竹下派論 |
竹下没後、「罪万死に値する」が出版された。この言辞は、リクルート事件で揺れる最中、竹下氏の資金担当秘書の自殺に対して竹下本人が漏らした言葉と云われている。れんだいこは、「罪万死に値する」にはもっと大きな意味があり、「鉄の軍団」田中派を割って出た以降の軌跡に対して当人が述懐したものではないかと受け止めている。 |
目下のチマチマな政治状況に寄せて | れんだいこ | 2003/08/18 |
竹下派を論ずる場合、れんだいこはその愚かしさに怒りを禁じえない。竹下を評して「万死に値する」との書名が為されているが、当書の内容のお粗末さは別にして「万死に値する」との書名だけがかなり的確であると思っている。それはどういう理由によってかにつき、以下考察したい。 竹下派とは何か。それがロッキード事件以来の喧騒と密接不可分なことは誰しも異存が無かろう。問題は、田中派を食い破って誕生した竹下派の功罪そのものの検証にある。大方の向きは、これを是とし、「悪の元凶」田中角栄の政治的クビキから自立したことを誉めそやしている。 れんだいこは、ここを全く反対に観ている。竹下派とは、鉄の軍団田中派を解体させる為に仕組まれた謀略に基づき結成されたものであり、田中派内のお調子者竹下―金丸連合をけしかけ、その気にならせ、角栄の政治的影響力を殺ぐ形で利用され抜いた一派に過ぎない。 これを思えば、二階堂らの殉教こそ美しく見える。 その意味で、竹下派は約束通りに一旦は権力を取らせて貰ったものの、角栄が歴然と過去の人となったことが判然とするや風向きが変わり、用済みとばかりに叩かれ始め、後は政治的に惨めに棲息する限りにおいて延命が保証された。なぜなら、緩衝材的な役目が負わされたからである。竹下派に対しては総評これ以外に評すべくも無く、今日その通りに至っていることでも知れよう。その最後の末裔が青木であり、目下醜悪な政治的ピエロを演じている。 この間、吉田茂を開祖とし、池田、佐藤を経て遂に田中―大平ラインに辿り着いていた戦後の保守本流派、その政治的特質をリアリズム的ハト派系と評することができるが、この系譜がズタズタにされ、政治のイニシアチブは対極的な戦前型の生粋保守本流派へと移行した。 しかし、今思うに、戦後の我が国の政治的権力に発生したリアリズム的ハト派系は、多々欠点があったとはいえ、極めて有能にして政治の舵取りに巧みであったのでは無かろうか。このように観る人は少ないのかも知れないが。少なくとも人間というものその種族の生態というものを熟知しつつ政治に関わっていたように見える。 しかし、そういう稀有な政治がロッキード事件の喧騒を通じて排斥されていった。この流れを創り出す触媒となったのが竹下派の形成であり、その功罪は、ハト派系を支持する者から見れば憎みて余りあり、タカ派系を支持する者から見れば「誉めて使わす、近う寄れ」てなところだろう。 その変調さは、政治を論ずるときに道徳を持ち出し、道徳を論ずるときに政治を割り込ませるという詭弁操作によって押し進められて行った。今もその後遺症下にあると云える。というか全身に転移しつつありしたのかも知れない。これを俗に、自縄自縛と云うのだろう。 その竹下派は現在、橋龍派に引き継がれている。橋龍、小渕と首相を輩出したものの、政治のイニシアチブは旧福田派、中曽根派に拝跪させられており、今や政治の高邁なとも云うべき思想的イデオロギー的な政争に関わる能力も無く、ただひたすら大臣病に侵されている。むしろ、矢面に立つよりは、小権力と利権が確保されればそれ以上望むことも無いというテイタラクを見せ、それを恥じる能力さえ持ち合わせていない。 現下の政治のチマチマしたところの原因は、タカ派系の向米奴化と、ハト派系の相変わらずのと云うべきか非常に矮小化された好利権化傾向に由来しているように見える。これに抗する野党のお粗末さがこれを補完している。マスコミのお追従提灯が更に輪をかける形で補完している。これを思えば、我が国の政治的変革は絶望の淵にあり、突然変異の如きにして政治の新潮流が生み出されるか、革命派が俄かに台頭してくる以外に方途は無いように思われる。 あぁ、「角栄的なるもの」が放逐され、「中曽根的なるもの」が支配し始めてはや三十年経てきている。この間、何ら機能しない大盤振る舞いが演ぜられてきた。これほど馬鹿な政治を続ければ不沈空母の浸水も已む無しというべきだろう。