GHQ時代は、CIAの活動は掣肘されていたようである。次のような証言がこれを語っている。
「終戦から朝鮮戦争の途中まで、米軍の極東司令官だったマッカーサー将軍は、自分の管内でのCIAの存在に反対した」(CIA歴史スタッフ編の内部資料『ClA長官、アレン・ダレス』第2巻『情報活動の調整』)。 |
「連合国軍総司令部(GHQ)には自前の情報機関G2もあり、もしCIAが巨額の資金を保守勢力に援助しようとしたら、マッカーサーにつぶされていたはずだ」「当時のCIAは予算も少なく、防諜(ぼうちょう)や情報収集活動が中心で、資金援助などできなかった」(占領下から50年代半ばまで日本に駐在した元ClA情報官)。 |
1957年にはすでにCIAと自民党の間で接触があったことを裏付ける次のような資料がある。
「議題『共産主義勢力の伸長、破壊活動防止のための日米協力について』。参加者は自民党外交調査会員、須磨弥吉郎代議士、元労相の千葉三郎代議士、ダグラス・マッカーサー2世大使……同代議士は翌18日、同じ問題について話し合うためにアレン・ダレスCIA長官を訪問した」(57年1月17日付、国務省会話メモ)。マッカーサー2世元大使はこの時、日本への着任を控えてワシントンにいた。須磨氏(故人)は、戦前、外務省情報部長を務めたことがある。同長官と自民党代議土との会談記録は、ほかには公開されていない。 |
1958.4月、CIAによる政界工作が始まっている。これを裏付ける次のような資料がある。
「選挙で特定の党派へ資金を供与するという案は、……長官が重要と認めた場合またはCIA予備費を支出する必要がある場合に、……特別グループ(SG)と呼ばれた会合にはかられた。【注】例えば……日本についてのSG会合、58年4月11日」(前出『アレン・ダレス』第3巻、『秘密活動』) |
「岸首相の弟の佐藤栄作氏が、共産主義と戦うための金銭的援肋を我々に申し入れてきた……これは驚くほどのことではない。なぜなら彼は昨年も同様な考えを示していた」(58年7月29日付、マッカーサー2世駐日大使から、極東担当国務次官補への手紙)。これにつき、マッカーサー2世元大使は、「私自身は、そういった資金援助の決定には関与しなかった」とコメントしている。 |
「自民党側からの働きかけはアイゼンハワー政権期と聞いた。58年4月11日付のSG会合で秘密援助が決定された可能性は極めて高い」(ヒルズマン氏)。保守合同から2、3年たち、米国はアイゼンハワー、日本では岸政権だったこのころが、資金援助開始時期である可能性が高い。 |
1961年初頭には実行されている。
「ケネディ政権発足直後の61年2月、私を含めた数人の当局者が、自民党への秘密資金援助について、アイゼンハワー前政権からの引き継ぎとしてCIA情報官から説明を受けた」=元国務省情報調査局長、ロジャー・ヒルズマン氏(75)。この資会援助について最も明確に証言したのがヒルズマン氏だ。それによると、引き継ぎを受けた場所は、ホワイトハウス西隣の旧行政府ビルの1室。バンディ大統領補佐官(国家安全保障担当)らも出席した。ClA側 「自民党の代表が、アイゼンハワー政権期に駐日米大使とCIAに接触し『共産党がソ連から資金援助を受けている』ので、自民党が選挙ポスターや宣伝に使う『十分な多額』の資金提供を要請した」。それ以上具体的な中身の報告はなかった。ヒルズマン氏らは計画の妥当性についてCIA側を問い詰めた。CIA側 「これは進行中の作戦で、選択肢は今すぐやめるか、徐々に額を減らしてなくすしかない。しかし、即時中止すれぱ、相手側が不満を抱いて公にされるかもしれない」。結局、ヒルズマン氏らは、計画を徐々に縮小して中止するようケネディ大統領に具申、そう決定された。 |
1970年代初頭に終わっている。但し、これに対しては、「ニューヨーク・タイムズは、秘密資金援助は70年代初めに終了したらしいと報じていたが、私が知る限り、もっと早く終わっていたはずだ」(元ClA情報官)との証言がある。コルビー元CIA長官は、「私が63年にCIA極東部門の長に就任したとき、日本については小さな作戦が2つあったが、意味がなかったので中止した。しかし、伝えられるような資金援助は、63年以前は知らないが、私の就任時点で存在したとは思えない」とコメントしている。これによれば、「ケネディ政権発足時に資金援助計画を徐々に縮小、中止させる方針が決まった後、まもなく終了した可能性も出てくる」。但し、資金援助に関するケネディ政権下の公文書は、30年間の機密保持期間を過ぎているにも拘わらず未だに公開されていない。これを思えば、コルビー元CIA長官証言は偽証の可能性がある。当時の自民党の森喜朗幹事長は、「昔のことで、党職員に調べさせたが、そんな事実はない。迷惑な話だ」とコメントしている。
「1995.1.6日付け中日新聞」は、「CIAが大規模対日工作 最盛時は要員100人 自社議員らに報酬も 関係筋証言」と題して次のように報じた。
【ワシントン5日共同】米中央情報局(CIA)は日本国内に、最盛時には100人以上、現在も約60人という在外支局としては「世界で最大規模」の要員を配置し、自民党や社会党の議員、政府省庁職員、朝鮮総連幹部、左翼過激派、商社員らに定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者として確保してきたことが、複数のCIA関係筋の証言で明らかになった。CIAはこうした政治・安全保障分野だけでなく、経済・技術分野でも日本の対米貿易の交渉方針、日本企業の高度技術(ハイテク)を対象に、情報活動を展開してきた。
