全社会の代表者として登場」し、「いっそう決定的な、いっそう根本的な、従来の社会状態の否定に向かって努力する」と記されている。自らは「プチ・ブルジョワ」であったマルクスは、自分自身の社会改革の「理想」を実現するために、「プチ・ブルジョワ」とか、「プチ・ブルジョワ的な穏健的社会主義思想」を排撃し、むしろ排他的に「労働者階級」を味方に選び、同時に、きたるべき革命が、「いっそう決定的な、いっそう根本的な、従来の社会状態の否定」でなければならないと決め付けたのである。しかし、この決め付けは、論証抜きの独断でしかなかった。

 以上のような『ドイツ・イデオロギー』の記述は、「初期マルクス」の信奉者、言い換えると、狂信的マルクス主義者たちに愛好されている。だが、そこにこそ、私は、マルクスの基本的な過ちの原因を発見するのである。マルクスは、プルードンらの穏健的社会主義者に打ち勝つためにこそ、その権力闘争の武器としての『資本論』体系を編み出したのである。プルードンらの理論に空想的な欠陥があったのは確かだろうし、
マルクスの理論の中心となった資本主義の分析自体は正しかったのだが、その分析は、マルクスが「労働者階級」を味方に付けるための手段の役割を担ったのである。あえて糞爺とまでは言わないが、それでもあえて言うと、排他的に「労働者階級」を味方に選ぶマルクスに煽られた党派による排他的な陣営の構築の結果は、「いっそう決定的な、いっそう根本的な、従来の社会状態の否定」を怒号する武装革命への傾斜を深め、階級間の闘争だけに止まらず、いわゆる社会主義国家と資本主義国家との間の戦争まで招き、ついには、20世紀の世界を、血みどろの決戦の場と化したのである。この部分の私の意見については、後に、「ホロコースト見直し論の父」とされるポール・ラッシニエの文章を紹介しながら、深めていく予定である。
 私は、マルクスの基本的な誤りは、階級闘争の教条化にあり、彼自身は労働の経験なき知識人であるにも関わらず、「労働者階級」を革命の主体として位置付け、自らの権力意識を満足させるために階級間の憎悪を煽ったことにあると考えています。同様に職場の労働の経験も無く、労働組合運動とは完全に無縁だった赤軍派は、その典型的な鬼っ子です。

 「社会主義」に関しては、言葉自体の原義の吟味もありますが、昨年、「アソシエ」を名乗る集団の仲間から、彼らの理論的な支えとなっている専修大学の栗木安延さんの「カール・コルシュ」研究論文(専修経済学論集1998.7)を頂きました。1923年にあえなく敗北を喫したドイツの武装革命政府で法相になったこともあるコルシュは、 カウツキーにもマルクスにもレーニンにも批判的で、「戦後の労働者自主管理思想の源流」との評価も有る様です。具体的には、労働者生産協同組合の発想です。

 私は武装革命を好みませんが、「労働者自主管理」の歴史的な原型を、たとえば、 フランス革命期の「職安」型地域的組織に求めています。その時代には、社会党も共産党も、まったく存在していなかったのです。私は、当時もギロチンを多用していた 権力主義的な「左翼」政党が、その後も、労働者の自主的な組織を草狩り場にして、 歪め、崩壊させたとさえ考えています。

(私論.私見)
 私は、「マルクスの理論の中心となった資本主義の分析自体は正しかったのだが」の部分を否定しようとしている。ここを肯定してしまうと、マルクス主義批判が滑り始めるのではなかろうかと思っている。





(私論.私見)

