小泉首相の出自考

 (最新見直し2011.01.26日)

【小泉首相解析に当たって】
 小泉政権の批判を逞しくする為には、小泉政権及び小泉首相の特質を正確に把握せねばならない。ここでは、「小泉首相の特質」を問う。ここまでの研究によって判明することは、「田中真紀子対小泉純一郎」には明らかに対立的な「歴史的DNA」が認められるということである。

 その二人が奇しくも連衡し小泉政権を樹立した。その後水と油の対立により真紀子は閣外に追われた。その真紀子が小泉政権の幕引きに執念を燃やしている。これには当人の思惑を超えたものがあるというのがれんだいこの感慨である。まさに、日本政治史上これほど違う角栄的なるものと小泉的なるものとの対立ではなかろうか。

 世上では小泉的なるものの人気が良く、角栄的なるものが悪し様に云われている。日本政界上では左派と称されている社共が角栄的なるもの排撃に声高にするものだから余計にそうなりやすい。しかし、それは日本左派運動の不作現象ではなかろうか。れんだいこは憤然としてそう思っている。

 マルクス主義は案外と血統(血筋)問題を軽視する癖がある。れんだいこは、社会学的な認識論ではマルクス主義から相応のものを学ぶが、伝統的に重視されてきた1・血統(血筋)問題、2・本人の気質問題、3・本人の性格問題、生育上の環境問題をも当たり前の如く重視する。そういう意味で、以下、小泉の曽祖父、祖父、父を考察する。

 市井のあるいはネット検索で手に入る資料はヨイショ物が多過ぎる。21世紀政策研究所理事長・田中直毅の小泉革命と日本政治におけるその源流は度が過ぎている。そういう訳で、れんだいこが適当に調理した。判明するのは次のようなことである。

 2005.8.26日 れんだいこ拝

【小泉家のルーツに当たって】
 小泉家のルーツが定かでない、というか朝鮮人出自が噂され始めている。「石原家も小泉家もいずれも朝鮮半島からの移住者:日本の伝統ある家系ではない」で、「小泉の祖父又次郎の妻の祖母も、父純也の妻も在日朝鮮人。小泉の愛人も皆在日朝鮮人」なる指摘が為されている。

  「8.17日付nikaidou.com」の「自民党を暴力団に売り渡すか小泉」(「阿修羅政治版11」の「小泉首相 もうひとつの弱み?」)、「国際評論家小野寺光一の『政治経済の真実』 」、「天木直人・メディアを創る ( 5/31)  小泉首相は信念の人か」等々で重大暴露がなされている。無視できない内容なので確認しておく。

 二階堂氏は、次のように述べている。
 一方の小泉だが、確かに自民党を壊すらしい。というより、小泉と飯島の「血筋」については、内閣情報調査室をはじめ心ある当局の人間によって、証拠物件とともに日本の闇社会よりも上のドンのところにあがっており、本サイトはそのラインからの情報提供を受けている。ふと思ったが、小泉自体が工作員ではないのか。

 つまり、意訳概要「『小泉と飯島の血筋問題』が『日本の闇社会よりも上のドン』のところに上がっており、何がしかの動きが為されるのが時間の問題」と云う。「ふと思ったが、小泉自体が工作員ではないのか」なる疑問も鋭い指摘のように思われる。

 「小泉と飯島の血筋問題」は、れんだいこが要約し且つれんだいこ観点から摺り合わせすれば次のように整理できるようである。少し大胆に過ぎるが、まながち的外れでもなかろう。

 「小泉の祖父・又次郎は、朝鮮半島からの密航者であった」との説が為されている。しかし、その話を踏まえても祖父・又次郎というより曾祖父・由兵衛の代なのではなかろうか。そういうところが混乱しているように思える。そういう意味で、この情報は今後の検証を要す。

 小泉の曾祖父・由兵衛は、「軍艦に砲弾や燃料、食糧を積み込む港湾荷役への手配師で財をなした、つまり海軍と密着し、戦争とともに成長した政商である」。つまり、軍需商人として地歩を築いたということになる。
この軍事利権性を仮に元祖DNAとする。

 小泉の祖父・又次郎は、由兵衛の次男で、若い頃は横須賀でとびをしていたとのことである。しかしこれも曾祖父・由兵衛のことではないかと思われる。この辺りが混乱している。又次郎は長ずるに及び自由民権運動に被れ、政治家を志し改進党に入党する。神奈川県会議員、横須賀市議、市会議長を経て衆議院議員になり以降14回連続当選する。

 この間、改進党→猶興会→又新会→同志会→憲政会→民政党→翼賛政治会を遍歴する。ニックネームは「入れ墨の又さん」で、背中に彫りものがある異色の代議士だった。「カネはないが、きっぷがよく、男気もあったから大衆に好かれた。演説も上手だった」との評が為されている。
この在野的政治活動もある種のDNAであろう。これを仮に第2DNAとする。

