第一次吉田内閣史 新憲法制定。吉田のステーツマンシップが左派能力を上回る

【第一次吉田茂内閣】
(総評)戦後初の政党内閣。

 5.10日頃から鳩山と吉田会談が設けられ、幣原内閣の外務大臣であった吉田茂が自由党総裁を引き継ぐことになった。この時吉田は総裁引き受けに当たって、次の三つの条件を出したと云われている。1.党の資金作りはいやだ。鳩山で引き受けて欲しい。2.閣僚の選考には誰にも口出しさせない。3、いやになったらいつでも内閣を投げ出す。実際にはもう一つ、「鳩山が追放解除されたら総裁を君に返す」があったようであるが、その後の流れはこの約束を反故にしていくことになった。

 鳩山回顧録によれば、政党の人事は鳩山に任すという約束が為されたともある。この時を回顧して吉田は、「鳩山にしてみれば、暫く吉田に自由党を預けておいて、やがて立ち帰る機会を待とうと言う気持ちであったろうし、私にしてみても長くやろうという気は無かった」と述べている。しかし、史実は、傲慢ともいえる三条件を飲ませて長くやるつもりでなく自由党総裁に就任したこの男吉田が、この後内閣総理大臣の任につくこと5度、8年の長きにわたって日本の戦後を指導支配し、戦後型保守本流の源を作ることとなった。盟友鳩山と吉田は憎みあう仇敵となっていくことになる。


 吉田は進歩党と協力して組閣することに成功し、GHQの後押しも得て5.22日、自由.進歩両党連立の第一次吉田茂内閣が(46.5.22〜47.5)が組閣された。後継内閣の誕生が一ヶ月以上難航した例も珍しいが、かくて政府空白期が終わった。で組閣された。これが戦後初の議会制民主主義による政党内閣となった。

 この経過を見れば、GHQはドイツのような直接軍政ではなく間接統治を目指したことが伺える。GHQの後押しによる吉田内閣の成立は、アメリカがその対日支配を、戦後保守勢力を重視してこれを押し進めるという重大な契機となった。吉田首相は、公式だけでも都合76回マッカーサーと会うことになり、見事な舵取りを見せている。

 この時の吉田は、側近に林譲治を抱え、官僚出身の幣原喜重郎、石黒武重を参謀に起用し、鳩山系の三木武吉、河野一郎らの党人派を退けている。なお、組閣にも官僚エキスパートを登用し、党人派は4名(星島次郎、斎藤隆夫、平塚常次郎など)に押さえられていた。

 特に、農相に農林省農政局長の和田博雄を起用したことが騒動になった。和田はその後の経歴を見ても分かるがいわば容共派官僚であり、そうした人士を登用する吉田人事に鳩山が噛み付いている。「農政は保守党の生命だ。そこにアカを据えるとは、正気の沙汰ではない」。吉田は、「閣僚人事にはくちばしを入れないという約束じゃあなかったのか」とにべもなくあしらった。その他、大内兵衛や有沢広巳らの学者を入閣させようとして党内から反撃を受けている。「ひさしを貸して母屋を取られるとはこのことだ」と激昂した様子が伝えられている。こうした党人派軽視の人事がこの後の党内に尾を引いていくことになった。

 
この内閣は、上からはGHQの指令、下には国民の飢餓と窮乏、内からは党人派の突き上げ、外からは徳球共産党の指導するデモとストライキの渦に晒されることになった。共産党が目覚しい伸張ぶりを見せていたが、「何よりも食料、何よりもメシの時代」であった事情による。付言すれば、吉田首相は晩年、随筆「大磯の松」で、共産党指導者徳田球一をこう評している。

 「共産党の徳田球一君は、議会で私を攻撃する時はまことに激しい口調であるが、非常にカラッとした人で、個人的には好きな型の人であった。敵ながら、愉快な人物であった」。

