中曽根康弘論

 (最新見直し2006.5.22日)

 中曽根は、「まさに義理も人情もない目立ちたがり屋にしてとかく節操のない風見鶏にしてバブルをつくりだした張本人」であるが、その中曽根が俗に「最後の大宰相であり、彼を最期に我が国からハイ・ポリティクスが消滅した」なる評価を受けている。学問すればそういう評価にいたるなら、そういう学問なら要らない。

 その強靭な生命力は見上げるが、れんだいこの観るところ、中曽根には「オヌシは悪じゃのう」という形容こそが相応しい。こやつは関係した人物を徹底利用した挙句無慈悲に放り捨てる。どっかパラノイアなところがあり、そういう意味で小泉の大兄貴格と云える。次のように指摘されている。
 「中曾根康弘は九頭竜川ダム汚職(1964)、殖産住宅事件(1972)、ロッキード事件(1976)、リクルート事件(1988)に関わってましたが、『なぜか』逃げきりました。東京協和・安全信組事件(1993年)の山口敏夫元労相は中曾根側近、贈収賄事件(2000年)で逮捕された中尾栄一元建設相も中曾根側近、KSD事件(2001)の村上正邦元労相も中曽根側近でした。『なぜか』中曾根まで追及の手は伸びませんでした。

 http://village.infoweb.ne.jp/~t5588/back/H9-nagata/nagata80.html」。
  
 しかしそれは、中曽根をしてそうさせた何らかの歴史的因果関係があったのだろう。その全ての事情までは分からないが、米英ユ勢力に欣喜雀躍して自ら擦り寄った変態売国奴であることは間違いない。そういう意味でも小泉の舅格である。

 かくて、れんだいこは、反面教師の典型として中曽根を見る。よって、国士的中曽根論を唱える論者とはいつでも一戦を交える用意がある。このことをはっきりさせておく。

 2004.8.9日 れんだいこ拝

【中曽根のプロフィール】
 中曽根の経歴は次の通りである。
 1918(大正7).5.27日、群馬県高崎市末広町にて出生。1935(昭和10).3月、群馬県立高崎中学校4学年修了。1938(昭和13).3月、静岡高等学校文科丙類卒。東京帝國大學に進学。在学中、高等文官試験行政科合格。1941(昭和16).3月、東京帝國大學法學部政治學科卒。

 1941(昭和16).4月、内務省に入省。1941(昭和16).4.18日、海軍主計科短期現役第6期生として海軍経理学校入校。8.11日、同校卒。その後、海軍主計中尉。高雄海軍施設部部員、高雄海軍施設部女子挺身隊「静和寮」寮長を務める。

 1944(昭和19)年、横須賀鎮守府付派遣勤務海軍兵備局三課。1945(昭和20).2.11日、小林蔦子と結婚。終戦時、海軍主計少佐。

 結局、戦時中、一度も外地勤務することなく、上級軍人としての海軍主計として内勤していたことが判明する。

 1945(昭和20).9月、退役。10月、内務事務官。内務大臣官房勤務。1946(昭和21).2月、地方事務官。香川県警務課長。1946(昭和21).9月、地方事務官。警視庁警視。監察官。1946(昭和21).12月、依願退職。

 結局、戦後は、内務省警察畑の官僚として切り盛りした挙句、衆議院議員目指して退職したことが判明する。

 1947(昭和22).4.25日、第23回総選挙で衆議院議員初当選。この時、田中角栄、鈴木善幸も初当選している。

 1954(昭和29).3月、日本の国会に初めて「原子力予算」を国会に提出 成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となって動いてきた。阿部英とは、「青年懇話会」で半世紀に渡って親交してきた仲。

 1959(昭和34).6.18日〜1960(昭和35).7.19日、科学技術庁長官、第2次岸信介内閣で原子力委員長に就任。

 1967(昭和42).11.25日〜1968(昭和43).11.30日、第2次佐藤榮作内閣で運輸大臣就任。

 1970(昭和45).1.14日〜1971(昭和46).7.1日、防衛庁長官(第3次佐藤榮作内閣)。航空自衛隊T-2高等練習機に試乗。 自衛隊員へのトイレットペーパー国費支給開始。