 その後、民政党幹事長を経て、衆議院副議長、政友本党と憲政会が合体した立憲民政党幹事長に就任。その後、浜口雄幸内閣と第2次若槻禮次郎内閣時の逓信大臣に就任している。逓信相時代、「電信電話設備の民営化」に取り組んでいる。時の逓信政務次官は中野正剛氏であった。後に東条英機と対立して割腹自殺を遂げる熱血の士だが、又次郎大臣の民営化論に抵抗していた。これについては今後の検証を要す。かの時点で、逓信省民営化にはどのような意味が有り、中野正剛の反対にはどのような意味があったのか。いずれにせよ何か臭う話では有る。

 注目すべきは、又次郎はその後政府中枢入りしていることである。大東亜戦争の前夜の1939(昭和14)年、内閣参議になり、1941(昭和16).12.1日の「開戦止む無し」を決議した第4回御前会議に厚相として出席している。その後、大東亜戦争の真っ只中の1944(昭和19)年、内閣顧問に就任している。

 これらのことから判明することは、仮に「朝鮮半島からの密航者」であった場合、異例の出世を遂げていることになる。
かくも政権中枢に入り込み得た背景には、当人の能力以外に「強力な後押し勢力」があったとみなすべきだろう。これを理解する鍵は、由兵衛ー又次郎時代のどこかで「親米派ネオ・シオニスト・エージェント契約」が為されたとの推定であろう。

 そうなると、このエージェントが政権中枢に入り込み、時局の重要情報を筒抜けにさせていたということになる。この観点から見れば、小泉首相の売国奴性は父祖四代に亘るものでありDNA的に根が深いということになる。
この国際金融資本・ネオ・シオニスト・エージェント性を仮に第3DNAとする。

 又次郎には息子が授からず、娘芳江との駆け落ち事件を通じて婿入りしたのが旧姓「鮫島純(惇もしくは絢)也」で、これが小泉首相の父となる。「純也は朝鮮人」との説が為されている。「鮫島純也朝鮮人説」を根拠付けるのは「純也の出自」であり、鹿児島県加世田市万世町小松原の朝鮮人部落出身と云われている。鹿児島出身の朝鮮人・池内恵観が「小泉は俺といとこだ」と述べていたとの話があり、信憑性を帯びている。この情報は今後の検証を要す。

 鮫島純也が小泉家に養子入りしたことに疑問が呈されている。鮫島姓は鹿児島では名門筋の姓であり、それが安易に捨てられた背景には、そもそも鮫島姓が仮の姓で偽だからであったとのではないかと推測されている。
この在日朝鮮人性を仮に第4DNAとする。

 純也は日本大学卒で、勅撰貴族院議員・小泉又次郎の秘書となり、その後養子(娘婿)となって後継した。1952.10月、岸の率いる日本再建連盟推薦で、川島正次郎らとともに初当選。その後は改進党に所属し、保守合同後は岸派に属す。60年安保改定の際に、自民党外交調査会長として衆院本会議で与党代表質問し、賛成演説している。この時、「安保男」のニックネームが付けられているので余程日米安保同盟推進の側に位置していたのであろう。これは元祖DNAと第3DNAの複合で為せる技と思われる。

 この間、朝鮮人の帰国事業、地上の楽園計画の初代会長を務めている。これについては今後の検証を要す。これは、第4DNAの為せる技と思われる。

 第3次池田改造内閣と第1次佐藤榮作内閣の二期連続で防衛庁長官に就任している。このことは、純也の国防産業との深い関わりを推測させる。これについても今後の検証を要す。これも、元祖DNAと第3DNAの複合で為せる技と思われる。

 以上の推測が正しければ、小泉純一郎は在日4世ないしは3世ということになる。北朝鮮訪朝時の金正日との空白の10分間に「小泉ルーツ問題」が話題にされたとの話が漏れているがあながちブラフではあるまい。秘書官の飯島勲も又在日朝鮮半島人である。小泉政権取り巻きの在日朝鮮半島人、あるいはそれらとの関わりについて今後の検証を要す。

 
以上、小泉4代から窺えることは、小泉由兵衛→又次郎→純也→純一郎系譜は、元祖DNA(軍事防衛族)、第2DNA(在野性)、第3DNA(国際金融資本エージェント)、第4DNA(在日朝鮮人)の複合体であり、小泉首相には世上思われているよりも根強いいわば生粋の特質が認められるということである。これについても今後の更なる検証を要す。

 それにしても、二階堂氏の「ふと思ったが、小泉自体が工作員ではないのか」は、かなり本質を衝いた疑惑ということになる。但し、どこの工作員であるかが問題だが。

 2005.8.24日 れんだいこ拝


【曽祖父・小泉由兵衛】
 小泉首相の「曽祖父・小泉由兵衛」の出自が判明するのは、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の、神奈川県横浜市金沢区大道2丁目6番地大道2丁目)からである。この頃、とび職を生業としていたようであるが、その後文明開化の流れに乗り急速に発展する横須賀に移住して港湾荷役手配師となり、「港湾一の請負業・小泉組」にまで隆盛させる。

