自民党前史1 (1)戦後非常時内閣史 戦後の混乱期

 (最新見直し2009.10.25日)

(れんだいこのショートメッセージ)
 「上からの組閣、下からの突き上げ」の時代となった。


【鈴木貫太郎→東久邇稔彦内閣】
(総評)終戦処理。
 大東亜戦争が敗北必死となり、敗戦処理内閣として鈴木貫太郎内閣が組閣された。終戦の前日8.14日、鈴木貫太郎内閣は、降伏決定の手続き終了後、戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍需用保管物資の緊急処分」を指示した後、翌8.15日、総辞職した。

 未曾有の国難に遭遇し、昭和天皇は、皇族の東久邇宮稔彦に白羽の矢を立てた。「陛下は非常にやつれておられまして、重苦しい言葉で、次期総理をやってくれ、と頼まれた」と伝えられている。こうして、8.17日、東久邇宮内閣が成立した。日本占領軍のスムーズな受け入れと引き続いての敗戦処理が目的の内閣となった。 近衛文麿、緒方竹虎、木戸幸一らが閣僚の人選に当たり、近衛文麿が副総理格として国務大臣、外相には近衛文麿元首相らの意向により重光葵が就任した。陸相は東久邇宮が兼任、海相は米内光政、内務山崎巌、大蔵津島寿一等々の布陣となった。

 東久邇内閣の政治理念は、憲法の改正の必要は夢思わず、明治憲法と五箇条のご誓文の運営を民主化していけば、ポツダム宣言の履行には何ら支障をきたさないとの見通しで万事処すことにあった。GHQ指令が矢継ぎ早に為され、この内閣の下で、1.終戦手続き、2.内外の陸海軍の武装解除による非軍事化、3.非軍事化の徹底のための民権自由化、4.治安維持法の廃止、5.政治犯罪人の釈放、6.特別高等警察制度の廃止などが行われた。

 8.28日、東久邇首相は、内閣記者団との初会見で、「国体護持ということは理屈や感情を超越した、かたい我々の信仰である」と言明して、あらためて「国体護持」を内閣の基本方針に据えていることを表明した。この時東久邇首相は、「一億国民総懺悔」を説いた。「この際私は軍、官、民の国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと思う。全国民総懺悔することが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」と述べた。

 この「一億国民総懺悔」は少々意味深であり、今日よりすれば戦争指導者の責任を曖昧にしたままの戦後再建への決意宣言とみなせるが、当時の国民心情としては「国を守れなかったことを天皇にお詫びするという気持ちが込められた天皇への国民的謝罪」という意味も込められていたようである。「当時の自分の心境にぴったりくる言葉だった」と云う者もある。


 
朝日新聞が8.30日の社説で、「まさに一億総懺悔のとき、しかして相依り相たすけて民族新生の途に前進すべきときである」と呼応した。こうして戦争責任の追及に向かう流れがマスコミリードで阻止されていった形跡がある。それを良しとする国民の一般的気分があったとも云えるのかも知れない。新聞は国体の自尊心と体面を考慮してか、敗戦という表現を使わずに終戦と報道していた。占領軍は進駐軍と表現される等新用語が発明された。

 9.2日、降伏文書に調印。午前9時、日本政府は東京湾上横須賀の沖合い29キロに停泊する米艦ミズーリ号上で「降伏文書」に調印した。法的な意味での終戦がここに完結したことになる。日本全権は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長他文官4名.武官7名が任に当たった。この随員選考は、東久邇宮首相が近衛文麿国務相、木戸幸一内大臣、緒方竹虎書記官長と相談して為されたとある。

 マッカーサーの約3分の演説の後、重光と梅津、連合国代表としてマッカーサー、次いで連合国各国代表が署名して式は終わった。米、中、英、ソ、豪、カナダ、仏、蘭、ニュージーランドの順に署名して調印式は終了した。この時、92年前にペリー提督が日本に開港を迫ったとき、戦艦ミシシッピー号に掲げられていた星条旗が式場に運び込まれていたといわれている。