――共産主義と民主主義――

    ヨーロッパにおいて2度の大戦後、民主主義は体制の原理となった。
  しかし一方では1917年の2つのロシア革命により、史上初めて共産主義
国家が生まれ、「もう一つに民主主義」が制度化された。
もう一つの民主主義とはヨーロッパで長い間非難され、恐れられた民主主義、
それが悪い意味であった時代に、あえて自ら民主主義を名乗ってはばからなか
  った急進主義、社会主義の思想と運動である。
  ヨーロッパでこうした初期の民主主義の思想を受け継いだのは社会主義であっ
た。それはマルクス流に言うとブルジョワ的民主主義ではなく経済的基礎の変
革、つまり階級の廃絶による民衆の解放を目指すものである。
しかしこうしたジャコバン主義的な運動は、”狂気の年”といわれた1948
年に、全ヨーロッパを吹き荒れた一連の革命の嵐が、それぞれ反動勢力によっ
て鎮圧されるとともに、決定的に退潮する。
しかもそれに代わって、遅い歩みではあっても西ヨーロッパ諸国では少しずつ
  民主主義が立憲政治の枠内で制度化されていくようになる。
社会主義は普通選挙と議会における多数の獲得を目的とするようになったので
ある。
それによって社会民主主義という言葉は、抑圧されるものの権力というかつて
のラディカルな意味から、既存の機構を民主化し、その立憲的ルートを通じて
変革を実現するという新しい意味に動いてくる。
上に述べたフランスでの社会主義者の政権入りの例もこの文脈にあり、これら
参加を通じて労働者は無視することの出来ない権利を獲得し、またそれを蓄積
していった。
ドイツにおいてはどうだったか。
ドイツではビスマルクが1878年、社会主義者鎮圧法を布き、ドイツ社会民
  主党は弾圧を受けた。しかしその弾圧の一方で「飴と鞭」の飴である社会政策
により、労働者は与えるべき物を与えた。こうしたところにラッサール派が成
り立つ立つ所以があったし、労働者の側では政治色をなるべく薄めた文化運動
  として、あるいは大衆団体として自分たちの組織を作ろうとした。
そのため1890年に社会主義者鎮圧法が撤廃されるとドイツ社会民主党は急
激に勢力を伸ばし、やがて第二インターナショナルの中心ともなった。
こうした状況でマルクスの「絶対窮乏化」や「階級分化」、「両極分解」とい
うテーゼに対する疑念が出てきた。ベルンシュタインやジャン・ジョレスらの
修正主義者が既存の機構を通じての段階的改良を主張し始めた。
しかも第二次世界大戦が勃発すると各国に社会主義者は全て祖国を擁護し戦争
  支持に走り、平和主義を掲げていた第二インターは一気に崩壊してしまった。
  こうした西ヨーロッパ、中部ヨーロッパの形勢に対して、東のロシア帝国では
条件は全く異なっていた。
  そこでは支配体制は専制的なツァーリズムであり、資本主義の発達は遅れ、従
って産業労働者は少なく、しかも戦争になれば社会主義者の多数は簡単に愛国
主義者にとらえれる有り様であった。
  そういう状況でこの帝政ロシアの権力に、ヨーロッパにおける全ての反動が結
集していることを認め、正にそれを打ち破ることによって、世界革命の展望を
開く可能性を見ていたのがレーニンであった。
  レーニンが描いたのは大戦の敗戦を革命に転化し、世界革命に突き進むシナリ
  オであった。
レーニンは革命を目的意識を持って組織し、革命後も特殊な事情として前衛党
  によるジャコバン独裁的な体制を採った。そしてその下で労働者を政治化、自
  律化していくことを狙った。
ここで犠牲にされた民主的な要素はやがて起きる世界革命により、ロシアの後
  進性の制約が国際化と共に取り除かれるという期待を支えにしていた。
しかし世界革命は起こらないままレーニンは亡くなった。
そして1926年、永久革命を説いたトロツキーを追って、レーニンが一国社
  会主義を掲げリーダーシップを採り、次第に彼の個人的権力が確立された。
ここに至りロシアのおける民主主義は性格を変え、革命運動と、民衆の底辺か
らの政治化という初期の色彩は急激に失われ、代わって官僚制的な機構と秩序
が固められた。
こうした性格は冷戦時代のイデオロギーと重なり、思想統制的側面を強め、
全体主義社会が形成されていった。
  ではこうした「転落」を導いたのは何か。
  それは(1)革命後の干渉戦争の経験により、自衛のために武器を含めての
産業の近代化、工業化を図らなくてはならなかったこと。
つまり近代的資本主義の生産様式からの人々の解放→無限の生産力の解放、
というマルクス的共産主義が初期の段階から阻まれたということ。
(2)しかも工業の近代化を図る、その手段として官僚制が欠かせなかった
  ということ、それにより平等主義は根本から空洞化していかざるを得なかっ
たこと、等が考えられる。
このように共産主義が目指した「もう一つの民主主義」は現実政治の中で、
その本来目指した方向とはかけ離れてしまった。
しかもソ連とは異なる独自の政策を採ったユーゴとの比較でも経済成長の面
  では(党)独裁を布いたソ連の方が上回っていたという事実は後進国におけ
  る共産主義的「民主主義」の困難とも読みとれる。
  著者はハンガリー動乱やチェコの例を挙げ、”人間の顔を持った社会主義”
という「希望」はソ連の影響からフリーな西ヨーロッパにおけるいわゆる
”ユーロ・コミュニズム”であり、その東側への思想的影響であるというの
は否定できない現実である、と述べてこの説を締めくくっている。