機を見るに敏な連中は、一層米奴化することで生き延びようとしているように見える。 この間、見どころがあったと云えば、小沢―羽田連合の竹下派からの飛び出し、細川政変ぐらいであろうが、旧社共の馬鹿さ加減に因りこれを大きな政治的うねりにすることが出来なかった。あろうことか、日共辺りは、この動きに徹底抗戦する態度を見せ続け、政治の変動を封殺することに手を貸してきた。今にいたるも、この間の所業の反動的役割を正視し得ず、従って総括を為しえていない。時に、是々非々を云うかと思えば、名うてのタカ派を自称する石原都知事とのそれだったとは。 れんだいこがなぜ、この時期にこの一文を書き綴りたかったか。それは言わずもがなであろう。 2003.8.18日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)
1980年代の自民党の派閥政治
第1節
大平正芳内閣「ハプニング解散」
1976年総選挙が三木内閣時代の三木武夫と田中角栄の対立によって主流・反主流の分裂選挙になったのをきっかけとして自民党の分裂が起こり始める。さらに、1979年総選挙で自民党が再び敗北した後の第二次大平内閣成立の際、福田赳夫、三木武夫、中曽根康弘ら反主流派が大平首相の責任を追及して退陣を要求、これを拒否した大平首相と大平を支持する田中角栄との間の40日間に及ぶ政争のあげく、総裁選挙後の新内閣の首相を指名する衆議院本会議に主流と反主流がそれぞれ首相候補を立て、党内抗争を国会の場まで持ち込む前代未聞の事態になった。1980年5月大平内閣不信任案が党内反主流派69名欠席の衆議院本会議で可決された事態は、このような自民党の事実上の分裂が修復しがたいところまで進行していることを示したものといってよいだ
ろう。
この解散劇は、社会党の飛鳥田一雄委員長が大平内閣不信任決議案の提出にはじまった。本会議採決は回避されると見ていた自民党反主流派の福田派、三木派、中川派の69議員は本会議欠席戦術ととらざるをえなくなり、記名採決の結果、賛成243票・反対187票で可決された。この結果をもって、大平内閣は臨時閣議を開き、衆議院の解反対散・総選挙を決定したというものである。わが国における国政選挙史上初の衆参同日選挙を6月22日に実施するという強行策で内閣側も応えたのである。そして、選挙の最中に大平正芳が死去するという事態が起こり、自民党は党首なき選挙戦で投票日を迎えるという異常な成り行きをたどることとなってしまったのである。
第2節 鈴木善行内閣成立と党改革
ハプニング解散が起こった五月政変以降、田中角栄演出による衆参同日選挙だけでなく、自民党の圧勝と有権者意識の変化が自民党分裂にブレーキをかけた。つまり、「大平の弔い合戦」をスローガンに掲げることによって有権者の同情を集めた上に、参院選と重なったことにより有権者を動員できたことで自民党は圧勝したのである。
また、財界からの50億円の資金調達も自民党の結束を条件とされていたようである。
衆参同日選挙を圧勝した自民党がなぜ鈴木善行のような一般に知られていないような人物を満場一致で首相に選んだのであろうか。
6月12日大平首相が突然死去した後、後継者の有力候補としてあげられたのは、中曽根康弘(田中角栄の支持を取り付けているとされ最有力視)・河本敏夫・宮沢喜一であった。ところが6月22日の投票日を境にして状況は一変した。党副総裁の西村英一による暫定政権構想が投票日前に取り沙汰されたが、西村氏が落選してこの構想が崩れると、25・26日頃から当初は全く予想もされなかった鈴木善行の名前が浮上し始め、あっという間に本命で固まったのである。
同日選挙後になって大平派が鈴木を代表に選出するとともに、大平派と田中派と福田派の間で鈴木を総裁候補者とする工作が進められたのである。それと並行して、党基本問題運営調査会の「話し合い」による総裁選出をうたった「政局安定に関する答申」を踏まえて、党執行部の調整が行われた。執行部は最高顧問会議、地区別代議士会、当選回数別の議員との会談などで、党内の意見を聴取した後、党大会に代わる両院議員総会を開催し、西村副総裁が鈴木氏を総裁に「推薦」し、総会はそれを受けて鈴木氏を総裁に「選任」するという手続きが取られた。