 2005.5.31日、「阿修羅政治版9」に、天木ファン氏により「天木直人・メディアを創る ( 5/31)  小泉首相は信念の人か」、ノンフィクション作家で社会運動家である久慈力(くじつとむ)・氏の「小泉改革に異議あり」(あけび書房、2001.6月)、大林高士のNewsLand等々に貴重な小泉首相の曾祖父・由兵衛の記述が為されている。これらを参照すると次のように要約することが出来る。
 「由兵衛は、神奈川県横浜市金沢区大道でとび職を生業としていたが、軍港として栄え始めた横須賀に移住し、海軍の軍艦に石炭や砲弾、食料を積み込む港湾荷役労働者の手配師となる。小泉組を創設するや横須賀一の請負組となり、仲仕衆の親分としてその名が轟くようになる。つまり、軍(この場合海軍)と密着し、戦争とともに成長した政商である」。

 この軍事利権性を仮に元祖DNAとする。

 長男を早逝させ、次男の又次郎を跡取りにする。又次郎は政界入りした為、小泉組は弟の岩吉が切り盛りする。岩吉は、横須賀市の成田山信仰団体「横須賀新勝講」の初代講元を務め、68才で亡くなっているが、岩吉は成田山新勝寺に献身的に尽くした功労者である。
(私論.私見) 「小泉首相の曽祖父考」
 こうなると、「小泉首相のDNAは、根っからの軍需政治家」ということになり興味深い。

 2005.6.1日 れんだいこ拝

【祖父・小泉又次郎】[1865(慶応元).6.10日(5.17日)〜1951(昭和26).9.24]
 小泉首相の「祖父・小泉 又次郎」を知るには、自伝「思い出の記」がある。但し、れんだいこはこれを読んでおらず、大林高士のNewsLand、「郵政改革を弄び抜いた小泉」その他を参照せざるをえない。但し、大林氏のそれはヨイショものでそのままでは使えないので、れんだいこ風にアレンジする。

 1865(慶応元).5.17日、小泉由兵衛の次男として、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の住所表示は、、神奈川県横浜市金沢区大道2丁目6番地大道2丁目)に、「とび職人」由兵衛の二男として生まれた。

 1871(明治11)年(西南の役の翌年)、13歳の時、横須賀学校を卒業する。明治13年に交郷校卒業とする別の記述もある。「明治12年から1年間、横須賀学校の代用教員をつとめた」ともあるが定かでない。その後、上京して東京築地の近藤塾、九段の上野清塾に入塾する。

 又次郎は、この頃の事を次のように回想している。
 「上野塾書生時代は、私の一生を通じて希望に燃えた屈託のなかった時代で、六銭の牛鍋に舌鼓を打ちながら天晴れ志士気取りで天下を論じた。其頃の記憶は思い起こすだに微笑を禁じえない」

 又次郎はこの頃全身に龍の刺青を入れている。軍人志望の道を閉ざすモンモン彫りであったとのことである。

 1874(明治14).10月、明治政府は、9年後の1883(明治23)年に国会を開設する勅諭を発した。憲政党として自民党、改進党の2大政党が結成され、自由民権運動が活発化する。又次郎は、「板垣退助の演説を聞いて、普選運動に飛び込む」。

 1887(明治20)年、23才の時、立憲改進党に正式入党。友人の横須賀町戸長役役場勤務の戸井嘉作の奨めによるもののようで又次郎は戸井を参謀にして、横浜橘樹(たちばな)郡、三浦郡の改進党勢力を結集して「一市二郡同盟会」を結成している。この時、「東京横浜毎日新聞」の記者になっている。

 30才になった頃、又次郎は芸妓だった綾部直子と結婚する。1898(明治31).10月、日刊紙「公正新聞」を創刊、社長兼主幹となる。

 1903(明治36).9.25日(日露戦争前夜)、39才の時、神奈川県会議員の選挙に当選、これが政界入りの始発となる。後に横須賀市議を経て市会議長に就任する。

 1908(明治41).5.15日、43才の時、第10回総選挙に神奈川県郡部区から野党猶興会代議士として立候補、3058票を獲得して2位当選。この時の又次郎の国会議員初当選が、明治、大正、昭和、平成に続く小泉家三代政治家の起源となる。以降、1942(昭和17))まで衆議院議員として在任し、以後、昭和20年まで38年間、12回にわたって当選を続ける。その後勅撰議員に任命されている。

 ちなみに、そのときの政党別当選者は、政友会187、憲政本党70、大同倶楽部29、猶興会29であった。猶興会当選者には又次郎のほか、後に「憲政の神様」といわれる尾崎行雄もいた。

 又次郎について、「カネはないが、きっぷがよく、男気もあったから大衆に好かれた。演説も上手だった」との評が為されている。1928(昭和3)年に刊行された『巨人新人普選代議士名演説集』(大日本雄弁会講談社刊)に、又次郎氏の演説が収録されている。

 又次郎は、改進党→猶興会→又新会→同志会→憲政会→民政党→翼賛政治会を遍歴する。民政党代議士として普通選挙実現に尽力する。

 又次郎が、議員生活でもっとも力を入れていたのが普通選挙運動であった。普選運動とは、その当時の選挙権が国税10円以上を納める25才以上の納税者に限定していたのを国民平等選挙にさせようとするものである。又次郎は自著「普選運動秘史」(昭和2年刊)にこう書き残している。