民主主義の色々な形 早川誠 2002年11月3日立正大学熊谷オープンキャンパス模擬授業 於6102教室

 いったい民主主義の「定義」ってどんなものなのでしょう。例えば、数学で「円」の定義といったら、「中心から等距離にある点の軌跡」でしょうし、「三角形」の定義ならば、「三つの点を結ぶ線分によってできる図形」となりますよね。

 ギリシアの都市国家アテネで民主政治が成立
 イギリスで模範議会開催 フランスで三部会開催
 絶対主義体制の確立する
 ドイツでナチスが政権を掌握

1295年 イギリスで模範議会開催  1302年 フランスで三部会開催

議会は、民主主義とはあまり関係のない場所でその産声をあげた

現代に通じる議会の起源は、イギリスの模範議会やフランスの三部会などの「身分制議会」に求めることができる。中世ヨーロッパにおいて、国王の権力はそれほど強大なものではなく、貴族(封建領主)との協力関係をたえず必要としていた。さらに、国家の規模や制度が拡大することにともない、国家予算は王領の税収だけではまかないきれなくなりつつあった。このため、国王は封建社会を維持するために、貴族・聖職者・市民(都市の富裕な商工業者)の代表を集め、彼らに課税の承認を求めるようになった。これが身分制議会の成立した背景である。身分制議会においては、現代の議会にみられるような「国民代表」としての意識は薄い。彼らは特定の身分の権益を守るために議会へ出席するのであり、国王に対して協力的であることも多かった。また、国王も議会の決定を厳密に守ったわけではなく、その決定が破られることもしばしばあった。

15世紀~16世紀ごろ 絶対主義体制の確立

「朕は国家なり」(フランスの絶対君主ルイ14世の言葉)

商工業の発達、ルネサンス、宗教改革、活版印刷による言論の普及、新大陸への到達、黒死病の流行、相次ぐ戦乱などにより、今まで中世ヨーロッパを支えていた封建制度はしだいに崩れていった。国家の領域もさらに拡大し、もはや古代の都市国家のように同質な人間が住む共同体社会ではなく、様々な利害関係を持つ個人や集団が並立する近代社会が誕生しつつあった。社会は協調関係にあるよりはむしろ対立関係にあり、特に、新興勢力として発展しつつあった富裕市民(ブルジョワジー)と、旧来の権益を守ろうとする封建領主との利害の対立が大きくなった。 国王はやがて富裕市民と手を組み、封建領主から徐々に権限を奪っていった。そして官僚機構や常備軍を整備して中央集権化を進めていった。さらに中世において支配的であったキリスト教の権威に理論的な対抗を試みるために「主権」(国家を統治する最高権力)を主張した。このようにして成立した政治体制は絶対主義体制と呼ばれている。

この絶対主義体制の確立と王権の拡大により、身分制議会も開催されなくなることもあった。国王と市民の利益は当初は一致していたが、やがて社会の進歩と共に、国王の政策が経済の発展を阻害するようになる。市民は政治へ参加する権利を求めはじめた。国王の主権は神から与えられたものであり不可侵であるとする「王権神授説」が絶対主義体制を支える理論的根拠であったが、王権神授説に対抗する思想として「社会契約説」が考案されることになる。

1933年 ドイツでナチスが政権を掌握

当時、世界で有数の進歩的な民主主義国で行われた、民主的な総選挙。その総選挙で、大勢の人々の拍手と喝采に包まれて第1党となったのは、議会を否定する政党だった。

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、多額の賠償金を科せられ、国内では深刻なインフレと失業者の増大に悩まされていた。大戦後のドイツには普通選挙権や社会権を保障した高度な民主主義体制が築かれていたが、各政党はドイツ経済を立て直す抜本的な政策を打ち出すことができず、人々の政治に対する失望や無力感が募っていった。

