自由党政権史 吉田ワンマン体制下で戦後再建着々進む

【幻の山崎猛首班構想】
 芦田内閣総辞職後、GHQの後押しで民自党幹事長山崎猛の首班構想が画策された。10.7日、民生局次長・ケージスの次の言葉が伝えられている。
 「次期首班を、野党第一党の自由党が占めることは憲政の常道として認める。しかし、総裁の吉田茂は、超保守的(ウルトラ・コンサバティブ)で、首相として好ましい人物ではない。幹事長の山崎猛を首相とすることが望ましい。この山崎内閣は、諸般の情勢からして、自由党の単独内閣ではなく、共産党を除く、各党の挙国一致連立内閣であることを期待する」(戸川猪佐武「小説吉田学校」)。

 つまり、総裁の吉田ではなく、幹事長の山崎を次期首相に期待したことになる。

 敗戦よりこの時まで歴代内閣にあっては、原則において、GHQの指示や指令、示唆の枠外に出ることは許されていなかった。問題は、このたびのケージスの「山崎首班挙国連合論」がGHQの絶対命令的指令なのか要望なのかやや不明であったことにあった。筆頭副幹事長広川弘禅と顧問星島次郎がこの線でまとめ役になった。この動きの背景には、第一次吉田内閣時に吉田が党人派を冷遇していたことが伏流していた。

 10.10日、総務会が開かれ、吉田の総裁辞意表明、山崎擁立の手はず通りに議事が進行していった。ところが、この時一年生議員田中角栄が「ちょっと待った。会長、発言を求めます」と立ち上がった。発言の認可を得た後、「私には、何としても解せません。もちろん、我が国は敗戦国だ。が、いかに敗戦国だろうと、筋が違う。アメリカの内政干渉をやらせてはいけない。総裁である吉田首班で行くのが憲政の常道ではないかと私は思う」と主張した。ここから議論の流れが一変し、「吉田首班で行け!」、「GHQの遣り方は間違っている」という結論になった。

 10.14日、山崎は突如議員を辞職した。GHQの意向であると言う錦の御旗に乗って騒動を起こしたことに責任を取った形となった。戸川猪佐武「小説吉田学校」は次のように記している。
 「約1週間にわたって、政界を騒然とさせた山崎首班問題は、虹のように跡形無く消えていった。総司令部民政局からは、何の意向も示されなかった」。

【ポスト芦田の後継争い】
 10.14日、国会で首班指名の選挙が行われた。自由党が少数党であったため、決選投票となった。衆議院では、吉田茂184票、片山哲87票、三木武夫28票、黒田寿男9票、徳田球一4票、斎藤晃1票、民主党は白票86票、無効1票となり、1位の吉田は過半数を制せず決選投票となった。決選投票では、吉田185票、片山1票、民主・社会党の大部分が白票213票で、民主自由党総裁吉田が首班指名を獲得した。

【吉田内閣時代】
(総評)サンフランシスコ条約で国家の独立と日米安保条約の締結。ワンマン体制による長期支配。
 1948(昭和23)10.19日、民自党総裁の吉田茂氏第二次吉田内閣(48.10.19〜49.2)を組閣した。このことの政治史的意味は、ここに初めて戦後保守系の本格的な安定政権が誕生したということである。「本格的」とは、政治に責任を持って事に処するという意味においてであり、「安定」とは、そういう政治に対し多くの国民的支持が寄せられることになった、という意味である。このことは、結局、戦後の混乱を収拾させ新秩序敷設に向かったのは吉田茂を筆頭とする官僚派であり、日本再建は彼らの手に委ねられたことを意味している。吉田は官界から有能人士を抜擢し、将来の後継者作りにも腐心している。そうした吉田の偉いところは、官僚畑のみならず党人派あるいは産業界にも目を向け逸材を拾い出していることである。

 吉田は連立策を取らず民自党の単独少数内閣をつくった。官房長官に前運輸次官佐藤栄作、副総理に林譲治、幹事長広川弘禅を布陣した。佐藤栄作が大抜擢されたことになる。内閣官房次長に橋本龍伍を補任経済安定本部・中央経済調査庁・物価庁の各長官は泉山蔵相が兼任。田中角栄について次のように語られている。
 概要「それから、総務会でだ、山崎首班はおかしいと、勇ましい演説をした男。若いのにひげをはやしていたチョンガリ(浪曲)風の声からしてなかなか宜しい。そう、その田中君をだ、どこかの政務次官に起用してくれたまえ」。

