研究7 中曽根康弘

 かって作家の林芙美子は、自民党青年将校と云われた頃の中曽根を評して、「かんなくずのような男」と云った。重みの欠ける軽薄にして火をつけると威勢良く燃えるが、あっという間にペラペラと燃え尽きるという意味に解することが出来る。


中曽根康弘
 ニックネームは「風見鶏」、若手議員のころのニックネームは「青年将校」
 1918(大正7)年5月27日、群馬県高崎市末広町に生まれる。
 1935(昭和10)年3月 群馬県立高崎中学校4年修了

  1935(昭和10)年4月、静岡高等学校(旧制)入学。1938(昭和13)年3月、静岡高等学校文科丙類卒
東京帝國大學に進学。在学中、高等文官試験行政科合格。

 1941(昭和16).3月、東京帝国大学法学部政治学科卒、同4月、内務省入省。同年、海軍主計科短期現役第6期を経て海軍主計中尉に任官。設営班(敵飛行場占領後に自軍の飛行場として整備する任務)2000名の主計長として、1941(昭和16)年12月20日
ミンダナオ島ダバオに上陸。次いで1942(昭和17)年1月24日、ボルネオ島バリックパパンに敵前
上陸しマンガル飛行場を設営。その後、高雄海軍建築部に転任。高雄海軍施設部女子挺身隊「静和寮」寮長。1944(昭和19)年 横須賀鎮守府付派遣勤務海軍兵備局三課

 1945(昭和20)年9月、終戦時、海軍主計少佐。退役。
 1945(昭和20)年10月、内務事務官。1946(昭和21)年12月、依願退官
 1947(昭和22)年4月、群馬3区から衆議院議員(民主党)初当選。1954(昭和29)年3月 「原子力予算」を国会に提出 成立。その後、国民民主党、改進党の結成に参加。55年11月 保守合同で自民党へ。

 1959(昭和34)年6月、第2次岸内閣で科学技術庁長官、原子力委員長として初入閣。

 1967年1月、旧河野派から中曽根派を旗揚げ。1967(昭和42)年9月第12代拓殖大学総長就任。1967年11月 第2次佐藤改造内閣で、「反佐藤」の立場から一転して運輸相として入閣。変わり身の速さから「風見鶏」と呼ばれた。

 1970(昭和45)年1.14日、第3次佐藤内閣で防衛庁長官。航空自衛隊T-2高等練習機に試乗
 自衛隊員へのトイレットペーパー国費支給開始。

  1970(昭和45)年9月 訪米レアード国防長官と会談

 1972年7.7日、第1次田中内閣で通産相兼科技庁長官、原子力委員長。 1972(昭和47)年12月22日〜1974(昭和49)年12月9日 通産大臣(第2次田中角榮内閣。

 1974(昭和49)年12月、三木政権で自由民主党幹事長。78年12月 自民党総裁選に初出馬、大平正芳、福田赳夫両氏に次ぐ3位に終わる。80年7.17日、鈴木善幸内閣で国務大臣行政管理庁長官として入閣、第2次臨時行政調査会をスタート。
 1982(昭和57)年11月、第11代自由民主党総裁、第71代内閣総理大臣就任。

 1983(昭和58)年4月21日 靖國神社参拝。5月28日〜30日 ウィリアムズ・バーグ・サミットに出席。 8月15日 靖國神社参拝。10月18日 靖國神社参拝。11月 訪米。11月8日 ワシントンポスト紙幹部と朝食会(「不沈空母」発言)。12月 「鈴虫」発言。

  1984(昭和59)年1月5日 靖國神社参拝。4月21日 靖國神社参拝。8月15日 靖國神社参拝。10月18日 靖國神社参拝。

 1985(昭和60)年1月21日 靖國神社参拝。4月22日 靖國神社参拝。8月15日 靖國神社参拝。85年8月 戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝。

 86年9月 総裁任期を特例として1年延長。

 1986(昭和61)年9月22日 自民党全国研修会で「知的水準」発言
 11月 中国訪問

 86年9月 総裁任期を特例として1年延長

87年10月 後継総裁に竹下登氏を指名

 ・89年5月 リクルート事件の政治的責任をとって離党(91・4復党)

 ・90年2月 中曽根派会長の座を渡辺美智雄氏に移譲

 ・96年7月 自民党総裁裁定で比例北関東ブロックの終身1位が決定 1997(平成9)年4月29日 大勲位菊花大綬章を受章。
1999(平成11)年7月14日 都内の料亭で小渕恵三首相、石原慎太郎東京都知事と会談
2000(平成12)年3月13日 吉祥寺(東京都文京区本駒込)で営まれた佐々木良作・元民社党委員長の葬儀に参列。
 2000(平成12)年、衆議院議員(当選20回)

 ・2003年10月23日 小泉純一郎首相が73歳定年制適用で引退を要請

 ・10月27日 自民党の比例代表名簿に登載されず衆院選不出馬、引退を表明
(参考文献・中曽根康弘『政治と人生-中曽根康弘回顧録-』、HP「中曽根康弘の世界」ほか)中曽根 康弘



2000(平成12)年10月 外交最高顧問
2000(平成12)年11月2日 料理屋「吉兆」(銀座)で森喜朗首相、瀬島龍三、渡辺恒雄、氏家斉一郎と会談
2001(平成13)年4月27日 小泉純一郎首相と会談
 6月27日 小泉純一郎首相と会談
2002(平成14)年3月20日 江藤・亀井派総会で終身比例第1位を返上する考えを表明
 4月22日 新首相官邸披露式典出席
 8月8日 都内の日本料理店で小泉純一郎首相、宮沢喜一、海部俊樹、橋本龍太郎元首相、森喜朗前首相と会談

軍事史学会特別顧問 (財)世界平和研究所会長(現職)



中曽根康弘を評して、「元主計中尉、実戦経験無しで、はったり専門、元青嵐会の『青年将校』」


1984年、上和田秘書官の述懐。「俺は30年以上中曽根の秘書をやってきたが、一日たりとも中曽根を好きになったことは無い。中曽根はそういう男だ。俺が云うんだから間違いない。だがな、馬鹿にするなよ。中曽根は政治家としては凄い男だ。おまえ、中曽根を軽く見ちゃいかんぞ」、「あれはな。スネに傷持つ奴が大好きだ。中曽根はその傷に塩をすり込む事が出来る男だ。傷持ちは裏切れない。中曽根は叩けばホコリが出る奴が好きなんだ」(田中良紹「裏支配」)。






(私論.私見)

元内閣総理大臣 中曽根康弘氏インタビュー/21世紀は大転換の時代(東大新報オンライン)




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投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 6 月 25 日 11:56:47:

回答先: えせ陰謀研究家中丸薫とは何者か? 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 6 月 25 日 11:06:41:

※東大生が読む学生新聞は電波陰謀新聞。

今年はいよいよ2000年。新しいミレニアム、新しい世紀の幕開けまであと1年となった。20世紀も大変革の時代であったが、21世紀、世界はどのようになっていくのだろうか。この記念すべき年の始めに、記念すべきインタビューとして、今回はまさに20世紀を代表する人物である中曽根康弘氏に、21世紀の世界の展望、東大生へのメッセージなどを聞いた。


宇宙論と生命科学が主流に

――いよいよ21世紀まであと1年となりました。21世紀は今世紀以上に大きな変化の波が押し寄せてくるのではないかと思います。先生の眼から見た、21世紀の世界の展望などをお聞かせください。

21世紀は大転換の時代になると思う。言い換えれば、文明のコペルニクス的転回の時代に入るだろう。20世紀は18世紀、19世紀の延長線上にあった。もちろん、21世紀もその延長線上にあるけれども、むしろ断続的な転換の可能性が出てくる。
というのは、学問の研究が非常に進んできた。よく言うのだけれど、20世紀は量子論、相対性理論に代表されるように物理学の時代であった。ところが21世紀は生命科学と宇宙論の時代になる。そういう意味において、大きな転換が予想される。
さらに、それが国際関係、安全保障、国際政治、外交、経済、あるいは文化、そういうものに非常に大きな影響を及ぼしてくる。
国内政治においても、国家主権とグローバリズムとの関係、それから地域主義。19世紀から流れてきた大きな潮流は、インダストリアリゼーション、デモクラタイゼーション、ナショナリズム、それからリージョナリズム、グローバリズム。その中でも、20世紀後半になって、リージョナリズムとグローバリズムが非常に大きく飛躍してきた。つまり、EU、APEC、NAFTA、ASEANというように、世界的にリージョンが発達してきた。
同時に、経済の面では電子マネーというもので国境を越えてきた。マネーのみならず、契約、貯金、あるいは証券の移動、そういうものが非常に大きな変化を遂げている。
もう一つは環境問題。地球防護という意識が非常に高まってくる。それから国家主権というものが相当制約されてくる。そういう時代に入っていくだろうと思う。

電子世界と電子国家が出現

国内外を覆い尽くす大きな動きとしては、電子時代の到来だろう。電子世界と電子国家が出現する。それによってグローバリズムがますます促進していく。
日本は教育の大改革から始まる。その上に立って、憲法の改正が行われるだろう。そして、電子国家として発展していく。また、直接民主制がさらに前進していく。例えば、首相も知事と同じように公選になるかもしれない。しかも、投票は投票所に行くのではなく、自分の家庭でボタンを押して投票する。更には貯金だって、あるいはものを購買するにしても、情報にしても、みんな家庭でボタンを押して全部できるようになる。現に、そういうことはアメリカではかなり進んでおり、政治もその影響を受けている。
また国際的には、インダストリアリゼーション、資本主義が大きく修正資本主義になっていくだろう。つまり、ヘッジファンドのように資本主義が民主主義の遊蕩児になるわけだ。そういう意味で修正資本主義【注・フェビアン社会主義】が出てくるようになる。
WTOによる貿易自由化、規制打破、というようなやり方は、世界経済を非常に拡大し、それに貢献している。その原則は今後もやはり継続されていくだろう。これが世界的資源の配分を自動的に効率的にしてきている。しかし、各国の文化や生活体系まで破壊する危険性が出てくる。そういう意味で、民族文化、地域文化からの反撃がかなり強く出るだろう。それが修正資本主義という形になる。特に、南北問題。環境問題、エネルギー消費問題等をめぐって南北の対立が激しくなり、必然的に修正資本主義にならざるを得ない。

人権擁護のため内政干渉も成立

安全保障の問題では、核兵器をどうするか、この問題を始末しなければならない。それと生物化学兵器などの大量破壊兵器の国際管理。また、多国籍軍という形が、国際法的にさらに地位を獲得してくるだろう。その中で、コソボの事件のように人権擁護のために主権が制約されることも起こり得るだろう。今後、そういったことがさらに前進してくる可能性が高い。それが国際法として、慣習法として認められるようになるだろう。今までは内政不干渉でできなかったものが、人権問題が非常に悪質の場合には、国際法を越えて干渉が成立してくる。そういう時代に入るだろう。
安全保障の問題で非常に大事な問題は、先進国の間の軍事兵器に対するサイバー戦争。ハッカー戦争。これによって兵器が一部動かなくなる。それは宇宙にまで及んでくる。先進国の間では、そういう面に焦点が移行するだろう。