 
文書には、「連合国に対する無条件降伏を布告す」、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるものとす」と記載があり、こうして日本は連合国軍占領統治下に国家主権が置かれ、天皇の権限もマッカーサー元帥の制限下に置かれることとなった。敗戦の帰結であり、こうして以後正式にGHQが超法規的に戦後日本の君臨と統治にあたることになった。

 9.17日、重光葵外相は、大命を果たして後、終戦連絡事務所の所轄を廻って外務省内に置こうとする重光外相と、内閣直属機関として位置付けようとする緒方竹虎国務省が対立し、これが為に辞任となった。この両者は戦時中にも小磯国昭内閣の下で衝突しており、いわゆる肌が合わない関係であった。東久邇首相は重光更迭理由を日記に概要「一つは終戦連絡事務局は、重光の主張によって外務省に置き、人員は主として外務省関係の人々で組織したが、その仕事振りがあまりに官僚式で、事務が進行せず、後手後手になって、各省及び民間からも、その無能についての不満の声が高かったので、これを内閣直属として、民間人を入れて改革しようとした。重光はこの改革案に反対して外務大臣を辞任するといった」と記している。GHQの圧力説もある。

 後任には吉田茂が就任した。これが吉田の戦後史上の初登場となった。敗戦国日本の再建は、この吉田の手腕で見事に切り盛りされて行くことになる。

 吉田茂のプロフィールは次の通り。土佐の生まれて゛生家は竹内。横浜の貿易商として成功を治めた吉田家に養子。外務省に入り、外交官として長らく働いた。特に英国大使としてのロンドン生活の影響が大きい。土着的な武士道精神に西欧型の民主政治と教養を添えた。戦前の外務省の高級官僚であり、過ぐる日の開戦の阻止に懸命となり、戦争突入後は終戦工作に動き、東条内閣の打倒を謀って逮捕された反軍思想経歴を持っている。軍部とりわけ陸軍に睨まれ特高スパイに尾行されていた。岳父牧野紳顕(しんけん)。敗戦を向かえて、そういう吉田の過去の働きが評価されて戦後処理の人材として登用されてきたということであり、歴史の舞台の陰陽が回ったことになる。政界の大物連が戦犯指名の悪夢におびえている時、全くスネに傷のない気持ちでのこのことお濠端のGHQに出かけてゆき、渉外事項を折衝して帰ってくるのは吉田だけだったと伝えられている。この吉田がこの後首相として戦後政治の指導者として台頭、君臨していくことになる。


【幣原喜重郎内閣】
(総評)「五大改革」と憲法改正作業。

 東久邇内閣は、GHQより山崎内相の罷免要求が為されたことにより総辞職を余儀なくされることになった。敗戦の混乱下の在職50余日の命運となった。後継首相の人選は、木戸幸一内大臣が天皇の命を受け、近衛文麿.平沼棋一郎枢密院議長.藤田侍従長ら天皇側近と協議した結果、吉田外相の推挙していた元民政党内閣の外務大臣だった幣原喜重郎に的を射た。吉田は、「私の先輩である幣原は老齢であるが、私が出馬を懇請すれば必ず起ってくれるだろう」と述べ、10.6日早朝、世田谷の草深い一角に焼け残っていた幣原邸を訪ね総理就任方を促した。
 
 幣原は、満州事変の勃発直後に軍部と衝突し外務大臣の職を辞しており、以来蟄居して隠居していた。政界から遠ざかったとはいえ、貴族院の有爵議員として議会が開かれると議事に参加していたが、戦時色の濃い当時の雰囲気にあって愁眉のうちにあった。既に歴史の塵埃の中に埋もれていた感があったが、この時73歳の老体に拘わらず国難に際して身に鞭打ち、14年ぶりの表舞台への登場となった。この時の心境を次のように述懐している。

