派閥について |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).9.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、派閥論をしておく。 2010.11.28日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの派閥論】 | ||
メディアは昔から派閥批判論にシフトしている。私はそれは違う、オカシイと思っている。派閥とは、議員各員が互いに政党を作りその長となったとして、議員活動を経て次第に政策が似たもの、ウマが合う者が共同した結果、熟し柿のように実って立ち上げたものであり、政党にとって派閥の数だけ党内意見があるということ、その長は派閥を束ねる能力、派閥間を調整する能力が試され、その器量合格者が追って国政を預かる任に就くに足りる証になる。こういう仕掛けの構造になっている。よってこれは必要悪ならぬ必要善のものである。党内に於ける派閥の存在を悪しざまに説く政党あるいはメディアこそ稚拙である。その様は囲碁の低段者が高段者やプロの手を悪しざまに批評している愚に似ている。 | ||
政治の世界におけるキレイ潔癖論を弄ぶ者は却ってイカガワシイと心得るべきではなかろうか。この観点から派閥論を構築しておくことにする。れんだいこは、派閥容認政治の方が却って正常と看做している。もっと堂々と派閥政治の功罪を弁え、功の面の良さを引き出して行くべきではなかろうか。これを逆に説く「表見正義派」の戯言(ざれごと)を掣肘しておきたい。 日本の政党規約上、派閥を最も厳しく否定し調査問責するのが日共規約である。れんだいこの理解に間違いなければ何と、党員間は縦の系列で組織化させられており、それは良いとしても党員の横断的な意見の遣り取りは厳しく監視されている。いわば密告奨励型になっている。党中央批判になる恐れのある政治談議などもってのほかで厳禁されている。傑作は「二人派罰規定」である。つまり、二人だけでもヒソヒソ話していると派閥と看做され調査問責の対象になる。果たして、こういう党組織をキレイ潔癖と評して手本とするべきだろうか。 れんだいこの左派精神と運動の原点は端から違う。党員間であろうが、党員と非党員であろうが、いつでも自由、自主、自律的に闊達に政治を語り、自己責任で行動する権利と義務を負うとするのが望ましい。党中央批判は当り前のことであり、党中央はこれによって鍛えられる。党大会での対案提出権、発言権も極力保証されるべきであり、そればかりか常時、党内に反対派が生息することが許される。つまり、議論も行動も喧しい方が良い。こういうプロセスを保証するからこそ逆に党中央には人事権、予算権、指導権、指針権が与えられる。俗にこれを政治権力と云う。この四権を掌握させてみて無能であれば、党中央の交代が要請される。こうして指導部が変わることが望ましい。これを思えば、れんだいこ規約と日共規約の乖離が甚だしい。どちらが左派なのか、そろそろ決着つけねばならないとも思う。 さて、話を派閥論に戻す。山本七平氏の著書「派閥」の観点を受け売りすれば、派閥とは次のように定義できる。「派」とは、教派、宗派、学派、党派と云われるように、宗教・思想・学問・政治思想や政策の世界に於いて、ある種の主義主張を共にして結成される集まりを云う。「閥」とは、「出身を共にする者が団結して結成する排他的な集まり」(広辞苑)ということになる。この派と閥という二つの言葉を結びつけて派閥という。してみれば、れんだいこ定義によれば、「集団的な何らかの存立利益と主義主張を結合させた上に成り立つ同志的排他的組織」ということになろう。 マスコミは、派閥政治を常に批判しつづけてきた。れんだいこの記憶する限り、T960−70年代に於いて社共運動も自民党的派閥政治を格好の攻撃材料として利用してきた。それは、批判する側にはあたかも派閥が存在しないかのように得手勝手な為にする批判であったのではなかろうか。れんだいこに云わせれば、派閥そのものの発生は不可避な人間的臭い社会現象であり、それはもっと公然と認められるべきであり、その上に立った公正合理的な組織論こそ追及されるべきではなかろうか。れんだいこは、派閥を認めない日共運動よりも、それを公然と認めてきた自民党運動の方が逆に組織論的に進んでいるとさえみなしている。 かく認識することなく、三木政権以来、度重なる派閥解消宣言が為され、決議もされてきた。しかし、看板が代わっただけのことで新たに政策研究集団が生まれ、何の事はない実態的に見て旧派閥そのままであった。北門政二・氏は、「田中角栄代軍団101人」の中で次のように述べている。
山本七平氏は、「派閥」の中で次のように述べている。
我々は、「派閥の弊害よりも効用のほうが強かった」、「派閥に多くの人が群がるのは、何も政治の世界だけでなはく、財界、官界や象牙の塔のシンボル・大学、学術の世界もまた同じである」をそれとして踏まえる見識を持つべきではなかろうか。 2006.6.19日再編集、2010.11.28日再編集 れんだいこ拝 |
【派閥の効用】 | |
派閥は、ひと頃のジャーナリズムの云うが如く否定されるべきものではない。むしろ反対に、政治のダイナミズムを引き出す点に於いて必要であり、派閥の効用の方がより大と看做されるべきではなかろうか。元総理鈴木善幸氏は、著書「元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る」の中で次のように述べている。実際にその任にあった者の言であるからして重いと云うべきだろう。
