自民党前史1 | 憲法制定前後史 | 吉田のステーツマンシップが左派能力を上回る |
【第一次吉田茂内閣】 |
(総評)戦後初の政党内閣。 |
5.10日頃から鳩山と吉田会談が設けられ、幣原内閣の外務大臣であった吉田茂が自由党総裁を引き継ぐことになった。この時吉田は総裁引き受けに当たって、次の三つの条件を出したと云われている。一.党の資金作りはいやだ。鳩山で引き受けて欲しい。二.閣僚の選考には誰にも口出しさせない。三、いやになったらいつでも内閣を投げ出す。実際にはもう一つ、「鳩山が追放解除されたら総裁を君に返す」があったようであるが、その後の流れはこの約束を反故にしていくことになった。 |
【第一次吉田内閣の業績―食糧危機問題の解決と財閥解体】 |
吉田内閣の手始めの仕事は迫り来る食糧危機問題の解決であった。GHQを通じてアメリカからの食糧支援を仰ぎ、これに成功した。6.13日吉田内閣は、「食糧危機突破に関する声明」、「食糧危機突破対策要綱」、「社会秩序保持声明」を発表した。「社会秩序保持声明」では、概要「生産管理なるものは正当な争議行為とは認めがたい。今日までの実例に拠れば、これを放置しておくと、遂に企業組織を破壊し、国民経済を混乱に陥し入れるようになるものといわなければならない。その上もし、暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる」と記されていた。 ついで三井.住友が同調、最後まで抵抗した三菱も10月末までに屈服した。財閥解体方針により、この頃動きが急ピッチになった。4月「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」制定、4.20日持株会社整理委員会令。指定された持株会社.財閥家族の所有する有価証券の譲渡を受けて、その処理にあたり、株式の民主化が進められた。 8.8日持株会社整理委員会が発足、財閥本社が保有していた株券が押収された。そして、新たに地方や新興の財閥78社の解体、財閥家族の追放が続いた。 9.6日持株会社整理委員会は、四大財閥本社と富士産業(中島飛行機)を第一次指定し、47.9月までに83社を指定した。47.12.10日「過度経済力集中排除法」制定。各産業部門の巨大独占企業の分割が行われた。解体、分割の対象になった企業は325社。その規模から云って当時の全株式会社の6割を超えていた。 |
【第一次吉田内閣の業績―新憲法制定】 |
吉田内閣の下で同時並行的に新憲法の制定が進められていった。吉田首相は、マッカーサーと緊密に連絡をとりながら憲法改正案(新憲法)の起草を急いだ。この時吉田首相は、国体護持を最優先の選択基準として、予想されるソ連の参入の煩わしさを思えば、「アメリカの保護」の下に制定を急ぐべきだとする政治的判断を働かせていたようにも思われる。 こうして、3.6日憲法改正草案要綱が公表された。天皇の承認の下、日本政府が作成した草案の形式を取るよう念押しされていた。民政局のケーディス次長はこの頃金森国務相、入江俊郎法制局長官等に対して、再三「主権在民」の明確化を要求している。5.13日極東委員会は、議会の審議に先立って「日本の新憲法の採択についての原則」を満場一致で決定した。 6.20日政府(金森徳次郎国務相)より第90回帝国議会に対し憲法改正(新憲法)草案が上程され、24日から5日間衆院本会議で審議が行われた。GHQ民政局草案をそのまま書き写した感のある政府草案の評判は上々であった。驚くべきことは、進歩.自由.社会各党から出されていた草案のどれよりも民主的な内容を持っていた。特に、@.主権在民規定、A.象徴天皇制規定、B.戦争放棄規定、C.議院内閣制と文民規定、D.基本的人権規定、E.地方自治の章等々に特徴が見られ、各党が用意した憲法草案の臣民的秩序観とは大きく隔絶していた。特に、戦争放棄規定と地方自治の章は従来の各草案の発想に無いもので、異質といえば異質であった。 これを押し付けられたと見るかどうか議論が分かれているが、明治憲法が日本人自らの判断で取捨選択して作成した経過に比べて、新憲法がほとんど「GHQ」草案を下敷きにして翻訳した歴史的経過を思えば「押し付けられた」と受け止めるほうが正確かと思われる。とはいえ、予想以上に評判が良く、地下に水が染み入る如く受け入れられていったという経過をどう見るのかという観点抜きにこれを強調することは片手落ちというべきではなかろうか。思えば、明治憲法制定前に様々の試案が作成しており、このたびの新憲法の各条項はこうした系譜から見直すことも可能であろう。とすれば、外形的押し付け論に拘ることは不毛とも考えることが出来るように思われる。問題は、内在的欲求としてあったものであれ、確かにイギリス−フランス的諸革命の如く人民大衆が血であがなって獲得したものではなく、敗戦という旧支配秩序の崩壊の隙間で外在的にもたらされたということであろう。 それ故、今日次のような正論が生まれている。「現行憲法が主権者の意思の発露としては重大な疑念が有ることは否定できない。その内容の多くは、軍事力の放棄も含めて、当時の日本人の多数の意向に従ったものであったと云える部分は確かにある。しかし、憲法典のような根本的な法規についてはその内容のみならず、手続きはやはり重要な意味を持つ。