在日CIA工作の全体的な実態および陣容はこれまでほとんど知られていなかった。CIAスポークスマンはこうした工作について「ノーコメント」と論評を拒否した。CIA関係筋は、CIAの情報提供者となっていた自社両党の議員の名前を明らかにすることを拒否したが、社会党議員については「長老で、1980年代に月25万円の報酬を手渡し、党の運動方針などを聞いた」とだけ述べた。また数人の自民党議員にも同様の報酬が支払われ各種の政治情報を得た、と同筋は指摘した。情報提供者には地位に応じて、現金で月10万−25万円をホテルなどで手渡したという。政治情報では、第1に首相の動向が最大の関心事。CIAは歴代首相の側近、周辺に常に情報提供者を確保してきた。例えば、85年5月ボンで行われた中曽根・コール両首相の日本・ドイツ首脳会談の際にはCIA要員もボンに出張、会談直後に中曽根氏の側近からその内容を入手するといった方法。レーガン米大統領が中曽根首相にゴルフクラブを贈る際、好みをCIA要員が調べ、ロン・ヤス関係演出に一役買った。自民党の中では金丸元副総裁がCIAに協力的だった。90年9月の金丸氏による北朝鮮訪問の前後には、同氏と親しかった中尾宏・元衆院議員(92年7月死去)が訪米、CIA側に状況を説明したという。日米間の貿易交渉をめぐっては、主に通商代表部(USTR)の要請を受けてCIAが日本側の交渉態度を探るのが通例。88年6月決着した牛肉・オレンジ市場開放交渉では、農林水産省内の情報提供者から「日本の最終譲歩リスト」を入手していた、と別の関係筋は証言した。電気通信分野の交渉に関連しても郵政省の内部やNTT、さらに通産省内部からも情報を得ていたという。日本企業のハイテクの軍事的側面も調査、京セラや大日本印刷、宇宙開発事業団、三菱重工、石川島播磨重工業などが調査対象となった。このほか、中東の日本赤軍に国内の支援勢力がブラジル経由で数十万ドルを送金したことも突き止めるなど、左翼過激派の動向調査も怠らなかった。
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「1996.10.7日付け沖縄タイムス」は、「立法院選で保守勢力へ秘密資金 国家安全保障公文書館が米機密文書公開」と題して次のように報じた。
1965年の立法院選挙で保守勢力を優位にすることで沖縄統治の安定を図ろうと、米国(CIA)から秘密の資金が持ち込まれたことを示す秘密文書が、ワシントンにある国家安全保障公文書館で公開された。同文書は同年6月の沖縄問題に関する国務省会議についてのもの。同問題だけでなく、日本への核持ち込み、沖縄での日の丸掲揚問題に対する米側の認識、国務省側と軍との対立など当時の米国、日本、沖縄の状況を生々しく伝えている。
文書の中では実際に資金が沖縄に流れたかどうかには触れられていない。同資料を発見したロバート・ワンプラー国家安全保障公文書館の分析研究員は「この文書の中で『303委員会にかける』話が出てくるが、この会議はこのような秘密工作を決定する委員会であること、ライシャワー氏らの会議の中身は、資金を流すかどうかではなく、どのようなルートで流すか具体的なことが討議されており、結果(資金が沖縄にいったかどうか)は疑いようがないのでは」と、実際に資金が流れたことを確信をもって語る。303委員会は国務、国防両長官、ホワイトハウス高官、CIA長官らで構成し、CIAが実行部隊となった秘密工作を承認するかどうかを決定する機関。ワンプラー氏は同公文書館の日本プロジェクト担当部長で、「この文書を見た時、自分の目を疑った。話としては以前からあったが、文書があったとは全く知らなかった。私も二度読み返したほど」と、長年日米関係を調査研究してきた当人にも驚きだったようだ。 |
「2002.4.4日付け中日新聞」は、「 直径50メートル 米極秘衛星? 静止軌道上 日本見下ろす 望遠鏡で確認」と題して次のように報じた。
日本スペースガード協会(磯部しゅう三理事長)は4日、日本を見下ろす静止軌道上に直径約50メートルの巨大物体があるのを望遠鏡で発見、写真撮影に成功したと発表した。同物体は継続的に軌道制御を行っており、運用中の人工衛星であることは明らか。同協会は、米国が通信傍受などのため極秘に運用している巨大パラボラアンテナ型の情報収集衛星の1つ、とみている。発見したのは昨年12月。同協会の美星スペースガードセンター(岡山県美星町)の望遠鏡(口径1メートル)で、地球周回軌道にある人工衛星の破片などの宇宙ゴミ(スペースデブリ)を観測中に偶然見つけた。巨大物体は東経120度、インドネシア付近の赤道上空の高度約3万6000キロの静止軌道にあり、明るさは9等星ほどで同軌道の人工衛星としてはきわめて明るかった。同協会は、明るさから物体の直径は約50メートルと割り出した。観測を続けたところ、同物体は常に軌道制御を行って厳密に位置を維持していることが分かった。地球を回る軌道にある人工衛星やスペースデブリは、米空軍が観測し、自国の軍事衛星を除いてリストを公開しているが、発見した物体は記載がなかった。米科学者達盟によると、米国は通信やレーダー波を傍受するため1970年代から、静止軌道に大型衛星を極秘に配置している。現在は、80年代半ば以降に打ち上げられた直径数十メートル−100メートルのマグナムと呼ばれる衛星などが運用中とみられる。 |