そこに、まったく新しいスタイルをもった政党が現れる。その政党は、危機に対し無力を露呈した議会を激しく批判し、派手な大衆運動と過激な主張で次々に支持を広げていった。その政党こそが、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)である。ナチスはやがて総選挙で大勝利を収め、党首ヒトラーは合法的に独裁制を実現させた。ナチス以外の政党の活動は禁じられ、議会は総統の決定を拍手で承認する機関にすぎなくなった。ナチスの政権運営の本質は、官僚による統制経済にある。この統制経済が、国内の失業問題を一気に解決し、国民にはレジャーを楽しむ時間も与えられた。さらに、ほとんどのマス・メディアがナチスの統制下におかれ、ナチスは映画や音楽などを使って大衆を扇動することに成功した。

このナチスの理論家に、公法学者シュミットがいる。シュミットは、議会制民主主義の問題点を鋭く指摘したことで知られている。彼は、自由主義と民主主義を区別するべきであると唱えた。民主主義は議会制民主主義によって実現されるのではなく、議会の根本は自由主義であり、これは民主主義とは本来異質であるとした。多数決が真実に近いとする考えは本来は自由主義に基づくものであり、「大衆の意思」の実現を理念とする民主主義は、多数決を否定しても実現しうる。むしろ多数決や議会政治は、選挙民の意思をはなれた場所で「代表」が駆け引きや妥協による無力を演じている。ナチスの出現は、このような代表制による大衆の意思の疎外を廃し、大衆の拍手と歓呼で強力に政治を推進し、失業問題の解決という大衆の意思を実現させた。このような論拠に立ち、彼はヒトラーによる独裁政権が民主主義的であるとした。さらに彼は、秘密投票にも批判を展開した。秘密投票は、選挙民を「個人」に還元させてしまう。誰にも自分の意思決定が見られることはないので、それぞれの個人が「私的」な部分を持つことになる。公開の場で拍手や喝采で意思表示をしないような人の見解も大きな影響力を持ち、秘密投票による意思決定は「私的」なものになってしまうと主張した。

ナチス政権は、やがて戦争への道を歩むことになる。さらに、反ナチ的な書物を焼き払い、反対者やユダヤ人を徹底的に弾圧した。詩人ハイネの言葉に、「本を焼く者はやがて人を焼くようになる」という言葉があるが、まさにその道を歩むことになったのである。ナチスの出現は、現代に消えることのない悲劇の烙印を押した。しかし、悲劇であることを理由に、ナチスの発展過程を(マス・メディアを使った大衆扇動によってだまされていただけ、などのように)矮小化してしまうだけでは、歴史の教訓を次代へ活かしていくことができない。ナチスによる民主主義批判はいかなる構造を持っていたのか、その批判に対して議会政治の優位性を主張するためには、いかなる解答を考案していくべきなのか。現代民主主義の一つの重要な課題であるといえるだろう。


§1.自由主義・民主主義の発展

イギリスの議会制民主主義
 イギリスではビクトリア女王(在位1837~1901)のもとで、保守党と自由党が交互に政権を担当し、議会制民主主義が順調に発展した。1867年には第2回選挙法改正が行われて、都市の労働者に選挙権が与えられ、さらにのち、1884年には第3回選挙法改正が行われて農業労働者にも選挙権が広げられた。この間、グラッドストン(1809~1898)の自由党内閣は、公立学校の設立(1870年の「教育法」)、労働組合の承認(1871年の「労働組合法」)、秘密投票制の実施などもっぱら内閣重点をおく政治を行い、またアイルランド問題の解決につとめた。
アイルランド問題
 アイルランド人はイギリスの征服を受けて、みじめな生活をしいられていたが、1829年のカトリック教徒解放法によって、一応宗教的差別だけは解放された。しかしこのころからイギリス人地主の「囲い込み」が行われ、さらに1840年代の凶作でアイルランド人の生活が極端に悪化したのでアイルランド人は政治的・社会的改革を求めて運動を起こすようになった。この時多数の餓死者を出したことは問題をいっそう深刻なものにしたので、1870年、グラッドストン内閣は、アイルランド土地法を制定して小作権の安定をはかった。しかしアイルランド人の不満は解消せず、1880年には「土地戦争」とよばれる大規模な農民の反抗さえもおこった。こうしてアイルランド問題はその後も重要な問題として残されることとなった。
イギリスとアイルランド
1649  クロムウェルの侵略
1652  アイルランド植民法
1798  ユナイテッド―アイリッシュメン(1791設立)の蜂起、鎮圧される
1801  イギリス、アイルランドを併合
1829  カトリック教徒解放法
1845
~47
 アイルランドの大飢饉
1870  アイルランド土地法制定
1880  土地を要求する「土地戦争」おこる。ボイコット事件
1907  シン―フェイン党成立
1916  イースター蜂起
1922  アイルランド自由国成立
1949  アイルランド共和国成立
ナポレオン3世時代のフランス
 フランスではルイ=ナポレオンが1851年、大統領の任期が切れる直前にクーデターをおこして共和派を議会から追放し、さらに翌年、国民投票によって皇帝となり、ナポレオン3世と称した(第2帝政)。第2帝政は、男子普通選挙を実施したとはいえ、議会の権限はほとんどなく、事実上ナポレオン3世の独裁が行われた。ナポレオン3世は、産業を保護して資本主義の発展に力をつくすとともに積極的に対外進出を試み、クリミア戦争(1853~1856)でロシアをおさえ、イタリア統一戦争(1859年)(§2参照)に干渉し、アジアではアロー号事件(1856年)に乗じて中国に進出し、ベトナムにも領土を獲得した(1862)。しかし、メキシコ遠征(1861~1867)の失敗によって、かれの政策はゆきづまり、共和派や社会主義派の勢力が強まるようになった。そこでかれは情勢の打開をはかってプロイセンに干渉し、1870年、プロイセン―フランス戦争(普仏戦争)(§2参照)をおこしたが敗れ、かれ自身捕虜となった。