 後日の判明で、幣原と池田セイヒン(池田成彬・三井財閥の大御所)の推薦もあったと伝えられている。こうして、弱冠29歳の角栄が法務政務次官に抜擢された。後日の判明で、幣原と池田セイヒン(池田成彬・三井財閥の大御所)の推薦もあったと伝えられている。「吉田茂は、小学校卒で土建屋上がりの田中が法律にめっぽう詳しいのに感心して、一年生議員をいきなり法務政務次官に抜擢したと云われている」(田原「使える男・角栄誕生」)。

 第二次内閣は発足したものの、自由党が少数与党である状況には変わりはなかった。そこで吉田は早期に国会を解散して多数を確保しようと考えていた。ところが、期待していた山崎首班を潰されたGHQ、特にGSは反撃に出、憲法上内閣に解散権はないとの見解をしめし、吉田を少数与党の位置に置こうとしていた。吉田はマッカーサーと直接会見して、翌年早期の解散を認められた。

 1949(昭和24)1.23日、戦後第3回目の衆議院総選挙(第24回)が行われた。吉田民主自由党.共産党の勝利だった。社会党は大幅に議席を失った。民自党は264(←解散時152)は単独過半数獲得、民主党69(←90名)、社会党48(←111名)、共産党35(←4名)、国協党14(←29名)、労働者農民党7(←12名)、その他29名となった。昭和24年初頭のこの総選挙では自由党は大勝し、一気に単独過半数を確保した。またこの総選挙では吉田の引きで政界入りした元官僚が大量に当選した。その中には池田勇人、佐藤栄作、岡崎勝男、前尾繁三郎などが含まれている。吉田は従来からの党人にかえてこれらの官僚を自分の爪牙として重用した。マッカーサー元帥は、選挙の結果に対して、「今回の選挙は、アジアの歴史上の一危機において、日本国民は政治の保守的な考え方に対し、明確なしかも決定的な委任を与えた」と、満足の意を表した。

 民主自由党は264議席(←152名)という衆議院の絶対多数(単独過半数)を獲得し、2.14日、民主党内が入閣問題で連立派と野党派(閣外協力派)に分裂。連立派は、犬養健、保利茂、木村小左衛門、小坂善太郎、坪川信三、橘直治、中垣国男らの面々約32名であった。野党派の議員の顔ぶれは、苫米地義三、北村徳太郎、千葉三郎、中曽根康弘、園田直、川崎秀二、小川半次、稲葉修、有田喜一らであった。

 社会党の惨敗が目を覆った。社会党48(←111名)、民主党69(←90名)となり、社会党−民主党連合政権が労働者大衆の厳しい審判にさらされたということになる。特に社会党は、前首相片山からして落選、副総理・西尾、労働大臣・加藤勘十、同夫人シズエ、国務大臣野溝勝、冨吉栄二、吉川兼光、原彪、菊川忠雄、島上善五郎、山花らの党幹部が軒並み落選、中央執行委員総数26名中、実に半数を超える14名が落選し、結党以来最大のピンチを迎えた。

 この時共産党は、選挙前の4議席から35議席、約300万票(得票数・約100万票→298万4771票、得票率・3.7%→9.8%)を獲得するという大躍進を果たした。これにより院内交渉団体としての権利を獲得した。この結果は、社会党政権への失望と反発により共産党に票が向かったゆえと考えられる。あるいは、徳球執行部の議会闘争が経験を積み重ね、漸く実を結び始めたとも考えられる。注目すべきこととして東京全7区で当選している。うち1区の野坂参三、5区の神山茂、6区の聴濤克巳は最高点。大阪でも1区の志賀義雄、2区の川上貫一、3区の横田甚太郎が最高点当選し、5区を除いて全区で当選した。都会地における中小市民.インテリ層が社会党から共産党へ支持替えしたことが明らかにされた。

 この総選挙の結果は、この間の徳球−野坂指導路線に基づく議会闘争の一定の成果であった。既述したように党の指導方針は二元的二頭立てでは有ったが、そのおかげともいうべきか諸戦線に活動を広げていた。その結果が選挙における大躍進であったと総括できる。徳球−野坂体制は宮顕グループによる分派的な不統一を内包しながらも執行部指導の成果を生み出しつつあったとみなすことが出来るであろう。党は、この選挙の結果、人民政権近しの見通しを立てることになった。
徳球は、2月の党中央委員会総会で「反動中の反動、民自党が過半数を占めたことは、決して我々が勝利に酔っ払っておるときではなく、更に緊張し、一層の奮闘をしなければ為らないときであることを教えている」と報告している。

