小泉首相の出自考 |
(最新見直し2011.01.26日)
【小泉首相解析に当たって】 |
小泉政権の批判を逞しくする為には、小泉政権及び小泉首相の特質を正確に把握せねばならない。ここでは、「小泉首相の特質」を問う。ここまでの研究によって判明することは、「田中真紀子対小泉純一郎」には明らかに対立的な「歴史的DNA」が認められるということである。 その二人が奇しくも連衡し小泉政権を樹立した。その後水と油の対立により真紀子は閣外に追われた。その真紀子が小泉政権の幕引きに執念を燃やしている。これには当人の思惑を超えたものがあるというのがれんだいこの感慨である。まさに、日本政治史上これほど違う角栄的なるものと小泉的なるものとの対立ではなかろうか。 世上では小泉的なるものの人気が良く、角栄的なるものが悪し様に云われている。日本政界上では左派と称されている社共が角栄的なるもの排撃に声高にするものだから余計にそうなりやすい。しかし、それは日本左派運動の不作現象ではなかろうか。れんだいこは憤然としてそう思っている。 マルクス主義は案外と血統(血筋)問題を軽視する癖がある。れんだいこは、社会学的な認識論ではマルクス主義から相応のものを学ぶが、伝統的に重視されてきた1・血統(血筋)問題、2・本人の気質問題、3・本人の性格問題、生育上の環境問題をも当たり前の如く重視する。そういう意味で、以下、小泉の曽祖父、祖父、父を考察する。 市井のあるいはネット検索で手に入る資料はヨイショ物が多過ぎる。21世紀政策研究所理事長・田中直毅の「小泉革命と日本政治におけるその源流」 は度が過ぎている。そういう訳で、れんだいこが適当に調理した。判明するのは次のようなことである。 2005.8.26日 れんだいこ拝 |
【小泉家のルーツに当たって】 | ||
小泉家のルーツが定かでない、というか朝鮮人出自が噂され始めている。「石原家も小泉家もいずれも朝鮮半島からの移住者:日本の伝統ある家系ではない」で、「小泉の祖父又次郎の妻の祖母も、父純也の妻も在日朝鮮人。小泉の愛人も皆在日朝鮮人」なる指摘が為されている。 「8.17日付nikaidou.com」の「自民党を暴力団に売り渡すか小泉」(「阿修羅政治版11」の「小泉首相 もうひとつの弱み?」)、「国際評論家小野寺光一の『政治経済の真実』 」、「天木直人・メディアを創る ( 5/31) 小泉首相は信念の人か」等々で重大暴露がなされている。無視できない内容なので確認しておく。 二階堂氏は、次のように述べている。
つまり、意訳概要「『小泉と飯島の血筋問題』が『日本の闇社会よりも上のドン』のところに上がっており、何がしかの動きが為されるのが時間の問題」と云う。「ふと思ったが、小泉自体が工作員ではないのか」なる疑問も鋭い指摘のように思われる。 「小泉と飯島の血筋問題」は、れんだいこが要約し且つれんだいこ観点から摺り合わせすれば次のように整理できるようである。少し大胆に過ぎるが、まながち的外れでもなかろう。
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【曽祖父・小泉由兵衛】 | |
小泉首相の「曽祖父・小泉由兵衛」の出自が判明するのは、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の、神奈川県横浜市金沢区大道2丁目6番地大道2丁目)からである。この頃、とび職を生業としていたようであるが、その後文明開化の流れに乗り急速に発展する横須賀に移住して港湾荷役手配師となり、「港湾一の請負業・小泉組」にまで隆盛させる。 2005.5.31日、「阿修羅政治版9」に、天木ファン氏により「天木直人・メディアを創る ( 5/31) 小泉首相は信念の人か」、ノンフィクション作家で社会運動家である久慈力(くじつとむ)・氏の「小泉改革に異議あり」(あけび書房、2001.6月)、「大林高士のNewsLand」等々に貴重な小泉首相の曾祖父・由兵衛の記述が為されている。これらを参照すると次のように要約することが出来る。
この軍事利権性を仮に元祖DNAとする。 長男を早逝させ、次男の又次郎を跡取りにする。又次郎は政界入りした為、小泉組は弟の岩吉が切り盛りする。岩吉は、横須賀市の成田山信仰団体「横須賀新勝講」の初代講元を務め、68才で亡くなっているが、岩吉は成田山新勝寺に献身的に尽くした功労者である。 |
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こうなると、「小泉首相のDNAは、根っからの軍需政治家」ということになり興味深い。 2005.6.1日 れんだいこ拝 |
