自民党前史1 社会党政権史 史上初めての社会党政権誕生、その苦悩の軌跡

【新憲法下初の総選挙】
 2.1ゼネストの後遺症を清算する意味もあり、総選挙気運が強まり、1947(昭和22).4.25日新憲法に基づく戦後最初の総選挙(第23回)が行われた。ゼネスト中止後の民意を問うという意味があった。衆議院466名の定数に1573名が立候補するという激戦となった。選挙の結果は、社会党が予想を上回る勢いで一躍第一党となった。 総選挙の結果は、社会143(解散前98)、自由131(同140)、民主121(同145)、国協29(同63)、共産4(同6)、諸派20(同4)、無所属13(同9)であった。

 選挙結果に対し、マッカーサーは、「日本国民は共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、すなわち個人の自由を確保し、個人の権威を高めるため、極右、極左からの中間の道を選んだのである」と声明を発表している。「社会党第一党」の報を聞いた西尾氏が「本当かい、君。そいつぁえらいこっちゃぁ。」と新聞記者に答えている。社会党の躍進と共産党の低迷には「闘争は共産党、投票は社会党」という心理の反映があった。

 こうして、社.自.民の三派が僅かの差で競り合う三すくみの状態となった。記者団を前にした片山は会見で「国民の輿望をになってわが党が第一党の地位を獲得したことは、旧勢力に代わる革新勢力台頭の現れだと思う。保守勢力の政策を国民が信頼しないということが明らかとなった以上、次の政権は資本主義から社会主義へ移行する性格を持った政権でなければならない。名実共に社会党が中心となった政権を樹立しなければならないことは当然です。これが私の決意です」と述べている。

 さて、第一党となった社会党は政権を担う栄誉に就く事になったが、
組閣に難航した。「準備が全然なかったから大変なことになった」。この時の心情として西尾氏は次のように書いている。概要「私の心は重かった。第二、第三党を保守党が占め、圧倒的な多数を擁している以上、仮に社会党から首班を出しても、自由、民主の反撃にあえばひとたまりもない。それならば、むしろ我が党としては、ここのところは首班を受けないで、逆に自・民両党の間に立ってキャスチングボートを握り、政局をリードしていく方が得策だ。そうしている間に、野党としての経験しか持たない社会党も、だんだん与党としての訓練ができてくる。その時機を待って、我が党が内閣を組織しても遅くない。従ってこの際は、総理大臣を吉田さんに譲り、自・民・社・国協四党の挙国連立にもっていくのが一番賢明な策である、というのが私の腹の中の本当の筋書きであった」。今日に至る社会党の本音の原型がここに見られる。

 5.9日当初、社会党、自由党、民主党、国民協同党の4党での連立が画策され、「政策協定の原案」作りに向かうことになった。この間、社会党左派の入閣をめぐって「左派と手を切れ」と主張する自由党との調整が難航した。5.14日社会党右往左往派鈴木茂三郎、加藤勘十は共産党との絶縁声明「共産党と一線を画する」を出した。

 5.16日四党政策協定ができたが、経済危機突破の為の国家統制・管理の必要の程度の認識にずれを生じさせていた。民主党内も複雑さを見せていた。幣原前首相派と自由党から脱党してきた芦田派との間がしっくりしていなかった。幣原派は自由党との折り合いが良かったが、芦田派は自由党と犬猿の仲であった。こうした折の5.18日石橋湛山、石井光次郎、木村篤太郎3閣僚の公職追放が発表され、その日の午後民主党は党大会を開き、党首を芦田、幣原は名誉総裁、斎藤隆夫は最高委員と態よく棚上げされ、民主党を名実ともに芦田が牛耳ることになった。

 こうした地下水脈での丁丁発止の流れを経ながら「暗夜の手探りで」片山哲内閣の構想が練られていった。5.19日片山・吉田会談が首相官邸で開かれた。西尾も陪席した。この席で吉田は公式に「首班は第一党たる社会党の片山さんがやるべきであると思うが、左派の人が入閣する連立政権では困る」と主張し進展が見られなかった。最終的に自由党が閣僚派遣を拒否することとなった。

 5.22日マッカーサー・片山会談が行われ、マッカーサーは片山首相を支持激励する「特別声明」を出した。5.23日四党会談が開かれ、4党政策協定の上に自由党を除いた保守系の民主党.国民協同党との3党連立を策しこれに成功した。社会党左派は閣僚から除外されることが決定した。この一連の過程に西尾末広が参謀として立ち働いている。