第3共和制
 この報道がパリに伝わると、無気力な敗戦に憤ったパリ民衆は、議会に帝政の廃止を宣言させ(9月)、共和制の樹立を要求した。その結果、共和制を中心に国防仮政府が成立し、民衆も武器をとってパリを囲んだドイツママ軍と戦った。(ママというのはそのまま書いたという意味です。)(オイオイ!このときはまだ、ドイツ軍と表現するよりもプロイセン軍といったほうがいいのでは (^_^;))
しかし、1871年1月、仮政府がドイツと休戦し、その後チェール(1797~1877)の組織した新政府がドイツと不利な講和を結ぶと、これを不満としたパリ民衆は同年3月、政府に反抗してパリ-コンミューン(自治政府)を成立させた。(パリ-コミューンともいう。っていうかこっちの方が一般的だよね。教科書がコミューンって書いてあったんでそのまま書いたわけで、いつもの間違いじゃないですよ。(^_^;))しかしコンミューンは、まもなくドイツの援助によって強化された政府軍の攻撃を受け、激しい抵抗を最後に崩壊した(5月)。パリ-コンミューンは、社会主義の政権ではなかったが、急進的な市民や労働者が組織したものであったから、その後の社会主義の運動に大きな影響を与えた。
パリ-コンミューンの結成
その後、フランスでは王党派と共和派の対立が続いたが、1875年、憲法が制定され、第3共和制の基礎が確立した。しかし、議会は当時の国情を反映して小党分立の傾向が強く、政局は安定を欠くことが多かった。

諸国の改革
 その他の諸国でも19世紀以後、しだいに自由主義的な改革が実施された。オランダでは、二月革命の影響を受けて責任内閣制が確立した。ベルギーは独立後、責任内閣制を定めていたが、19世紀末には普通選挙制を実施した。スイスは、1848年、アメリカ合衆国の憲法を模倣した民主的な連邦憲法を制定し、さらに19世紀後半には、男子普通選挙制を実施した。フィンランドは、ウィーン会議後、ロシア領となったが、その後も自治権をもち続け、20世紀初めには男女平等の普通選挙制を実施した(ロシア革命を機に独立)。スウェーデンは19世紀校の後半、責任内閣制を確立し、選挙権をひろげ、また、早くから婦人解放運動もさかんであった。ノルウェーは、ウィーン会議後、スウェーデン領となったが、19世紀後半に、スウェーデンと争って主権を事実上議会の手にとりもどし(1905年、独立)、20世紀初めには男女平等の普通選挙制を確立した。デンマーク二月革命に影響を受けて翌年憲法を制定し、立憲君主国となり、20世紀はじめには責任内閣制を確立し、やがて男女平等の普通選挙制を実施した。これらの諸国は国際紛争に加わることをさけ、経済を発展させながら社会政策の推進に力をそそいだ。(ふ~ん。そういうわけで、今日北欧では福祉先進国が多いのか(@。@))(ただ、第二次世界大戦中はノルウェー、デンマークはドイツ軍にアッという間に占領され、フィンランドはロシアと仲が悪かったためドイツ側に立って参戦したようですが。・・・・・・)