【祖父・小泉又次郎】[1865(慶応元).6.10日(5.17日)〜1951(昭和26).9.24] | |||
小泉首相の「祖父・小泉 又次郎」を知るには、自伝「思い出の記」がある。但し、れんだいこはこれを読んでおらず、「大林高士のNewsLand」、「郵政改革を弄び抜いた小泉」その他を参照せざるをえない。但し、大林氏のそれはヨイショものでそのままでは使えないので、れんだいこ風にアレンジする。 1865(慶応元).5.17日、小泉由兵衛の次男として、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の住所表示は、、神奈川県横浜市金沢区大道2丁目6番地大道2丁目)に、「とび職人」由兵衛の二男として生まれた。 1871(明治11)年(西南の役の翌年)、13歳の時、横須賀学校を卒業する。明治13年に交郷校卒業とする別の記述もある。「明治12年から1年間、横須賀学校の代用教員をつとめた」ともあるが定かでない。その後、上京して東京築地の近藤塾、九段の上野清塾に入塾する。 又次郎は、この頃の事を次のように回想している。
又次郎はこの頃全身に龍の刺青を入れている。軍人志望の道を閉ざすモンモン彫りであったとのことである。 1874(明治14).10月、明治政府は、9年後の1883(明治23)年に国会を開設する勅諭を発した。憲政党として自民党、改進党の2大政党が結成され、自由民権運動が活発化する。又次郎は、「板垣退助の演説を聞いて、普選運動に飛び込む」。 30才になった頃、又次郎は芸妓だった綾部直子と結婚する。1898(明治31).10月、日刊紙「公正新聞」を創刊、社長兼主幹となる。 又次郎が、議員生活でもっとも力を入れていたのが普通選挙運動であった。普選運動とは、その当時の選挙権が国税10円以上を納める25才以上の納税者に限定していたのを国民平等選挙にさせようとするものである。又次郎は自著「普選運動秘史」(昭和2年刊)にこう書き残している。
2005.9.15日付の黄昏時のパルチザン兵士氏の投稿「大下英治氏・小泉純一郎がムキ出しにする「任侠DNA」」は、次のくだりを記している。これを転載しておく。
この在野的政治活動性を仮に第2DNAとする。 |
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その後、民政党幹事長を経て、1924(大正13)年〜1927(昭和2)年にかけて衆議院副議長に就任。昭和3年、政友本党と憲政会が合体した立憲民政党幹事長に就任。1929(昭和4).7.2日〜1931(昭和6).4.13日にかけて浜口雄幸内閣の逓信大臣に就任。1931(昭和6).4.14日〜12.11日にかけて第2次若槻禮次郎内閣逓信大臣。1934(昭和9)年、横須賀市長。1937(昭和12)年、再び立憲民政党の幹事長に就任。 逓信相時代、「電信電話設備の民営化」に取り組んでいる。時の逓信政務次官は中野正剛氏であった。後に東条英機と対立して割腹自殺を遂げる熱血の士だが、又次郎大臣の民営化論に抵抗していた。これについては今後の検証を要す。結局、「通信事業民営化」は、大蔵省などの反対にもあってとん挫している。 |
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歴史のアイロニーとでも云うべきか、郵政民営化は、祖父・又次郎の逓信相時代からの念願であることが判明する。しかし、この時点での「逓信省民営化の意義」は奈辺にあったのだろうか、中野正剛の反対にはどのような意味があったのか、興味は尽きない。 2005.6.1日 れんだいこ拝 |
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注目すべきは、又次郎はその後政府中枢入りしていることである。大東亜戦争の前夜の1939(昭和14)年、内閣参議。1941(昭和16).12.1日、「開戦止む無し」を決議した第4回御前会議に厚相として出席している。その後、大東亜戦争の真っ只中の1944(昭和19)年、内閣顧問に就任している。1945(昭和20)年、貴族院議員に勅選されている。 | |||
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これらのことから判明することは、仮に「朝鮮半島からの密航者」であった場合、異例の出世を遂げていることになる。特に、大東亜戦争末期に政権中枢に食い入っている様が見えてくる。開戦決議した第4回御前会議への厚相として出席は何やら臭うものがある。かくも政権中枢に入り込み得た背景には、当人の能力以外に「強力な後押し勢力」があったとみなすべきだろう。これを理解する鍵は、由兵衛ー又次郎時代のどこかで「親米派エージェント」契約が為されたとの推定であろう。 そうなると、このエージェントが政権中枢に入り込み、時局の重要情報を筒抜けにさせていたということになる。この観点から見れば、小泉首相の売国奴性は父祖四代に亘るものでありDNA的に根が深いということになる。この国際金融資本エージェント性を仮に第3DNAとする。 |