 「普選運動が開始された當初、憲政曾で之に賛成したものは極めて少数であつたばかりでなく、寧ろ其の頃の黨内は普選反對論者が巾を利かせてゐると云ふ實情であつたから縦しんば一歩進んだ意見を有つてゐた人でも、多くは大正十四年度から實施しようと云ふ期限附きの普選論者で、所謂時期尚早論で中々一致の歩調など採るさうに見えなかった。

 當時無條件で普選即行論を振り翳した同志は僅かに島田三郎、尾崎行雄、其のほかの十数名に過ぎない状態で、世時も未だ普選に對する理解を缺いて居た。(中略)と幾度協議會を開いたか知らなかったけれども、容易に黨内は一致の行動に出ることが出來なかった。

 然るに大正八年五月、憲政會立三週年記念の猪汁會の席上、加藤總裁の●員に向つてなした演説は吾々に非常なセンセエシヨンを興えた」。


 2005.9.15日付の黄昏時のパルチザン兵士氏の投稿「大下英治氏・小泉純一郎がムキ出しにする「任侠DNA」」は、次のくだりを記している。これを転載しておく。

 大正9年2月11日、全国各地で一斉に普通選挙法の実現を目指す「普選大会」が開かれた。ところが日比谷音楽堂で開かれた大会では、デモ隊と警察官がもみ合いを始めた。警察官が演説の中止を命じたためである。警察官は、一喝した。「徽章をつけている幹部以外は、全部この堂から出ろ!」。又次郎は、普選派代議士の目印である白バラを胸につけたまま、音楽堂に乱入した。又次郎は怒鳴りまわった。「巡査横暴、横暴!」。さらに警察官たちの服務規程違反などを監視する立場にある監察官に、食ってかかった。「民衆を追い出す以前に、まず巡査から追い出したまえ!そうでなければいつまでたってもこの騒擾は鎮静しない」。さらに興奮した又次郎は新聞記者を私服警官と見間違え、襟首をつかまえた。「貴様たちが悪いんだ。制服もつけず」。ぶん殴った。この奮闘は、のちのちまで語り継がれた。

 又次郎は、ついには郵政の前身である逓信大臣となり、「刺青大臣」と呼ばれる。幼い純一郎には、又次郎の刺青が不思議でならなかった。又次郎と一緒に風呂に入り、禿げ上がった又次郎の額を、ぺたぺたとたたいた。「まわれ、右!」彫り物を見せろというのである。又次郎の背中には、雲が漂い、桜の花が一面に咲き乱れるなかを、天に向かって勢いよく舞い登っている勇壮な竜が彫られていた。純一郎は、又次郎の背中の刺青をタオルで懸命にこすり続けた。が、いくらこすっても模様が落ちない。首を傾げたという。又次郎は、刺青のせいで、外に出かけるときはどんなに暑くても長袖のシャツを着て出かけた。又次郎は、純一郎の父純也の甥である井科克己に、こう漏らしている。「一番困ったのは、大臣になったとき、天皇陛下が、この刺青を見せてほしいとおっしゃられたときだ。『どうかご勘弁ください。陛下にご覧に入れるものではありません』と、ご辞退させていただいた」。そして続けた。「よく彫り物を粋がって見せる人もいるが、こんなもの見せるもんじゃない。入れるもんでもないぞ」。


 この在野的政治活動性を仮に第2DNAとする。
 その後、民政党幹事長を経て、1924(大正13)年〜1927(昭和2)年にかけて衆議院副議長に就任。昭和3年、政友本党と憲政会が合体した立憲民政党幹事長に就任。1929(昭和4).7.2日〜1931(昭和6).4.13日にかけて浜口雄幸内閣の逓信大臣に就任。1931(昭和6).4.14日〜12.11日にかけて第2次若槻禮次郎内閣逓信大臣。1934(昭和9)年、横須賀市長。1937(昭和12)年、再び立憲民政党の幹事長に就任。

 逓信相時代、「電信電話設備の民営化」に取り組んでいる。時の逓信政務次官は中野正剛氏であった。後に東条英機と対立して割腹自殺を遂げる熱血の士だが、又次郎大臣の民営化論に抵抗していた。これについては今後の検証を要す。結局、「通信事業民営化」は、大蔵省などの反対にもあってとん挫している。
(私論.私見) 小泉又次郎の郵政民営化論について
 歴史のアイロニーとでも云うべきか、郵政民営化は、祖父・又次郎の逓信相時代からの念願であることが判明する。しかし、この時点での「逓信省民営化の意義」は奈辺にあったのだろうか、中野正剛の反対にはどのような意味があったのか、興味は尽きない。

 2005.6.1日 れんだいこ拝
 注目すべきは、又次郎はその後政府中枢入りしていることである。大東亜戦争の前夜の1939(昭和14)年、内閣参議。1941(昭和16).12.1日、「開戦止む無し」を決議した第4回御前会議に厚相として出席している。その後、大東亜戦争の真っ只中の1944(昭和19)年、内閣顧問に就任している。1945(昭和20)年、貴族院議員に勅選されている。
(私論.私見) れんだいこの小泉又次郎論
 これらのことから判明することは、仮に「朝鮮半島からの密航者」であった場合、異例の出世を遂げていることになる。特に、大東亜戦争末期に政権中枢に食い入っている様が見えてくる。開戦決議した第4回御前会議への厚相として出席は何やら臭うものがある。かくも政権中枢に入り込み得た背景には、当人の能力以外に「強力な後押し勢力」があったとみなすべきだろう。これを理解する鍵は、由兵衛ー又次郎時代のどこかで「親米派エージェント」契約が為されたとの推定であろう。