 概要「陛下は私に、内閣組閣の大命を下しになった。私は自信が無かったからご勘弁願ったが、いかにもご心痛のご様子が拝察され、事ここにいたって生命を投げ出してもやらねばならぬと心に誓うに至った」。

 こうして東久邇宮内閣の後継を受けて10.9日、幣原喜重郎内閣(45.10.9〜46.4)が成立した。この当時はまだ選挙の洗礼を受けない「超然内閣」であった。占領軍との折衝を担当する外相には吉田茂が留任した。この首相交代劇について、マッカーサーは、「天皇は、東久邇首相と叔父・甥の親族関係は占領軍が行ういろいろな改革に有害だと感ぜられ、首相は日本で最も尊敬され、且つ経験豊かな外交官の一人である幣原男爵と交代した」と述べ、天皇の気持ちを利用する形で歓迎している。

 幣原内閣の成立は、戦後のフランスやイタリアで、共産党を含む諸勢力による政権の樹立、ドイツでもナチス戦犯を時効無しに追求する態度から新内閣が組閣されたことと比較すれば、反軍部的であったとはいえ戦前の支配層の中から首相が選出されたことになり、日本的な特徴としての政治的後進性を示しているものとして注目されるであろう。

 マッカーサーは就任早々の幣原首相に対して憲法改正に着手するよう示唆している。他に東久邇宮内閣の国務大臣近衛文麿公爵に対しても開明的な憲法草案作成を指示したようである。この内閣の下で平行して「五大改革要求」が為された。「五大改革」とは、1.参政権の賦与による婦人の解放、2.労働組合の組織奨励、労働者の団結権の保障、3.圧制的司法制度の廃止、4.教育の自由主義化、5.経済の民主化、独占産業支配の是正であった。

 この時衆議院議員の選挙法改正に着手している。婦人参政権賦与、選挙年齢の引き下げ、大選挙区制の2名連記制、3名連記制採用を骨子とする改正案が纏められ、11.27日、開かれた第89臨時帝国議会で、選挙法改正案が制定され、12.17日、公布された。これによって、満20歳以上の男女普通選挙権が認められることになった。 

【戦後保守政党の歩み】
(総評)
 この間戦後保守政党の歩みは次のような動きを見せていた。日本の戦後政治は、昭和20.8.15日の太平洋戦争の終結と、連合軍(GHQ)による占領政治の開始とともに、その幕をあけた。GHQは、新統治システムの導入に関する諸施策を次から次へと講じていった。その間、戦犯容疑者の逮捕が続き、いわば戦前の支配階級は戦々恐々総蟄居を余儀なくされることになった。そうした状況に立て合うかのようにして敗戦によって政党活動が解禁され、、戦前非合法下に置かれていた日本共産党が早々と再建され、続いて社会大衆党系の社会主義者が合同して日本社会党を組織した。婦人活動、労働組合、農民運動を基盤とする左派運動が再生されていった。

 左派運動にやや遅れて戦後保守政党の歩みが11月頃より始まっている。11.9日、戦時中の翼賛選挙に非推薦で当選していた鳩山一郎、他に河野一郎、三木武吉を中心とする旧政友会久原系の政治家たちによって日本自由党が結成された。総裁に鳩山一郎、幹事長に河野一郎、政調会長に安藤正純が就任した。その他松野鶴平、芦田均、星島二郎、菊池寛ら15名が創立準備委員であった。

 結党時、右翼の大物然としていた小玉誉士夫(84.1.17日死去)が鳩山に資金提供し、これを河野が換金したのが党資金になったと云われている。児玉誉士夫率いる機関は、戦時中に上海で海軍航空本部の軍需物資を調達していた秘密組織であり、終戦と共に児玉はダイヤモンド.プラチナなど7000万円相当などの残存物資を東京に運び込んでいた。それが鳩山一郎らの自由党設立の資金にあてられたと云われており、以来、児玉と政界トップとの間に太いパイプができたとも云われている。