 1970(昭和45).9月、訪米。メルヴィン・レアード国防長官と会談。
 1972.7月、佐藤栄作内閣退陣を受け、田中角栄と福田赳夫とが後継争いしたいわゆる“角福戦争”時に、風見鶏的対応。である。この時、40名を擁する中曽根派が、少数派閥ながらキャスティングボートを握ることになった。角福両陣営からの猛烈な働きかけに対し、中曽根は自らの総裁選出馬断念による票割り当てを使って両派を揺さぶった。中曽根は、総裁選の2週間前になって「立候補せず」を発表した。この直後、中川俊思議員が「週刊新潮」に、中曽根派の一人ひとりに1000万ずつが手渡されたことを暴露した。そのほかに、2億円が中曽根さんの手元にキープされており、合計7億円で派閥ぐるみ田中派に買収されたとして、当時話題になった。
 この問題は、中曽根が中川議員を名誉毀損で訴え、後に中川議員謝罪、なんとなくうやむやな形で決着がついた。別の情報によると、田中側からの10億円は、総裁選を挟んで5億円ずつ渡されており、総裁選前の7億円は、田中派からの5億円と福田派からの2億円を足した数字だという。(「日本をダメにした九人の政治家」 浜田幸一 1993年 講談社 (P76-77) )

 1972(昭和47).7.7日〜1972(昭和47).12.22日、通産大臣、科学技術庁長官、原子力委員長(第1次田中角榮内閣)。

 1972(昭和47).12.22日〜1974(昭和49).12.9日、通産大臣(第2次田中角榮内閣)。

 1980(昭和55).7.17日〜1982(昭和57).11.27日、国務大臣行政管理庁長官(鈴木善幸内閣)。

 1982(昭和57).11.27日〜1987(昭和62).11.6日、自民党総裁・内閣総理大臣就任。

 1983(昭和58).1月、訪米。1.18日、グラハム社主ら、ワシントンポスト紙幹部と朝食会(「不沈空母発言」。1.19日、同紙に掲載)。1.19日、ロナルド・レーガン米大統領と会談。

 4.21日、靖國神社参拝。8.15日、10.18日にも靖國神社参拝。

 5.28日〜30日、ウィリアムズ・バーグ・サミットに出席。

 11.11日、「日の出山荘」(東京都西多摩郡日の出町)でロナルド・レーガン米大統領と会談。

 12月、「鈴虫発言」。

 1984.(昭和59).1.5日、靖國神社参拝。4.21日、10.18日にも靖國神社参拝。

 1984(昭和59)年、インド訪問。パキスタン訪問。3月、中国訪問。

 1985(昭和60).1.21日、靖國神社参拝。4.22日、8.15日にも靖國神社参拝。

 1985(昭和60)年、ベルギー訪問。パプア・ニューギニア訪問。フィジー諸島共和国訪問。

 1986(昭和61).9.22日、自民党全国研修会で講演(「知的水準発言」)。

 11月、中国訪問。

 1987(昭和62)年、ポーランド訪問。1月、フィンランド訪問。6月、スペイン訪問。

 1987(昭和62)年 自民党総裁・内閣総理大臣退任。

 1988(昭和63)年、退任後、(財)世界平和研究所会長(現職)。

 1990(平成2)年、ポーランド訪問。

 1990(平成2).11月、バグダッドでヤセル・アラファト議長と会談。11.5日、サダム・フセイン・イラク大統領と会談。

 1993(平成5).7.18日、第40回総選挙。当選(群馬3区,定数4,得票64387票(4位))。

 1995(平成7)年、メキシコ訪問。

 「終身比例1位」。

 1996(平成8).10.20日、第41回総選挙。当選(比例代表北関東ブロック,名簿順位1位)