 そうなると、このエージェントが政権中枢に入り込み、時局の重要情報を筒抜けにさせていたということになる。この観点から見れば、小泉首相の売国奴性は父祖四代に亘るものでありDNA的に根が深いということになる。
この国際金融資本エージェント性を仮に第3DNAとする。

 戦後は公職追放。1951(昭和26).9.24日、勲一等瑞宝章受賞。

 1927(昭和2)年、「普選運動秘史」を著作している。次のように記されている。

 「吾々の目標は、社会制度の●●を極度にまで暴露してゐる。現代を改造して、そこに共存共栄、平和なる社会を構成しようと云ふのである。過去に於ける特権の牙城から民衆を脾睨してゐた所謂特権階級を、正義、平等の一線にまで引きおろすと共に、虐げられたる下層階級の地位を正義、平等の一線にまで引き上げて、両者の均衡と握手との間に幸福なる社会、健全なる国家を建設しようという所に吾々の希望の焦点が在る。国民多年の要求であった普通選挙は隠して天下に公布された」。

 1951(昭和26).9.24日、又次郎は波乱の生涯を終えた(享年86歳)。小泉純一郎、9才のときである。ニックネームは「入れ墨の又さん」で、背中に彫りものがある異色の代議士だった。娘婿養子が)小泉純也で、小泉純一郎は孫に当たる。


【父親・小泉 純也】
 小泉首相の「父親・小泉 純也」の概要は次の通り。

 旧姓鮫島で、鹿児島県川辺郡東加世田市万世小松原(現・南さつま市)出身。小泉家の養子(娘婿)となって後継した自由民主党政治家で二世議員。第3次池田改造内閣と第1次佐藤榮作内閣の二期連続で防衛庁長官に就任しており、ニックネームは「安保男」。高額所得者。1969(昭和44).8.10日没。
 1904(明治37).1.24日、鹿児島県川辺郡加世田市万世(東加世田村小湊)の字小松原に生まれる。万世町(現加世田市)は、特攻隊の基地があった鹿児島県知覧町から西に15キロ辺りに位置している。

 本名「鮫島純(惇もしくは絢)也」で、朝鮮人との説が有る。「実父は在日朝鮮人」との情報がある。「鮫島純也朝鮮人説」を根拠付けるのは「純也の出自」であり、鹿児島県加世田市万世町小松原の朝鮮人部落出身と云われている。鹿児島県知覧町の最福寺住職・池内恵観(鹿児島出身の朝鮮人と云われている)が、「己れのルーツを語る際に、小泉は俺といとこだ」と述べていたとの話があり、信憑性を帯びている。この情報は今後の検証を要す。
この在日朝鮮人性を仮に第4DNAとする。

 
「家が貧しかったため、小学校を出ると鹿児島市内に出て、山形屋百貨店の丁稚となり、夜は鹿児島実業に通った」(「Wikipediaに 『小泉純一郎は在日朝鮮人の末裔』とあった」)。

 代議士岩切茂雄の書生となって、日本大学法学部政治学科の夜学に通わせてもらい、1930(昭和5)年、日本大学法学部政治学科を卒業。岩切の紹介で立憲民政党の職員となる。民政党の大物政治家にして幹事長を務めていた後の勅撰貴族院議員・小泉又次郎と知り合い、それが縁となり秘書となる。

 「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」は次のように記している。
 「歳川さんは、小泉首相の父親である純也氏が、1930年代に朝鮮総督府で事務官として働いたこともあったと述べた。純也氏は、総督府に勤務していた当時、小泉又次郎郵政長官と知り合いになり、その後小泉逓信(郵政)大臣の娘婿になって選挙区まで受け継いだ 」(東京=鄭権鉉(チョン・グォンヒョン)特派員khjung@chosun.com)。

 これによると、純也は、1930年代に朝鮮総督府で事務官として勤務しており、小泉又次郎郵政長官と知り合いになったということになる。

 その後、「又次郎大臣の長女芳江を駆け落ち同然に奪い」養子(娘婿)となる。「二人の恋愛に又次郎は反対だったが、純也と芳江は又次郎の反対を押し切り駆け落ち同然に家を出て、東京・青山の同潤会アパートで同棲。結局、又次郎のほうが折れて純也が代議士になれたら一緒になることを許すとして認めることになった」との記述がある(「Wikipediaに 『小泉純一郎は在日朝鮮人の末裔』とあった」)。娘の芳江が純也とかけ落ちした時、又次郎は、新聞の尋ね人欄「帰って来い」と広告までだしていると云う(梅田功 「変革者 小泉家の3人の男たち」87頁)。又次郎の養女だった近藤壽子は次のように証言している。「本当に大変だったんです。 なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。 芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。 又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました」(佐野眞一著「小泉純一郎-血脈の王朝」148頁)。