「2003.3.2日付け毎日新聞」は、「対日諜報網計画:戦後、20人の工作員投入案 米戦略諜報隊 」と題して次のように報じた。
米中央情報局(CIA)の前身組織が、終戦直後に作成したと見られる対日諜報網の計画案が、米国で見つかった。軍国主義や反米の動きを監視するのが目的で、戦後の日本に対する諜報活動を明確に示す初めての資料という。この資料は「日本における戦後の秘密諜報工作計画」など。早稲田大の山本武利教授(メディア史)が今年1月、米メリーランド州の国立公文書館で発見した。陸軍省の戦略諜報隊(SSU)が46年前半ごろに作成し、幹部に提出したらしい。中国、韓国、ベトナムなど極東全域を記した総論と国別の各論からなる計約100ページの文書の中にあり、「最高機密」に指定されていた。
計画案では、戦後の混乱が続く当時を秘密工作員が日本への浸透を行う「絶好の機会」と強調。「表面からは隠されているものの、反民主主義的、反米的な動きが潜在していることも否定できない」とみなしている。そのうえで諜報活動の重点項目として、政治、経済、宗教、陸海軍、国際関係を挙げた。具体的には、東京・横浜、神戸・大阪・京都、札幌、名古屋、長崎など日本全体で工作員は当面17〜20人とし、日本を南北2つに分け配置を検討した地図や、予算案を作っていた。工作員には企業からの引き抜きが適当として、その候補として、戦前に拠点があった米国企業の所在地や代表者名を記したリストも付けていた。計画案の邦訳は、今月中旬発売されるメディア研究誌「インテリジェンス」(紀伊国屋書店)第2号に掲載される。
秦郁彦・日本大学教授(現代史)の話 米国の情報活動の一端を示す貴重な文書資料だ。ただ、マッカーサーは日本占領にSSUなどを関与させる気がなかった。占領政策はうまくいき、右翼勢力が復活する恐れも小さくなって、連合国軍総司令部(GHQ)は次第に対ソ政策へ重心を移した。この資料は、その過渡期に作られた実行困難な計画だったと思う。
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「2004.3.29日付け中日新聞」は、「米の「赤狩り」日本でも 50年前の議事録発見」と題して次のように報じた。
終戦直後の日本で共産主義者らに便宜を図ったとして、米陸軍省が1954年4月、神奈川県の米軍座間基地で自国の同省職員に対して開いた聴聞会の議事録が見つかった。当時、米国では東西冷戦を背景に「赤狩り」と呼ばれた共産主義思想の弾圧が行われており、これが日本の地にも及んでいたことが初めて確認された。標的とされたのは在日米極東軍司令部の民間職員だったドン・ブラウン氏(1905−80)。連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局情報課長を務め、対日メディア政策を統括。GHQ解消後、米陸軍に移籍したが、匿名の告発で、過去の日本の左翼系知識人らとの交際などが「国家安全保障上の利益に反する」とされた。議事録は、ブラウン氏の代理人の弁護士トーマス・ブレークモア氏(1915−94)が保管。ブレークモア氏が死後に日本に残した文書類の中から、占領史研究家の笹本征男さん(59)=東京都世田谷区=が見つけた。
議事録によると、聴聞会は54年4月27日に座間基地内で、在日極東軍司令部の安全保障聴聞委員会が開いた。(1)GHQ情報課長当時、新聞や雑誌の用紙割り当てで共産主義寄りの出版物に便宜を図った(2)共産主義者、同調者と交際があった−などの告発事実を告げ、尋問が始まった。交際相手には、女性の新しい生き方を中心とした評論活動をした石垣綾子氏ら日本人3人や、GHQ民政局次長として憲法草案をとりまとめたチャールズ・ケーディス氏、「ニッポン日記」の著者として知られるジャーナリストのマーク・ゲイン氏らが挙げられた。ブラウン氏は「用紙割り当ては日本人の委員会が決め、自分たちには割当量に介入する権限はなかった」などと激しく反論。石垣氏らとの特別な交際も強く否定した。告発を裏付ける事実は乏しく、議事録には審査結果の記録はなかったが、疑惑は晴れたとみられ、ブラウン氏は50年代後半まで在日極東軍に勤務。その後も日本に滞在し、74歳で亡くなった。同氏は戦時中や終戦直後の新聞、雑誌など膨大な史料を残し、横浜市の横浜開港資料館に所蔵されている。
古矢旬・北海道大教授(米政治外交史)の話 日本で赤狩りの聴聞会が行われていたとは初耳。米国の研究家にも知られていない貴重な史料だと思う。1954年は、急先ぽうだったマッカーシー上院議員が「陸軍にも『アカ』がいる」と攻撃した時期で、米陸軍省は外部の介入を避けるため、組織防衛として内部で厳しく忠誠審査をしたのではないか。
<米国の「赤狩り」> 東西冷戦下の米国で猛威をふるったリベラル派などへの思想弾圧。米議会上院と下院に調査委員会が設けられ、大学、研究機関、映画界などで多数の学者、芸術家らが「共産主義者」のレッテルをはられて追放された。ジョセフ・マッカーシー上院議員の活動が有名で「マッカーシズム」と称された。1954年末、上院が同議員への非難決議を可決するなどして終息した。