【第一次吉田内閣の業績としての―食糧危機問題の解決と財閥解体】

 吉田内閣の手始めの仕事は迫り来る食糧危機問題の解決であった。GHQを通じてアメリカからの食糧支援を仰ぎ、これに成功した。6.13日、吉田内閣は、「食糧危機突破に関する声明」、「食糧危機突破対策要綱」、「社会秩序保持声明」を発表した。「社会秩序保持声明」は次のように述べている。

 概要「生産管理なるものは正当な争議行為とは認めがたい。今日までの実例に拠れば、これを放置しておくと、遂に企業組織を破壊し、国民経済を混乱に陥し入れるようになるものといわなければならない。その上もし、暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる」。

 7−8月、この時期に、最も危機的な状況にあった食料につき、英豪軍の手にあった50万トンの米が日本の配給当局に渡された。9月以降は、アメリカから継続的に食料が輸入され放出された。この流れに応じて吉田内閣は立ち直った。

 続いて、GHQの財閥解体指令との調整に骨身を費やした。「GHQ」の経済科学局長クレーマーは、45.9.末から三井.三菱.安田.住友4大財閥に対して、個別に「自然的解体」を説得していた。10.15日、まず安田保善社がこれに応じ、1.一族が傘下諸会社から総退陣する。2.傘下子会社の最高責任者は総退陣する。3.保善社を解散し、同族持株を公開するの3項目を決議した。

 ついで三井.住友が同調、最後まで抵抗した三菱も10月末までに屈服した。財閥解体方針により、この頃動きが急ピッチになった。4月、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」制定、4.20日、持株会社整理委員会令。指定された持株会社.財閥家族の所有する有価証券の譲渡を受けて、その処理にあたり、株式の民主化が進められた。

 8.8日、持株会社整理委員会が発足、財閥本社が保有していた株券が押収された。そして、新たに地方や新興の財閥78社の解体、財閥家族の追放が続いた。

 9.6日、持株会社整理委員会は、四大財閥本社と富士産業(中島飛行機)を第一次指定し、47.9月までに83社を指定した。47.12.10日、「過度経済力集中排除法」制定。各産業部門の巨大独占企業の分割が行われた。解体、分割の対象になった企業は325社。その規模から云って当時の全株式会社の6割を超えていた。

【第一次吉田内閣の業績としての新憲法制定】
 吉田内閣の下で同時並行的に新憲法の制定が進められていった。吉田首相は、マッカーサーと緊密に連絡をとりながら憲法改正案(新憲法)の起草を急いだ。この時吉田首相は、国体護持を最優先の選択基準として、予想されるソ連の参入の煩わしさを思えば、「アメリカの保護」の下に制定を急ぐべきだとする政治的判断を働かせていたようにも思われる。

 こうして、3.6日、憲法改正草案要綱が公表された。天皇の承認の下、日本政府が作成した草案の形式を取るよう念押しされていた。民政局のケーディス次長はこの頃金森国務相、入江俊郎法制局長官等に対して、再三「主権在民」の明確化を要求している。5.13日、極東委員会は、議会の審議に先立って「日本の新憲法の採択についての原則」を満場一致で決定した。憲法制定経緯については、別サイト「戦後憲法検証」で検証する。

 6.20日、政府の金森徳次郎国務相より、第90回帝国議会に対し憲法改正(新憲法)草案が上程され、24日から5日間衆院本会議で審議が行われた。GHQ民政局草案をそのまま書き写した感のある政府草案の評判は上々であった。驚くべきことは、進歩.自由.社会各党から出されていた草案のどれよりも民主的な内容を持っていた。特に、1.主権在民規定、2.象徴天皇制規定、3.戦争放棄規定、4.議院内閣制と文民規定、5.基本的人権規定、6・拷問及び強権的取り調べ禁止規定、6.地方自治尊重、7・財政健全義務、8・公職者の憲法尊重義務等々に特徴が見られ、各党が用意した憲法草案の臣民的秩序観とは大きく隔絶する開明的なものになっていた。特に、戦争放棄規定と地方自治の章は従来の各草案の発想に無いもので、異質といえば異質であった。