というのも、財界では危惧したらしい。田中角栄の支持を取り付け「大角連合」を基盤に政権を目指す中曽根氏と、反主流派三福プラス中川グループを基盤とする河本とが争えば、これまでの党内抗争の基本図式である「大角」対「三福」の分裂の再現になる。そこで、大平内閣不信任の際「党内分裂回避」を条件に総選挙資金の協力に応じた財界が再び後継者問題で、大平・福田・田中の三派のあっせん役をしたということである。
この内閣は、自民党一党支配体制の危機を回避するための緊急避難的課題をその成立の経過で背負わされてきている。その意味では大平内閣を継承して、自民党の指導層の世代交代を準備する中継ぎの性格を持った政権であり、政権担当の長短に関わらず、あくまでも「暫定政権」とみるべきであろう。
鈴木総裁選出後、党執行部は党改革推進本部(本部長鈴木総裁)と党基本問題調査会(会長根本龍太郎・無派閥)とに党の改革の検討を諮問した。そして、81年1月に次の総裁選を見越してこの課題を3月末を期限として結論を出すよう要請している。そこで、各派の中堅幹部で構成している同本部世話人会(座長田村元・田中派)においてこれまでの審議を本格化することとなった。
総裁選は一方では党員が総裁候補を選ぶことを通じてその党員意識を高め、他方では党員の拡大と党資金の増収をてこにして、自民党が「近代的」な「組織党」となる礎石としても位置付けられていた。ここで党改革が求められたのは、現実に顕現した総裁候補決定選挙の実態は、派閥による党員の党費の立替えなどからも明らかなように、派閥の地方拡散を招来し、総裁職をめぐる中央の派閥抗争が文字通り拡大生産されたことを示しているからである。
第3節
中曽根康弘内閣発足のプロセス
党改革の結果として、1981年6月総裁選出手続きルールが変更された。内容は、総裁候補決定選挙は候補者が4名以上の場合に実施し、得票総数の多かった上位者3名を対象に総裁決定選挙を行うというものである。
1982年10月12日、突然、鈴木氏が秋の自民党総裁選に再出馬しないと表明、政権の座を退くこととなり、実際に総裁候補決定選挙(予備選挙)が導入された。総裁候補決定選挙の結果は、中曽根康弘58%・河本敏夫27%・阿倍晋太郎8%・中川一郎7%で、2位と3位の候補者は総裁決定選挙を辞退し、その後の党大会で中曽根康弘が総裁として承認された。つまり、総裁決定選挙(本線)における投票は実施される必要がなくなるので、総裁の選出は満場一致の形をとることになるが、候補者の特定化が選挙における投票という手続きを踏んでなされたのである
その裏で、主流派と反主流派との妥協の結果、党四役と鈴木・福田・二階堂から成る「三人委員会」が調整にあたったが、総裁候補決定選挙の告示と同時に始まった立候補者の選挙運動の凍結期間が切れる土壇場に開催された最終的な調整は、「三人委員会」と党四役とにより、実質的に合同で行われている。
第1節
1977年以降の「総裁公選規定」の改正による主な変更点
1977年4月の改正では、まず、総裁決定のプロセスとして総裁候補決定選挙と総裁決定選挙が導入されることとなった。総裁候補決定選挙は、党所属国会議員20名の推薦を得た候補者を、二年分の党費を完納した党員が選び、各都道府県支部連合会で集計し、得票の多かった上位2名を支部連合会の推薦候補者とする。そして、総裁決定選挙では、持ち点制(党員1000名につき1点の割合で配分された支部連合会の持ち点を推薦候補者に対して両者の得票数に比例して付与する)を導入し、持ち点の多かった順に、上位2名につき党大会において党所属国会議員によって行うこととなった。
次に1980年1月の改正では、持ち点制は各都道府県の3位以下の票が上位2位の票に吸収されるという矛盾が起こるという批判が多かったため廃止された。これに伴って、候補者の得票を全国集計し、得票総数の多かった上位者2名について、総裁決定選挙を実施することとなった。
そして、1981年6月の改正で、総裁候補決定選挙は候補者が4名以上の場合に実施し、得票総数の多かった上位者3名を対象に総裁決定選挙を行う。候補者が2ないし3名の場合は、一定の要件が備わった場合を除き、総裁候補決定選挙は実施しないとされた。また、立候補には、党所属国会議員の50名以上の推薦を必要とするとされた。 これらの一連の改正によって、1980年代の「総裁公選規定」は完成した。