【片山哲内閣→芦田内閣】

  四党会談で万端整って、当夜の5.23日7時衆議院本会議が開かれ、片山哲が内閣総理大臣に指名された。議長松岡駒吉が「投票総数426票。うち無効6票。420票の満場一致をもって、片山哲君を内閣総理大臣に指名することに決定いたしました」と読み上げた。新憲法下初の指名であった。こうして社会党党首を総理とする片山哲連立内閣(47.5.24〜48.2)が誕生した。

 5.24日午後片山首相は就任挨拶のため、「GHQ」にマッカーサー元帥を訪ねた。
マッカーサー元帥は、歓迎の意を表明した。「あなたが首相に選ばれたことを、私は歓迎する。今度の選挙の結果は、日本国民が極右極左を排し、中道を選ぼうとしていることを示すものであり、あなたは中道政治をいっそう推進してくれるものと期待している。私は民主主義のためには援助を惜しまない。日本はこれから東洋のスイスとなって欲しい」と述べた。
こうして日本の憲政史上初めての社会党政権が誕生することとなった。


 片山連立内閣は次の点で示唆的である。この構図に拠れば、民主党.国民協同党は社会党と連立することが出来、自由党はそれを拒否する距離にあったということを示唆しており興味深い。ちなみに、社会党は共産党からも合同運動を呼びかけられていたが、これを拒否し、ややリベラル系の保守勢力との連立を志向したということである。この時、社会党中央は、党内の左派をも切り捨てていることも示唆的である。

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように捉えられている。「二・一スト前後の革命的危機を脱した吉田内閣は、その余燼も冷めやらぬ1947年春、新憲法下で初の各種選挙を相次いで実施していった。まず総選挙が4月に行われ、この結果、社会党が143議席(前回92議席)を獲得して第一党に躍り出た。社会党の躍進は飢餓とインフレに悩む労働者大衆の期待を反映したものであった。しかし、第一党とはいっても過半数を制したわけではなく、吉田茂の自由党が131議席、芦田均の民主党が126名、三木武夫らの国民共同党が29名とブルジョア諸政党が圧倒的多数を占め、社会党は3分の1の勢力を占めたに過ぎなかった(二・一ストのでたらめな指導で労働者の反発を買った共産党はわずか4議席だった)。

 不意に転がり込んだ第一党の座に『弱った』と嘆息した片山哲委員長であったが、西尾末広ら右派はブルジョア政党との連立に意欲を燃やし、自由、民主、国共との政策協定による組閣策動に乗り出した。彼らの連立内閣推進の口実は、『保守陣営にくさびを打ち込み、幾分なりとも勤労大衆のための政策を実現する』というものであった(最近の自社連立でもこれと同じ言い分が登場した!)。

 この時の社会党中執で連立に反対したのは荒畑寒村ただ一人であった。『ましてブルジョア政党との連立内閣は、ひとり社会主義の原則に反するのみでなく、寄り合い所帯の水割政策で現在の危機を突破し得ないことは明白ではないか。むしろあくまで野党にとどまり、第一党の実力をもって政策の実現を政府に強制するに如(し)くはない。もし、どうしても政府を作らなければならぬとしたら、たとえ少数でも単独内閣を組織して三日天下でもいい、社会党内閣でなければやれないような政策を断行すべきだ。そしてブルジョア政党が束になって反対したら、その時こそ議会を解散していわゆる信を民意に問うべきだ』(「寒村自伝」)」。

 四党政策協定に1カ月も手こずり、社会・民主・国共三党連立の片山内閣が発足したのはようやく6月1日のことであった(自由党は入閣しなかったが、四党協定は存続した)。しかし、自ら社会主義的政策を断行する意志がない上に、ブルジョア的な政策協定に縛られた右派主導の片山政権に選挙で掲げた公約はおろか、いくらかでも労働者人民の利益を図る政策などやれるわけもなかった」。

 ところで、片山内閣の考察は別のサイトで行うとして、政権の寿命は1948(昭和23)年2月までの8カ月間内閣の短命で崩壊した。その後を受けた民主党系芦田内閣が誕生するが、昭電工事件に巻き込まれ48.10.7日総辞職を余儀なくされる。こうして芦田内閣は政権担当僅か7ヶ月の何ら為すところも無い満身創痍の退陣となった。芦田元首相は民主党総裁も辞任した。この経過の背景にはGHQのG2(情報第2部)の意思が働いていたとも云われている。G2のウィロビー局長は、「知られざる日本占領」で、「これを摘発したのは、主として他ならぬG2であった」とある。10.8日社会党の中央執行委員会で、西尾が除名された。西尾は、総同盟からも除名された。