 総選挙をうけて吉田は第三次内閣を組織した。この内閣では、初当選したばかりの池田が大蔵大臣の要職を占めていた。池田はドッジラインにのっとった経済改革を推し進めた。また吉田は池田蔵相を特使としてワシントンに派遣した。表向きの任務は日米経済会議だが、その実は対日講和に関して米政府の意向を探ることにあった。当時すでに冷戦の萌芽が見えはじめており、アメリカは日本を重要な前進基地とみなしていた。国防省ではできるだけ永く日本を占領下において米軍基地を確保しつづけようと考えていた。池田は国防省の意向を覆すことはできなかったが、日本が早期講和を希望していることを伝えるとともに、早期講和に同調する勢力が米政府内にも存在することを確認し、ある程度の手応えを持って帰国することができた。

 この頃から日本の再軍備への転換が急がれることになった。これは、「GHQ」にとって、早晩予想される朝鮮戦争に対する後方支援基地として日本にその役割を担わさせるために必要な政策転換であり、地政学的な必要があったという事情により、吉田内閣はこの要請に応えていくという使命を担わされることになる。国内的にも公然と独占資本主義の再建工作に着手していくこととなった。 このたびの吉田内閣の成立は、GHQ内のGS路線からG2路線への転換を明確に象徴しており、国内での中道内閣の終焉を決定づけるターニング.ポイントでもあった。

 12.18日、GHQは日本経済再建に関する9原則=ドッジ.ラインを発表した。ワシントン発有無を言わさぬ強権的手法で日本経済再建に乗り出そうとする計画書であった。「日本人の生活のあらゆる面において、より以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自由の一部の、一時的な放棄を求めるものである」としていた。驚くことに、この計画に対して、社会党、労働組合は云うに及ばず共産党も期待表明しているようである。日本左派運動の質が透けて見えて来る話であろう。

 以降、第二次から五次まで足掛け6年にわたる吉田内閣時代となり戦後政治の基盤を整序する。翌1949(昭和24)1月の総選挙で圧倒的勝利をおさめるにおよんで、ようやく長期安定政権の基礎が固められることになる。

 吉田が目指した早期講和に冷水を浴びせたのが、昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争であった。朝鮮半島での戦闘が激化すれば、それだけ後背基地たる日本の戦略的重要性は増す。国防省が日本を占領し続けて基地使用の便宜を確保しようとするのは必然であった。しかし実際には朝鮮戦争はむしろ講和を促進する作用をも果たした。当時極東米軍は慢性的な兵力不足に悩まされていた。東西対決の正面を欧州地域と見なしていたアメリカにとって、極東は所詮裏口だった。戦後の和平ムードにのって戦力の大幅削減を実施していた米軍の主戦力は欧州に充当されざるを得ず、いきおい極東に回される兵力は乏しくなる。そこに起こったのが朝鮮戦争であった。ただでさえ足りない兵力は朝鮮半島にとられ、しかも本国からの補充兵力はない。マッカーサーが日本防衛に不安を覚えるのは当然のことであった。このためマッカーサーは日本自身に日本を防衛させるという重大な方針転換を行なう。この結果生まれたのが警察予備隊で、これがのちに保安隊を経て自衛隊となる。

 国務省では、日本に防衛という義務を負わせた上で米軍が占領を継続するというのでは日本人の強い反発を買うだろうという意見が生まれ、またこれまで早期講和反対の急先鋒だった国防省でも、日本自身に防衛力を持たせた上で西側陣営に引き込んだ方が得策という計算からも、むしろ講和を促進して日本を国際社会の一員として(ただしあくまでも米国の同盟国として)自立させるべきであるとの判断から、早期講和の気運は急速に高まった。

 吉田は、講和後も米軍の国内駐留を認めれば国防省の懸念は解消し、講和への障害はなくなると判断して安保条約との抱き合わせによる講和を目指した。この作戦は図に当たり、昭和26年にはサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本は独立を回復する。この講和はいわゆる「全面講和論」を排して西側諸国だけとの講和を調印した。同時に調印された安保条約によって、日本はアメリカの核の傘の下で「軽武装、経済重視」政策を突き進む道を選択することになった。