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戦後は公職追放。1951(昭和26).9.24日、勲一等瑞宝章受賞。
1951(昭和26).9.24日、又次郎は波乱の生涯を終えた(享年86歳)。小泉純一郎、9才のときである。ニックネームは「入れ墨の又さん」で、背中に彫りものがある異色の代議士だった。娘婿養子が)小泉純也で、小泉純一郎は孫に当たる。 |
【父親・小泉 純也】 | |
小泉首相の「父親・小泉 純也」の概要は次の通り。 旧姓鮫島で、鹿児島県川辺郡東加世田市万世小松原(現・南さつま市)出身。小泉家の養子(娘婿)となって後継した自由民主党政治家で二世議員。第3次池田改造内閣と第1次佐藤榮作内閣の二期連続で防衛庁長官に就任しており、ニックネームは「安保男」。高額所得者。1969(昭和44).8.10日没。 |
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1904(明治37).1.24日、鹿児島県川辺郡加世田市万世(東加世田村小湊)の字小松原に生まれる。万世町(現加世田市)は、特攻隊の基地があった鹿児島県知覧町から西に15キロ辺りに位置している。 本名「鮫島純(惇もしくは絢)也」で、朝鮮人との説が有る。「実父は在日朝鮮人」との情報がある。「鮫島純也朝鮮人説」を根拠付けるのは「純也の出自」であり、鹿児島県加世田市万世町小松原の朝鮮人部落出身と云われている。鹿児島県知覧町の最福寺住職・池内恵観(鹿児島出身の朝鮮人と云われている)が、「己れのルーツを語る際に、小泉は俺といとこだ」と述べていたとの話があり、信憑性を帯びている。この情報は今後の検証を要す。この在日朝鮮人性を仮に第4DNAとする。 「家が貧しかったため、小学校を出ると鹿児島市内に出て、山形屋百貨店の丁稚となり、夜は鹿児島実業に通った」(「Wikipediaに 『小泉純一郎は在日朝鮮人の末裔』とあった」)。 代議士岩切茂雄の書生となって、日本大学法学部政治学科の夜学に通わせてもらい、1930(昭和5)年、日本大学法学部政治学科を卒業。岩切の紹介で立憲民政党の職員となる。民政党の大物政治家にして幹事長を務めていた後の勅撰貴族院議員・小泉又次郎と知り合い、それが縁となり秘書となる。 「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」は次のように記している。
これによると、純也は、1930年代に朝鮮総督府で事務官として勤務しており、小泉又次郎郵政長官と知り合いになったということになる。 その後、「又次郎大臣の長女芳江を駆け落ち同然に奪い」養子(娘婿)となる。「二人の恋愛に又次郎は反対だったが、純也と芳江は又次郎の反対を押し切り駆け落ち同然に家を出て、東京・青山の同潤会アパートで同棲。結局、又次郎のほうが折れて純也が代議士になれたら一緒になることを許すとして認めることになった」との記述がある(「Wikipediaに 『小泉純一郎は在日朝鮮人の末裔』とあった」)。娘の芳江が純也とかけ落ちした時、又次郎は、新聞の尋ね人欄「帰って来い」と広告までだしていると云う(梅田功 「変革者 小泉家の3人の男たち」87頁)。又次郎の養女だった近藤壽子は次のように証言している。「本当に大変だったんです。 なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。 芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。 又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました」(佐野眞一著「小泉純一郎-血脈の王朝」148頁)。 鮫島純也が小泉家に養子入りしたことに疑問が呈されている。鮫島姓は鹿児島では名門筋の姓であり、それが安易に捨てられた背景には、そもそも鮫島姓が仮の姓で偽だからであったとのではないかと推測されている。その根拠として、概要「鹿児島県加世田市万世小松原の鮫島家一族には純也と言う人物は存在せず、日本大学法学部政治学科卒業時には、日本国籍(朝鮮戸籍)を有していたが、この時の卒業生名簿には鮫島の姓は見当たらず、見知らぬ朝鮮姓が明記されている」との記述がある(「Wikipediaに 『小泉純一郎は在日朝鮮人の末裔』とあった」)。 