 鮫島純也が小泉家に養子入りしたことに疑問が呈されている。鮫島姓は鹿児島では名門筋の姓であり、それが安易に捨てられた背景には、そもそも鮫島姓が仮の姓で偽だからであったとのではないかと推測されている。その根拠として、概要「鹿児島県加世田市万世小松原の鮫島家一族には純也と言う人物は存在せず、日本大学法学部政治学科卒業時には、日本国籍(朝鮮戸籍)を有していたが、この時の卒業生名簿には鮫島の姓は見当たらず、見知らぬ朝鮮姓が明記されている」との記述がある(「Wikipediaに 『小泉純一郎は在日朝鮮人の末裔』とあった」)。

 逓信大臣秘書、内務参与官を経て、1937(昭和12)年、郷里の鹿児島県から民政党公認で衆議院議員選挙に立候補し、当選する。この時代に、陸軍に掛け合って万世飛行場を誘致し、1944年に飛行場が完成、この万世飛行場が戦況の悪化で沖縄戦の特攻基地となり、ここから201名が出撃したまま帰らなかった。

 大東亜戦争時代、翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選していたため戦後、公職追放となる。その後風向きが変わり、追放解除となる。岸信介が新日本政治経済調査会を創設するとこれに参加し、同会はその後日本再建連盟に発展する。

 1952.10月、義父である小泉又次郎の跡を継ぐ形で神奈川県から改進党公認で衆議院議員に立候補し、岸の率いる日本再建連盟推薦を受け、川島正次郎らとともに初当選、政界に返り咲いた。

 その後は改進党に所属し遊説部長を務め、日本民主党の結成に参加する。1955(昭和30)年の保守合同による自由民主党結成後は岸派に属し、党総務、副幹事長などを歴任する。この時の第二次鳩山一郎内閣で法務政務次官を務める。

  1950年代、在日朝鮮人の帰国事業、地上の楽園計画を押し進める在日朝鮮人帰国協力会の初代会長を務めている(日朝協会の山口熊一会長、自民党の小泉純也議員、岩本信行議員の3人が代表委員を務めた、ともある)。当時の毎日新聞は、自民党議員が在日朝鮮人の北朝鮮送還を推進する団体に加わったことについて、韓日国交樹立を進める岸(岸信介)内閣とは関係のない個人レベルの活動だと報じた、とのことである。これについては今後の検証を要す。これは、第4DNAの為せる技と思われる。

 60年安保改定の際に、自民党外交調査会長として衆院本会議で与党代表質問し、賛成演説している。この時、「安保男」のニックネームが付けられているので余程日米安保同盟推進の側に位置していたのであろう。これは元祖DNAと第3DNAの複合で為せる技と思われる。


 1964(昭和39).7.18日〜1964(昭和39).11.9日、第3次池田勇人内閣の防衛庁長官。
 1964(昭和39).11.2日、観艦式 観閲官。
 1964(昭和39).11.9日〜1965(昭和40).6.3日、第1次佐藤榮作内閣の防衛庁長官。 

 第3次池田改造内閣と第1次佐藤榮作内閣の二期連続で防衛庁長官に就任している。このことは、純也の国防産業との深い関わりを推測させる。この期間、日本の国防産業は日米交渉の主要課題になっていた。この時どういう役割を果たしたのか、これについても今後の検証を要す。これも、元祖DNAと第3DNAの複合で為せる技と思われる。

 1969(昭和44).8.10日、急逝する(享年65歳)。

(私論.私見) れんだいこの小泉純也論
 小泉首相の父親純也は、防衛庁長官を二期務めている。曽祖父の軍需商人ぶりといい、軍事産業に深く関わっている家系であることが判明する

 2005.6.1日 れんだいこ拝

【「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」考】
 「阿修羅政治版15」のあっしら氏の2005.10.21日付け投稿「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」が、純也の「在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」との関わりをサイトアップしている。これを転載しておく。原文は、朝鮮日報(鄭権鉉、チョン・グォンヒョン東京特派員)の「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」のようである。
 「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」
 [朝鮮日報]【歳川隆雄氏:放送でこの事実に触れると制止された】


 日本の小泉純一郎首相の父親で自民党所属の国会議員だった小泉純也氏(1969年死去)が1950年代末、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業に中心的な役割を果たしていたことがわかった。

 在日朝鮮人の北朝鮮送還事業は、1959年末から1984年まで、計9万3340人の在日朝鮮人が「地上の楽園」というふれこみで、北朝鮮に送還された事件だ。当時、日本では韓国政府の激しい反発にもかかわらず、政界と文化界など各分野の要人が名を連ねる「在日朝鮮人帰国協力会」が1958年11月17日に結成され、在日朝鮮人の北朝鮮送還支援活動に乗り出した。

 その後、北朝鮮に送還された在日朝鮮人たちは、「不穏分子」「親日」「日帝のスパイ」などと濡れ衣を着せられ、弾圧された。そのうちの多くが強制労動収容所に収容させられ、消息を絶った。

 小泉首相の父である純也氏は当時、自民党の国会議員でありながら「在日朝鮮人の帰国協力会」の代表委員に就任し、在日朝鮮人の北朝鮮送還のため積極的に活動したことが確認された。

