戦前保守党史 |
(最新見直し2006.6.16日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.7.15日 れんだいこ拝 |
【戦前派閥史】 |
(私論.私見)
戦前の保守政党史は、「立憲政友会」と「立憲民政党」の二大政党が綾なす。
政友会は、明治31年、日本初の政党内閣「大隈内閣」の成立にともない、伊藤博文が対抗的に組織して設立された政党である。但し、伊藤は、山縣有朋との確執で、結党まもなく政友会総裁の座を降りざるを得なくなり、西園寺公望が後継した。
政友会は議会で圧倒的な勢力をたもち、西園寺は政友会に基礎をおく政権を樹立した。しかし党首たる西園寺自身は衆議院に議席をもたない(有爵者には被選挙権がない)ため、本来の意味での政党内閣とはいいがたかった。
西園寺につづいて原敬が政友会総裁となった。原・政友会は、第一次護憲運動後に成立した山本内閣を支持し、内務大臣に原自身が就任したほか主要閣僚に政友会の党員を送り込み与党の地位を得た。
山本内閣がジーメンス事件にあって退陣すると原は政友会を率いて下野、つづく大隈・寺内内閣では野党の位置にあった。
原が待望の総理大臣の座を得、日本初の本格的政党内閣が発足したのは寺内内閣が米騒動で崩壊した大正7年のことだった。外務大臣と陸海両軍部大臣をのぞくすべての閣僚を政友会から採用した、戦前ではもっとも進んだ政党内閣となった。原はワシントン軍縮条約を締結して軍備拡張を抑止し、民力の向上につとめたがその一方で普通選挙の施行に執拗に抵抗するなどの面も見せた。
原はまた日本で初めて在職中に死亡した総理大臣となり、同時に初めて暗殺された総理大臣となった。
原の暗殺後、政友会を率いたのは高橋是清である。高橋は原内閣の閣僚のほとんどを引き継いで内閣を組織した。しかし高橋は本来政友会の党員ではなかった。原が高橋の財政能力を見込んで大蔵大臣に引っ張ってきた時に政友会に入党した、いわば新参者である。高橋新総裁の党内統率力は原の比ではなく、高橋内閣は半年で退陣に追い込まれ、そのあとには加藤友三郎による超然内閣が組織された。
加藤友三郎内閣では政友会は閣外協力の形をとる。加藤友三郎が在任1年余で病死し、加藤の師匠筋にあたる山本権兵衛が第二次内閣を組織すると、政友会総裁の高橋はこれに入閣するが、山本内閣が虎ノ門事件で総辞職するとまたも下野を強いられることになる。後継内閣は官僚出身の清浦奎吾が組織した。
この清浦に対して猛然と攻撃を開始したのが憲政会の加藤高明である。憲政会は、第一次護憲運動のさなかに、非難の矢面に立たされていた時の総理大臣桂太郎が、政友会に対抗して組織した立憲同志会がその前身である。この時に中心となって新党の組織にあたったのが外務大臣の加藤高明であった。加藤は以後、同志会の中心となって活動する。
第一次山本内閣では政権の基礎を政友会においていたのに対し、山本内閣が倒れて成立した大隈内閣では同志会から多くの閣僚を送り込んだ。原内閣時代には雌伏を余儀なくされていたが、原の暗殺後、政友会が内紛を起こしている間に勢力を拡大している。この間、立憲同志会を憲政会と改めている。
かつて日本で最初の政党内閣を組織した憲政党は内訌分裂を繰り返した末、革新倶楽部という小政党に転落していた。この革新倶楽部は犬養毅が率いていた。その一方で、政友会では清浦内閣に対する態度の違いに端を発し、古参党員の床次竹二郎らが脱党して政友本党を形成した。政友本党は清浦支持である。反清浦陣営に立った憲政会、政友会と革新倶楽部は「護憲三派」を構成して第二次護憲運動を展開した。