占領という異常な状況下で、自由な議論を経ることなく制定された憲法には出自に疑問があると云わざるを得ない。それ故、より正当な手続きを経た憲法を制定する、ないしは現行憲法を改定するという欲求は自然なものと云えるだろう」(「憲法論議へ新提案」中西寛京都大学教授.国際政治、2000.9.6日読売新聞)。 日本国憲法の下敷きとして、@・アメリカ合衆国憲法、A・フランス人権宣言、B・ドイツ・ワイマール憲法、C・不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)、D・ソ連国憲法等々が参考にされている。してみれば、歴史的「民主憲法」の精華が結実したのが日本国憲法であるということになる。 帝国憲法改正案は6月から10月にかけて真剣な審議が為された。この時の国会質疑は、@.天皇の象徴制について、A.主権在民規定について、B.戦争放棄規定について論議が集中した。中でも第9条に関する議論が伯仲し、国家固有の自衛権まで放棄しているのか、自衛のための武力まで禁止しようとしているのかの質疑が白熱した。この時共産党の野坂衆議院議員が活躍している。野坂は、憲法草案に対する質問演説で、主権在民の原則の明確化等徹底した民主的憲法を主張し、この主張は憲法の前文に反映された。新憲法の国会審議の末期、野坂は、「天皇制はどう変わったか」(あかはた9.29日、10.2日)論文を執筆し発表した。「天皇の大権は大幅に削減され、天皇制諸機構や諸勢力は重大な打撃をこうむった」、「(が、今だに)相当に重要な特権的地位を保持」しており、「依然として神秘化され、また、国民の上に君臨している」、「新憲法は『主権在民』の美名の下に『主権在君』たらしめようとするもの」であると、批判した。 この時、野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、6.28日の本会議で、概要「自衛戦争は正義の戦いだ。自衛権まで放棄しているのは行き過ぎではないか」、「戦争一般放棄という形でなしに、我々は之を侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」と質問している。これに答えた吉田の答弁がふるっている。概要「そんな考え方は有害だ。近年の戦争の多くは国家自衛権の名のもとに行われている。故に正当防衛権を認めることは戦争誘発の原因となる」、「自衛権による交戦権、侵略を目的とする交戦権、この二つを分けることが、多くの場合において、戦争を誘起するものであるが故に、かく分ける事が有害なりと、申したつもりです」、「日本が戦争放棄を宣言して漸く世界の信を得ようとしているとき、自衛権についてとやかく論議することは再び世界の疑惑を招くことで有害無益な論だ。なぜなら従来の侵略戦争はいずれも自衛権発動の名目で為されたからだ」。今日から見て立場が逆転しているこの滑稽なお互いの質疑は、歴史の皮肉とは言えよう。 6.26日の進歩党の原夫次郎の質問に対しては、「自衛権について直接規定してはいないが、従来多くの戦争は自衛権の名において戦われた。今日の日本に対する誤解を解くことが必要である。故に日本はいかなる名目においても交戦権を放棄する決意をこの憲法で表明したいと思う」と答弁している。 この時の後の社会党初の首相片山哲の受け止め方はこうであった。「この草案は勿論、ポツダム宣言に基づいているものだが、これを受け取った幣原内閣としては、非常に進歩的な憲法草案を押し付けられたので、すっかりびっくりしてしまった。国民は、ちっとも押し付けられていないのみならず、願ったりかなったりの事項がたくさん盛り込まれているので、これこそ求めつつある天の声なり、福音なりと喜んだのである」(回顧と展望)。片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。 この間7.1日憲法改正案は芦田均委員長以下72名の「帝国憲法改正特別委員会」に付託され、7.23日からいわゆる芦田小委員会と呼ばれる14名の秘密会議で審議された。7.25日〜8.20日まで13回にわたって国会内で秘密会を開き、各党派から出された修正案を調整して共同修正案をまとめた。この経過は非公開とされており詳細は分からない。芦田氏の「十年の歩み」に、「第一項の冒頭は条文を明確にして侵略戦争を放棄する心持をはっきりさせるのがいいという意味で修正したのだが、第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』と挿入したのは武力を保持しないという決心に条件をつけて『自衛戦争のためには』武力を行使することを妨げないと解釈する余地を残したいと考えたからであった。もちろんこの修正の字句はさほど明確でない。しかし明確に書けば修正が拒否されるとは、分かりきっていた」とある。 |
【新憲法の意義について】 |