 1997(平成9).4.29日、大勲位菊花大綬章。

 1999(平成11).7.14日、都内の料亭で小渕恵三首相、石原慎太郎・東京都知事と会談。
 
 2000(平成12).6.25日、第42回総選挙。当選(比例代表北関東ブロック,名簿順位1位)

 10月 外交最高顧問

 11月2日 料理屋「吉兆」(銀座)で森喜朗首相、瀬島龍三、渡辺恒雄、氏家斉一郎と会談

 2001(平成13)年4月27日 小泉純一郎首相と会談。6月27日 小泉純一郎首相と会談。

 2002(平成14)年3月20日 江藤・亀井派総会で終身比例第1位を返上する考えを表明
 4月22日 新首相官邸披露式典出席
 8月8日 都内の日本料理店で小泉純一郎首相、宮沢喜一・元首相、海部俊樹・元首相、橋本龍太郎・元首相、森喜朗・前首相と会談
2003(平成15)年2月25日 盧武鉉・韓国大統領就任式に出席
 10月2日 日本料理店「吉兆」(東京・銀座)で小泉純一郎首相、宮沢喜一・元首相、橋本龍太郎・元首相、森喜朗・前首相と会食
 10月10日 衆議院解散
 10月23日0915- 中曽根事務所(砂防会館,東京都千代田区平河町2-7-5)で小泉純一郎首相と会談
 10月27日 砂防会館別館で記者会見、議員引退を表明。11月13日 亀井派常任最高顧問を辞任。
2004(平成16)年1月 中国訪問
 1月12日〜1月14日 アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)総会出席
 1月13日 人民大会堂(北京)で呉邦国・中国全国人民代表大会常務委員長と会談。1月14日 人民大会堂で胡錦涛・中国国家主席と会談
 1月29日 政策研究フォーラム21世紀勉強会に講師として出席
 3月17日 故山中貞則元通産相の自民党・山中家合同葬に参列(青山葬儀所,東京都港区)
 5月14日 首相官邸特別応接室で小泉純一郎首相らと会談
  宮沢喜一元首相、橋本龍太郎元首相、安倍晋三・自民党幹事長、細田博之・官房長官ら同席
 5月24日 首相官邸特別応接室で小泉純一郎首相、海部俊樹・元首相、宮沢喜一・元首相、森喜朗・前首相、細田博之・官房長官、安倍晋三・幹事長と会談
 6月10日 ブレアハウス(ワシントンD.C.)でナンシー・レーガンと面会
 6月10日 米連邦議会議事堂で故ロナルド・レーガン元米大統領の棺に合掌。6月11日(日本時間12日) 故ロナルド・レーガン元米大統領の国葬に参列(日本政府特使)(ワシントン大聖堂)

 軍事史学会特別顧問 アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)会長 APPF名誉議長

【中曽根醜聞考】
 馬鹿馬鹿しいので敢えて記さないが、「中曽根醜聞」は掃いて捨ててもまだまだ掃ききれないほど盛りだくさん過ぎる。

 殖産住宅事件では旧制静岡中学時代からの東郷民安氏を裏切った。

 
1972.7月、佐藤栄作内閣退陣を受け、田中角栄と福田赳夫とが後継争いしたいわゆる“自民党総裁選・角福戦争”時に風見鶏的対応で話題を生んだ。「七億円中曾根派買収疑惑」と云われる。この時、40名を擁する中曽根派が、少数派閥ながらキャスティングボートを握ることになった。角福両陣営からの猛烈な働きかけに対し、中曽根は自らの総裁選出馬断念による票割り当てを使って両派を揺さぶった。中曽根は、総裁選の2週間前になって「立候補せず」を発表した。この直後、中川俊思議員が「週刊新潮」に、中曽根派の一人ひとりに1000万ずつが手渡されたことを暴露した。そのほかに、2億円が中曽根さんの手元にキープされており、合計7億円で派閥ぐるみ田中派に買収されたとして、当時話題になった。  この問題は、中曽根が中川議員を名誉毀損で訴え、後に中川議員謝罪、なんとなくうやむやな形で決着がついた。別の情報によると、田中側からの10億円は、総裁選を挟んで5億円ずつ渡されており、総裁選前の7億円は、田中派からの5億円と福田派からの2億円を足した数字だという。(「日本をダメにした九人の政治家」 浜田幸一 1993年 講談社 (P76-77) )