 これを押し付けられたと見るかどうか議論が分かれているが、明治憲法が日本人自らの判断で取捨選択して作成した経過に比べて、新憲法がほとんど「GHQ」草案を下敷きにして翻訳した歴史的経過を思えば「押し付けられた」と受け止めるほうが正確かと思われる。とはいえ、予想以上に評判が良く、地下に水が染み入る如く受け入れられていったという経過をどう見るのかという観点抜きにこれを強調することは片手落ちというべきではなかろうか。

 思えば、明治憲法制定前に様々の試案が作成しており、このたびの新憲法の各条項はこうした系譜から見直すことも可能であろう。とすれば、外形的押し付け論に拘ることは不毛とも考えることが出来るように思われる。問題は、内在的欲求としてあったものであれ、確かにイギリス−フランス的諸革命の如く人民大衆が血であがなって獲得したものではなく、敗戦という旧支配秩序の崩壊の隙間で外在的にもたらされたということであろう。

 それ故、今日次のような論調が生まれている。
 「現行憲法が主権者の意思の発露としては重大な疑念が有ることは否定できない。その内容の多くは、軍事力の放棄も含めて、当時の日本人の多数の意向に従ったものであったと云える部分は確かにある。しかし、憲法典のような根本的な法規についてはその内容のみならず、手続きはやはり重要な意味を持つ。占領という異常な状況下で、自由な議論を経ることなく制定された憲法には出自に疑問があると云わざるを得ない。それ故、より正当な手続きを経た憲法を制定する、ないしは現行憲法を改定するという欲求は自然なものと云えるだろう」(「憲法論議へ新提案」中西寛京都大学教授.国際政治、2000.9.6日読売新聞)。

 日本国憲法の下敷きとして、アメリカ合衆国憲法、フランス人権宣言、ドイツ・ワイマール憲法、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)、ソ連国憲法等々が参考にされている。してみれば、歴史的「民主憲法」の精華が結実したのが日本国憲法であるということになる。この観点からの日本の戦後憲法論を堂々と開陳するものが生まれる必要があろう。

 帝国憲法改正案は6月から10月にかけて真剣な審議が為された。この時の国会質疑は、1.天皇の象徴制について、2.主権在民規定について、3.戦争放棄規定について論議が集中した。中でも第9条に関する議論が伯仲し、国家固有の自衛権まで放棄しているのか、自衛のための武力まで禁止しようとしているのかの質疑が白熱した。

 この時共産党の野坂衆議院議員が活躍している。野坂は、憲法草案に対する質問演説で、主権在民の原則の明確化等徹底した民主的憲法を主張し、この主張は憲法の前文に反映された。新憲法の国会審議の末期、野坂は、「天皇制はどう変わったか」(アカハタ9.29日、10.2日)論文を執筆し発表した。次のように批判している。
 概要「天皇の大権は大幅に削減され、天皇制諸機構や諸勢力は重大な打撃をこうむった。(が、今だに)相当に重要な特権的地位を保持」しており、依然として神秘化され、また、国民の上に君臨している。新憲法は『主権在民』の美名の下に『主権在君』たらしめようとするものに過ぎない」。

 この時、野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、6.28日の本会議で、概要「自衛戦争は正義の戦いだ。自衛権まで放棄しているのは行き過ぎではないか」、「戦争一般放棄という形でなしに、我々は之を侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」と質問している。これに答えた吉田の答弁がふるっている。
 概要「そんな考え方は有害だ。近年の戦争の多くは国家自衛権の名のもとに行われている。故に正当防衛権を認めることは戦争誘発の原因となる」、「自衛権による交戦権、侵略を目的とする交戦権、この二つを分けることが、多くの場合において、戦争を誘起するものであるが故に、かく分ける事が有害なりと、申したつもりです」、「日本が戦争放棄を宣言して漸く世界の信を得ようとしているとき、自衛権についてとやかく論議することは再び世界の疑惑を招くことで有害無益な論だ。なぜなら従来の侵略戦争はいずれも自衛権発動の名目で為されたからだ」。