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「2004.4.6日付け東亜日報」は、「日本版「CIA」の誕生 防衛庁に要員920人」と題して次のように報じた。
日本は「情報大国」に跳躍するために、情報組職の大規模な拡大・改編と、人的・物的な情報収集の強化策を推進中。
▲日本版「モサド」の創設
防衛庁は3月、10万件の軍事秘密文書にマグネッティック署名作業を終えた。文書を盗み出した場合、防衛庁の建物内に設置された検知装置が作動して警報装置が鳴るように設計されている。赤色の特殊用紙の機密文書は、不法コピーの瞬間、黒色に変色し、内容を見ることができなくなる。同時に、防衛庁情報本部要員を110人から920人に増やし、軍事情報の収集、解読、保安能力を大幅に強化させた。また、内閣情報研究室、通産省など6、7の省庁に分散している情報組職を統合・拡大する作業も進めている。各省庁の情報を総括して首相に報告する内閣情報研究室職員が120人に過ぎず、役割を十分に果たせないために、1000人以上に大幅増員し、事実上新たな情報機関を創設する計画だ。日本版「ネオコン」(新保守主義者)の石破茂・防衛庁長官は、「内閣情報研究室を米中央情報局(CIA)やイスラエルのモサドのような情報機関に変貌させる計画だ」と明らかにしたと、同紙は伝えた。
▲007学校もある
4月24日、小泉純一郎首相の机には、北朝鮮の龍川(ヨンチョン)駅爆発事故現場を撮影した衛星写真が置かれた。昨年3月に打ち上げられた2基の軍事偵察衛星が撮影したものだ。日本政府は、これを基に対北朝鮮支援規模を決定した。軍事偵察衛星は、98年8月に北朝鮮が日本列島を横断するテポドン・ミサイルを発射したことに刺激を受けたもの。2基の衛星が毎日15回地球を周り、韓半島、中国、ロシアなどの軍事情報を探知する。日本は昨年11月に、2基の衛星をさらに打ち上げようとしたが、ロケットの打ち上げ失敗で延期になった。しかし06年までに4基体制を構築することを決め、1370億円の予算を策定している。情報要員に対する訓練も強化した。代表的な情報訓練機関である小平学校は、毎年35歳以上の自衛隊の将校50人を入校させ、各種情報収集能力の育成はもとより、韓国語、中国語、ロシア語などの語学能力を身につけるスパルタ式教育を実施している。川口順子外相は最近、英国のマスコミとの会見で、「日本も現在、007のような情報要員を養成中だ」としながら、「そのため、英国の情報機関の経験を学びたい」と話していた。
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「2004.7.1日付け朝日新聞」は、「自衛隊創設時から極秘に日米作戦計画 首相に報告せず」と題して次のように報じた。
自衛隊創設直後から、ソ連による日本侵攻を想定した「日米共同作戦計画」が、自衛隊と在日米軍の間で毎年作られていた。最高度の秘である「機密」指定で、存在そのものも秘密にされてきた。朝日新聞の取材に対し、複数の元自衛隊幹部が初めて証言した。また、それを裏付ける米太平洋軍司令部の秘密指定が解除された報告書も見つかった。日本政府はこれまで、共同作戦計画づくりは78年の日米政府間合意である「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」にもとづいて始まったと説明してきたが、それが完全に覆された。
この計画は、旧ガイドラインの策定が始まるまで、自衛隊の最高指揮官である首相にも報告されず、正式な「政治の承認」のないままに行われていた。政治問題化を恐れて防衛庁が内密に処理していた。自衛隊の文民統制(シビリアンコントロール)の根幹を揺るがす問題で、政治責任の欠如は、イラク多国籍軍をめぐる国会審議・承認の回避など、現在にも尾を引いている。
証言したのは、50年代から70年代にかけて、統合幕僚会議や陸上幕僚監部でそれぞれ共同作戦計画づくりを直接担当した中村龍平・元統幕議長、源川幸夫・元東部方面総監、松村劭(つとむ)・元富士学校機甲科副部長ら。その内容は、琉球大の我部政明教授が入手した米太平洋軍司令部の73年版年次報告書と一致した。計画の正式名称は、日本語で「共同統合作戦計画」。英語では「Coordinated
Joint Outline Emergency Plan」(CJOEP)。日本語版と英語版の2通りが作られた。日本語版はA4判で数千ページ。十数部しか作成されず、防衛庁内の金庫に厳重に保管されたという。計画は毎年改定され、統合幕僚会議議長と在日米軍司令官が署名した。防衛庁内局の防衛局長を通じ、防衛庁長官に報告される形になっていた。
「共同統合作戦計画」のシナリオは、ソ連軍が北海道に上陸侵攻。自衛隊がまず独力で対処し、米軍の来援を待つ。米軍の来援部隊は、陸軍が3個師団プラス1〜2個旅団、海軍がおよそ3個空母機動部隊、空軍が十数個飛行隊。数次に分かれて、1週間から2カ月かけて日本に展開することになっていた。陸海空自衛隊はこの共同作戦計画を前提に、毎年度の日本防衛計画である「年度防衛警備計画」(年防)を策定してきた。一方、米側は、こうしたソ連軍による直接の日本侵攻よりも、朝鮮半島有事が日本に波及する事態の可能性が大きいと見て、その検討を優先するよう強く求めた。だが、日本側は「集団的自衛権の問題に踏み込む恐れがある」と主張し、具体的な検討には至らなかったという。共同作戦の指揮権については、日米双方とも「統一指揮が望ましい」という点では一致したが、どちらも相手の指揮下に入ることを望まず、この点は作戦計画に明記されなかった。