 小泉首相の父親のこのような過去は、2002年の小泉首相の訪朝以後、日本の会員制雑誌である『インサイドライン』の発行人、歳川隆雄さん(58)の追跡取材によって明らかになった。

 歳川さんは20日、本社の記者に会い「小泉首相の父親が、在日朝鮮人の北朝鮮送還の中心人物だったことは、小泉首相にとって最大のタブー」とし、「靖国神社参拜にこだわる小泉首相の姿勢と一見、矛盾するかのように見えるが、日朝国交正常化にこだわっている理由も父親の政治的背景と決して無縁ではない」と主張した。

 歳川さんによると、在日朝鮮人帰国協力会は、共産党と社会党の影響力が強かった「日朝協会」の主導によって結成され、日朝協会の山口熊一会長、自民党の小泉純也議員、岩本信行議員の3人が代表委員を務めた。

 歳川さんは、小泉首相の父親が在日朝鮮人の北朝鮮送還に積極的だった理由について「当時、純也氏の選挙区である神奈川3区に多数の在日朝鮮人が居住している川崎市が含まれていたためと推定している」とし、「冷戦の真最中だった当時、自民党議員の身分で社会党や共産党と超党派の会合を開くこと自体が異例だった」と述べた。

 当時の毎日新聞は、自民党議員が在日朝鮮人の北朝鮮送還を推進する団体に加わったことについて、韓日国交樹立を進める岸(岸信介)内閣とは関係のない個人レベルの活動だと報じた。

 歳川さんは2002年に小泉首相が訪朝した直後、自分が発行する雑誌でこの事実を報じたが、注目を集めることができず、また放送に出演した際にこの事実に触れたことで司会者から制止されたこともあると明らかにした。

 また歳川さんは、小泉首相の父親である純也氏が、1930年代に朝鮮総督府で事務官として働いたこともあったと述べた。純也氏は、総督府に勤務していた当時、小泉又次郎郵政長官と知り合いになり、その後小泉逓信(郵政)大臣の娘婿になって選挙区まで受け継いだ。

(私論.私見) 「小泉首相の父親、小泉純也の在日朝鮮人の北朝鮮送還事業主導考」
 「在日朝鮮人帰国協力会は、日朝協会の山口熊一会長、自民党の小泉純也議員、岩本信行議員の3人が代表委員を務めた」とあるが、小泉純也は何故に、「在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」を主導する地位に就いたのか、この闇が考察されねばならない。

 2005.10.22日 れんだいこみ拝

【義兄・豊島格】
 資源エネルギー庁長官。原発推進。アジア石油社長。コスモ石油副社長。日本貿易新興会理事長。

 ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK105」の直人氏の2011.1.26日付け投稿「小泉のつくった悪法 第2  -日本人のルーツを壊した大罪- (ジャーナリズム)」を転載しておく。
 小泉のつくった悪法 第2  -日本人のルーツを壊した大罪-
http://voicevoice.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-e1a4.html
 (ジャーナリズム)より転載

 朝○人に支配される日本か。

 5年以上前の日本人の住民票が全部消された。日本人の日本人である証明のルーツが消されたのだ。マスコミは、まったく報道しませんが、小泉政権がつくった法律で大変な悪法です。小泉さんの大罪だと思います。明治以来、小泉政権になる前までは、国民の住民票は、それまで、全部、市町村の役所に過去の履歴が残っていました。この履歴があることによって、日本人が日本人である証であった。生まれたときから現在にいたるまで、どこで生まれて、どこで育って、どこに移動して現在、どこにいるか追跡することが可能でした。

 それが小泉が総理のときに法律を変えました。過去5年以前の日本国民の住所、履歴は、全部、消されてしまいました。だから、子供時代、学生時代、社会人時代、と住所が変更になっても、過去の住所はまったくわからなくなりました。例えば、不動産を10年前に所有していたとします。あるいは遺産でもらっていたとします。そこに登記されていた住所が変わっていれば、5年前の住所は、もはや、どこにも記録がなく調べることができません。自分の不動産であることを証明することが、できません。そこに登記されている住所がないので本人確認ができません。そして、それを売却しようとしても大変です。過去の住所までたどりつくことができなくなりました。

 小泉の前までは、旧住所は、全部、市町村に残されており、旧の住民票をとれば、残っていました。さらに、戸籍謄本や抹消戸籍謄本などをとりよせても、そこの附票で、過去の住所の履歴を確認できました。小泉の前までは、住所が確認できました。不動産登記の変更があっても、住所の変更もたどることができましたが、小泉が法律をつくり、全部、戸籍の附票も、住民票も消されてしまいました。だから、日本国民の、履歴が残っていません。

 今、東京では、まったく普通の人が、無縁仏となって、孤独死をし、共同墓地に、無縁墓地に葬られているのが、増えています。これも、5年以上前の住所がわからなくなってしまったので、その人が、どこから来た人なのかがわからないのです。実家がどこかも、わからなくなってしまっているのですよ。区役所にも、もはや記録が消されましたから調べようがありません。