 この問題について、「財界にっぽん9月号」の「国際ジャーナリスト・藤原肇、ジャーナリス・ 猪野健治対談、暴政が支配する日本に救いはあるか ネオコン政権が日本を破滅に追いやった」がもう少し詳しく次のように論じている。
 藤原 もともと自民党は、満州ゴロ、上海ダマと言われた人たちが支えた政党です。児玉誉士夫が上海で、児玉機関を使って集めたプラチナ、金、ダイヤモンドを、朝日新聞の社機を使って日本に運び、それを仲間の辻嘉六に渡したという話は、昔の本には詳しく書いてあります。そのあたりは猪野さんの方が詳しい。

 猪野 児玉が上海から貴金属を運んだというのは、終戦直前の話ですね。上海の飛行場を飛び立とうとしたとき、荷が重くてすぐには飛べなかった。「何を積んだのか」と操縦士に訊かれると、児玉は「黙って飛べ!」と、飛ばせたそうです。どこの飛行場か忘れまし たが、よく上手く着陸できましたね。積み荷は今で言うレアメタル、希少金属です。戦後、自民党はそのカネを資金にして創られた、と言われていますね。

 藤原 戦後しばらく、戦犯として小菅に収監されていた児玉に代わって、その資金を自民党の結党のために流したのが、辻嘉六です。要するに、自民党は右翼とゴロツキのカネでできたわけです。

 猪野 もともとその貴金属は、児玉が米内光政海軍大将(当時)から、「日本はもう負けたから、これはあんたの旧部下のために使え」と言われ、譲り受けたものです。多少は児玉機関で使いますが、残りは最初、宮内省に預けていますね。しかし、占領軍に調べられて見つかるとまずい、ということで、児玉がまた取りに行くわけです。その情報が辻嘉六の耳に入り、児玉のところに交渉に行く。提供するに際して児玉が出した条件は、「天皇制を護持すること」の一点だったようです。その後、そのダイヤモンドを河野一郎が売り歩いていた、という話もありますよね。いずれにしても、古い話ですよ (笑)。

 しかし、この見方には同意できない面もある。その後の児玉の歩みを見れば、国内的には強面の民族的右翼を気取るが、その実戦後世界を牛耳る国際金融資本との繋がりの影が見え隠れしている。ということは、児玉機関が、この当時から国際金融資本の意向を受けつつ暗躍していたことも考えられよう。児玉の豊富な資金の背景に何があったか、児玉機関の貴金属原資論はその一部の表層的な話であり、真相はズバリ、国際金融資本の軍資金が要所に配られ後押しした可能性の方が臭いとみなすべきではなかろうか。真相の深層は未だにヴェールに包まれていると云うべきではなかろうか。

 もとへ。日本自由党は、天皇制の護持、私有財産制の擁護を詠い、「自主的にポツダム宣言を実践し、軍国主義的要素を根絶し、世界の通義に則って新日本の建設を期す」等の綱領を掲げて出発した。「人権を尊重し、婦人の地位を向上し、盛んに社会政策を行い、生活の安定を期す」の項目も掲げられていた点で、戦前型と少し異なるイデオロギーを挿し木しており様相を変えていた。日本自由党が結党に至るまでの一時期、無産党の平野力三.水谷長三郎.西尾末弘らも寄り合いしていたことから明らかなようにややリベラル傾向を持つ保守党として位置していた。 

 戦時中の主流派であった大日本政治会(翼賛政治会)は9.14日に解散させられたが、この旧大日本政治会系議員たちによって11.15日、日本進歩党が党首未定のまま結成された。当初宇垣一成の総裁擁立が画されたが結局12.18日、旧民政党総裁町田忠治が総裁、幹事長に楢橋渡が就任した。「国体を護持し、民主主義に徹底し、議会中心の責任政治を確立す」等の綱領が掲げられた。この時点では最も保守的な色彩の濃い政党として位置していた。