日米の制服間による計画づくりは米側の主導により、日米安保条約(旧安保条約)が結ばれた翌年の52年から始まった。自衛隊の前身である保安隊の時代だった。54年に自衛隊が誕生し、翌55年に最初の計画が陸上幕僚監部と在日米陸軍司令部によって完成。57年から陸海空を統合する形で、統合幕僚会議と在日米軍司令部の間で作られるようになった。日米ともに政府レベルでの承認は正式に行われなかった。米側は政府承認を求めたが、日本側が「難しい」と拒否したためだ。米太平洋軍司令部の報告書には「極めて微妙な政治問題であるため、自衛隊の担当者は政府の承認を得ることに消極的だった」とある。しかし、70年代に入って、米政府は世界規模で各国との共同作戦計画の見直しを行い、日本との作戦計画の政治的位置づけのあいまいさに着目。政府承認を強く求めた。この結果、75年に坂田道太防衛庁長官とシュレジンジャー米国防長官の間で、「作戦協力」の協議開始で合意。78年に計画作りの指針である旧ガイドラインが出来た。
◇ ◇
<旧ガイドラインと日米共同作戦計画> 日米両政府が78年、日本が武力攻撃を受けた際などの防衛協力や任務の分担などを明確にした指針。これにもとづいて、改めて「共同作戦計画」の研究が日米制服間で始まり、84年に北海道侵攻を想定した作戦計画「5051」、95年に中東などの有事波及を想定した同「5053」が完成。いずれも防衛庁から首相に報告された。旧ガイドライン以前に共同作戦計画が作られていたのではないかという疑惑は、65年と75年の衆院予算委員会で、岡田春夫議員(社会党)が64年ごろの防衛庁文書と見られる共同作戦計画「フライングドラゴン」の関連文書を示して追及した。防衛庁側は「共同作戦計画はない」「幕僚レベルの研究はしている」などと否定していた。
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「2006.8.21日付け中日新聞」は、「戦後に「新日本軍」計画 旧軍将官ら立案 吉田首相が拒否?幻に 米公文書で判明」と題して次のように報じた。
【ワシントン=共同】旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など3部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。
河辺氏の経歴や活動を伝える秘密メモによると、河辺氏は警察予備隊発足前の50年2月ごろ(1)毒ガス隊(2)機関銃隊(3)戦車隊−からなる近代装備の「警察軍」構想を立案。51年に入ると宇垣氏を「最高司令官」に、河辺氏を「参謀総長」に充てることを「日本の地下政府が決定した」と記載している。「地下政府」は、公職追放された旧軍幹部らが日米両当局にさまざまな影響力を行使するためにつくったグループを指すとみられる。秘密メモはまた、吉田首相が河辺氏らの構想を「受け入れている」と明記。構想を米側に説明するため、河辺、宇垣両氏らの訪米も検討していたと記している。しかし河辺氏らの構想は採用されず、GHQのマッカーサー最高司令官は朝鮮戦争発生直後の50年7月に陸上自衛隊の前身である警察予備隊の創設を指示。再軍備を通じた旧軍将官の復権は実現しなかった。専門家は、旧軍色を嫌った吉田首相が河辺案を拒否したと分析している。
宇垣氏の名利用か
秦郁彦日大講師(日本現代史)の話 旧軍人の再軍備計画で圧倒的に有名なのは服部卓四郎元陸軍大佐のもの。宇垣一成元陸軍大将の名前が戦後にも取りざたされていたというのは初耳だ。戦時中はいつも東条英機元首相の対抗馬として担がれそうになったのが宇垣氏で「陸軍をまとめるのは宇垣しかない」という待望論があった。河辺虎四郎元陸軍中将は宇垣氏の知名度を利用しようとしたのかもしれない。
河辺虎四郎氏(かわべ・とらしろう) 1890年9月、富山県生まれ。陸軍大学校卒。ドイツ大使館付武官などを経て参謀次長。陸軍中将。終戦時に降伏条件協議のためマニラに飛んだ。終戦後に連合国軍総司令部(GHQ)歴史課に勤務。旧日本軍幹部による秘密情報機関「河辺機関」を率いた。1960年6月死去。
宇垣一成氏(うがき・かずしげ) 1868年8月、岡山県生まれ。陸軍大学校卒。陸軍省軍務局軍事課長などを経て、1924年に陸相就任、25年に大将。陸軍の装備近代化を進めた。38年に外相。終戦後の53年、参院選で全国区最高点当選を果たした。56年4月死去。
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「2006.8.21日付け中日新聞」は、「新日本軍構想 米利用 復権狙う 旧軍幹部らが「地下政府」」と題して次のように報じた。
【ワシントン=共同】連合国軍総司令部(GHQ)の資金提供で反共工作に従事した旧日本軍幹部が、独自の再軍備計画を練っていた新事実が20日、判明した。終戦時に参謀次長だった河辺虎四郎元陸軍中将が、宇垣一成元陸相をトップに担ごうとした幻の「新日本軍構想」。米公文書からは、冷戦や朝鮮戦争を受けて日本を「反共のとりで」にしようとする米国を利用し、復権を図ろうと暗躍した旧軍幹部の姿が浮かび上がる。
「宇垣一成が率いる日本の地下政府」「日本の地下政府の情報部門であるKATO機関」