中国は妥協しながら共存へ

政治外交的に大きな問題は中国の問題である。しかし、中国はソ連とは違って、非常に柔軟性をもった共産主義である。いわば社会資本主義、社会市場主義。そういう柔軟性をもっている。だから、20世紀のソ連のような立場にはならない。妥協しながら、共存の方向に行くだろう。経済は資本主義化してゆくが、政治、社会は独裁方式が続く。しかし、経済の発展と国際化が政治に変化を促す。現に村では直接選挙が行われている。毛沢東も昔、エドガン・スノーにUnited States of China と言ったことがある。それだけ民主化が深化し、人間尊重、人権意識というのが高まってきている。
今後、国連はそれほど強化されないだろう。その代わり、今言ったような地域機構、地域主義というものが、国連の支店のような形になり、国連はその名のもとに最終的に地域問題を解決する手段になるのだろう。

総合的・立体的芸術が生まれる

文化的にはDNAの解明と宇宙構造の解明が非常に前進してくる。それと同時に、電子社会、電子世界の展開の影響を受けて、芸術と文化が非常に変貌してくる。今ある彫刻、絵画、舞台芸術に、新しい文明的要素、文明の材料を駆使した、もっと総合的な、立体的な芸術が生まれるだろう。静的なものだけではなく、動的な芸術が生まれる。
それと同時に、国家主権に対して、ある特定の目的の下に、例えばある学問、農業、物理学、あるいは芸術、政治的主張、そういうようなものを中心としたNGOとか、NPOの世界市民連合のようなものが出てくる可能性が非常に高い。ある一つのものを研究している学者集団が、国境を越えてインターネットで結合する。
それは他の分野でも十分起こり得る。例えば、宗教においてもそうである。DNAや宇宙空間の構造解明が前進するにつれて、新しい宗教が生まれる。既存のキリスト教、仏教、あるいは回教、ヒンズー教、それはもちろん生き長らえていくが、それらを超克した、しかもそれらの要素を基本的に借用して、新しいファクターを取り入れた21世紀的な新宗教が、世界的、あるいは地域的に生まれる可能性が高い。【注・世界統一宗教の樹立】

日本独自の感性を世界に展示

――そのような変化の中で、日本 がこれから果たさなければならない役割は何でしょうか?

日本は、明治以来の発展途上国であったのが先進国の仲間入りをした。この経験を途上国に対して、日本の負担において分け与えるということが非常に大事である。それと同時に、WTOにおいても、国連においても、先進国と途上国の間の調停役とか、融合をはかる仕事を果たさないといけない。
それと同時に、日本文化の独自性、わび・さび、もののあはれなどといった、感性をつかみ出して芸術化したものは、外人にはわからない世界だ。日本独特のもの。こういうものを世界に展示して、そういう感性があるということを教える必要がある。
禅というものが世界的好奇心の対象にもなるし、それを勉強しようとするものや、座禅を組もうというものや、禅仏教徒になろうとするものが、インテリの間にかなり増えてくるのではないかと思う。

無意識の世界が解明されてくる

――先生も禅をされていらっしゃるようですが、それが健康の秘訣なのでしょうか?

肉体的にはもちろんだが、精神的にもそうだと思う。
河合隼雄氏が『ユング心理学と仏教』という本を書いたが、ユングが探しているような無意識の世界の解明、これは実は禅が体験でやっていることだ。
人類はDNAの解明をどんどんやっているけれども、人間には60兆の細胞があって、その一つの細胞に30億の遺伝子情報が入っていると言われている。しかし、その中で今使われているのは五%から10%くらいだそうだ。OFFになっているのが90%から95%。それが今後だんだん解明されてくる。あるいは動き出す。そこから、無意識の世界が大きく解明される要素が出てくる。例えば、人間の意志や願望、あるいは環境の激変というものが、眠っているDNAをONにするということが言われている。そこに奇蹟が起こったりする。それはまだ想像の世界だけれども、今、科学的に解明されようとしている。そういう意味において、無意識とか禅というものが世界的に広がっていくだろうと考えられる。

星を見る東大生になってほしい

――最後に、未来を担う東大生へのメッセージをお願いします。

やはり基礎学をしっかりやりなさい。今の学生や若い人を見ると、基礎力が非常に不足している。いつまでも漫画を読んで満足していてはダメ。我々のときには、旧制高等学校で原書も多少は読んだものだ。それから、翻訳もやった。私はパスカルの『パンセ』を半分くらい翻訳した。みんなそれくらいやっていた。【注・ほんまかいな中曽根先生!】
また、現代は情報氾濫の時代。どれにとっついていいかもわからない。結局、彷徨う東大生になってしまう。人間としての芯と軸をしっかり持たないといけない。それはひと言で言えば求道心だろう。一番てっとり早いのはカント哲学だ。釈迦も明けの明星を見て悟ったという。カントの『実践理性批判』を読むと、天上の星を言っている。いつも讃嘆の感情を持って考え、仰ぎ見る。「天上の星と内なる道徳律」である。そういう断言命令を私たちは持っている。その辺りから21世紀の世界の人は再出発するのだろう。星を見る東大生にならないといけない。

――ありがとうございました。


投稿者 PuPu 日時 2000 年 6 月 26 日 23:29:52:

回答先: 元内閣総理大臣 中曽根康弘氏インタビュー/21世紀は大転換の時代(東大新報オンライン) 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 6 月 25 日 11:56:47:

東大新報オンラインの中曽根さんのインタビュー読みました。
彼は、自分が禅を実践している事をいろんなところで
言われているようですね。何か裏に意図があるのでしょうか。
それとも、本当に禅を実践し、
ただ広めようとしているのでしょうか?。

一年ほど前に、「リーダーの条件」という中曽根元総理
の著書を人から借りた事があります。
その中で、自分は短歌が得意で、よく国際的な場でそれを発表し、
絶賛を受けていたエピソード等、
なんか鼻につく部分も多かったのですが、
日本の行く末や教育問題に関する、彼の意見には
納得していました。
まだ、この阿修羅さんのページには出会っていなかったもので、
「こういう人が、日本の政治を握っているのならこの国も安泰だ」
等と感じてしまっていました (苦笑&反省)。

その本の中に彼の禅体験も書かれていて、
加え、「人間関係や日常生活における判断や対応は儒教精神に基づいて行い、
自分自身に対峙する時には禅の精神で」みたいな事を言っていました。
「やっぱり国のトップともなると違うなあ」、
とこれまた感心していました (自虐的苦笑)。

また、ある時お寺で座禅を組んでいる時に、なぜか涙があふれ出てきて、
それを師に話すと「それが見性というものだ」と言われた、とも書いていました。
悟りを得た?。

だから僕は、阿修羅などで中曽根さんが
悪もんだと言われているのを見るまで、
彼には、畏敬の念を抱いておりました。
これがマインドコントロールされるって事なのかなぁ。
本当のところ、中曽根さんって何者なのですか、
悟りを得た妖怪? こえーー (怖)(笑)。

稿者 陰謀王子☆彡 日時 2000 年 6 月 27 日 03:15:25:

回答先: 中曽根さんと禅 投稿者 PuPu 日時 2000 年 6 月 26 日 23:29:52:


>本当のところ、中曽根さんって何者なのですか、

無常観とニヒリズムと自己救済の段階で、
“超人”になったと錯覚してしまった可哀想な人です。

「××もやむなし……」というような考え方は、
儒教にせよ禅にせよ、過程のものではないでしょうか。

彼が質の悪いのは、影響力のある場所で、それを実践してしまうことなのです。
そして、いつも安全な位置にいて、一切、自分では責任はとらない。

ですが、私のこういった記述の方がマインドコントロールで、
大きく間違っている可能性の方が高い……のかな? “日本国民的”には(^^;)


稿者 匿名東大生 日時 2000 年 6 月 26 日 00:51:01:

回答先: 元内閣総理大臣 中曽根康弘氏インタビュー/21世紀は大転換の時代(東大新報オンライン) 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 6 月 25 日 11:56:47:

ご存知かもしれませんが一応注釈しておくと
「東大新報」というのは原理研究会(=統一教会)の
手先です。東大の中ではごくあたりまえの常識として
取り扱われてます。
以上いち東大生より。


三島由紀夫は右翼利権体制固めの小道具にはうって付けだった


『LOST SAMURAI』
『三島由紀夫 死と真実』
Henry Scott Stokes・著

 、、、三島の死後、私(著者ヘンリー・ストークス)は独力で
全容を発見した。
三島由紀夫は政界上層部に二人の
強力な同調者を持っていたことが分かった。一人は、64年から72年までの日本の首相の座にいた佐藤栄作、もう一人は、 三島が死んだ当時の防衛庁長官で、現首相の中曽根康弘である。佐藤は、日本の右派財界から募った資金で楯の会の活動を支援し、中曽根は 富士山麓で三島が私兵を訓練するのに便宜をはかった
(今まで、日本の新聞は、 中曽根、三島、佐藤コネクションについて全く報道していない。このコネクションの 存在は、日本のジャーナリストの間でも広く知られた
事実であるのに)。
「三島が日本の右翼とつながっていた真相はおそらく十数年経っても明らかにされないであろう。」
その目的は
「二人の首相をして三島を支持する気にさせたものは、公然と右翼の理想と天皇崇拝という昔からの スローガンを擁護した世代の中で、三島はたった一人のインテリであったことを私は疑わない。」さらに佐藤と中曽根が心から三島を支援する気になった理由は「
憲法改正であった。特に第9条の撤廃と米国製でない日本製の再軍備」のためであった。

(参照)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478940568/qid=975723038/sr=1-1/249-4107822-9981924
1.『三島由紀夫 死と真実』 ヘンリー・スコット=ストークス(著), 徳岡 孝夫(翻訳)
2.『三島由紀夫 生と死 』ヘンリー スコット=ストークス(著), 価格(税別): ¥2,000

 


周知のとおり、
マザコン右翼を操って隠然たる権力を作り上げた佐藤栄作も中曽根康弘も
日本国民を、「命も財産も黙って差し出す
奴隷」としかみていない男だ。
楯の会と三島由紀夫に唯一人、最後まで密着した取材のもとで書き上げたHenry Scott Stokesの説を日本の番犬ジャーナリズムが追跡することは無い。
躁鬱病にかかってハジけた中年の作家が薄汚い政治屋にカモにされた
構図が浮上することはありえないだろう。
それが日本という国なのだ。



2001・5・25
70年11月に作家の三島由紀夫が「楯(たて)の会」会員らと東京・市谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入して自決する前に、陸自調査学校(東京都小平市、現・小平学校)が、三島と「楯の会」会員らに情報員としての訓練をしていたことを、元陸自幹部が証言した。クーデター計画も打ち明けられていたという。調査学校は当時、自衛隊の治安出動に備えて大規模デモに潜入して情報収集する実地訓練もしており、それにも三島らは参加していたという。なぞの多い三島事件と自衛隊との関係が改めて論議を呼びそうだ。