 講和による独立の回復は吉田の勢威を大いに高めたが、その一方で吉田政権の屋台骨を揺るがすひとつの要素をももたらした。それは占領軍の指示により公職から追放されていた戦前型政治家たちの追放解除にともなう政界復活であった。吉田は「個別審査」によって彼らの追放解除をできるだけ遅らせようとしたが、いずれ彼らの復活は避けられなかった。その中でも元自由党総裁の鳩山一郎、そして三木武吉、河野一郎の復活は吉田にとってもっとも痛手であった。鳩山らは初め、自由党へ復党せずに反吉田陣営を糾合して新党を結成しようと考えていた。しかし追放解除直後に鳩山自身が脳溢血で倒れ半身不随となり、自由党に復党せざるを得なくなる。鳩山の以後の経過は良好で、政治活動に支障がない程度まで回復したが、吉田は「病人の鳩山に日本は任せられない」として政権に居座った。追放解除後の政権禅譲という黙約に期待していた鳩山らはこれに反発、党民主化同盟(鳩山民同)を結成して本格的な反吉田運動を開始した。

 この間、日本経済の再建、朝鮮動乱時の対応、平和条約締結による独立の回復と国際社会への復帰等、歴史に残る偉業を達成する。

 自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。

 「吉田内閣時代の不滅の功績は、何といっても、26.9.8日、サンフランシスコで調印された平和条約による独立の回復と、日米安全保障条約によるわが国の平和と安全の確保でありましょう。当時、その前年に突発した朝鮮動乱と、冷戦時代の深刻な東西対立という国際情勢を背景に、共産党、社会党左派、左翼的文化人の間には、『全面講和・安保阻止』の主張が異常な高まりを示していたのです。しかし吉田首相は、毅然として所信を貫き、これらの反対論を押しきって『多数講和・安保締結』に踏み切ったのでした。

 その後の歴史にてらして、この両条約の締結が、わが国の平和と安全を守り、国民の自由を取り戻し、やがて世界の歴史に類をみない経済的繁栄をもたらす前提となったことは、あまりにも明らかであり、その意味で、吉田首相および自由民主主義政党の決断は、歴史的な選択として、長く後世に残る偉業だったというべきでしょう」。

 この自民党史は次の点で興味深い。これによれば、吉田首相は、サンフランシスコ条約で国家の独立に漕ぎ着けたこと、日米安保条約による日本の平和と安全の確保という路線を敷いたことで「歴史の偉業」として評価されている。ところが奇妙なことに、日本共産党はこの歴史的出来事を全く無視して、今日においても「日本の対米従属国家論」を一貫して党是としている。その論ずるところを聞き分けるのに、そのように規定することにより日本左派運動の方向を民族独立運動へと指針させたいという意図以外には見えてこない。その真の意図は、社会主義運動はまだ早すぎる、そちらの方向には向かわせないというところにあるように見える。しかし、このように意図的にボタンを掛け違うと、至るところで辻褄が合わなくなるのは必死である。これを覆い隠すのに用意された狡知が党員白痴化政策であり、その頭脳のロボトミー化であり、党内の強権支配である。

 話を戻して。自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。

 「独立回復後、吉田内閣はさらに、(1)・自由国家群との提携、(2)・国力の充実と民生の安定および自衛力の漸増的強化、(3)・国土開発、生産増強、貿易振興による経済自立などの『独立新政策』を打ち出し、独立体制の整備と民生安定、経済再建をめざす諸施策に意欲的に取り組みました。

 すなわち、昭和26年から翌27年にかけて制定された「破壊活動防止法」、「義務教育費国庫負担法」、「電源開発促進法」、「新警察法」、「防衛庁設置法および自衛隊法」、「義務教育諸学校の教育の政治的中立の確保に関する臨時特例法」、「電気事業、石炭鉱業におけるスト規制法」、「厚生年金保険法」、「学校給食法」「硫安需給安定法」等の重要立法がそれです」。

 これによれば、吉田内閣の三本柱として1・国家独立政策、2・新経済政策、3・治安政策があったことが分かる。れんだいこ流に纏めれば、片山哲内閣に顕著であった無責任体系とは対照的な、且つ戦前流の統制型国家管理手法とも異なる新保守政権秩序造りに精出したということになる。吉田首相の手腕の凄さは、この戦後型枠組みの中から国政を与るに足りる有能な後継者を生み出していくことにある。池田―佐藤―田中―大平―鈴木の系譜は、まさに吉田学校のそれである。

 ところで、民自党単独の吉田政権時代にも保守勢力の合従連衡が進行していた。日本協同党は協同民主党を経て国民協同党なる。日本進歩党は日本民主党を経てのちに国民協同党と合同して国民民主党に変わる。1952(昭和27).2月には、解党して改進党を結成する。