 12.18日、日本協同党(委員長山本実彦)が結党された。「民主主義.協同主義.農業立国に基づく食料自給体制の確立」が綱領に掲げられた。協同組合主義の千石興太郎、酪農家黒沢酉蔵、船田中、井川忠雄らが結集していた。

 
これらの政党は「国体護持」を掲げていたことに共通項があり、これを戦後保守系の歩みと見なすことができる。してみれば、戦後保守系は三グループが鼎立して始発したということになる。戦後保守系にとってこの後10年間、1955(昭和30)年に自由民主党が結党されるまでの間は、苦難多難な時期となった。終戦後の社会的・経済的混乱、急激な民主的改革という奔流に棹差して見るものの、前門にGHQ権力が聳(そび)え、後門に左派勢力が喧騒しており、不自由を強いられることになった。

【戦後初の総選挙後の混乱】
(総評)
 終戦後8ヶ月目の4.10日戦後最初の総選挙(第22回)が行われた。「GHQ」の要請により促された選挙であったが、国民はこれを歓迎し、候補者が乱立し、466名の定員に対して2770名、5.9倍に達した。この選挙は、婦人参政権が認められた最初の選挙でもあった。全国で79人の女性が立候補、39名が当選した。

 この時の選挙で、三木武吉の有名演説が記録されている。香川選挙区の立会演説会で、三木は、「妾を4人も連れている」批判が為されたのに対して次のように答えている。
 「正確を期するために、無力候補の数字的間違いをこの席で訂正しておきます。妾が4人と申されたが事実は5人であります。もっともいずれも老來廃馬となって役に立ちませんが、これを捨て去るごとき不人情は三木武吉には出来ませんから、みな養っております」。

 この場で収まっていることを考えると、この時代において今日騒がれているほどの問題発言ではなかったことになる。

 進歩党は、幹部の多くが公職追放にあって選挙に出馬できなかった。そこで総裁に幣原をかついで総選挙に臨んだ。選挙の結果、鳩山一郎総裁率いる自由党が第一党(140名)、首相幣原喜重郎率いる進歩党が第二党(94名)となり、政権与党の進歩党は鳩山らの自由党に大敗した。続いて社会党が第三党(92名)に大躍進した。以下、協同党(14名)、共産党(5名)、諸派(38名)、無所属(81名)になった。公職追放の打撃にも関わらず、全体として保守政党の優位が示されることになった。政権与党である進歩党は第二党に転落し、自由党.社会党の進出が目立った。マッカーサーは、「日本人民は左右両極端に走る政治思想に支配されなかった」とコメントしている。

 幣原内閣は、「新憲法成立までの政治的責任」を理由に、引き続き政権を維持しようとしたが、4.7日、「幣原内閣打倒人民大会」が開かれ、約20万人の労働者等が結集した。4.12日、生産管理弾圧反対労働者大会が開催された。反政府闘争の色彩を強めていた。4.19日、「幣原内閣打倒共同委員会」が社会.共産.自由.協同の四党間に結成され、「幣原内閣打倒」が急速に展開される様相を帯びるに及び三日後の4.22日総辞職を余儀なくされた。結局幣原内閣は7ヶ月の余命となった。

 幣原内閣瓦解後5.22日、第一次吉田内閣が成立するまで、丁度一ヶ月間政府不在事態が現出することになった。政治的危機が現出していたことになる。後継内閣の組閣が始まったが、140名を擁するものの自由党単独では政権維持の見通しがたたなかった。こうして、次の内閣を結成するまでの間、自由党の三木武吉.河野一郎らが社会党に連立内閣構想を持ち込んで奔走することとなった。