 証言したのは調査学校の元副校長で元陸将補山本舜勝(きよかつ)さん(82)。72年まで同学校で「心理情報戦」に対処する情報要員の教育にかかわった。

 
山本さんが三島と出会ったのは67年暮れ。そのころ三島は「楯の会」の前身となる民間防衛組織をつくり、体験入隊の形で自衛隊の訓練を受けていた。師団長を務めた陸自OBらの要請で、68年5月から山本さんは調査学校の部下とともに三島らに情報員としての訓練を行った。

 内容は、ゲリラ戦を想定したものが主体で、講義のほか都心で変装して尾行をしたり、グループに分かれてひそかに連絡を取り合ったりするなどの訓練もあった。三島自身も労働者に変装して簡易宿泊所街に入り込んだこともあるという。

 調査学校は、若手陸自幹部に外国語や情報に関する教育をするため、54年に設立された。

 こうした訓練には調査学校の学生も一緒に参加していた。三島への訓練は上司にもある程度報告しており、「半ば公認されていた」という。

 また、「新宿騒乱事件」につながった68年10月の国際反戦デーの集会では、調査学校の学生と「楯の会」のメンバー計数十人が、山本さんの指揮で学生らのデモ隊の中に潜入し、組織リーダーがだれかなどを調査する訓練を行っていたという。

 訓練は安保闘争の高まりを受けて、自衛隊の治安出動を想定したもので、調査学校の教育課程は増強され、訓練に参加する三島らの食費などが公費でまかなわれたこともあるという。

 三島は有事の際に自衛隊とは別にゲリラ戦を行う防衛隊の設立を構想しており、同じ考えを持つ山本さんと交友を深めていった。事件の前年の69年6月に三島に呼び出され、「楯の会」が皇居に突入するという「クーデター計画」を示されるが、山本さんは反対。同席していた三島シンパの自衛官に「憶病者」とののしられたという。そのころから三島との間に次第に距離ができたという。

 防衛庁はこれまで情報員訓練の内容や三島との関係を明らかにしていない。山本さんは「三島は自衛隊の治安出動を機にクーデターを構想していたようだ。当初はそれに理解を示した自衛隊幹部もいたのではないか」と言う。その上で「決して狂気に走ったのではない。訓練を受ける中で自衛隊への期待を高め、その後に裏切られたと思ったはずだ」と話している。

 山本さんは三島との交流をまとめた『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社)を来月出版する。

 防衛庁は「本の内容が分からないので、コメントは差し控えたい」としている。
http://mesh.com/national/update/0525/021.html

三島由紀夫の「檄文」の中で「4年待った。」「1年は熱烈に待った。」という意味は上の新聞記事、山本舜勝の言う通りクーデター計画を仄めかされた挙句の暴走である。軍事利権を拡大し、それを握れば日本のほぼ総ての利権構造を掌握できることは戦前に証明済みである。憲法改悪がその重要な1歩である右翼にとって三島由紀夫は利用するのにまさに適任であった。







楯の會隊長 三島由紀夫
、、、
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冐涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。  日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。

「少女のような声をあげる、、」(「剣と寒紅」)男と男の間に「生命」は産まれない。 手にすることの出来る「実在」の命が「妊娠」出来ないのなら、魂とか武士道とか幻の天皇などにすがり付くことにしか充足はあり得ない。母親の乳房を追い求める男たちが怯えながらすがりついたドキュソな幻影が明治から平成に至る日本史を創り上げてきた。すがるものが、あいするものが、国境の内側にしか存在しないという卑小な矜持は常に喜劇でしかない。

それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。


まさに三島由紀夫は、
近代日本が産み出し続けてきた「一人で敢然と立つことの出来ない脆弱な男」の典型であった。小賢しい天皇制という究極の利権体制に、手も無く利用され尽くした挙句、自己撞着の果てに自滅する男たちの群れがこの国を先導してきた。かれらの滑稽な弱さが、憂鬱な悲劇をエスカレートさせて行く土壌を常に用意し、いつしか伝統と化して来たのである。



ロケット噴射炎に魅せられて[その3]
原子力とロケット―科学技術庁の政治的意味
黒田 泰弘

  昭和33年、2回目の留学時の黒田夫妻。「この時は妻子と一緒に行けましたし、自動車もずっときちんとしたものに乗ることがでぃました」(黒田)(写真提供:黒田泰弘氏)

[インタビュー:松浦晋也]


科学技術庁の設立

――昭和31年に科学技術庁が設立されます。主目的は原子力の平和利用でしたが,昭和34年,中曽根康弘長官の時に,ロケットの開発をするという方向付けが出てきます。昭和34年秋の新聞に,糸川英夫,兼重寛九郎(学術会議議長),中曽根康弘という3人の対談が掲載され,その中で中曽根長官が宇宙の平和利用をという立場を強く打ち出します。

黒田:政治家としては,佐藤栄作さん,そして中曽根康弘さんが,科技庁でのロケット開発を先導されました。というか,政治家で漁業問題以外のところで宇宙開発に積極的にコミットしたのはこの2人でした。

――科学技術庁が,原子力と宇宙開発をそれぞれ平和利用という形で進めた背景に,当時の日本の国家戦略があったと思えるのですがどうでしょうか。つまり,この2つを組み合わせると核ミサイルになる。日本は絶対にそんなことはしないと明言するけれども,諸外国に対しては無言の抑止力として働く,というように。

黒田:それは全くないです。日本としては核ミサイルの開発などということは全く考えていませんでした。しかし諸外国の中には,「日本は核ミサイルを作る潜在的な可能性を持っている」と感じていた国があったのも事実です。この認識の差異はいかんともしがたいものでした。

 時期的にはやや後になりますが中曽根さんが2回目の科学技術庁長官兼宇宙開発委員長に就任した時,玉木章夫さん(東大教授。昭和45年2月の日本最初の衛星「おおすみ」打ち上げで総責任者をつとめる)に,「玉木さん,早く大東亜共栄圏衛星を上げてください。八紘一宇衛星です。それが世界の一等国であることの証明です」と発言されました。私もその場に列席していて,あまりにも勇ましい発言に驚きました。「衛星を上げないと,国も守れないし,世界で尊敬もされない」とも言われていましたね。

――それは…安保問題で揺れる当時の世相を考えるとかなり大胆な発言だったのではないでしょうか。

黒田:当時は,霞が関の委員会はほとんど非公開でしたから,そのような発言が出たんだと思います。

――ただ,その後中曽根さんは明らかに宇宙に興味を失いますね。ずっと後になって書いた日経新聞連載の「私の履歴書」でも宇宙開発には触れていない。

黒田:おそらく票につながらないからでしょう。その当時,宇宙開発に携わっている人数は多く見積もってもせいぜい2〜3000人。一方土木建設業界は関係企業が50万社を超えていましたからね。


日本初の液体酸素・液体水素エンジン

――実は糸川英夫さんが,ロケット開発で頭角を現してくる過程で,何人かライバル的存在の方がいたという話を聞いたことがあります。つまり昭和33年の地球観測年(IGY)で,糸川ロケットがクローズアップされる過程で,「それなら自分も」と思った方がいたということなのですが,どなたかご存じですか。私の聞く限りでは東京工業大学に岡本さんという方がおられたそうですが。

黒田:故岡本哲史さんですね。東工大の流体力学の教授でした。日本で初めての液体酸素・液体水素を使ったロケットエンジンの実験を行った先生です。

――うなんですか!日本での液酸・液水の研究は長友信人さん(後の文部省・宇宙科学研究所教授)が,昭和46年から水素液化の研究を始めたのが最初と思っていましたけれども。いつ実験を行ったのでしょうか。

黒田:昭和36年に防衛大学では。ロケットエンジンの地上燃焼実験を開始しました。液体ロケットエンジンは三菱の長崎造船所から購入していました。富士精密から購入した固体ロケットモーターもありました。そして東工大の岡本研究室の卒業生が防衛大学の助手になっていたのです。

 その防衛大学が液酸・液水ロケットの実験を行ったのは昭和41年です。私は岡本先生に,防大で液酸・液水ロケットの地上燃焼試験をお奨めしましたが,もともと岡本先生自身もそのようなことを考えていたようでした。東工大では実験できませんが,防大ならば可能性がありましたから。当時は防大でそのような研究をしても,一般の学会誌には掲載されなかったように思います。

――ここまで,こだわるだけこだわっていた飛行機ですけれども,帰国後の黒田さんはロケット一直線で行動を開始しています。どういう経緯でロケットに向かうことになったのでしょうか。

黒田:パデューに行って驚いたのはアメリカが日本のくわしい国内事情についてほとんど知らないということでした。ズークロウ教授からして日本が航空禁止になっているということをよくは知らなかったんです。というよりむしろ,自分の研究室にガリオア留学生,特に日本人を受け入れることを誇りに思っている雰囲気でした。私が教授に「ジェットエンジンの勉強に来た」というと「ロケットエンジンもやっているが興味あるか」です。しめた,ここで押せばロケットエンジンについても勉強ができると思いました。

――アメリカで液酸・液水の研究が始まったことに刺激を受けたのですか。

黒田:それも多少はあったでしょうね。

――どんなエンジンだったんでしょう。

黒田:装置はやはり三菱の長崎造船所が作りました。もちろん同社が以前に納入した液体ロケットエンジンに比べればずっと複雑で精密な装置ですが,それでも,点火後十秒ぐらいで燃焼終了というささやかなものでした。なにしろ当時の日本では工業規模での水素液化はまだ始まっておらず,輸入していました。その液体水素もエンジン燃焼室に入る前段階の配管の冷却などに使われるので,燃焼そのものはガス水素と液体酸素を燃焼室に噴射して衝突させる方式でした。

――確か長友さんの研究も,まずフラスコレベルの実験装置で液体水素を作るところから始まったそうですが。

黒田:そうでしょうね。日本で大量の液体水素を使う本格的な液体酸素・液体水素エンジンの研究が始まるのは,航空宇宙技術研究所・角田支所で液酸・液水エンジンの研究プロジェクトが始まってからです。昭和40年代の中頃ですね。岩谷産業の尼崎工場で,初めて液体水素を製造し,特別規格の液体水素輸送車を作って,尼崎から角田まで運びました。輸送完了の一報を受けた時には本当にほっとしたことを覚えています。


新島ロケット実験に参加する


黒田:昭和38年6〜8月に,防衛庁は新島射場で初めてロケット発射実験を行いました。その終了後,科技庁が防衛庁の施設を一週間ばかり借用してロケット実験を行ったのです。当時,科技庁が防衛庁の施設を使ってロケット実験を行うことについては反対論もありましたが,結局共に政府機関であり,国民の税金で作られた施設を活用するのは当然,という判断のもとに実験が実行されました。
 実験の中心は,科学技術庁からの委託で三菱重工が開発した液体ロケットエンジンの飛行試験でした。いずれにせよ,科技庁・宇宙開発室という役所が直接に行った最初で最後のロケット実験でした。もっとも実験に参加した科技庁職員は確か3人で,メーカーの人が30人ぐらい,さらに120名ほどはすべて防衛庁・自衛隊の職員でした。私も防衛庁側で実験のお手伝いをしました。