加藤は清浦内閣に反対する政友会および革新倶楽部に連立を呼び掛けた。護憲勢力を結集して清浦を退陣に追い込もうというのである。高橋と犬養はこの呼び掛けに応じ、続く総選挙を「護憲派」と「非立憲派」の争いと位置付け、結果として「護憲派」は選挙に大勝して目論み通り清浦を退陣せしめた。加藤は護憲派連立内閣を組織することになる。
護憲三派の連立内閣は長くは続かなかった。やがて議会で優勢な憲政会は政友会を排除して単独内閣を組織する。清浦に対して連立して闘っておきながらいざ勝利をおさめると政権から排除されてしまった政友会は憲政会に対して激怒した。この怒りが政友会をしてなりふり構わぬ行動に走らせる。政友会は、もと陸軍大臣で軍部に強大な影響力をもち、政界進出を画策していた田中義一と手を組んだ。田中を政友会総裁に押し立て、その知名度でもって政権を奪還しようというのである。田中も政友会という後ろ盾を得ることは政権への近道に違いない。時あたかも憲政会の加藤は病魔に侵されて世を去り、後継内閣は同じ憲政会の若槻礼次郎が組織していたが統率力の低下は覆うべくもなかった。政友会は先に政友本党の離党のために凋落していた勢力を回復すべく、犬養の革新倶楽部との合同を図った。政友会は、革新倶楽部および小政党の中正会と合同して議会第二党の地位を回復した。新生政友会の総裁は田中義一である。
昭和2年、破綻に瀕した台湾銀行救済のための緊急勅令を枢密院に拒否された若槻内閣は総辞職、政権は政友会の手に移った。総理大臣に就任するのは政友会総裁田中義一。憲政会内閣では、外務大臣の幣原喜重郎を中心に対中国融和政策をとっていたが、政友会ではそれに対抗する意味もあって対中国強硬策がとられていた。そのトップに元軍人の田中が据わってその傾向には拍車がかかる。大陸侵略政策を規定したとされるいわゆる「田中上奏文」が偽作であることは間違いないが、田中内閣時代には済南事変や張作霖爆殺事件などが発生し、中国での反日感情は急激に高まった。張作霖爆殺事件では事後処理を誤って天皇に叱責されるという一幕があり、田中は総辞職した。
田中政権の2年余の間に、憲政会は政友本党と合流して「立憲民政党」を新たに組織した。民政党の党首に就任したのは浜口雄幸である。浜口はもと大蔵官僚で財政に明るく、おなじく大蔵官僚出身の若槻、もと外務官僚の幣原とともに加藤高明を支えてきた。浜口は加藤の政策を引き継いで緊縮財政、民力涵養、対中国融和政策を唱えた。この浜口内閣を直撃したのがアメリカに端を発する世界恐慌である。財政専門家の浜口といえども、この大不況には容易に対処できなかった。東北地方などでは折りからの冷害もあって窮乏のどん底に突き落とされ、世情は騒然たるものがあった。浜口は貨幣の金交換を停止するなどの財政策をとったが、それでも一向に状況は改善されない。この状況に乗じて勢いを得たのが、政友会と右翼勢力だった。
発端は昭和5年に開催されたロンドン海軍軍縮会議である。この会議ではもともと日本は対米英7割保持を目的としていたが、全権の若槻および財部海軍大臣は交渉の結果7割に満たない比率での妥結もやむを得ないと考え、東京の政府に訓令を求めた。浜口は海軍の統帥部と会合して「不満だがやむを得ない」との言質を得た上で「調印せよ」との訓電を発した。
これに噛付いたのが政友会および海軍部内強硬派である。折りからの議会で政友会の犬養毅および鳩山一郎はこの経緯について「天皇の大権である統帥権干犯の疑いがある」と追求した。いったんは調印に同意した海軍統帥部も、「国防上責任が持てない」として条約批准阻止に動き始めた。浜口は先の言質を盾に批准にこぎつけたが、激昂した海軍強硬派および右翼はおさまらず、遂に浜口の暗殺未遂にまで発展する。重傷を負った浜口は条約の批准と昭和6年度予算案の可決をみたのちに退陣、まもなく亡くなる。このため、加藤の時と同じくまたもや若槻があとを継ぐことになる。