 怖い話ですが、これが事実です。そして、もっと怖いのは、日本人のルーツが、削除されてしまったことです。どこから来た人なのかの証明ができないということです。日本人か、どうかも、証明ができなくなったということです。あなたが、本当に日本人かどうかもわからないということです。朝鮮から来た、中国から来た、という人であっても、5年たてば、どこから来た人なのか、わからなくなり、もともと、日本にいた人と、同じになり、証明ができなくなります。

 小泉さんの父親小泉純也氏の父親は、在日朝鮮人とのこと、九州の人です。日大の夜間を卒業したときは、朝鮮人の名前だったとか、それが、この小泉が総理になったときに、住民票を、全部、消してしまいました。ですから、もはや、どこから来た人かの証明ができなくなってしまった。日本に帰化した人たちは、日本人の名前をとります、そして、戸籍は日本で取得します。住所の記録がなくなりました。5年前までしかありません。純粋な日本人か、海外から来て、帰化した人かの区別さえできません。日本人のルーツ、日本人の種と、DNAを、をこわした法律です。国民新党の亀井静香氏の先祖は、宇多天皇を祖とする宇多源氏の門葉で佐々木氏の一門、亀井氏の出自。 先祖は出雲の戦国大名尼子氏の筆頭家老 亀井吉助である。

 同党の、綿貫民輔氏は、父は楠木正成の系譜を引く兵庫県淡路島の南家出身であり、母が井波八幡宮の宮司をつとめる綿貫家の出身である。代々、井波八幡宮(富山県南砺市井波)の宮司を務める 名門家の出身で、自身も15代目で、現職の神職である桐花大綬章を今上天皇(現天皇)から今年、受賞した 

 同党の 亀井久興氏は家系:大名家で旧津和野藩主、明治以降は旧華族の伯爵家。始祖 - 亀井茲矩(尼子氏家臣、鹿野城主) 高祖父 - 岩倉具視(公家、政治家)、亀井茲監(津和野藩主) - 久留米藩主有馬頼徳二男。曾祖父 - 上杉茂憲(第13代米沢藩主、伯爵、沖縄県令) - 父方の祖母久の父。祖父 - 亀井茲常(伯爵) 有馬頼寧(伯爵、政治家) 。父 - 亀井茲建(伯爵、東北開発株式会社総裁

 家柄のいい人たちです、古くからの家系、ルーツがあるのです。それを、消されてしまっては、大変な大罪です。小泉のしたことは、大変な大罪です。だから、亀井さんたちは、小泉に、日本をがたがたにこわされた、といって、激怒しているのは、これもそのうちの一つでしょう、マスコミは、口をつぐんでいますが、日本国民、日本民族に対する、大きな罪です。

 小泉の家は、父方は、朝鮮人、母がたは、小泉組という港湾のなわばり争いをしてた横須賀のヤクザである。そのヤクザの祖父又二郎は、全身いれずみをしていた。その又二郎と、愛人石川ハツとの間にできたのが、小泉の母である。家柄は、決してよくはない。(Wikipedia)にも書かれている。その朝鮮系の家系を隠すために、この法律をつくったと思われる。

 01. 2011年1月26日 01:57:17: 93zneIJfWo
http://www.yaguchi-office.com/faq01.html によると、

> Q1-6.除籍や住民票の除票の保存期間はどれくらいなんですか?

>  「除籍簿の保存期間は、当該年度(除籍となった年度)の翌年から150年とする。」と定められています(戸籍法施行規則第5条第4項)。 ただしこの規定は2010年6月1日施行の規則であり、施行前は80年と定められていました。
>  また、住民票の除票については「その消除された日から5年間保存するものとする」と定められています。(住民基本台帳法施行令第34条第1項)。

>  これらの規定は、保存の最低年限を定めたものであるという考え方もあり、自治体によっては廃棄処分を保留して保管してあって、交付が受けられる場合もありますので、ご相談下さい。

 だそうです。80年が5年になったというだけなので、家系の証明とは関係ないのではないでしょうか?

 また、「これまでに住所が、どのように変わってきたのかを証明したい。」 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010819015を見たのですが、家柄とは関係ない実際上の問題はあまりないようなのですが・・・。

 02. 2011年1月26日 02:02:58: 93zneIJfWo
 連投すみません。除籍簿と住民票の除票を混同していました。各自治体で住民票の除票が5年以上残っていることに期待したいです。
 03. 2011年1月26日 02:36:51: MAhvRA4J0A
 93zneIJfWo へ

>各自治体で住民票の除票が5年以上残っていることに期待したいです

 この記事は、事実です、小泉のときに、改革の名のもとに、日本全国、住民票はの除票は消されてしまいました。だから、記録はまったくありません。今、東京で、普通の人の無縁仏が、増加しています。また、東京で、家の持ち主がどこへいったかもわからなくなっています。これも、小泉のつくったこの法律のせいで、住所が、わからなくなったことに、起因している、ということを、マスコミ、NHKは、隠している。日本人ほど、おめでたい人種はいないと思いますよ。よくも、また、明治以来、ずっと、記録されてきた、住民票の除票も戸籍の附票も、全部、消されてしまって気が付かないなんて、どうかしている。







(私論.私見)