用語解説
囲い込み
 たぶん囲い込み政策のことを言っているのでしょう。
広辞苑CD-ROM版によるとエンクロージュアとも言うらしく、
エンクロージュア【enclosure】
 中世末以降のヨーロッパ、特にイギリスで、領主・地主などが牧羊業や集約農業を営むため、共同放牧場などを囲い込み、土地に対する共同権を排除し、私有地であることを明示したこと。囲い込み。
だそうです。

責任内閣
私も含めて政治に疎い日本人は、責任内閣といわれても何の事やらわからないので、ちょっと調べてみた。またまた広辞苑CD-ROM版によると
 議会の信任の如何によって進退を決する内閣で、議院内閣制における内閣の条件のひとつ。
だそうです。

ウィーン会議
 ナポレオン戦争後、ナポレオンが没落した後、ロシア・プロイセン・オーストリア・イギリス・フランスなどがフランス革命戦争およびナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序の再建を図るために一八一四年九月から翌年六月までウィーンで開かれた国際会議。会議は旧王朝の復帰を目ざす正統主義と勢力均衡の原則とに支配されたが、領土配分問題でしばしば難航したようです。そのウィーン会議後の国際秩序をウィーン体制といいます。(広辞苑CD-ROM版を参照しました。便利便利!広辞苑。(^_^;))

二月革命
 一八四八年二月二二~二四日、パリに起った革命。七月革命(ウィーン体制下のフランスで生じた王政に不満をいだくパリ民衆が蜂起した革命)以来王位についていたルイ=フィリップを追放し、第二共和制を成立させた。これを契機としてヨーロッパ諸国に自由主義革命運動が勃発、ウィーンやベルリンで三月革命が起り、ウィーン体制は崩壊。(注釈以外 広辞苑CD-ROM版ほとんど丸写し。)

●「近代型民主主義」の特徴

   自由民主主義(Liberal Democracy)

自由主義との結合 → 制約つきの民主主義

   国民主義的/国家主義的民主主義(National Democracy)

領域国家 → 「主権」の確立の歴史的先行

共同性の創出 → 作為・仮想としての「国民」イデオロギー

   代議制民主主義(Representative Democracy)

直接民主制の物理的困難 → 代表制

自由主義的正当化

   資本主義的民主主義(Capitalist Democracy)

政治的市民=経済的人間

資本主義による不平等の蓄積と平等主義的民主主義の対立

 

●「民主主義」の本質的特徴

全市民の平等かつ自由な発言権の確保

対等な討論・説得の活動

→近代的諸条件との整合性


2. 「エリート民主主義」と「参加民主主義」

 

●「人民の人民による人民のための政府」?

「人民による」 → 近代の条件の下では実現不可能

「人民のための」 → 「人民の利益」は「人民」に理解可能か?

 

●シュンペーターの批判

「民主主義的方法とは、政治的決定に到達するためのひとつの制度的装置であって、人民の意志を具現するために集められるべき代表者を選出することによって、人民自らが問題の決定をなし、それによって公共の利益を実現しようとするものである」

     「人民の意志」ないし「公共の利益」なるものは、常に存在するとは限らない

→ 価値観の対立

② 「合理的判断」に要求される知的レベルの高さ

→ 市民の思考・行動の非合理性・衝動性

価値観の対立

② 「合理的判断」に要求される知的レベルの高さ

→ 市民の思考・行動の非合理性・衝動性→ 宣伝・広告

 

●シュンペーターの「民主主義」論

「民主主義的方法とは、政治的決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争を行うことにより決定力を得るような制度的装置である」

→ 政策の決定ではなく、政策決定者の決定

メリット

     民主主義の手続き的基準の明確化

     リーダーシップの具体的分析

     集団とリーダーとの関係の具体的分析

     「自由投票を獲得するための自由競争」=「選挙」の重要性

     自由主義との論理的結合

     政府追放機能の明確化

→近代民主主義の最小限定義としてのシュンペーターの定義

⇔「参加民主主義論」=政治参加の役割の強調

→近代的条件との対立/自由主義との対立/分析的無意味性

 

【参考文献】

M. I. フィンレイ、『民主主義-古代と近代』、刀水書房、1991

J. A. シュンペーター、『資本主義・社会主義・民主主義』(新装版)、東洋経済新報社、1995

村田邦夫、『史的システムとしての民主主義』、晃洋書房、1999

千葉真、『デモクラシー』、岩波書店、2000