逓信大臣秘書、内務参与官を経て、1937(昭和12)年、郷里の鹿児島県から民政党公認で衆議院議員選挙に立候補し、当選する。この時代に、陸軍に掛け合って万世飛行場を誘致し、1944年に飛行場が完成、この万世飛行場が戦況の悪化で沖縄戦の特攻基地となり、ここから201名が出撃したまま帰らなかった。 大東亜戦争時代、翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選していたため戦後、公職追放となる。その後風向きが変わり、追放解除となる。岸信介が新日本政治経済調査会を創設するとこれに参加し、同会はその後日本再建連盟に発展する。 1952.10月、義父である小泉又次郎の跡を継ぐ形で神奈川県から改進党公認で衆議院議員に立候補し、岸の率いる日本再建連盟推薦を受け、川島正次郎らとともに初当選、政界に返り咲いた。 その後は改進党に所属し遊説部長を務め、日本民主党の結成に参加する。1955(昭和30)年の保守合同による自由民主党結成後は岸派に属し、党総務、副幹事長などを歴任する。この時の第二次鳩山一郎内閣で法務政務次官を務める。 1950年代、在日朝鮮人の帰国事業、地上の楽園計画を押し進める在日朝鮮人帰国協力会の初代会長を務めている(日朝協会の山口熊一会長、自民党の小泉純也議員、岩本信行議員の3人が代表委員を務めた、ともある)。当時の毎日新聞は、自民党議員が在日朝鮮人の北朝鮮送還を推進する団体に加わったことについて、韓日国交樹立を進める岸(岸信介)内閣とは関係のない個人レベルの活動だと報じた、とのことである。これについては今後の検証を要す。これは、第4DNAの為せる技と思われる。 60年安保改定の際に、自民党外交調査会長として衆院本会議で与党代表質問し、賛成演説している。この時、「安保男」のニックネームが付けられているので余程日米安保同盟推進の側に位置していたのであろう。これは元祖DNAと第3DNAの複合で為せる技と思われる。 1964(昭和39).7.18日〜1964(昭和39).11.9日、第3次池田勇人内閣の防衛庁長官。 1964(昭和39).11.2日、観艦式 観閲官。 1964(昭和39).11.9日〜1965(昭和40).6.3日、第1次佐藤榮作内閣の防衛庁長官。 第3次池田改造内閣と第1次佐藤榮作内閣の二期連続で防衛庁長官に就任している。このことは、純也の国防産業との深い関わりを推測させる。この期間、日本の国防産業は日米交渉の主要課題になっていた。この時どういう役割を果たしたのか、これについても今後の検証を要す。これも、元祖DNAと第3DNAの複合で為せる技と思われる。 1969(昭和44).8.10日、急逝する(享年65歳)。 |
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小泉首相の父親純也は、防衛庁長官を二期務めている。曽祖父の軍需商人ぶりといい、軍事産業に深く関わっている家系であることが判明する。 2005.6.1日 れんだいこ拝 |
【「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」考】 | |||
「阿修羅政治版15」のあっしら氏の2005.10.21日付け投稿「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」が、純也の「在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」との関わりをサイトアップしている。これを転載しておく。原文は、朝鮮日報(鄭権鉉、チョン・グォンヒョン東京特派員)の「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」のようである。
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【義兄・豊島格】 |
資源エネルギー庁長官。原発推進。アジア石油社長。コスモ石油副社長。日本貿易新興会理事長。 |
「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK105」の直人氏の2011.1.26日付け投稿「小泉のつくった悪法 第2 -日本人のルーツを壊した大罪- (ジャーナリズム)」を転載しておく。
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(私論.私見)