 ロッキード事件(P3C疑惑)。

 リクルート事件では藤波孝生元官房長官が泥をかぶった(太田英子女史も)。丸高グループ転換社債をめぐる脱税等の疑惑では本来、大蔵事務次官経験者のポストである公正取引委員長に国税庁長官を起用することでウヤムヤにした。

 1990(平成2).7.19日、証券取引法違反(株価操作)容疑で東京地検特捜部に逮捕された仕手集団・光進の小谷光浩は、中曽根の有力な政治団体である山王経済研究所のメンバーであった。この小谷という男はもともと不動産業畑の人間で、飛島建設や三井不動産の先兵となって、地上げや底地買いを手がけ、荒稼ぎしてのし上がった。

 国際航業乗っ取り事件にからむ小谷容疑者との関係では中曾根氏の金庫番・山王経済研究所の会計責任者)・太田英子女史がつっかえ棒役を果たした。小谷は太田英子女史との間で同社株10万株の相対取引をして、1億2千万の差益を得さ せていることが明らかにされている。

 丸高グループ転換社債をめぐる脱税等の疑惑では本来、大蔵事務次官経験者のポストである公正取引委員長に国税庁長官を起用することでウヤムヤにした。 富士銀行不正融資事件(羅臼疑惑)。最上興産疑惑。

 1990年のイトマン事件に関与した亀井静香も、中曾根側近。

 1993年の東京協和・安全信組事件の山口敏夫元労相は、中曾根側近。

 200年の贈収賄事件で逮捕された中尾栄一元建設相も、中曾根側近。

 2001年のKSD事件の村上正邦元労相も、元中曽根側近。

 オウム事件の本番」に注目すべき中曽根記事が掲載されている。これを転載しておく。
 安部英とは何者か?巡洋艦「愛宕」の元軍医、海軍の同朋会「青年懇話会」を通して現在の政治家の中で最も汚い男と言われる中曽根康弘と半世紀にわたって親交し、中曽根によって「エイズ研究班班長」に選ばれた男だ。この「青年懇話会」という海軍の同朋会の幹事をしていたのが、薬害エイズの拡大を招いた「血友病総合治療普及会」の理事赤沢樟一だ。そしてこの血友病患者をミドリ十字社との利権に繋ぐ普及会の創設者はほかならぬ安部英なのだ。.....彼らは「究極の利権集団・皇軍」 の生き残りという人脈と閨閥で違う階級を形成している。戦前も現在もその構造は微動だにしていない。

 〈研究成果で免責取引「七三一部隊」〉

 戦犯免責の黒幕はやはり「石井の番頭」だった―。人体実験など重大戦犯事実の隠ぺいで、東京裁判での訴追を免れた関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。内藤良一元軍医中佐。内藤氏は石井四郎部隊長の側近で、戦後は薬害エイズ事件の旧ミドリ十字を創設。部隊で研究した技術を土台に同社を血液製剤の国内トップメーカーに押し上げた。
731部隊とミドリ十字  http://www.kumagaya.or.jp/~m_akagi/jimori/sensou/7125sen1.htm