 今日から見て立場が逆転しているこの滑稽なお互いの質疑は、歴史の皮肉とは言えよう。

 6.26日、吉田首相は、進歩党の原夫次郎の質問に対して次のように答弁している。
 「自衛権について直接規定してはいないが、従来多くの戦争は自衛権の名において戦われた。今日の日本に対する誤解を解くことが必要である。故に日本はいかなる名目においても交戦権を放棄する決意をこの憲法で表明したいと思う」。

 この時の後の社会党初の首相片山哲の受け止め方はこうであった。
 「この草案は勿論、ポツダム宣言に基づいているものだが、これを受け取った幣原内閣としては、非常に進歩的な憲法草案を押し付けられたので、すっかりびっくりしてしまった。国民は、ちっとも押し付けられていないのみならず、願ったりかなったりの事項がたくさん盛り込まれているので、これこそ求めつつある天の声なり、福音なりと喜んだのである」(回顧と展望)。

 片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。

 この間7.1日、憲法改正案は、芦田均委員長以下72名の「帝国憲法改正特別委員会」に付託され、7.23日からいわゆる芦田小委員会と呼ばれる14名の秘密会議で審議された。7.25日〜8.20日まで13回にわたって国会内で秘密会を開き、各党派から出された修正案を調整して共同修正案をまとめた。この経過は非公開とされており詳細は分からない。芦田氏の「十年の歩み」には次のように記されている。

 「第一項の冒頭は条文を明確にして侵略戦争を放棄する心持をはっきりさせるのがいいという意味で修正したのだが、第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』と挿入したのは武力を保持しないという決心に条件をつけて『自衛戦争のためには』武力を行使することを妨げないと解釈する余地を残したいと考えたからであった。もちろんこの修正の字句はさほど明確でない。しかし明確に書けば修正が拒否されるとは、分かりきっていた」。

 こうして出来上がった共同修正案が8.24日、衆院本会議に提出された。芦田は涙ぐみつつ熱弁をふるい、共産党を除く賛成多数で可決。貴族院に送付され、ここでGHQの要請で「全ての閣僚は文民で無ければならない」との文民規定が第66条に加えられ、同日新憲法草案を修正可決した。

 日本国憲法案が衆議院を通過した8.24日、憲政の神様と言われていた尾崎行雄氏(当時87歳)が衆院本会議で、無所属議員として壇上に立ち、憲法案が「国会は国権の最高機関」としていることを評価し次のように語っている。

 「従来は主客転倒。行政府が国の政治の主体で、立法府は極めて柔弱微力なる補助機関の如く扱われ、国民もそれに満足していたようだが、今日この憲法が制定せらるる以上は、立法府が主体で、行政府がその補助機関とならなければならぬ」。

 10.6日、貴族院が、新憲法草案を修正可決し、衆議院へ回付した。10.7日、衆議院が、新憲法草案を可決した。枢密院本会議を通過して11.3日新憲法が「日本国憲法」として公布、47.5.3日より施行されることになった。


【新憲法の意義について】
 新憲法の内容が我が政治史に格別な影響を与えることになった意義が考究されていないように見受けられる。新憲法の制定過程と史的意義付けは別サイトで考究しようと思うのでそちらに譲るとして、重要なことを指摘しておかねばならない。

 新憲法がGHQ主導で制定された経過によって、戦後保守系勢力は憲法の自主制定運動を悲願とすることになった。ここまでは衆知のところである。だがしかし、この運動も大きく見て自主改憲派と自主擁護派の二派に分裂しており、それが戦後保守勢力の質を規定しているという点が留意されねばならないのではなかろうか。

 自主改憲派は概ね戦前型秩序を復古させようとしており、その限りで戦後新憲法体制を虚妄と見なしている。あるいはこの構図の下で復古ならぬ新保守を夢見ている。こうしたスタンスでは一致しているものの防衛政策、経済政策、国家秩序政策では様々な系流に分かれている。