――打ち上げたのは「LS-A」というロケットですね。資料には「LS-Aサステーナ」と書いてありますが。

黒田:そう呼んでいますか。科技庁では三菱の長崎造船所で作った液体ロケット(L)を第2段(サステーナ)とし,第1段(ブースタ)には東京大学の開発した固体ロケット(S)を用いる予定でした。「-A」は最初の形式という意味。つまり「LS-A」は「LSロケットのA型」という意味です。ところがこの時は,東大との交渉がうまくいかなくて第1段を用意できず,第2段だけをとばすことになったのです。だから「LS-Aサステーナ」と書かれたのでしょう。

――上段ロケットエンジンは,上空で動作させるものですよね。ノズルの開口比も低い気圧に合わせてあるはずだから,地上から打ち上げるのは無理なのではないでしょうか。

黒田:理論ではその通りですね。私達は科技庁から事前に相談を受けて驚きました。「とにかく飛ばさなくてはならない。どうしたらいいか」ということだったので,私達は「推進剤を減らしましょう」と言いました。
 推進剤を減らして重量を軽くしておけば,ロケットの発射初期の加速度が大きくなります。「ランチャーからの離脱速度が設計速度に等しくなるように推進剤を減らしておけば,正常にランチャーを離れ,正常に飛行する」と科技庁に言いました。「もっとも。その際は到達高度は下がりますが,それでいいですね…」と同意を求めた上で,実験を実施しました。

――なるほど,当たり前の解答ですね。

黒田:そうしてLS-Aサステーナを,8月10日に打ち上げました。ロケットは正常にランチャーを離れて飛行を開始。ところが数秒後,絶壁断崖の海岸特有の突風にあおられたのか,急に仰角を上げたと見えた瞬間,ロケット胴体部の点検孔の枠部分に亀裂が発生し,裂け目が急拡大してロケットは空中分解し,断崖絶壁の下に落ちました。直ちに三菱の技術者数名が体にロープをくくりつけて絶壁の下に降りて残骸を回収しました。私は,三菱重工という会社の技術者が持つ,責任感の強さを見たような気がしました。この時,科技庁の村尾忠義さんも率先して行動しましたが,右腕にちょっとした裂傷を負われました。今も村尾さんの腕には傷跡が残っていて,見るたびに無量の感慨に浸る,ということです。

 ところで,この打ち上げ失敗について,ある著名な宇宙評論家は「科学技術庁はLS-Aという2段ロケットを,固体ブースターなしの液体サステーナだけで打ち上げた。これでは発射直後に空中分解して爆発墜落したのも当然のこと。科技庁のロケット知識は,この程度のお粗末きわまるものであった」と酷評しました。その後の宇宙評論家達も,ほぼ大同小異の記述を踏襲して現在に至っています。

――関係者からの反論はなかったのでしょうか。

黒田:その記述の誤謬を指摘することは事実を知る者にとっては容易です。しかし,もし防衛庁側の人間がそれを行えば「日本の宇宙開発と平和目的」という極めてデリケートで難しい問題に巻き込まれるおそれがありました。このため,防衛庁側はひたすらに沈黙を続けてきたというのが真相です。

続く




黒田泰弘氏
1920年、兵庫県出身。
 東京帝国大学工学部卒。昭和26年米パデュー大学に留学,帰国後三菱重工業,富士重工業,防衛庁を経て,宇宙開発推進本部エンジン部長,宇宙開発事業団システム計画部長,九州産業大学教授,清水建設宇宙開発室顧問などを務める。


松浦晋也氏
1962年、東京都出身。
 ノンフィクション・ライター。日経BP社記者として,1988年〜1992年に宇宙開発の取材に従事。著書に「H-IIロケット上昇」(日経BP社)


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原子力委員会

 6月18日に行われた内閣改造にともない原子力委員長に高碕達之助氏に代り第6代目委員長に衆議院議員中曽根康弘氏が初めての専任大臣として就任した。重水専門部会では5月21日付で重水製造方式確立のための問題点について答申書を部会長名で原子力委員長に提出した。また原子炉安全審査専門部会では立教大学設置の原子炉の安全性について6月16日付で部会長名をもって原子力委員長に提出した。国際原子力機関極東調査団は6月22日午後、空路来日した。

原子力委員会委員長に中曽根康弘氏就任


 昭和34年6月18日に行われた内閣改造にともない新たに原子力委員会委員長に衆議院議員中曽根康弘氏が就任した。

 同氏は、かねてから科学、技術の振興に多大の関心を有し、特にわが国の原子力の研究、開発の初期から国会の原子力合同委員会の委員として原子力問題に深い関心を示した。

原子力委員会の新組織

委員長 中曽根康弘
     衆議院議員、国務大臣、科学技術庁長官

委 員 石川 一郎
     常勤、任期 昭和36年12月31日まで

委 員 有沢 広巳
     常勤、任期 昭和35年6月30日まで
     法政大学総長

委 員 兼重寛九郎
     非常勤、任期 昭和36年12月31日まで
     東大教授、日本学術会議会長

委 員 菊池 正士
     非常勤、任期 昭和35年6月30日まで
     東大教授、原子核研究所長兼宇宙線観測所長


〔中曽根康弘新委員長略歴〕

衆議院議員 群馬3区選出

生年月日 大正7年5月27日生

昭和16年3月 東京帝国大学法学部政治学科卒業
在学中高等文官試験行政科合格
昭和20年10月 内務事務官内務大臣官房勤務
昭和21年2月 地方事務官香川県警務課長
昭和21年9月 地方事務官警視庁警視監察官
昭和22年4月 代議士第1回当選
昭和22年5月 政務調査会常任理事、財政金融委員、引揚特別委員
昭和22年6月 民主党院内総務同胞救護議員連盟常任理事
昭和22年10月 予算委員、労働委員
昭和24年1月 代議士第2回当選
昭和24年1月 予算委員、人事委員、民主党政務調査会副会長
昭和25年3月 国民民主党結成準備委員、国民民主党政務調査会副会長
昭和25年6月 道徳復興世界大会に日本代表として出席、欧米各国視察
昭和26年12月 改進党結成準備委員
昭和27年2月 改進党中央常任委員、予算委員、外務委員
昭和27年10月 代議士第3回当選
昭和27年12月 中央常任委員、内閣社会補償制度審議会委員、
海外同胞引揚特別委員
昭和28年3月 予算委員会理事、改進党政策副委員長
昭和28年4月 代議士第4回当選
昭和28年7月 ハーバート大学における国際政治会議に出席
昭和29年 北欧、ソ連、中共視察引揚戦犯者釈放促進、
千島樺太返還に努力
昭和30年3月 代議士第5回当選、自由民主党副幹事長
昭和31年8月 第1回原子力平和利用国際会議出席
昭和31年10月 ハワイ行以後日ソ共同宣言成立に努力
昭和32年5月 岸首相随員として東南アジア、中近東、東欧共産諸国訪問
昭和32年7月 英国、エジプト視察、以後東南アジア経済協力問題、
エジプトアスワンダム建設協力問題について努力
昭和33年2月 予算委員、逓信委員、憲法調査会委員、科学技術特別委員、
政策審議会委員
昭和34年 自民党副総務会長、予算委員、外務委員
昭和34年6月 国務大臣、科学技術庁長官、原子力委員会委員長

〔参考〕
原子力委員会設置法抜粋(昭和30年12月19日法律第188号、改正昭和31年3月31日法律第49号)

(委員長)
第7条 委員長は、科学技術庁長官たる国務大臣をもってあてる。(第2項以下略)

(委員の任命)
第8条 委員は、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。 (第2項以下略)

(委員の任期)
第9条 委員の任期は、 3年とする。ただし、補欠の委員は、前任者の残任期間在任する。

 2 委員は、再任されることができる。


井手よしひろの意見と主張
茨城県議会議員 井手よしひろ (e-mail:master@y-ide.com)
最終更新日:08/14/2001 23:12:53
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靖国神社関連の年表

年号(西暦) 出  来  事
文久2年(1862) 津和野藩士福羽美静らが京都霊山に殉難志士の霊を祀る
明治2年(1869) 戊辰戦争終結
東京招魂社創建
第1回合祀祭が行われる
政府より永世石高1万石が下付される(後に政府の財政難で半額返上)
明治5年(1872) 本殿竣工
明治7年(1874) 明治天皇初めての行幸
明治12年(1879) 東京招魂社を靖国神社と改称。別格官弊社に列せられる。
明治15年(1882) 遊就館開館(西南戦争の祭の義援金の残余で建設された遺品・武具の展示館)
明治22年(1989) 大日本帝国憲法発布・皇室典範制定の臨時祭
明治28年(1985) 日清戦争の臨時祭
昭和15年(1940) 皇紀2600年祝典
昭和16年(1941) 真珠湾攻撃により日米開戦
昭和20年(1945) 第2次世界大戦の終戦
連合国軍総司令部(GHQ)が、政府による神社への保証、支援などを廃止する「神道指令」を発令
昭和天皇の行幸
昭和21年(1946) 日本国憲法公布
昭和22年(1947) 日本国憲法施行
昭和26年(1951) 幣原喜重郎首相 参拝
昭和27年(1952) 宗教法人靖国神社設立
昭和天皇行幸
昭和29年(1954) ニクソン米副大統領来日。吉田茂内閣が靖国神社参拝を奨めるが、これを拒否。
昭和34年(1959) 「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」竣工式並びに追悼式を挙行。昭和天皇出席。
昭和44年(1969) 政府自民党、靖国神社の国営化を内容とする靖国神社法案を国会に提出。以後毎年国会に提出(5回にわたり廃案となる)。
昭和天皇の行幸
昭和50年(1975) 昭和天皇の行幸
●三木武夫首相、初の終戦記念日参拝。自らの靖国参拝を私的参拝と規定。
昭和52年(1977) 津地鎮祭裁判最高裁判決
昭和53年(1978) ●福田赳夫首相 参拝
A級戦犯14名、昭和殉難者として合祀
昭和55年(1980) ●鈴木善幸首相 参拝
昭和56年(1981) ●鈴木善幸首相 参拝
昭和57年(1982) ●鈴木善幸首相 参拝
昭和58年(1983) ●中曽根康弘首相 参拝
昭和59年(1984) ●中曽根康弘首相 参拝
昭和60年(1985) ●中曽根康弘首相 公式参拝
昭和61年(1986) 中曽根首相公式参拝見送られる
昭和63年(1988) 山口県殉職自衛官合祀事件最高裁判決
平成7年(1995) 村山富一首相談話により、「痛切な反省の意と心からのおわび」と、先の戦争を謝罪




靖国神社参拝問題の見解
靖国神社視察記
靖国神社関係年表


昭和59年/1984年は、こんな年!