 この時の連合政権の質がその後の政治史の流れを決めたように見える。この辺りが詳しく考察されていないことが、戦後左派運動の致命的欠陥の一つであるように思われる。片山連立政権は如何に船出し、暴風雨圏内で立ち往生し、座礁したか。当然のことながら全面否定あるいは対極の全面肯定には馴染まない。よく為したところもあるし為し得なかったところもある。そういう一切を含めて何が問題であったのかというと、社会党が政権を御する能力が欠けていた、ということではなかろうか。

 興味深いことは、社会党左派の方がこれを潰したということである。それはまだしも良い。より左派政権へ向けて潰したのかどうかということが問われなければならないだろう。史実は、政権の維持を重視せず、安逸に保守系権力に政権を委ね、万年野党の座椅子を求めて潰した形跡があり、このことこそが指弾されねばならないだろう。

 この一連の過程を見て、戦後左派運動に結集した労・農・学の活動家内に左派運動家の『能力に対する失望』が広がった。つまり、戦後日本の左派運動内にレーニンが毛沢東が生まれなかったことにより、大衆は当ての無い闘争から身を引き始め現実の生活秩序の中に回帰したということである。社会党連立政権の難破はそういう政治的質を持っているように思える。



 保守勢力の蟄居は束の間で僥倖がやってきた。終戦より僅か2年後の局面転換である。米ソ二大超大国を盟主とする戦後の冷戦構造が世界史の新潮流となったことが関係している。米ソが日本の同盟的取り込みを廻って鞘当てを演じた結果、米国が勝利する。米国は日本を、資本主義陣営の極東アジアの橋頭堡として位置付け直し、それまでの開放政策から90度転換させていくことになった。この占領政策の変化によって保守勢力が社会の表舞台に公然登場してくることになった。

 復活してきた保守系と台頭著しい左派系との熾烈な抗争が始まった。その後の流れは、戦後左派革命の流産史であり、これを右派から見れば権力の再掌握であった。しかし、この過程はGHQ権力の後押しを得てのものであり、歴史にイフは禁物であるが、もしGHQが中立で見守るならば、1949(昭和24)年頃に徳球率いる共産党を与党とする左派政権が誕生していた可能性がある。つまり、保守勢力の権力再掌握はそれほど危い綱渡りであったということになる。

 自民党史の「保守合同前史」はこのことを、「それから『保守合同』による自由民主党の結党までの十年間は、文字どおり激動と混乱を続け、平和条約締結後も占領政治の後遺症からぬけだすことに精一杯で、いわば戦後民主政治確立への、生みの苦しみを続けた『準備期』であったといえましょう」とある通りである。 

 戦後直後の政界分布図はこのことを物語るかのように激しく流動し統合を繰り返す。保守系各派についてみると、まず「日本協同党」が1946(昭和21)5月、他の少数党と合同して「協同民主党」となり、さらに翌1947(昭和22)3月には、国民党といっしょになって「国民協同党」を結成する。また「日本進歩党」は、1947(昭和22)3月には「日本民主党」となり、のちに「国民協同党」と合同して「国民民主党」に変わる。「日本自由党」は、1948(昭和23)3月、民主クラブと統合して「民主自由党」となるという具合である。

 片山→芦田連合政権の間、吉田茂が率いる日本自由党は下野していたが、幣原率いる同士クラブ28名は無所属議員8名を加えて民主クラブを結成した上で、48.5月日本自由党に合流、その他を加えて152名で民主自由党(総裁吉田茂、幹事長山崎猛)を結成している。この時、民主クラブは日本自由党の僅か四分の一勢力でしかなかったが、吉田は対等合併の配慮を見せている。この民主自由党が大発展していくことになる。
吉田のこの大人態度こそ保守勢力の抜きん出た資質であり、左派には見られないところのものである点で見過ごすことが出来ない。

 田中角栄は、この時の民主クラブからの移籍組みである。この合流劇の背景には、「社会主義は終わった。これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」との判断が働いていたと伝えられている。角栄は、吉田に重宝され次第に頭角を著して行くことになる。この時党選挙部長、県支部幹事長の役を引き受けているが、田中は異能異才を発揮し、選挙事情を網羅した全国選挙地図を作成し、議員の生年月日、学歴、家族構成、人脈、資金力、選挙区の人口構成、有権者数、支持率、その地区の産業構造、所得水準、選挙参謀の動きまで調べ上げていた。全国の選挙区の情報、情勢をインプットしたこの閻魔帳が威力を発揮することになる。





(私論.私見)