れんだいこは、功利的な面からの派閥の効用のみならず根源的な面からも是認したい。即ち、派閥というものは、人間種族の社会的あり方として極く自然で、それを否定するよりも是認する上に成り立つ利害調整的組織論こそ是とすべきで、その出来具合いが党派能力の証であり組織的健全度の目安となると思料する。 自民党が閉塞したのは、マスコミの伝える如くな派閥の悪弊によってではない。逆に、かって健全であった派閥機能を効果的に運用できなくなったことによってではなかろうか。そう断定できるほどに、派閥は自民党の活力源であり、進んだ「党中党組織」であった。それはまず、形態的な意味において、秘密結社ではなく、公然と旗揚げし、堂々と政争を渡り合う日本的「村」組織であった。このことは、日本的には当たり前のように思われるが、世界的にはむしろ珍しい。このことはもっと高く評価されて良いことのように思われる。 機能的には、総裁選、選挙戦、閣僚や党役員人事のポスト配分、資金調達、挙党体制構築等々で決定的な役割を果たす司令塔であった。且つ政治家教育、政策及び実務研修、人材登用、幹部養成、その力量査定等々の実践道場でもあった。組織的には、まずトップリーダーたる「親分」を輩出させる。その「親分」の識見、指導力、人柄、閥務能力の下に側近、幹部、中堅、新人が群がり「村」が形成される。「親分」は、資金集めに始まり閣僚ポストの手配、政局舵取りに格別の能力が要請され、精魂を傾けることを余儀なくされる。しかし、このことが自ずと首相の器を磨く下地となっている。「親分」の評価は、資金集めから始まる諸能力によって定められる。その昔はジャーナリズムも、この集金能力によって親分の能力を測っていた。これはむしろジャーナリズムが健全だったと云うべきではなかろうか。 派閥は、ごく自然な「社会的必要悪」と看做すべきではなかろうか。この観点を失い、キレイ潔癖論で評するのは却って子供政治に堕すのではなかろうか。或いは日共の如く他愛ない話にまで「二人組派閥」として規制する党中央集権密告政治に道を開くのではなかろうか。残念ながら、人類は、未だキレイ潔癖型政治能力を獲得しておらず、その段階でこれを必要以上に説くのは良からぬ企みによって為されている場合が多く、イカガワシイと看做すべきではなかろうか。 派閥は、総裁選の時に力を発揮する。派閥間の合従連衡や激しい駆け引きが繰り返され、多数派工作のための多額の資金「実弾」が飛び交うことになる。この修羅場を潜り抜けた者が首相ポストを掌中にする。つまり、派閥を治められない者が党を治められず、党を治められない者は国を治められないという発展系論理になっており、派閥経営に成功する者をもって安んじて国を任せられるという仕掛けになっている。これを思えば、派閥経営に汗を流さなかった、これをこなしきれなかった者を首相の座に据えることの恐さの方を危ぶむべきであろう。 概観するとどの時代でも7〜8程度の派閥が存在してきた。時々の政治状況に応じて「主流」、「反主流」に分類される。これは派閥の大小とは直接の関係はなく、時の政権を支える派閥群と、そうでない派閥群のことである。この派閥は党内ではいろいろと画策しているが、党外に対しては団結するのが常であった。かく俯瞰すれば、派閥こそ、伝統的歴史的日本政治的質を持つ優れものの和合的結合組織であり、権力闘争を本質とする政治の重みに対する適応組織であった。かく認識し直したい。 この日本的結合組織である派閥が否定され、与野党問わず隠微に秘密組織化された結社を通じて政治がコントロールされ始めて以来、日本政治は売国政治に向かい始めたのではなかろうか。れんだいこは、そういう連中をシオニスタンと名付けている。現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオシオニズムのエージェント性に注目し、その御用聞きである故にキリシタンならぬシオニスタンと命名している。未だ政治用語として確立していないが、いずれこの規定の正しさが確認される日が来よう。学問だからと云って何もわざわざ難しく云うことはない、本質をズバリ見抜いた規定こそが定着すべきだろう。 先だって政治学教授・加地の粗脳ぶりを嗤ったところである。あの程度の頭脳で幾ら難しく述べようが、らっきょうを剥いていけばトンチンカンな結論しか生まれまい。無能を隠すイチジクの葉を何枚も重ね勿体ぶるから政治学教授の地位に就いているだけであり、我々は地位に騙されてはならない。アホウはどこまで行ってもアホウであり、学問すれば難しく云い始めるに過ぎない。これぐらいでやめとこ。 2006.6.19日再編集、2010.11.28日再編集 れんだいこ拝 |
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2021衆院選結果を確認しながら思った事は、自民党組織が他党のそれに較べてしなやかなのではないかなという事。その証拠の一つが派閥の容認である。無派閥の者も多いが、その他の者は縁ある派閥に所属している。だから、自民党議員の場合、当選者がどの派閥に所属しているのかまで知りたくなる。これを逆に云うと、野党は派閥がある事を邪悪視しており派閥がない。それが薄っぺらな組織にしているのではなかろうか。人には相性があり考え方も気質のような違いがあるものだ。近い人が寄って講を組む方が自然な気がする。その上で党内講間の折り合いをつけて行くのも政治だろう。自民党が勝ち続け野党が勝てない理由に、政策議論とは別にこの群れ方の違いがあるように思えてならない。自民党的組織を持つ野党が生まれ、丁々発止の政策論議をやればさぞかし圧巻で面白かろう。 |
2021.9.19日、「「派閥の影響力は?」「世代交代は進む?」 豊田真由子が自民党総裁選を深掘り解説」。
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(私論.私見)