 [国内]
「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根康弘内閣、行政改革・財政改革・教育改革で次々と具体策を。これを受けて、国鉄再建監理委員会は、国鉄の分割・民営化の方向を明らかにし、首相直属の諮問機関「臨時教育審議会」も発足。中曽根政権の姿勢は外交面では米国との一層の関係緊密化という形で表れ、核巡航ミサイル・トマホーク搭載可能の原潜や最新鋭原子力空母の寄港受け入れが、社共や平和団体の強い反発を。現職・元警官の犯罪続発。宅配便急増。

 [国際]
英国と中国、1997年に香港返還に正式調印。


日本共産党

核持ち込み容認の中曽根発言

72年不破氏の追及裏付け

「朝日」報道

 2000年12月21日(木)「しんぶん赤旗」


 朝日新聞は二十日付で、中曽根康弘防衛庁長官(当時)が一九七〇年九月の訪米時、レアード米国防長官らとの会談で日本への有事の核持ち込みを容認する発言をしていたことを示す日米両国の秘密会談録が見つかり、中曽根氏も「発言した可能性はある」と事実上認めるコメントを出したと報じました。

 同紙が解説記事で指摘しているように、この問題は七二年三月の衆院予算委員会で日本共産党の不破哲三書記局長(当時)が、「中曽根訪米関係の記録のほとんど」を入手し、追及していたもの。その際、当時の江崎真澄防衛庁長官は「そういう正規の報告書というものはないと、私は承知している」と答弁していました。今回、中曽根氏が「発言の可能性」を認めたことで、不破氏の追及が改めて裏付けられました。

 当時、不破氏が国会で取り上げたのは、B5判百四十ページ余の中曽根防衛庁長官訪米記録。七〇年九月八日から二十日までの中曽根長官訪米中の米側発言、日本側発言、長官の「総合成果と所見」などを収録しています。各ページの上下の空白には「秘」という文字が印刷され、「防衛庁長官中曽根康弘」と署名が入っています。

 それによると中曽根氏は、レアード国防長官との会談で「国民のコンセンサスを大切にするためにも、核武装をしないことを明示すべきだと思う」としたうえで、「ただし、米国の核兵器の(再)導入については留保しておく方がよいと考えている。これは事前協議の対象となるものであり、選択の可能性を残して留保しておくのが賢明と考える」と説明。これにたいして米側が「私(中曽根氏)の考え方を歓迎した」と記されています。

 不破氏の追及に佐藤栄作首相(当時)は、「そういうことはいわない方がいいと思うが、(中曽根氏の)個人的な見解だ。個人的な見解まで私どもはいちいち監視できない」といった答弁に終始していました。

中曽根氏が一転否定

 自民党の中曽根康弘元首相は二十日午後、国会内で記者会見し、防衛庁長官として一九七〇年九月に訪米した際、米国防長官らとの会談で、有事の際に核兵器の日本持ち込みを容認する発言をしたとの報道について「向こう側の資料は見ていないが、そういうことを話したという事実はない。持ち込みを認めたことはまるっきりない」と否定しました。


2001年12月19日


内閣総理大臣の靖国神社公式参拝
――信教の自由と政教分離原則――



報告者 山崎登志丘


はじめに

 靖国神社への「公式参拝」に関しては、種々の諸問題が指摘されている。それが憲法の政教分離原則に違反するとし、信教の自由を侵害するとの批判があり、又靖国神社の発生史・歴史的性格から、日本の軍国主義の最復活につながる恐れがあり、近隣アジア諸国に対する強い影響を心配する声が存在していることなどがある。
 今回は、日本国憲法における信教の自由と政教分離原則(憲法20条・89条)の規定の意味や性格を明治憲法との比較をふまえ、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝の問題点を憲法学的な考察からみていくことにする。なお判例としてあげました「内閣総理大臣の靖国神社公式参拝」(大阪高甚判決平4・7・30 判事1434号38項、判タ789号94項)は、昭和60年当時内閣総理大臣であった中曽根康弘氏の裁判である。


1、信教の自由と政教分離原則

(1) 憲法20条と89条の意味

憲法20条(信教の自由)

1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権利を行使してはならない。
2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。
3項 国及ぴその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

憲法89条(公の財産の支出又は利用の制限)

公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

(2) 明治憲法における信教の自由

明憲28条

日本臣民ハ辮ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於イテ信教ノ自由ヲ有ス

(3) 信教の自由の内容

イ、信仰の自由
ロ、宗教的行為の自由
ハ、宗教的集会・結社の自由


(4) 政教分離(国家と宗教の分離)

 日本は政教分覆を信教の自由を制度的に徹底するために、国家と宗教の分離を徹底し、国家の宗教的中立性を確保しようとする型を採用している。(制度的保障=通説)具体的内容は下記のとおり。

イ、特権付与の禁止(憲法20条1項後段)
ロ、「政治上権加行使の禁止(憲法20条1項後段)
ハ、国の宗教活動の禁止(憲法20条3項)
二、公金支出の禁止(憲法89条)


(5) 政教分難原則に関する議論

 政教分離の原則は、国家と宗教の関わりを持たないようにする原則ではあるが、国家と宗教の関わりはどの程度まで認めていいのかという点について論ずる必要がでてくる。

1. 完全分離説
2. 相対的分離説
3. 厳格分離説


(6)判断基準

1. アメリカにおける政教分離原則判断基準

a) 目的効果基準(レーモンテスト)

 イ) 国の行為が世俗的目的を持たないものかどうか
 ロ) その行為の主要な効果が宗教を信仰し又は抑圧するものかどうか
 ハ) その行為が、宗教との過度の関わり合いを促すものかどうか

このイ〜ハの3要件を個別に検討することによって、政教分離原則違反の有無を判断し、1つの要件でもクリアーできなけれぱ右行為を違憲とするものである。

b) エンドースメント・テスト

2. わが国における目的効果基準論

 イ) 行為の目的が宗教的意義を持つかどうか
 ロ) その行為が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫等になるような行為かどうか

日本の判例の場合、どちらかの要件がクリアーできずに違憲となった判決はない。


2、判例

「内閣総理大臣の靖国神社公式参拝」(大阪高裁判決平4・7・30 判事1434号 38項、判タ789号 94項)

(1) 事実の概要

 昭和60年8月15日、内閣総理大臣中曽根康弘は、公用車で靖国神社に行き、拝殿で、「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し、本殿にて、黙祷し、ふかく一礼して退出。そのとき、国費から「供花料」として3万円の靖国神社に納め、本殿に、「内閣総理大臣中曽根康弘」の名を付けた生花を供えさせ、参拝後報道関係者に、「内閣総理大臣の資格で参拝。いわゆる公式参拝である」と明言した。


<事件>靖国神社に合祀されている戦没者の遺族、近親者によって提訴。その主な内容は次のとおり

  1. 公式参拝は、その礼拝行為が宗教的意義をもち、憲法20条3項にいう「宗教的活動」にあたり、国費からの供花料の支出は憲法89条に違反し、違法である。
  2. 公式参拝により、原告らは、信教の自由(憲法20条1項前段・3項)、宗教的人格権ないし宗教的プライパシー権(憲法13条・20条1項前段)及ぴ平和的生存権(憲法前文・9条・13条)を侵害された。
  3. 以上によ楓被告国が国家馳法頒任を負うほか、被告中曽根も民法709条 (※) 以下の規定による責任を負うぺきである。

(2) 第一審判決

―請求棄却とその理由―(大阪地判平成元・11・9・判時1336号45項)

 公式参拝の違憲性については判断せずに、請求を棄却した。

  1. 信教を理由とする不利益な取扱いもしくは、宗教上の強制を受けたものではないこと。
  2. 宗教的人格権、平和的平等権には法的根拠がないこと。

(3) 第二審判決

 靖国神社は、宗教法人であり又神道儀式に則った祭祀を行う宗教団体である。国の機関である公務員が、国の機関として、靖国神社を参拝することは、目的、方法等によっては憲法20条3項所定の宗教活動に当たる。

  1. 中曽根氏が行った、公式参拝の目的は、靖国神社ひいては神道を、援助、助長、促進をすることを主目的にしたものではない。公式参拝の目的、その方法等から宗教活動には該当しない。
  2. 公費から3万円を支出して行った本件公式参拝は、憲法20条3項、89条に違反する疑いがあるというべきである。
  3. 公式参拝が憲法に違反するとしても、「法律上の、保護された具体的な権利ないし法益の侵害を受けないし、又、慰謝料をもって救済すぺき被害を被ったこともない」


(4) 問題点

  1. 公金の支出
  2. 憲法判断の回避
  3. 適格用件の立証


むすびとして

 特定の宗教との関わりをもつ国やその機関の行為が、直接的強制、抑圧の効果をもたないとか、その関与が軽微だからとして黙認、放置されるのならば、その宗教に優越的地位もしくは公的地位を得させるような既成事実が積み重ねられ、当該宗教が、政治的利用に供せられることになり、ついには国民の宗教、思想、良心の自由が抑圧となる。
 宗教、思想、良心の自由は、最高度の憲法上の要請である精神的自由権に属し、これらの権利は人間の生き方の一原則であり、人間存在の原理から派生される原則である。わが国の憲法は、「信教の自由」を保障し、「政教分離原則」を採用していること、そして自由権とは、多数者によってでさえ犯すことの出来ない権利であることを考えると、裁判はもっと慎重に厳密な審理によってすぺきである。
 今年の8月13日に、小泉首相が靖国神社に参拝した。公費の支出はしていないが、首相の立場で特定の宗教団体に参拝する行為が、政教分離違反になり、政教分離違反行為が、同時に特定個人の信教の自由を侵害する場合を増加させる結果となることに注意を払うべきであろう。


民法709条【不法行為の要件と効果】
故意又ハ過失二因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之二因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責二任ス


参考資料

「信教の自由と宗教的人格権」 平野武 法蔵館
「宗教と法と裁判」 平野武 晃洋書房
別冊ジュリスト憲法判例百選 I [第四版] 有斐閣
「靖国神社」 大江志乃夫 岩波書店


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メール(to 石田)

日本共産党

2001年8月10日(金)「しんぶん赤旗」

靖国神社 首相参拝の動きをたどる


 小泉純一郎首相の靖国神社参拝が内外の批判をあび、大問題になっています。首相の靖国参拝がなぜこれほど大きな問題になるのか、歴史的な経過を振り返りました。

5回にわたり国営化法廃案

 靖国神社は戦前、国家神道の体制下、陸・海軍省が管轄する宗教的軍事施設として、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱の役割を果たしました。

 戦後、この歴史の反省の上に政教分離の原則をうたった新憲法がつくられ、靖国神社は、一九四六年に東京都知事認証の宗教法人になりました。しかし、一九五〇年代から憲法改悪の動きに乗って、靖国神社を再び国家管理のもとにおこうとする動きが強くなりました。

 一九六九年に自民党は、国が関与して「英霊」をたたえる儀式行事を目的にあげる靖国神社法案を国会に提出。靖国神社を国家管理のもとにおき、憲法の政教分離の原則に反しないと強弁するため、靖国神社を宗教法人から特殊法人にすることを掲げました。