新憲法の内容が我が政治史に格別な影響を与えることになった意義が考究されていないように見受けられる。新憲法の制定過程と史的意義付けは別サイトで考究しようと思うのでそちらに譲るとして、重要なことを指摘しておかねばならない。 新憲法がGHQ主導で制定された経過によって、戦後保守系勢力は憲法の自主制定運動を悲願とすることになった。ここまでは衆知のところである。だがしかし、この運動も大きく見て自主改憲派と自主擁護派の二派に分裂しており、それが戦後保守勢力の質を規定しているという点が留意されねばならないのではなかろうか。 自主改憲派は概ね戦前型秩序を復古させようとしており、その限りで戦後新憲法体制を虚妄と見なしている。あるいはこの構図の下で復古ならぬ新保守を夢見ている。こうしたスタンスでは一致しているものの防衛政策、経済政策、国家秩序政策では様々な渓流に分かれている。 自主擁護派は概ね戦後型秩序を創造しようとしており、その限りで戦後新憲法体制を擁護することを全ての始発にしようとしている。この構図の下で戦後型保守政治の練磨へと献身している。こうしたスタンスでは一致しているものの防衛政策、経済政策、国家秩序政策では様々な渓流に分かれている。 補足すれば、戦後保守勢力の質の規定については、元官僚系と生粋党人系との対立軸もある。これらが入り混じりながら互いに相和し抗争激闘して綾なしていくのが戦後保守政党史である。この絵巻物は、左派の戦国史よりもより過激である点で興味深い。その要因は、左派が権力取りに向かうよりも党派的利害での内部抗争を得意としたのに対し、右派が権力取りによる与党政治を当たり前のように見据え、実際に掌握し運営していく凄さにあるように思われる。しかし、戦後直後の混乱から今しばらくは保守勢力に味方せず、左派勢力の伸張に影を薄くしていた。 |
【「2.1ゼネスト」闘争を廻って】 |
1946(昭和21)年末から労働戦線の闘争がうねり始め、1947(昭和22)年は、昨年来の労働争議の盛り上がりの中で明けた。「2.1ゼネスト」が呼号され始めていた。これに対し、1.1日吉田首相は、年頭の辞をNHKラジオで放送中、労働運動の指導者を「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。概要「この悲しむべき経済事態を利用し、政争の目的のためにいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如きものあるにおいは、私は、我が国民の愛国心に訴えて、彼らの行動を排撃せざるをえないのであります」、「一般に労働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の増強意外にはないのであります。然るに、この時にあたり、労働争議.ストライキ.ゼネストを頻発せしめ、市中にデモを行い、人心を刺激し、社会不安を激成せしめて、あえて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ」(「不逞の輩放送」)。この不逞発言が労働運動の火に油を注ぐことになった。 吉田首相は、世の中が「2.1ゼネスト」に向かう騒然とした折柄、社会党に対ししきりに自社連立政権構想を持ちかけ、社会党の懐柔に営為努力していた。「閣僚の割り振りについて、下話さえつけば君(西尾末広のこと−注)の云う通り、吉田内閣は総辞職しても良いから、ぜひ、先日の話を進めて欲しい」との申し出が為されていた。「当の社会党方面からも、そうした働きかけがあった」とも云われている。 |
【政党の再編成と国際情勢の急変によるGHQの占領政策の転換】 |
「2.1ゼネスト」の失敗とこの頃からきざし始めた国際情勢の変化が、その後の政界の変動を促進させていった。社会党のゴタゴタの常態化、共産党の神話の崩壊に比して、保守側の動きは生産的に進化していったように見える。3.8日国民党と協同民主党が国民協同党を結成。三木武夫を書記長として78名の議員を組織した。3.31日自由党内の斎藤隆夫、芦田均、一松定吉、河合良成、木村小左エ門、犬飼健、楢橋渡諸氏が吉田首相、大野幹事長と見解を異にするとの理由で脱党。日本進歩党(総裁幣原)に合流して日本民主党を結成した。総裁は幣原と芦田の間で争われることになった。 47年頃から国際情勢が急変し、連合国軍はアメリカを盟主とする資本主義国家とソ連邦を盟主とする共産主義国家との対立が顕著になり「冷戦構造」が作り出されていくことになった。3.12日いわゆる「トルーマン.ドクトリン」が宣言されて、アメリカは次第にソ連封じ込めの戦略にシフトした。こうした動きに対抗して9月ソ連邦を中心とするヨーロッパ九カ国の共産党.労働者党の情報連絡機関として「コミンフォルム」(共産党.労働者党の情報局)が結成された。ソ連邦共産党指導部スターリンを中心とする対冷戦戦略であった。 中国では日本軍の敗戦後国民党と共産党の内戦が始まっており、アメリカの支援する蒋介石国民党軍が中国共産党軍に次第に形成利あらずの局面に追い込まれつつあった。 こうした国際情勢の変化を受けてGHQの占領政策に大転換がもたらされることになった。GHQの対日政策は対ファシズムとの戦いから対共産主義との戦いへと急直下シフト替えされることになり、以降それまでの平和主義的民主主義的傾向の助長が反転して日本を極東の工場としてアメリカの反共体制に組み込もうとする方針に移り始め、民主化政策の早々の仕上げと下からの革命的民主主義への弾圧.反共措置の強化という両面の采配をふるうことになった。その手始めに公務員の団体交渉権.争議権が制限されるようになっていった。 |
(私論.私見)