 薬害エイズの被告企業の一つミドリ十字は、731部隊長だった石井四郎の右腕だった、陸軍軍医学校教官「内藤良一」ら、731部隊出身者・関係者が中心となって、1950年前身日本ブラットバンクを設立した。くしくもこの年は、朝鮮戦争が勃発した年だった。(アメリカの意向が強く働いたと思われる、戦争にはたくさんの血が必要となる。)1964年社名をミドリ十字とする。1970年代から80年代の間多数の731出身者を擁していた。この時期から濃縮血液製剤いわゆる非加熱製剤の輸入・販売を開始した。ミドリ十字はインターフェロン、血漿、人工血液の製造で世界的な有名企業にのし上がった。1978年アメリカ・ロスアンゼルスにアルファ社を設立する。創業者の内藤は、1973年社長に就任。78年には会長になった。731部隊二代目隊長北野政次は、1959年同社取締役・東京プラント長に就任した。そして、挙げ句の果てには1963年先駆的な「血液製剤の開発」に対し、科学技術庁から科学技術功労顕彰を受けて、77年には、日本政府から勲三等旭日中綬章を受けた。731部隊の主要目標のひとつに、血液の代用品を見つけることがあったことは忘れてはいけない。他にもミドリ十字は様々な疑惑がある。1982年通常は健康体のボランティアに行われる人工血液の試験を、重病患者に生体実験した疑惑。1979年胆のうガンで入院した女性患者に人工血液の生体実験を行った。胎盤商品化など様々な騒ぎをおこしている。そして、あの薬害エイズである、起こるべくして起きた出来事だろう。ここにまた731部隊が甦ったのである。
 中曽根は首相当時に財政法を改定し国債発行を合法として今日の膨大な借金のきっかけをつくった。中曽根政権以前は国債発行は法律違反であった。中曽根はまたゼネコンポリティックスの創始者でもある。中曽根政権以後、皇民党事件をきっかけとして右翼及び闇の世界の人間が表舞台に出てきてしまった。右翼及び暴力団が繋がる星の数程ある建設業者が国の公共事業にたかる構図をつくってしまった。国債濫発も、中曽根が始めた。

 中曽根政権当時の歴史教科書からの南京大虐殺記述削除という暴挙により近隣アジア諸国との関係悪化を決定的なものとした。1987年、中曽根は人種差別発言をした後アメリカニュージャージー州のラトガー大学の日本文化研究センターの序幕式に招待された。しかし、中曽根が来賓挨拶をする段階で、地元のヒスパニック系及びアフリカ系アメリカ人学生が会場になだれ込み「人種差別主義者ナカソネ、ゴーホーム!」との連呼の出迎えを受け場内は騒然となった。不思議な事にこのような事件は日本のマスコミは流さないですね。

 【中曽根は、闇の世界のパシリ】

 読売新聞のW社長は、若造の頃に、中曽根と一緒に児玉邸の玄関番をしていたと、ロッキード事件のおり、報じられていました。そのころから、闇の世界のパシリだったと言うことになると思います。 一度でも闇の世界の協力を受けたら、生涯かけて、その何百倍のしのぎに尽くすフロントになりきらないと命の保証はないのは常識です。W社長や中曽根さんが、今も、闇の世界の代理人と推測してもあながち見当違いとは言えないと思います。 児玉は、闇の中心人物であったのは間違いない。その子分達が今の闇の中枢になっていると思われる。第一勧銀から巨額融資を受けていた小池の親分は、(現代の眼社長)児玉の子分だったと記憶しています。いまも、児玉人脈が闇世界を牛耳っている証拠だと思います。

 戦後政界では多くの汚職事件が起こり、多くの政治家が疑惑を持たれた。しかしその中で中曽根ほど疑惑を持たれた人物はいない。九頭竜川ダム汚職(1964)、殖産住宅事件(1972)、ロッキード事件(1976)、リクルート事件(1988)と実に4件の事件において疑惑が持たれている(黒田清・大谷明宏著「権力犯罪」より)。

 しかし不思議と中曽根が逮捕された事件は1つもない。中曽根が関与したと思われる汚職事件のうち、多くは疑惑のままで終わっている。しかし中曽根の汚職が限りなく"クロ"に近い事件では、側近の逮捕によって決着がつき、決して中曽根本人に捜査の手が及ぶことはない。例を挙げると、ロッキード事件では側近の佐藤孝行元総務庁長官が、リクルート事件では藤波孝夫元官房長官の逮捕で幕を閉じている。また汚職で逮捕された政治家にも中曽根側近は多く存在する。東京協和・安全信組事件(1993年)の山口敏夫元労相、贈収賄事件(2000年)で逮捕された中尾栄一元建設相、最近でKSD事件(2001)の村上正邦元労相はいずれも元中曽根側近である(ついでながら、現在中曽根が後見人を勤める亀井静香前政調会長はイトマン事件(1990)に関与したという疑惑が持たれている)。現在法律上では中曽根は犯罪者として認定されていない。しかしこれだけ多くの事件の関与を疑われ、これだけ多くの自分の側近が逮捕されていれば自ずと中曽根を疑ってしまうものだ。