 しかし、法案の内容からも、「英霊」をまつる行為や儀式が宗教活動以外の何ものでもなく、その業務を国が決定したり費用を出すことが憲法違反にあたるのは明らかでした。

 このため、広範な宗教者や労組、市民団体が反対運動を繰り広げ、野党のすべてが法案に反対しました。自民党は七四年までに五回にわたって法案を提出しましたが、廃案になりました。これで、国営化法案を正面から求める運動は一時棚上げとなりました。

 そこで、法案化に代わって強まったのが、首相の靖国神社参拝で実質的な「国家護持」をはかろうとする動きです。

首相参拝の既成事実作り

 七五年八月十五日、歴代首相として初めて三木武夫首相が終戦記念日に参拝。(1)公用車を使わない(2)玉ぐし料を公費支出しない(3)記帳に肩書をつけない(4)公職者を随行させない―の条件で「私人」といいくるめて参拝を強行しました。

 ところが、七八年八月十五日の福田赳夫首相の参拝では、公用車を使い公職者を随行させ、「内閣総理大臣」と記帳。

 八〇年四月、自民党は選挙公約に靖国神社の「公式参拝」「国家護持」を盛り込むことを決定。同年八月十五日には鈴木善幸首相と閣僚十七人が参拝し、既成事実を積み重ねていきました。

中曽根参拝の強行と挫折

 「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相は、八五年七月の自民党軽井沢セミナーで「国のために倒れた人に対して国民が感謝をささげる場所はある」「さもなくばだれが国に命をささげるか」と発言するなど、あからさまに靖国神社を美化。そのため、官房長官の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題懇談会」を設置し、“憲法に禁止されない国による宗教活動がありうる”との報告書をまとめさせました。

 これを口実に、(1)参拝は神道形式でなく一礼にとどめる(2)玉ぐし料でなく供花料として公費支出する―との方法なら、憲法が禁止する宗教的活動にはあたらないとする藤波孝生官房長官の談話を出し、「参拝が違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」との八〇年の政府見解を変更しました。

 同年八月十五日の中曽根首相の公式参拝強行には国内をはじめ中国、韓国、シンガポール、ベトナムなどアジア諸国から大きな批判の声が上がり、それ以降の参拝を断念せざるを得ませんでした。その後、九六年七月二十九日に橋本龍太郎首相が靖国神社を参拝しましたが、終戦記念日の八月十五日の首相参拝は一度もおこなわれていません。

 中曽根元首相に、みずからがかかげた「戦後政治の総決算」を引き継ぎ、やり抜くことを熱望される小泉首相。自民党総裁選時に日本遺族会に靖国参拝を“公約”して以来、「首相として」参拝する意思を変えていません。


靖国参拝問題略年表

1945年12月 GHQ(連合国軍総司令部)が神社神道を国家から分離する「神道指令」を出す
46年9月 靖国神社が東京都認証の宗教法人となる
69年6月 靖国神社法案が自民党の議員立法で国会に初提出(以後74年まで計5回提出、廃案を繰り返す)
69年11月 神道政治連盟(神政連)発足
75年8月 三木首相「私人」と称して靖国参拝(終戦記念日の首相参拝は初)
76年6月 英霊にこたえる会結成(78年4月に同議員協議会結成)
78年10月 A級戦犯を「昭和殉難者」として合祀(判明したのは79年4月)
81年3月 みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会結成
84年7月 閣僚の靖国神社参拝問題懇談会(靖国懇)設置
85年7月 中曽根首相が自民党の軽井沢セミナーで靖国神社美化発言
85年8月14日 藤波官房長官が公式参拝強行の談話を発表
85年8月15日 中曽根首相が「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し靖国神社に公式参拝
86年8月 中曽根首相の靖国参拝のとりやめを後藤田正晴官房長官が談話で発表
96年7月29日 橋本龍太郎首相が靖国参拝
01年4月24日 小泉首相が自民党総裁就任記者会見で「日本の繁栄は尊い命の犠牲の上に成り立っている。純粋な気持ちを参拝で表す」と発言

 


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32.原発利権、ヤクザ、右翼、中曽根

原発利権とヤクザ・似非右翼・中曽根
くまさんの「後藤組組長が83年3月に創価学会に送った内容証明付郵便」
現在、原子力発電所の内部で働く下請けや孫請けの中小企業の中には、暴力団の企業舎弟として貢献するものもあり、莫大な上納金が有名な暴力団におさめられている。デパートの高島屋が、重役室一団となって暴力団と親交していた事実が明らかになり、九六年六月に取締役などが暴力団組長とともに逮捕され、株主総会の背後にあった闇の世界が報道されてきたが、私はこの報道そのものに驚いた。私自身は、株を買ったこともなく興味もない人間だが、原発問題を電力会社に直訴するひとつの手段として、市民運動の仲間とともに東京電力の株をわずかだけ購入した。そこで出席した株主総会の会場は、暴力団の巣窟のようであり、総会屋たちが大声をはりあげ、まともな意見を口にすることさえ不可能な、異常な世界だった。電力会社がその総会屋と親しくしていることは、会場に入れば一目瞭然である。ほとんどの大企業が高島屋どころの関係ではないことを、経営者と報道界の誰もが知っているはずだ。それが表に出たのは、たまたま高島屋の内部に特殊な事情があったからだと、私は推測している。とりわけ重大なことに、暴力団が直接、原子力産業に関与している、という事実がある。危険なウランやプルトニウムの燃料が、時には彼らの手で輸送されているのである。

原発と中曽根
99・8月6日 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shibuya/seizi01.htm
「構造的危険」があり、合理的な反対が各地で活発なのになぜ、日本電力業界と日本政府はこのような原子力政策を続けるのか。巷間言われているとおり「兆円」の税金を突っ込み、上がりの利権で最も効率が良いのが防衛利権と原子力利権だからだ。
利権額が巨大になるほど、世論形成は徹底し、抱き込まれる学者や議員は多くなる。時代に逆行して日本の原子力行政推進の中心は勿論、中曽根康弘だ。奴が隠然たる力を政界に誇示する理由は、利権規模の大きさに関係している。原発建設のトップは鹿島建設(現・鹿島)だ。高速増殖炉「もんじゅ」、「ふげん」、福島第一原発、1号、2号、3号、4号、5号、6号、福島第二、1号、2号、3号、浜岡1、2、3号、女川1号、浜岡1,2,3号、伊方1,3号、柏崎1,2,5号、島根1、2号、東海1、2、大飯1、2号、泊1,2号、これらは全部「鹿島」の建設だ。
鹿島建設の創業者・鹿島守之助の娘婿が渥美健夫で元会長だ。その息子直紀が結婚したのが日本・原子力委員長だった中曽根康弘の娘美恵子だ。日本の原子炉建設トップ企業と日本の原子力政策の推進者が「血族」として繋がっているのだ。ふざけてる、を通り越している。日本の典型的な利権の閨閥は年々、深くゆっくりと強化形成されている。1954年3月に中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された。4月に成立すると、日本の原子力政策は巨額の税金を「利権として吸い上げる」構造的汚職の巣窟と化して行った。自民党中枢と右翼団体の殆どが、ピラニアのように原発に群がり、食い尽くして行く。
原発利権の親玉は、大物勝共議員=統一の傀儡である中曽根ってことか。娘の嫁に行った先のゼネコンが、原発建設を独占しているワケね、やっぱり。この文書に出てくる、利権に群がる「右翼団体」というやつ、これも統一系列じゃないのか?これが、曖昧な噂話かどうか、さっそく調べてみよう!

[腐食の連鎖/広瀬隆著]
五四年三月二日、中曽根康弘によって、日本の国会に初めて原子力予算が上程され、その年に正力松太郎が、一年後に安部英の養父・高橋雄サイが、それぞれ読売新聞社に復帰できたのは、占領軍のアメリカがアジアの中心的基地として沖縄を確保し、日本人を軍事的に利用するためであった。またそれ以前におこなわれた日米間の取引きの中に、石井七三一部隊の免責が
あった。「医学者たちの組織犯罪−−−関東軍第七三一部隊」によれば、亀井貫一郎という外交官が日米のあいだに立って、終戦直後に戦争犯罪人の免責に大きな役割を果たした、という部分である。その後、免責の機会に力を得た正力は、さらに衆議院議員に転じ、初代の原子力委員会委員長に就任して、戦前の隠然たる勢力を回復させることに成功した。以来、中曽根と正力が、政界における原発推進の両輪となって動いてきたという経過である。”。

2CH 告発します 4代目
世の中には悪い事をやっても捕まらない人と捕まる人が居る。捕まる人が田中角栄で、捕まらない人が中曽根康弘。 中曽根とナベツネの関係…、自分はてっきり中曽根が上でナベツネが下だと思っていたんだが、違うらしい。ソースは副島ですが。『渡邊恒雄 メディアと権力』を読んだ感想。長文です。
http://cgi.members.interq.or.jp/world/soejima/boyaki/today/wd200007.html
33.読売、中曽根、メディアの自殺

中曽根と邪宗教 (中曽根がオウムの黒幕)

重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、 国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。
そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。
これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。
文中の元代議士とは、山口敏夫、大物政治家とは中曽根です。中曽根は、統一教会の傀儡、勝共議員の筆頭です。

【中曽根@オウム】
重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、 国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。
そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体そして大物政治家(中曽根)の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。
早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士(山口)、その背後にいるとみられる大物政治家(中曽根)、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、 アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

【サリン事件と自民党のCIA資金の関係】
[平成幕末のダイアグノシス/藤原肇著]
”最近公開された国務省の機密文書によると、CIAが自民党に対して政治資金を提供し、岸内閣の佐藤幹事長が受け取っていたので、日本の政治は外国のカネで動かされていた。日本政府が米国の諜報機関に操られた事実は、 1995年3月20日のLA・タイムス紙上で、マン記者が全項を使って解説しているが、日本とイタリーが売弁政治だったとして、国辱的な政治が歴史に記録されることになった。
それにしても、オウム真理教のサリン事件のドサクサに紛れて、この重大な売国事件は黙殺されてしまった。だが、世界の先進国が原子力発電を放棄した中で、核エネルギーに依存する道を突き進んだ路線と共に、日本の運命を狂わせた出発点がここにあった。
これに関連して興味深いのは征矢野仁の記述で、[読売新聞日本テレビ・グループ研究]に引用されたニューヨーク・タイムズの記事は、「...元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵を受けた人物として挙げられるは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである」とあって、その後に訂正記事のエピソードを含むとはいえ、元CIA工作員の発言は否定されて
いない。正力と中曽根が田中清玄や児玉誉士夫などの利権右翼と結び、CIAコネクションの中で日本の政治に対して、エージェントとして動いていた姿が見え、正力の人脈が占領軍のG2(参謀第2部)に密着し、ウィロビー部長との結びついた意味が納得できる。原子力施設の工事で最右翼といわれ、中曽根と姻戚関係を持つ鹿島建設の繋がりが、闇の中から浮かび上がってくるのである。”
自民党がCIA資金で運営されていたとの報道を誤魔化すため、サリン事件で衆目をそらした?なるほど、それならオウム事件にCIAが関わっていたわけも解ります。