若槻の時代に満洲事変が勃発する。対中国融和策を基調とする民政党政権としては、当然この暴挙を抑止すべき立場にあったが、前任者の浜口が軍部と正面衝突をして壮絶な死を遂げた状景を目の当たりにしていた若槻は、断固とした態度に出ることはなかった。曖昧な態度のまま結局は関東軍の暴走を黙認する形となり、政党政治の存在意義に大きく疑義を抱かせる結果となった。若槻内閣は閣内不一致で年末に総辞職に至り、後継内閣は政友会の手に移り、政友会総裁に就任していた犬養は待望の総理大臣の椅子を手にいれた。しかしそのころすでに政党内閣は死に瀕していた。
民政党内閣を打倒するために「統帥権干犯」という爆弾に火を付ける役割を買ってでた犬養と鳩山だったが、その爆弾が破裂した時に吹き飛ばされたのは単に民政党にとどまらず、政友会の内閣と犬養自身の命も奪うことになる。「統帥権干犯」に激昂した海軍青年士官が憎悪したのは、具体的な民政党という政党ではなく、一般的な政党および政党内閣そのものであった。5・15事件によって政党内閣は終焉するが、その責任は軍部のみならず政党自身が負うべき部分が多い。ある意味これは「政党の自殺」とすら言えるのである。
これまでの政党政治では、「憲政の常道」にのっとって総理大臣が欠けた時には同一政党の後継者に組閣の大命が降るのが常識だった。原のあとの高橋、加藤・浜口のあとの若槻、みなそうである。これは当時の元老西園寺の「殺されたからといって政権を他党に渡しては、暗殺が尽きないことになる」との意見からであった。政友会では、組閣の大命は当然犬養の後継者に降ると考えており、内務大臣の鈴木喜三郎を後継総裁に選出すると、鈴木内閣の発足にそなえて閣僚の選考を始めた。しかし、西園寺はすでに「政党内閣ではとてもおさまらない」との考えに達しており、政治的に無色な斎藤実を首班として政友会・民政党からも閣僚をとった挙国一致内閣を組織させた。
斎藤内閣以後、政党の影は薄くなる一方だった。二年後、斎藤内閣は総辞職するが組閣を命じられたのはやはり政党とは縁のない岡田啓介だった。政友会はこの内閣に非協力の態度をとり、3名の入閣者を除名処分にしたが、それをおそれて入閣を辞退したものはなかった。すでに民政党の若槻礼次郎は総裁の座を町田忠治に譲っていた。政友会では鈴木喜三郎が相変わらず総裁をつとめていたが、政権のまわってくる見込みのない政党には魅力はほとんどなく、党勢は衰える一方だった。政友会、民政党ともに軍部に迎合する傾向が強まり、天皇機関説問題では議会は「国体明徴」を決議して自ら政党の存在意義を否定し、さらに民政党の斎藤隆夫のいわゆる「反軍演説」では、民政党は斎藤を除名するという暴挙に出、完全に軍や政府の対抗勢力たることを放棄してしまう。
鬱屈したエネルギーは内紛に向かう。政友会では、鈴木総裁の引退にともなって、久原房之助を推す鳩山一郎らと、中島知久平らの対立がついに分裂にまで至り、政友会は久原派と中島派に分裂したのもつかのま、翌年には近衛文麿が提唱した新体制運動に賛同する形で両派は相次いで解党、大政翼賛会を組織する。民政党においては、町田総裁は新体制運動には消極的であったがその態度に飽き足らない永井柳太郎一派が民政党を脱党して新体制運動に参加、町田もその勢いに押されて民政党を解党、大政翼賛会への合同を余儀なくされる。