 自主擁護派は概ね戦後型秩序を創造しようとしており、その限りで戦後新憲法体制を擁護することを全ての始発にしようとしている。この構図の下で戦後型保守政治の練磨へと献身している。こうしたスタンスでは一致しているものの防衛政策、経済政策、国家秩序政策では様々な渓流に分かれている。

 補足すれば、戦後保守勢力の質の規定については、元官僚系と生粋党人系との対立軸もある。これらが入り混じりながら互いに相和し抗争激闘して綾なしていくのが戦後保守政党史である。この絵巻物は、左派の戦国史よりもより過激である点で興味深い。その要因は、左派が権力取りに向かうよりも党派的利害での内部抗争を得意としたのに対し、右派が権力取りによる与党政治を当たり前のように見据え、実際に掌握し運営していく凄さにあるように思われる。しかし、戦後直後の混乱から今しばらくは保守勢力に味方せず、左派勢力の伸張に影を薄くしていた。

【「2.1ゼネスト」闘争を廻って】

 1946(昭和21)年末から労働戦線の闘争がうねり始め、1947(昭和22)年は、昨年来の労働争議の盛り上がりの中で明けた。「2.1ゼネスト」が呼号され始めていた。これに対し、1.1日、吉田首相は、年頭の辞をNHKラジオで放送中、労働運動の指導者を「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。次のように吉田節を開陳している。

 概要「この悲しむべき経済事態を利用し、政争の目的のためにいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如きものあるにおいては、私は、我が国民の愛国心に訴えて、彼らの行動を排撃せざるをえないのであります」、「一般に労働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の増強意外にはないのであります。然るに、この時にあたり、労働争議.ストライキ.ゼネストを頻発せしめ、市中にデモを行い、人心を刺激し、社会不安を激成せしめて、あえて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ」(「不逞の輩放送」)。

 この不逞発言が労働運動の火に油を注ぐことになった。

 吉田首相は、世の中が「2.1ゼネスト」に向かう騒然とした折柄、社会党に対ししきりに自社連立政権構想を持ちかけ、社会党の懐柔に営為努力していた。「閣僚の割り振りについて、下話さえつけば君(西尾末広のこと−注)の云う通り、吉田内閣は総辞職しても良いから、ぜひ、先日の話を進めて欲しい」との申し出が為されていた。「当の社会党方面からも、そうした働きかけがあった」とも云われている。

 戦後最大規模のゼネストが準備されていった。共産党は、戦後最大の政治舞台が回ってきたことを喜び、党の総力を挙げて取り組んでいった。社会党は例によって右派左派中間派が右往左往し重心が定まらなかった。これを簡略にスケッチすると次のように云えた。

 1.5日、共産党は、第4回拡大中委で、政治的ゼネストの決行を決議した。以降ゼネストの指導と「人民政府」の樹立に向けて闘争を組織していった。1.6−9日、第2回全国協議会を開催し、民主政権樹立を目指す政策の提起、地区委員会の確立と常任の設置、大衆運動方針を決定し、 「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」と檄を飛ばした。この頃、今にも人民政府が出来ると信じた労働者の入党が相次いでいた。


 社会党の動きは複雑怪奇を深める。右派の西尾は、1.14日の中央執行委員会の席上で、吉田首相との秘密会談の経過を報告し、連立工作を進めるべきかどうか諮っている。党議の結果、慎重に事を進める方向が確認され、西尾は平野と共に、麻布の外相官邸に吉田を訪問した。この席上、吉田は、「実は入閣候補者の資格の内諾をGHQに求めに云ったところ、先日の対日理事会で、ソ連のテレビヤンコが、西尾、松岡、平野、田原春次、加藤りょう造の5名を追放すべきであると発言したので、GHQとしても、これを無視してやるのも困るから、連立問題は暫く時期を延ばせというんだと云いなし、連立の話し合いは暗礁に乗り上げることになった。この経過を吉田首相からの第一次連立工作と言う。第一次連立工作は、数度に亘る会談の末、味気ない幕切れとなった。