【Yahooより、真光と中曽根】
極右宗教団体と自民党とオウム真理教
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835562&tid=figdbbba7pide7acbcr1a6mca1dda4n0ga4noa2babf&sid=1835562&mid=28
「つくる会」が象徴する右寄りな動きには自民党と繋がりの深い極右宗教団体真光も関係しているのでしょうか?以下のリンクは、かつて真光のオーストラリア支部で元真光信者であったオーストラリア人による真光の暴露本です。同氏は真光幹部として日本に来日もしており、真光現教祖岡田ケイシュウのトレーニングキャンプで特訓も受けています。このキャンプでは「たるんどるぞ! 天皇陛下が悲しまれるぞ!」というのりで天皇陛下を崇拝する真光幹部が育成されているという。天皇の戦争責任を問うた
長崎市長を襲撃したのはこういう右翼のアンチャンだったのかなあ?
http://www.geocities.com/Tokyo/Shrine/5712/emperor.htm
真光という極右宗教団体、この団体は岡田ヨシカズという戦時中トップクラスの将校で異常な天皇崇拝者だった方が戦後設立しました。この岡田ヨシカズは南京大虐殺にも深く関わっていました。この真光は、日本人の優秀性を強調したり反ユダヤの姿勢を貫いております。ちなみにフランスでは創価学会と一緒にカルト団体指定を受けています。この岡田ヨシカズに何度も祝辞を送っているのが中曽根康弘であり、橋本龍太郎や亀井静香も真光のメンバーです。中曽根の人種差別発言も、日本人の優秀性を強調する真光の思想に影響を受けての事なのでしょうか?真光の全国大会にでもなれば何百もの自民党議員が前列を占め、選挙にでもなれば真光の全国の道場には自民党の選挙応援ポスターが張り巡らされます。南京大虐殺に関わった岡田ヨシカズに配慮し、首相当時に南京大虐殺の記述を歴史教科書から削除した中曽根の行動は至極当然だった訳でしょう。

【中曽根ー真光ーオウム真理教】
このオーストリアリア人の元真光信者の暴露本は、真光とオウム真理教の繋がりが指摘しており、オウム真理教による地下鉄サリン事件により国家転覆を計り山口敏男という自民党右翼議員を首相に据えようという試みがあったと指摘しています。
この暴露本によると、「自民党=真光=オウム真理教」という構図が見えてきます。


[平成幕末のダイアグノシス/藤原肇著] わっはっはー。そういうことなんですよ。
中曽根と読売 (読売とつるんで、マスコミを封殺する中曽根)

読売新聞と中曾根の関係
KSD疑惑と同時にわが国政界を揺さぶった外交機密費(報奨費)問題だが、ここで注目したいのは両事件とも「読売新聞」のスクープとして出現している点だ。かつて読売新聞社の渡辺オーナーは、中曾根首相誕生の折り「私が首相を作った」と公言し顰蹙をかったが、中曾根元首相と読売新聞社との関係は公然の事実。KSDで橋本派の内部対立を生み出し、外交機密費で河野外相の威信を傷つけ森退陣を迫る読売新聞は、いったい最終的に何を目論んでいるのだろうか。背後に「妖怪」と呼ばれる中曾根が存在していることだけは間違いないようだ。
読売社主であった正力松太郎は、戦前の内務省の特高課長でした。中曽根は、その正力の部下だった。戦後も二人の関係は続いていました。これが、読売と闇の権力とのもたれ合いの端緒です。

厚生大臣、ヤミ献金疑惑浮上
自自公政権の接着剤といわれているのが、厚生大臣の丹波雄哉である。この丹波にも疑惑がささやかれている。公明党の幹部と特に深い関係・パイプを持つ丹波は、読売新聞出身ということもあり、自自連立の仕掛け人とされる読売新聞のナベツネこと渡辺恒雄と、創価学会の秋谷栄之助会長との会談を画策した自自公の立て役者の一人とされている。その見返りとして自民党の中で加藤派であるに関わらず、2度目の厚生大臣のイスを手に入れた。自民党の厚生族議員の重鎮である。
読売出身の自民議員が、自公の癒着を画策した。やっぱり、読売だった。

【Yahooより、中曽根がマスコミに糾弾されないわけ】
Contradictscrutinyさん曰く
>不思議な事にこのような事件は日本のマスコミは流さないですね。中曽根は元々正力松太郎の子飼で、現在でも読売のナベツネとはの大の親友同士。読売に代表される大手マスコミが中曽根を悪しざまに言うわけがないですな。大手マスコミの正義面にはほとほとうんざりです。連中には騙されないように注意しましょうね。
読売新聞と中曽根の関係については、面白いからこのURLのサイトを見てくれ〜
http://www08.u-page.so-net.ne.jp/bc4/t-tuchi/tsuchiya/giants.html
>右翼とは愛国者ぶっていながら、国のためになっていないのが中曽根のやって来た事から良く分かる。
うーん、ちと抵抗を覚えます。戦後日本の右翼政治家を右翼と呼んで良いものかいささか迷います。と言うのは、御指摘の通り、彼らの言うことやること国益に叶っとらんのです。彼らはナショナリストですらありません。ホント、権力を私する妖怪どもであります。やむをえず、私は中曽根のような者たちを似非右翼と呼んでおります。

【Yahooより、正力ー中曽根】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835562&tid=figdbbba7pide7acbcr1a6mca1dda4n0ga4noa2babf&sid=1835562&mid=40
morisaki_mildさん曰く
>朝日とテレ朝にとっては両者とも敵だから連携してる様に見えるのかなあー?
あははは。面白い。ふむふむ、そういう風に見えますか。でも、読売と右翼の関係は、そんな末端社員のことではないのです。正力-中曽根ラインと、そこから広がる政官財三界にひろがる巨大犯罪人脈のことなのです。知らない人は知らないでいた方が幸せです。読売文化人の尻馬にのって愛国者気取りで人生を楽しめますので。(笑)しかし、一部でも知ってしまうとこわれらが日本国がいかにダーティーば連中に私物化されているか思い知らされて絶望的にならざるをえません。私はたまたま731と薬害エイズをばらばらにおいかけていて、なんだか関係者が重なっているような気がしておかしいなと思っていたところに、広瀬隆の「腐植の連鎖」が目にはいってしまって・・・ああああ、また絶望的になってきた。指摘されている人脈は実は秘密でもなんでもないの
で、人名録などで確認できます。
中曽根と薬害エイズ王 (なぜ、安部英は無罪になったか?)

薬害エイズ王、安部英と中曽根
「小林よしのりは何故、エイズから逃げたか?」 http://asyura.addr.com/sora/bd3/msg/681.html
安部英とは何者か?巡洋艦「愛宕」の元軍医、海軍の同朋会「青年懇話会」を通して現在の政治家の中で最も汚い男と言われる中曽根康弘と半世紀にわたって親交し、中曽根によって「エイズ研究班班長」に選ばれた男だ。この「青年懇話会」という海軍の同朋会の幹事をしていたのが、薬害エイズの拡大を招いた「血友病総合治療普及会」の理事赤沢樟一だ。そしてこの血友病患者をミドリ十字社との利権に繋ぐ普及会の創設者はほかならぬ安部英なのだ。.....彼らは「究極の利権集団・皇軍」 の生き残りという人脈と閨閥で違う階級を形成している。戦前も現在もその構造は微動だにしていない。
小林よしのりが尻尾を巻いて逃げ出した理由の一端だ。ほんの一端だ。エイズを追って行けば日本帝国の犯罪の中枢と闇に迫ることが出来た。だからこそ、小林は逃げたのだ。
誰もが耳を疑った安部ジイサンの意外な無罪判決。中曽根が後ろにいたんでは、意外でもなんでもない。権力者は法を曲げることすらできるのでしょうか?

「中曽根」的な人たち
ミドリ十字と石井731部隊 http://www.saga-s.co.jp/pubt/ShinDB/Data/1998/08/15_02_09.html
〈研究成果で免責取引「七三一部隊」〉
戦犯免責の黒幕はやはり「石井の番頭」だった―。人体実験など重大戦犯事実の隠ぺいで、東京裁判での訴追を免れた関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。終戦から五十三回目の夏に見つかった部隊幹部の書簡は、研究成果をだしに、旧ソ連との冷戦に備えた米軍から戦犯免責を引き出すシナリオを書いた内藤良一元軍医中佐の影をくっきりとあぶり出した。内藤氏は石井四郎部隊長の側近で、戦後は薬害エイズ事件の旧ミドリ十字を創設。部隊で研究した技術を土台に同社を血液製剤の国内トップメーカーに押し上げた。新史料の発見は戦犯逃れの舞台裏を白日の下に明らかにした。

731部隊とミドリ十字  http://www.kumagaya.or.jp/~m_akagi/jimori/sensou/7125sen1.htm
薬害エイズの被告企業の一つミドリ十字は、731部隊長だった石井四郎の右腕だった、陸軍軍医学校教官「内藤良一」ら、731部隊出身者・関係者が中心となって、1950年前身日本ブラットバンクを設立した。くしくもこの年は、朝鮮戦争が勃発した年だった。(アメリカの意向が強く働いたと思われる、戦争にはたくさんの血が必要となる。)1964年社名をミドリ十字とする。1970年代から80年代の間多数の731出身者を擁していた。この時期から濃縮血液製剤いわゆる非加熱製剤の輸入・販売を開始した。ミドリ十字はインターフェロン、血漿、人工血液の製造で世界的な有名企業にのし上がった。1978年アメリカ・ロスアンゼルスにアルファ社を設立する。創業者の内藤は、1973年社長に就任。78年には会長になった。731部隊二代目隊長北野政次は、1959年同社取締役・東京プラント長に就任した。そして、挙げ句の果てには1963年先駆的な「血液製剤の開発」に対し、科学技術庁から科学技術功労顕彰を受けて、77年には、日本政府から勲三等旭日中綬章を受けた。731部隊の主要目標のひとつに、血液の代用品を見つけることがあったことは忘れてはいけない。他にもミドリ十字は様々な疑惑がある。1982年通常は健康体のボランティアに行われる人工血液の試験を、重病患者に生体実験した疑惑。1979年胆のうガンで入院した女性患者に人工血液の生体実験を行った。胎盤商品化など様々な騒ぎをおこしている。そして、あの薬害エイズである、起こるべくして起きた出来事だろう。ここにまた731部隊が甦ったのである。
闇世界の代理人、中曽根