GHQの情報部門、参謀2部(G2)が集めたとみられる情報を記す秘密メモには「日本の地下政府」という言葉が何度も登場する。「KATO機関」の別名を持つ河辺氏の反共工作組織「河辺機関」が「地下政府」と呼ばれる旧軍幹部らの集団の一翼を担い、米側とのパイプ役を務めていたことが読み取れる。1951年5月の秘密メモ「日本の情報機関グループと日本の国家的復活」は「明確な形で全能の政府が存在するわけではない」としながらも48年以降、公職追放になった旧軍幹部らが「地下政府」を組織していた経緯を説明。
宇垣氏に加え、首相経験者の若槻礼次郎、岡田啓介両氏や、宇垣氏を首班とした軍部独裁政権を樹立しようとした31年のクーデタ一未遂事件「3月事件」に参画した国家主義者の大川周明氏らが「地下政府の完全な実権」を握ろうと動いたと伝えている。「河辺機関」の活動を通じてG2のウィロビー少将と関係を深めた河辺氏は、吉田茂首相のブレーンも務めた辰巳栄一元中将らとともに宇垣氏に接近。「陸軍のまとめ役として待望論が根強かった」(秦郁彦・日大講師)宇垣氏を最高司令官とし、自身は参謀総長に就任する形で旧軍の復活を狙ったとみられる。終戦前、何度も首相候補に挙がり「宇垣軍縮」で陸軍の近代化を図った宇垣氏は、53年参院選で全国区最高点で当選する。知名度抜群で人望もあった宇垣氏を担いだ新軍構想は、旧軍幹部から見れば筋の悪い話ではなかったようだ。しかし軍人嫌いで知られる吉田首相と、日本の国家主義の台頭を警戒する米当局の抵抗に遭い、挫折したとみられる。 |
「2008.11.23日付け共同通信」は、「ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作」と題して次のように報じた。
【ワシントン23日共同】1950年代後半から60年代にかけ、日本の保守政権安定と左派の弱体化を狙って自民党有力者らに資金を提供していた米中央情報局(CIA)の「秘密資金工作」は、工作発覚により日米関係に重大な支障が出ることを懸念した故ライシャワー駐日大使(当時)の勧告を受け、中止が決まったことが23日、分かった。関連文書の内容を知る米政府高官が共同通信とのインタビューで語った。
自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供していた同工作をめぐってはことし7月、国務省刊行の史料集「米国の外交」で存在が確認された。しかし関連文書は公開されていないため、中止に至る経緯は分かっていなかった。高官はまた、米政府が秘密工作の中止に至る経過を伝える公文書3点の開示が、在日米大使館とCIAの反対で見送られたことを明らかにした。開示に踏み切った場合の日米関係への影響を危惧したとみられる。高官によると、ライシャワー大使は64年1月、国務省の要請を受け、秘密資金工作に関する意見を伝達。(1)日米関係が成熟し、親米政治家への資金提供の必要はなくなった(2)工作発覚時のダメージが大きい−ことを理由に中止を勧告した。高官は、ジョンソン米政権が最終的に工作中止を決める際、この勧告が「非常に決定的だった」と解説した。今年7月に国務省が出した「米国の外交」第29巻第2部「日本」は、秘密工作に関するライシャワー氏のホワイトハウスあて書簡など関連公文書を掲載せず「編集者による注釈」として秘密工作の概要だけを説明した。
<エドウィン・ライシャワー氏> 米ハーバード大教授を経て日米安保条約改定後の1961年、ケネディ政権下で駐日大使に着任。沖縄返還交渉などに携わり、66年まで大使を務めた。東京で生まれ16歳まで日本に滞在、米国でも有数の知日派で日本研究者。沖縄返還の早期実施の必要性など米政府の重要決定に影響を与えた。大使離任後はハーバード大に戻り、日米友好に貢献。81年に「核を積んだ米艦船が日本領海を通過・寄港している」と発言、反響を呼んだ。90年9月に79歳で死去。
<対日秘密資金工作> 米紙ニューヨーク・タイムズは1994年、マッカーサー2世元駐日大使の証言などを基に、中央情報局(CIA)が50−60年代に自民党に数百万ドルの資金を援助していたと報じ、自民党は否定した。その後、岸信介政権への支援の重要性を指摘する米秘密公電などが見つかったほか、選挙資金援助の秘密工作に関与する特別グループが58年に設置されたことが判明した。96年には、65年の沖縄立法院選でCIAから自民党を経由した秘密資金援助計画が策定されていた事実も発覚した。( 2006/11/23)
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「2009.7.26日付け毎日新聞(後藤逸郎)」は、「CIA:緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析「」と題して次のように報じた。
1955年の自民党結党にあたり、米国が保守合同を先導した緒方竹虎・自由党総裁を通じて対日政治工作を行っていた実態が25日、CIA(米中央情報局)文書(緒方ファイル)から分かった。CIAは緒方を「我々は彼を首相にすることができるかもしれない。実現すれば、日本政府を米政府の利害に沿って動かせるようになろう」と最大級の評価で位置付け、緒方と米要人の人脈作りや情報交換などを進めていた。米国が占領終了後も日本を影響下に置こうとしたことを裏付ける戦後政治史の一級資料と言える。山本武利早稲田大教授(メディア史)と加藤哲郎一橋大大学院教授(政治学)、吉田則昭立教大兼任講師(メディア史)が、05年に機密解除された米公文書館の緒方ファイル全5冊約1000ページを、約1年かけて分析した。