 政治史的に見て、「幣原内閣打倒共同委員会」に右は自由党から左は共産党までの自由.協同.社会.共産の4党が共同闘争組織を結成したことは特異なことであった。後にも先にもたった一度しか出現したことのないドラマであることが注目される。事実、徳球共産党は、4党協力で幣原内閣を倒したのだから、挙国一致内閣には共産党からも閣僚を送り込みたい、入閣させろと執拗に食い下がった。当時は毎日のように4党代表者の会合があったが、そのたびに徳球は三木武吉総務会長に入閣を迫った、と伝えられている。

 この時のエピソードが次のように伝えられている。
 「二人とも鉈豆煙管(なたまめきせる)でたばこを吸いながら、一服吸い終わると、お互いカチリ、カチリとたたき、応酬が延々と続く。三木が、『徳田君、若いよ』と言うと、徳田は、『若いとは何事だ。おれは共産党を代表しているんだ』と怒声をあげる。『まあ、そんなに興奮するな。大声を出さんでも、おれの耳にはちゃんと聞こえているんだ』、『それじゃぁ、うんと言え』、『まあ、聞けよ・・・・・』といった調子だ。そばで一部始終を聞いていた自由党の河野一郎幹事長は、約20年後に著した『河野一郎自伝』の中で、『奇妙な煙管問答を私は今でも記憶している。それは天下の奇観としか言いようがなかった』とやや感動を込めて記している。三木も老獪だったが、徳田の迫力と粘り腰は並ではなかった」(2002.6.15日付け毎日新聞、岩見隆夫「近聞達見」)。

 92名の勢力を得た社会党は、自由党から連立政権の好餌を投げられ、他方、共産党より民主戦線内閣を提唱されていた。かくて、自由党との連立政権により漸次改革を目指すのか直接政権取りに向かうのか、をめぐって党内左右両派を激しく対立させることとなった。中央委員会内の内訳は、西尾、平野らが右派を代表し7名、加藤、鈴木らが左派を代表し4名、中間派4名となった。激論の末採決になり、中間派が左派に同調した結果、8対7の僅差で左派が勝利した。社会党は、この「首班か、しからずんば野党」という党議決定により、自由党側より為されていた連立内閣強力要請を拒否することとなった。しかし、社会党内の右派、左派、中間派の三項対立はその後も宿あのように付きまとうことになり、社会党の魅力でも有り欠陥でもあると云う二面相を呈していくことになる。

 これより、自由党は、社会党に連立内閣への協力を断られた結果単独内閣の組閣を目指すこととなった。5.3日、自由党総裁鳩山一郎が後継首相として選出され、閣僚名簿も出来、天皇に奏請されるとともに、GHQにその承認を求める公文書が提出された。ところが、GHQは歓迎せず、逆に翌5.4日、モーニング姿に威儀を正して宮中からのお召しを待ち受ける鳩山にもたらされたものは「追放令状」であった。こうして鳩山は公職追放された。この背景は憶測を呼んでいるが今日においても杳としてはっきりしていない。直後、辻嘉六、松野鶴平、河野一郎(幹事長)の3名が鳩山邸で誰に政権を預けるのかを相談している。この時三木武吉が総務会長。

 この間5.1日、メーデーが復活し、東京の宮城前広場には50万人が集まり、「保守反動政権反対、社会党を首班とする民主人民政府の樹立」など22項目の決議を採択した。

 5.6日、労働戦線統一世話人会が、「社共両党の連携による民主人民政府」の樹立などの決議を社会党に申し入れた。海員組合、全日本炭鉱、東交、日炭、三菱製鋼などの組合も同様趣旨の申し入れを行った。同日、共産党も、「社会党、共産党を中心とし、全ての民主的大衆団体を糾合した民主戦線政府を即時樹立する」ことを申し入れた。社会党は、自由党の働きかけにも応じず、この申し入れにも応じないという窮余の一策として片山哲単独内閣を目指した。幣原元首相にこれを伝え天皇への奏薦を求めたが拒否された。




(私論.私見)