 右派が無数の糸を手繰り寄せ糾合しつつあるこの頃、対照的に左派陣営は分裂を深め始めていた。共産党は党中央の分裂事態に陥り、党中央所感派(徳球―伊藤律系)と反主流国際派(宮顕・志賀・春日(庄)系)とが非和解的な抗争に突入していた。社会党の左右対立も次第に激化し、遂に左右両派に分裂している。これが日本左派運動の能力であることを見据えねばならない。

 こういう左派戦線の低迷に助けられ、1951(昭和26).10月に平和条約と日米安保条約を締結して以降の吉田内閣はワンマン化を強めることになった。この間、GHQによる占領行政は、形の上では日本政府を表に立てた「間接統治」ではあっても、実質的には、GHQの指示と意向によって左右される「直接統治」に等しいものであり、歴代内閣の苦労は、筆舌に尽くせないものがあったが、吉田内閣時代から自主統治時代を迎えることになった。
 
 吉田政権の長期化は次第に人心の倦怠を生み始めた。1952(昭和27)・4月の平和条約による独立回復と日米安保条約の発効を境に、右派政界に反吉田の動きが顕在化していった。 吉田は鳩山民同の活動に業を煮やし、昭和27年「抜き打ち解散」をうって民同の勢力低下を謀った。民同側では総選挙を予想しておらず、鳩山、河野、三木らの幹部は議席を得たがその勢力は微々たるもので大きな痛手を負った。しかしこの解散はむしろ吉田にとってより痛手だった。自由党はそれまでの絶対多数から辛うじて過半数を越えるところまで議席数を落とし、少数派とは言え民同の協力を仰がなければ国会運営に支障をきたすまでになった。民同の存在感はむしろ増すことになった。吉田は総選挙に際して民同の幹部の河野一郎、石橋湛山を除名していたが、鳩山は両名の除名取消し、党民主化の促進、憲法調査委員会の設置の3条件を突きつけた。吉田はこれを了承、鳩山は第4次吉田内閣に協力することとなった。民同から三木武吉が総務会長に就任し、形の上では民同を主流派に組み込んだが、三木ら民同は反吉田的活動をやめず、吉田も3条件の実行を先延ばしにしていた。

 1952(昭和27).10.30日、第4次吉田内閣が成立。幹事長林譲治、総務会長・益谷秀次、官房長官・緒方竹虎の布陣で、通産相・池田隼人、運輸相・石井光次郎、建設相・佐藤栄作等が登用されていた。(この後、鳩山派が旗揚げしている。25名が結集し、三木武吉が鳩山を御輿に乗せて、委員長・安藤正純で発足しているとあるが、少々流れが不明)

 1953(昭和28).4.19日、総選挙で、吉田首相率いる自由党は、過半数を大きく割る199議席、改進党は76議席、社会党138名(左派社会党は72議席に躍進、右派社会党は66議席にとどまった)、鳩山系自由党は35、諸派・無所属12、共産党1名。4.24日の第3回参議院選挙でも、吉田系自由党、改進党、右派社会党、左派社会党、緑風会の勢力図は変わらない。

 この衆参選挙結果を一見するに、1953(昭和28)頃に政界が民主党、自由党の右派勢力と日本社会党左派、右派の左派勢力に二分された観がある。共産党は党内分裂抗争の煽りで議会勢力としては跡形も無くなっていた。以降、4大党派の対立による政局不安をどう収拾していくのかが当事者の課題となった。民主、自由両党の合同、左右両派の社会党の合同による政局安定を求める動きがますます強まっていった。いよいよ戦後民主政治も、十年間にわたる「準備期」を終えて、新しい「興隆期」に向かって、大きく飛躍すべき転換期にさしかかっていた。

 この頃、保守党統合化が始まった。第一弾が次の動きであった。1953(昭和28).5月ごろ、自由党内部に「民主化同盟」発生。吉田政権を揺さぶることになる。鳩山派、石橋派、中間派が結集し、60数名の勢力となった。石田博英議会運営委員長を中核として、塚田.倉石.小金、吉武労相.水田政調会長。舞台裏には三木武吉、河野一郎の策士、三浦義一、児玉誉士夫らが見え隠れしていた。「反乱軍」とネーミングされた。この「反乱軍」に、吉田派側近は、逆に広川弘禅農相、池田蔵相、佐藤逓政相、保利茂官房長官の「四者同盟」を結成して対抗した。