 しかし私がここで問題にしたいのは中曽根の汚職暦ではない。自分の犯罪をあたかも「トカゲのシッポ切り」かの如く部下に押し付けて自分はのうのうと政治家を続けているところである。これでは中曽根の下から後継者となる有能な人材が育つことはない。しかも中曽根は自民党の顧問的存在であるため、自民党から有能な人材が育たないという事にもつながる。

*中曽根が首相時代にアメリカのレーガン大統領(当時)に対し「日本を共産主義から守る浮沈空母とする」と発言し、世論から非難されたことにちなんでいる。

【 中曽根もナベツネも児玉誉士夫の舎弟】

 わけのわからない〜新聞
 入社二年後に政治部へ配属された『渡辺は(番記者として接していた)大野(伴睦)を通じて児玉(誉士夫)を知り、また読売の創立者で衆議院議員にもなった正力松太郎の紹介で中曽根(康弘)と知り合った。その中曽根は以前から児玉を「先生」と呼んで私淑していた関係……』 『つまり、この頃は河野(一郎)派の若侍だった中曽根と渡辺、それに渡辺とは東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友の氏家(齋一郎)の三人は明らかに、地下帝国の帝王として保守政治の裏側を操っていた児玉軍団のいわば準構成員として働いていたのである』 『社会部の事件記者たちが、たとえば九頭竜ダムの汚職事件を突っ込んでいくと、児玉(誉士夫)と並んで自社の渡辺の名前が出てきてしまうのだから、これでは取材にはならない』 『「あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる」という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる』
 
 
昭和47年に帰国。そこからわずか3年で『編集局次長兼政治部長の座に昇りつめ、経済部長になった氏家、外報部長になった水上と「反社会部連合」を組んで……』 『翌年早々にロッキード事件が勃発、児玉誉士夫が逮捕され、中曽根も灰色高官として窮地に……強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟』 (引用:『別冊宝島72 ザ・新聞』/JICC出版局)

 34.防衛利権は誰のもの?

 防衛庁から軍需産業へ756名が天下り

 21日付「朝日新聞」によると、戦車や艦船、ミサイルなどを製造する軍需産業の主要50社に天下った防衛庁・自衛隊の上級幹部が昨年までの過去10年間で756人に達することがわかった。98年の大規模の背任汚職事件が摘発されて以後も、高水準の天下りが続いており、企業側と防衛庁側の完全な癒着構造ができあがっている。天下り人数の上位6社は順に、東芝、三菱重工、三菱電機、川崎重工、NEC、石川島播磨重工で、この6社の契約だけで昨年は約6000億円に達し、調本の総契約額のほぼ半分を占めている。(K・M)
 http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/otopics/topics0002.html

 なんだ、日本もアメリカと同じだったのね。






(私論.私見)

694 :名無しさん@3周年:04/06/25 21:32 ID:D/GUn/r2
 最近〔95年〕公開された国務省の機密文書によると、CIAが自民党に対して政治資金を提供し、 岸内閣の佐藤幹事長が受け取っていたので、日本の政治は外国のカネで動かされていた。 日本政府が米国の諜報機関に操られた事実は、1995年3月20日のLA・タイムス紙上で、 マン記者が全項を使って解説しているが、日本とイタリーが売弁政治だったとして、国辱的な政治が歴史に記録されることになった。

 それにしても、オウム真理教のサリン事件のドサクサに紛れて、この重大な売国事件は黙殺されてしまった。だが、世界の先進国が原子力発電を放棄した中で、核エネルギーに 依存する道を突き進んだ路線と共に、日本の運命を狂わせた出発点がここにあった。