【似非右翼・中曽根】
【yahoo掲示板より、中曽根】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835562&tid=figdbbba7pide7acbcr1a6mca1dda4n0ga4noa2babf&sid=1835562&mid=27
中川昭一さんは(当時)農水大臣の時、宮沢大蔵大臣の発言に噛み付いた事ががあったね。野党からの質問に答える形で、宮沢大蔵大臣(当時)は「住専への税金投入で得をした方々がいる」という発言をして暗に農林系金融機関が税金によって救済を受けたという指摘をしていた。この発言に対して自民党の農林族及び中川農水大臣は噛み付いたのだった。この例でも分かるように所謂右翼議員というのは必ずしも国民の方を見ているとは限らない。この辺を理解するのは大切である。
愛国者ぶっている右翼中曽根は首相当時に財政法を改定し国債発行を合法として今日の膨大な借金のきっかけをつくった。中曽根政権以前は国債発行は法律違反であった。中曽根はまたゼネコンポリティックスの創始者でもある。中曽根政権以後、皇民党事件をきっかけとして右翼及び闇の世界の人間が表舞台に出てきてしまった。右翼及び暴力団が繋がる星の数程ある
建設業者が国の公共事業にたかる構図をつくってしまった。
国債濫発も、中曽根が始めた。

中曽根はまた首相当時に行った人種差別発言によりNAACPというアフリカ系アメリカ人の団体より「ヒトラー」と例えられて非難されていた。この非難広告はニューヨークタイムズ1ページまるまる使って掲載された。中曽根の発言によりアメリカ在住の日本人の自宅の窓ガラスが割られる等の被害が続発した。
中曽根政権当時の歴史教科書からの南京大虐殺記述削除という暴挙により近隣アジア諸国との関係悪化を決定的なものとした。1987年、中曽根は人種差別発言をした後アメリカニュージャージー州のラトガー大学の日本文化研究センターの序幕式に招待された。しかし、中曽根が来賓挨拶をする段階で、地元のヒスパニック系及びアフリカ系アメリカ人学生が会場になだれ込み「人種差別主義者ナカソネ、ゴーホーム!」との連呼の出迎えを受け場内は騒然となった。不思議な事にこのような事件は日本のマスコミは流さないですね。
右翼とは愛国者ぶっていながら、国のためになっていないのが中曽根のやって来た事から良く分かる。児玉誉士夫のロッキード事件で右翼が金の亡者である事が分かるのだが、中曽根は右翼の国賊振りを決定的とした。その中曽根を引っ張り出して来てご意見頂戴をするフジテレビの報道21世紀か何かのテレビ番組は愚の骨頂なんだな。みんな騙されてるよね。

【中曽根は、闇の世界のパシリ】
闇の代理人
マスコミも、闇の勢力の息のかかった人しか出世出来ません。闇のフロント社員は、潤沢な金と暴力装置を保有しているのですから社長といえども遠慮してしまいます。その内に、闇の子分が代々社長になるようになってしまったのです。
読売新聞のW社長は、若造の頃に、中曽根と一緒に児玉邸の玄関番をしていたと、ロッキード事件のおり、報じられていました。そのころから、闇の世界のパシリだったと言うことになると思います。 一度でも闇の世界の協力を受けたら、生涯かけて、その何百倍のしのぎに尽くすフロントになりきらないと命の保証はないのは常識です。W社長や中曽根さんが、今も、闇の世界の代理人と推測してもあながち見当違いとは言えないと思います。 児玉は、闇の中心人物であったのは間違いない。その子分達が今の闇の中枢になっていると思われる。第一勧銀から巨額融資を受けていた小池の親分は、(現代の眼社長)児玉の子分だったと記憶しています。いまも、児玉人脈が闇世界を牛耳っている証拠だと思います。

2CH 告発します 4代目
マスコミが闇の勢力の広報誌になってしまったので、真実はアングラでしか得れなくなっのです。まさに、中国や、北朝鮮と同様です。それらの国ではあからさまの報道規制をしているので、国民は真実を探ろうと努力しています。日本ではマスコミが闇の勢力の下っ端に、パシリになったので、「事実を国民に報道し、それによって権力を牽制し、国民に情報を伝達し、民主主義の礎となる」 ことは構造的に不可能なのです。
しかし、多くの国民はまだ、マスコミが闇のパシリになってしまったことを知りません。テレビや新聞は事実を知らしめることではなく、国民を誤魔化すための機関となってしまっています。闇の目的は、今まで得てきた違法な既得権益の維持、拡大にあります。そのために現在では、どの分野の仕事でも、生き甲斐と充実がなくなりました。職務に励むことが、闇の勢力に奉仕することになってきたからです。そして、その結果、一国民としての自分の首を絞めて行くことになるのです。この矛盾した職務と生活が生き甲斐と充実を奪った原因です。
今の社会は、社会全体が闇社会の強化、繁栄を図るようなシステムになってしまっています。国民に奉仕することが出来る社会を建設することが社会人の目標の筈です。そのような社会でこそ、誇りうる人生、充実した仕事が可能になるのです。その目的を実現しょうとすると闇勢力と闘うことになってしまうのです。しかも、闇勢力の犯罪は、ビルから突き落としても、墓場で焼き殺しても、ホテルで絞め殺しても、自殺となります。警察も闇社会の下部組織になっていますから、闇社会の犯罪は、警察の対象外なのです。
容易な闘いではありません。しかし、立ち上がるべきです。意義のある人生を送るためには、自分の命を犠牲にしてでも、闇勢力から逃げようとしても無駄です。殺されます。命を捨てて、反撃するのです。たとえ死んでもその死は無駄ではありません。その松明の火が、燎原に広がることになるだろう。
全く同感です。

【Yahooより、愛国者中曽根康弘の実体】
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/1976/sknoshakaiokataru13.htm
前回中曽根康弘元首相の総裁戦における行動分析を行った。今回は中曽根が戦後政治に及ぼした悪影響を紹介する。戦後政界では多くの汚職事件が起こり、多くの政治家が疑惑を持たれた。しかしその中で中曽根ほど疑惑を持たれた人物はいない。九頭竜川ダム汚職(1964)、殖産住宅事件(1972)、ロッキード事件(1976)、リクルート事件(1988)と実に4件の事件において疑惑が持たれている(黒田清・大谷明宏著「権力犯罪」より)。
しかし不思議と中曽根が逮捕された事件は1つもない。中曽根が関与したと思われる汚職事件のうち、多くは疑惑のままで終わっている。しかし中曽根の汚職が限りなく"クロ"に近い事件では、側近の逮捕によって決着がつき、決して中曽根本人に捜査の手が及ぶことはない。例を挙げると、ロッキード事件では側近の佐藤孝行元総務庁長官が、リクルート事件では藤波孝夫元官房長官の逮捕で幕を閉じている。また汚職で逮捕された政治家にも中曽根側近は多く存在する。東京協和・安全信組事件(1993年)の山口敏夫元労相、贈収賄事件(2000年)で逮捕された中尾栄一元建設相、最近でKSD事件(2001)の村上正邦元労相はいずれも元中曽根側近である(ついでながら、現在中曽根が後見人を勤める亀井静香前政調会長はイトマン事件(1990)に関与したという疑惑が持たれている)。
現在法律上では中曽根は犯罪者として認定されていない。しかしこれだけ多くの事件の関与を疑われ、これだけ多くの自分の側近が逮捕されていれば自ずと中曽根を疑ってしまうものだ。

しかし私がここで問題にしたいのは中曽根の汚職暦ではない。自分の犯罪をあたかも「トカゲのシッポ切り」かの如く部下に押し付けて自分はのうのうと政治家を続けているところである。これでは中曽根の下から後継者となる有能な人材が育つことはない。しかも中曽根は自民党の顧問的存在であるため、自民党から有能な人材が育たないという事にもつながる。
つまり戦後政治において旧体制が維持されつづけてきたのは中曽根に責任の一端があるのだ。また中曽根には国民の政治不信を招いた責任もある。具体例として、1997年に発足した第二次橋本内閣において佐藤孝行が総務庁長官に起用されたことが挙げられる。前述の通り、佐藤はロッキード事件で逮捕された人物であり、この頃には収賄罪で有罪判決を受けていた。橋本首相(当時)は佐藤の入閣に難色を示したが、中曽根に押し切られる形で佐藤の入閣を容認した。しかしこれに世論は猛反発。橋本内閣の支持率は半減もしくはそれに近い下落を記録し、結局橋本はわずか12日にして佐藤を辞めさせなければならなくなった。国民の支持を失った橋本は失政を繰り返し、1998年の参院選で惨敗を喫して退陣に追い込まれた。前回小泉内閣誕生に中曽根が関与していると書いた。しかし戦後政治に悪影響を与えかつ今日の政治不信を招いた張本人が政治改革を目指す内閣設立に協力したというのは明らかに矛盾である。つまり自民党の腐敗は依然解消されていないのである。リクルート事件の際ある検察官が明治時代にできた現行形法を武器になぞらえてこう言った、「三八銃で浮沈空母(*)は沈められない」。しかしリクルート事件から13年。未だに浮沈空母を沈める武器は存在しない。【開発俊輔】
*中曽根が首相時代にアメリカのレーガン大統領(当時)に対し「日本を共産主義から守る浮沈空母とする」と発言し、世論から非難されたことにちなんでいる。

【中曽根もナベツネも児玉誉士夫の舎弟】
わけのわからない〜新聞
http://www.din.or.jp/~ninegate/CONTENTS/RON/9901/990123.HTM
入社二年後に政治部へ配属された『渡辺は(番記者として接していた)大野(伴睦)を通じて児玉(誉士夫)を知り、また読売の創立者で衆議院議員にもなった正力松太郎の紹介で中曽根(康弘)と知り合った。その中曽根は以前から児玉を「先生」と呼んで私淑していた関係……』 『つまり、この頃は河野(一郎)派の若侍だった中曽根と渡辺、それに渡辺とは東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友の氏家(齋一郎)の三人は明らかに、地下帝国の帝王として保守政治の裏側を操っていた児玉軍団のいわば準構成員として働いていたのである』 『社会部の事件記者たちが、たとえば九頭竜ダムの汚職事件を突っ込んでいくと、児玉(誉士夫)と並んで自社の渡辺の名前が出てきてしまうのだから、これでは取材にはならない』 『「あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる」という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる』
昭和47年に帰国。そこからわずか3年で『編集局次長兼政治部長の座に昇りつめ、経済部長になった氏家、外報部長になった水上と「反社会部連合」を組んで……』 『翌年早々にロッキード事件が勃発、児玉誉士夫が逮捕され、中曽根も灰色高官として
窮地に……強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟』 (引用:『別冊宝島72 ザ・新聞』/JICC出版局)

34.防衛利権は誰のもの?


 防衛庁から軍需産業へ756名が天下り
21日付「朝日新聞」によると、戦車や艦船、ミサイルなどを製造する軍需産業の主要50社に天下った防衛庁・自衛隊の上級幹部が昨年までの過去10年間で756人に達することがわかった。98年の大規模の背任汚職事件が摘発されて以後も、高水準の天下りが続いており、企業側と防衛庁側の完全な癒着構造ができあがっている。天下り人数の上位6社は順に、東芝、三菱重工、三菱電機、川崎重工、NEC、石川島播磨重工で、この6社の契約だけで昨年は約6000億円に達し、調本の総契約額のほぼ半分を占めている。(K・M)
http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/otopics/topics0002.html
なんだ、日本もアメリカと同じだったのね。
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