 以降、戦後史上空前規模の2.1ゼネストへと経済闘争と政治闘争が結合しながら進展していった。共産党本部は「革命来る」の雰囲気の下社会.共産連立政権構想を取りざたさえしていた。この動きにGHQが立ちはだかった。GHQの民主化方針の中から孵化した左派運動が、GHQの予想を上回る進展を見せつつあることへの危機感からの介入であった。

 緊迫した情勢の中、まず社会党が脱落し、当日朝まで革命的決起を呼号していた共産党も午後からは急転直下鎮静化に廻るという事件が勃発した。
この時党中央のマッチポンプ役での奔走が後々後遺症となる。GHQは、午後4時、「連合国最高司令官として与えられた権限に基づき、私はゼネストのために同盟した労組指導者に対し、現在の日本の困窮した事態において、かくも恐るべき社会的武器の行使を許さない」、「公共の福祉に対する致命的な打撃を与えることを避けるため」旨のゼネスト中止命令を出した。

 午後5時頃、共闘議長伊井弥四郎は身柄を拘束され、マーカット経済科学局長他の最終的強制的説諭を受けた。伊井にゼネスト中止のラジオ放送を強制した。 伊井は、 「一歩退却、二歩前進」、「労働者、農民万歳、我々は団結せねばならない!」の言葉を残しながらゼネスト回避を指示した。

 「2.1ゼネスト」不発の直後の2.7日、マッカーサー元帥は、吉田首相に書簡を送り、今議会終了後、できるだけ速やかに国会を解散、総選挙を行うべしと勧告した。「解散・総選挙勧告書簡」と云われているが、「総選挙を行うべき明確な期日その他の詳細は日本政府の判断に委ねる事柄である。しかし新立法府が新憲法の実施を即時効果あらしめるため、選挙は今議会の会期終了次第、できるだけ早い機会に行われるべきである」と指示していた。その結果、「4月選挙」が行われることとなった。

【政党の再編成と国際情勢の急変によるGHQの占領政策の転換】
 「2.1ゼネスト」の失敗とこの頃からきざし始めた国際情勢の変化が、その後の政界の変動を促進させていった。社会党のゴタゴタの常態化、共産党の神話の崩壊に比して、保守側の動きは生産的に進化していったように見える。3.8日、国民党と協同民主党が国民協同党を結成。三木武夫を書記長として78名の議員を組織した。3.31日、自由党内の斎藤隆夫、芦田均、一松定吉、河合良成、木村小左エ門、犬飼健、楢橋渡諸氏が、吉田首相、大野幹事長と見解を異にするとの理由で脱党。日本進歩党(総裁幣原)に合流して日本民主党を結成した。総裁は幣原と芦田の間で争われることになった。

 47年頃から国際情勢が急変し、連合国軍はアメリカを盟主とする資本主義国家とソ連邦を盟主とする共産主義国家との対立が顕著になり「冷戦構造」が作り出されていくことになった。3.12日、いわゆる「トルーマン.ドクトリン」が宣言されて、アメリカは次第にソ連封じ込めの戦略にシフトした。こうした動きに対抗して9月、ソ連邦を中心とするヨーロッパ九カ国の共産党.労働者党の情報連絡機関として「コミンフォルム」(共産党.労働者党の情報局)が結成された。ソ連邦共産党指導部スターリンを中心とする対冷戦戦略であった。

 中国では日本軍の敗戦後国民党と共産党の内戦が始まっており、アメリカの支援する蒋介石国民党軍が中国共産党軍に次第に形成利あらずの局面に追い込まれつつあった。

 こうした国際情勢の変化を受けてGHQの占領政策に大転換がもたらされることになった。GHQの対日政策は対ファシズムとの戦いから対共産主義との戦いへと急直下シフト替えされることになり、以降それまでの平和主義的民主主義的傾向の助長が反転して日本を極東の工場としてアメリカの反共体制に組み込もうとする方針に移り始め、民主化政策の早々の仕上げと下からの革命的民主主義への弾圧.反共措置の強化という両面の采配をふるうことになった。その手始めに公務員の団体交渉権.争議権が制限されるようになっていった。




(私論.私見)