内容は緒方が第4次吉田内閣に入閣した52年から、自由党と民主党との保守合同後に急死した56年までを中心に、緒方個人に関する情報やCIA、米国務省の接触記録など。それによると、日本が独立するにあたり、GHQ(連合国軍総司令部)はCIAに情報活動を引き継いだ。米側は52年12月27日、吉田茂首相や緒方副総理と面談し、日本側の担当機関を置くよう要請。政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は日本版CIA構想を提案した。日本版CIAは外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するが、CIAは緒方を高く評価するようになっていった。吉田首相の後継者と目されていた緒方は、自由党総裁に就任。2大政党論者で、他に先駆け「緒方構想」として保守合同を提唱し、「自由民主党結成の暁は初代総裁に」との呼び声も高かった。当時、日本民主党の鳩山一郎首相は、ソ連との国交回復に意欲的だった。ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見たCIAは、保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待。55年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど、政治工作を本格化させた。同年10〜12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行。「反ソ・反鳩山」の旗頭として、首相の座に押し上げようとした。緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報は、アレン・ダレスCIA長官(当時)に直接報告された。緒方も55年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っていた。だが、自民党は4人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁になれず2カ月後急死。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、さらに2カ月後、鳩山が初代総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣(かやおきのり)氏(後の法相)や岸信介幹事長(当時)に切り替えていく。
加藤教授は「冷戦下の日米外交を裏付ける貴重な資料だ。当時のCIAは秘密組織ではなく、緒方も自覚的なスパイではない」と話している。【「アメリカよ」取材班】
<緒方竹虎> 1888年山形市生まれ。1911年早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社。政治部長、編集局長、主筆を経て副社長。2・26事件で同社を襲った陸軍将校と対峙(たいじ)し名をはせた。国家主義者の頭山満や中野正剛らと親交があり、戦争末期に中国との和平を試みた。44年社主の村山家と対立し辞職。政界に転じ、小磯、東久邇両内閣で情報局総裁。46年公職追放、51年解除。52年に吉田首相の東南アジア特使となり自由党から衆院議員当選。吉田内閣で官房長官や副総理を務めた。保革2大政党制や再軍備が持論で、54年に保守合同構想を提唱、自由党総裁に。55年11月の保守合同後、自由民主党総裁代行委員。56年1月死去。
◇解説「米の影響下」鮮明 日ソ接近防ぐ目的
CIAの「緒方ファイル」は、戦後の日本政治が、東西冷戦の下、水面下でも米国の強い影響を受けながら動いていた様を示している。米情報機関が日本の首相を「作り」、政府を「動かせる」という記述は生々しい。CIAが日本で活動を本格化したのは、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効した52年からだ。米国では翌53年1月、共和党のアイゼンハワー政権が誕生。同7月の朝鮮戦争停戦を受け、新たなアジア戦略を打ち出そうとしていた。それがCIAの積極的な対日工作を促し、日ソ接近を防ぐ手段として55年の保守合同に焦点をあてることになった。当時の日本政界で、情報機関強化と保守合同に特に強い意欲を持っていた緒方にCIAが目をつけたのは当然でもあった。ただ、CIAの暗号名を持つ有力な工作対象者は他にもいた。例えば同じ時期、在日駐留米軍の施設を使って日本テレビ放送網を創設するため精力的に動いていた正力松太郎・読売新聞社主(衆院議員、初代科学技術庁長官などを歴任)は「PODAM(ポダム)」と呼ばれていた。加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)によると、「PO」は日本の国名を示す暗号と見られるという。また、山本武利・早稲田大教授(メディア史)は「CIAは、メディア界の大物だった緒方と正力の世論への影響力に期待していた」と分析する。暗号名は、CIAが工作対象者に一方的につけるもので、緒方、正力両氏の場合、いわゆるスパイとは異なるが、CIAとの関係は、メディアと政治の距離も問いかける。時あたかも、政権交代をかけた衆院選が1カ月余り後に行われる。自民党結党時の政界中枢にかかわる裏面史が、この時期に明るみに出たのも因縁めく。また、自民党に代わり政権を担おうとしている民主党が、ここに来て、対米政策を相次いで見直したのは、日本の政界が、政党の新旧を問わず、半世紀以上前から続く「対米追随」の型を今なお引きずっているようにも見える。【】(毎日新聞