これに関連して興味深いのは征矢野仁の記述で、[読売新聞日本テレビ・グループ研究]に引用されたニューヨーク・タイムズの記事は、「、、、、、元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵を受けた人物として挙げられるは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである」とあって、その後に訂正記事のエピソードを含むとはいえ、元CIA工作員の発言は否定されていない。
 正力と【中曽根】が田中清玄や児玉誉士夫などの利権右翼と結び、CIAコネクションの中で日本の政治に対して、エージェントとして動いていた姿が見え、正力の人脈が占領軍のG2(参謀第2部)に 密着し、ウィロビー部長との結びついた意味が納得できる。 原子力施設の工事で最右翼といわれ、【中曽根】と姻戚関係を持つ鹿島建設の繋がりが、闇の中から浮かび上がってくるのである。”[平成幕末のダイアグノシス/藤原肇著] http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/sale/diagnosis.html


【読売新聞の渡辺恒雄】氏と【テレビ朝日の三浦甲子二】氏の両人が目白台の田中邸に赴き、「中曽根康弘を総理大臣にして下さい。
あとでどんな無理な相談も聞くから」と土下座した一幕というものもあり、マスコミ対策の一環という要素も含まれていたのかもしれません。
 【渡辺恒雄】氏というのは児玉誉士夫氏の舎弟分で、【東声会】のクラブの会員名簿にも名をつらねていたことがある、闇の世界との繋がりも深い人物です。また彼はロッキード事件当時アメリカで読売の特派員をやっており、【ロッキード事件では窓口役】をはたしていたのではないかとも言われています。
一方の、【テレビ朝日】の法王として君臨した【三浦甲子二】氏も闇の世界と通じており、さらに【KGBのエージェント】だったとの風評もある人物です。〔略〕


697 :名無しさん@3周年:04/06/25 21:41 ID:D/GUn/r2
【教科書問題の黒幕は、中曽根】
噂の真相97年3月号では、、「自由主義史観研究会」「「新しい歴史教科書をつくる会」の
両方のよびかけ人に名を連ねている高橋史朗が、統一協会・勝共連合とも深い関わりを
もっているという(2月号では生長の家との関係を指摘されていた。どっちが本当だろう? 
あるいは、両方に関係している というのは別に矛盾でないということか?)。
また、産経新聞(元大御所の鹿内信隆は、陸軍経理学校時代に慰安所開設の勉強をしたらしい。
戦地に送るコンドームの不良品検査にも当たっていたらしい。この信隆に傾倒していた
馬鹿者どもが現在の編集幹部となっているとのことである。)が藤岡と右派人脈を結びつけ、
一連の従軍慰安婦問題・教科書批判を仕掛けた張本人ではないか、と指摘している。
更に、【中曾根康弘】も、海軍主計将校時代、原住民に対する強姦を防止するために
慰安所を作った者である(これ自体は中曾根自身が「終わりなき海軍」なる回想記で
書いている本当のことである。「噂の真相」では、ボルネオ島バリクパパンである可能性が高く、
しかも強制に近い現地徴集が行われていたと思われるとのことである。)。
平成9年1月21日、藤岡らが小杉隆文部大臣に慰安婦問題を教科書から削除するよう
求めた際、特に大臣に直接会えたのは中曾根が仲介したからだということである
(中曾根に依頼したのは高橋史朗)。
高橋史朗は、統一協会・勝共連合の機関紙・ビデオ・講演会等で、「日本の性教育は”時代遅れ”」
「結婚前の純潔」が適切」「性教育 過激派 の狙い」等のタイトルの元に、結婚前の
純潔教育(これはまさに統一協会の教えである。)を説いているようである。
「結婚前の純潔教育」自体が直ちに間違っているとは思わないが、統一協会の主張に
沿う内容であるというと警戒感を抱かざるを得ないし、こんな奴が慰安婦問題を語っている
という辺りがどことなく怪しさを感じさせるものである。


05.1.21 TBS「中曽根元首相、憲法改正試案を発表」
http://news.tbs.co.jp/headline/tbs_headline1115796.html