 昭和28年、吉田が予算委員会上で「馬鹿野郎」と口走った。三木ら民同はこの機会に吉田の失脚を策し、野党に働きかけて吉田の懲罰動議を提出させた。三木は党人出身で元幹事長、はじめは吉田に近かったが吉田後継と目されて野心を募らせてきた広川弘禅農相を抱き込み、民同と広川派の採決欠席により懲罰動議を成立させた。三木は、懲罰が実現すれば吉田は総辞職するだろうと見ていたが、吉田は広川を解任、広川派や民同に対して除名をちらつかせて切り崩しにかかり、中央突破を図った。吉田辞任の目論みが外れた三木らはやむなく自由党を脱党して日本自由党(鳩山自由党・鳩自党)を結成、吉田内閣不信任案を可決させ、世にいう「バカヤロー解散」をもたらし、わずか1年で再び総選挙となった。

 総選挙では鳩自党と改新党(民主党と協同党が合同)は伸び悩み、自由党はついに過半数を割り込んだ。躍進したのは左派社会党(当時路線問題から左右両派に分裂していた)であった。吉田は首班指名を改新党の重光葵と争って辛うじて勝利し、改進党の協力を得て少数与党内閣を組織した。吉田は鳩山一郎を抱き込みにかかった。当時、吉田は元朝日新聞主筆の緒方竹虎を重用しており、はじめ官房長官、のち副総理に登用、緒方は党内の支持を強めつつあった。鳩山は「吉田の次を狙うなら、自由党に復党しなければならない。吉田が引退した時に君が党外にいたら、政権は緒方にいってしまうよ」と説かれ、石橋湛山らとともに自由党に復党したが、三木武吉、河野一郎らは鳩自党に留まった。

 1954(昭和29)年早々、吉田の致命傷となる造船疑獄が発覚する。この疑獄事件で、吉田政権の中枢を含む多数の要人が逮捕され、あるいは取り調べを受けた。4月、検察は自由党幹事長の佐藤栄作の逮捕許諾請求を衆議院に提出しようとしていた。自由党は過半数を割り込んでおり、これを否決できない。吉田は法務大臣の犬養健(元首相犬養毅の子)に佐藤逮捕阻止を指示、犬養はこれを受けて指揮権を発動し、佐藤逮捕を中止させた。犬養はこの責任をとって法相を辞任したが、吉田の強引なやり方に輿論は厳しかった。

 1954(昭和29)・7.1日、陸海空の自衛隊が発足している。「日本再軍備」の流れであるが、戦後初期のGHQの解放政策が頓挫し、冷戦構造時代へ転換したことを物語っている。こうした情勢が右派勢力を元気付け、「保守合同」による政局転換をめざす気運を急速に高めていった。吉田首相もついに1954(昭和29)・11月頃、政局打開のため進退を党の会議に一任する旨の書簡を自由党幹部に送った。

 吉田の支持率低下を見て取った三木武吉らは攻勢を再開した。11.24日、かって日本自由党の創立者の一人であった鳩山一郎は吉田と対立し自由党を脱退し「日本民主党」をつくった。自由党に対抗しうる保守政党の誕生となった。自由党内反吉田グループと改進党、「8人の侍」らが合体していた。衆議院121名、参議員18名であった。総裁・鳩山一郎、副総裁・重光、幹事長・岸、総務会長・松村謙三、最高委員・芦田均、石橋湛山、大麻唯男の布陣で、「反吉田」勢力の新保守党の結集となった。これにより吉田首相の政治力が低下した。寝業師三木武吉が活躍している。岸は当選後1年半足らずで政界の中枢の一角に無視し得ない力を築くことになった。

 これにより自由党は185名に転落したが、ここから保守勢力の底力が発揮される。戦後保守勢力が自由党と民主党という二大潮流に整理され、続いて再編成統合されていくことになる。

 民主党は社会党と共同で吉田内閣の不信任案を提出する。岸派の分裂などで党勢をさらに落としていた自由党にはこれを否決する力はない。不信任案可決を前提として善後策を講じるしかなかった。吉田は解散総選挙を強く主張した。しかし、副総理で吉田が後継総裁に指名していた緒方は総辞職を勧めた。吉田は激怒し、緒方を罷免するとまで言ったが、党内の大勢はすでに総辞職に固まっており、吉田自身が後継に指名していた緒方を自ら罷免するとあっては沽券にかかわるとの説得もあって、吉田は閣議の席を立ち、書斎で辞表を認めると私邸に引き揚げてしまった。閣議は吉田欠席のまま総辞職を決定した。





(私論.私見)