2009/07/26)
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「2009.10.3日付け共同通信」は、「吉田茂側近がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見」と題して次のように報じた。
吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR−5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。CIAの辰巳氏に関するファイル(52〜57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR−5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。CIAは、56年11月26日付文書で「CIAが使う上でおそらく最高で、最も信頼できる人物の1人」と辰巳氏を評価していた。 |
「2010.4.29日付け時事通信」は、「80年代まで昭和天皇の情報収集=大統領会見前に対米感情分析−CIA文書」と題して次のように報じた。
【ワシントン時事】米中央情報局(CIA)が1970〜80年代に、昭和天皇の個人ファイルを作り、その対米感情や国民への象徴天皇制の定着状況などについて情報を収集、分析していたことが29日、米国立公文書館で開示されたCIA機密文書で分かった。戦後40年余りが経過し、日米が成熟した同盟関係を築いてもなお、天皇を監視していたことが明らかになった形だ。機密文書は、71年7月から89年1月の昭和天皇逝去までの13枚。「HIROHITO」のタイトルが付けられている。71年7月の文書には、「天皇は国内の治安問題や国際社会の出来事に広い見識を持っている」「天皇は親密な日米関係継続を希望している」などと記されている。また、同年秋の天皇訪欧について「在位中の天皇の初外遊となる」と注視。天皇の語学力を「仏語に多少の知識があり、辞書の助けを借りて英語を読むと言われている」と評価している。
文書作成当時、ニクソン米大統領は電撃的に訪中計画を発表。この対中接近政策は「頭越し外交」と言われ、日米関係がぎくしゃくした時期だった。大統領は71年9月、アンカレジで訪欧途上の天皇を出迎え会見し、日米友好を演出。このことから、文書はCIAが「皇室外交」に備えたものだった可能性もある。80年7月の文書は、フォード大統領と会見した75年の天皇初訪米が大々的に報道されたことが、天皇を「日本人にとって人間味のあるものにした」と分析。帰国後に天皇がテレビ撮影の記者会見に応じたことについて「公衆から伝統的に隔離されていた天皇が姿を現した」と表現している。文書は、天皇は戦後に神格を否定する「人間宣言」を行ったが、「日本国民から敬意と愛情を集め続けている」と指摘している。訪米時に贈られたミッキーマウスの腕時計を好んでつけたことや、「和食より洋食を特に好み、朝食は通常ベーコンエッグだった」ことなど、親米的な振る舞い、西洋的な嗜好にも注意を向けている。文書は戦後の天皇を「国家元首」と表現。「国政に関する機能は有しないが、年間2500以上の文書に署名し、公的行事に出席している」と儀礼的機能にも説明を割いている。
米中央情報局(CIA)の人物ファイルを詳しく研究している一橋大学の加藤哲郎名誉教授(政治学)の話 CIAが昭和天皇の個人ファイルを作成し、戦後、長期間にわたり監視していたことが明らかになった。内容は昭和天皇の訪米前後が中心で、ニクソン大統領との会見前の情報収集もうかがえる。ファイルは戦後の天皇の儀礼的機能に注目し、象徴天皇制が国民に受け入れられ、定着したことも確認している。これまでに開示された旧日本軍の軍人や戦後の政治家のCIAファイルと比較してみると昭和天皇の場合、量が少なく、時代も限定されている。CIAには戦犯問題や退位問題に関する昭和天皇の資料も残されている可能性が高い。
<米中央情報局(CIA)> 1947年にトルーマン大統領が国家安全保障法に基づき設立した米政府の情報機関。前身は第二次大戦中に情報活動を行った戦略事務局(OSS)。海外の米国大使館などに支局を置き、工作員や協力者を使った情報収集や軍事作戦、戦略上重要な地域でのプロパガンダや心理戦も行う。50〜60年代には、日本の親米・保守派政治家に秘密裏に資金援助をしていた。大統領が長官を指名し、上院が承認する。活動内容は非公開で、上下両院の情報特別委員会が監督している。職員数は2万人程度とみられている。本部は首都ワシントン郊外のバージニア州ラングレー。
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