中曽根康弘論 |
(最新見直し2006.5.22日)
中曽根は、「まさに義理も人情もない目立ちたがり屋にしてとかく節操のない風見鶏にしてバブルをつくりだした張本人」であるが、その中曽根が俗に「最後の大宰相であり、彼を最期に我が国からハイ・ポリティクスが消滅した」なる評価を受けている。学問すればそういう評価にいたるなら、そういう学問なら要らない。 その強靭な生命力は見上げるが、れんだいこの観るところ、中曽根には「オヌシは悪じゃのう」という形容こそが相応しい。こやつは関係した人物を徹底利用した挙句無慈悲に放り捨てる。どっかパラノイアなところがあり、そういう意味で小泉の大兄貴格と云える。次のように指摘されている。
しかしそれは、中曽根をしてそうさせた何らかの歴史的因果関係があったのだろう。その全ての事情までは分からないが、米英ユ勢力に欣喜雀躍して自ら擦り寄った変態売国奴であることは間違いない。そういう意味でも小泉の舅格である。 かくて、れんだいこは、反面教師の典型として中曽根を見る。よって、国士的中曽根論を唱える論者とはいつでも一戦を交える用意がある。このことをはっきりさせておく。 2004.8.9日 れんだいこ拝 |
【中曽根のプロフィール】 |
中曽根の経歴は次の通りである。 |
1918(大正7).5.27日、群馬県高崎市末広町にて出生。1935(昭和10).3月、群馬県立高崎中学校4学年修了。1938(昭和13).3月、静岡高等学校文科丙類卒。東京帝國大學に進学。在学中、高等文官試験行政科合格。1941(昭和16).3月、東京帝國大學法學部政治學科卒。 1941(昭和16).4月、内務省に入省。1941(昭和16).4.18日、海軍主計科短期現役第6期生として海軍経理学校入校。8.11日、同校卒。その後、海軍主計中尉。高雄海軍施設部部員、高雄海軍施設部女子挺身隊「静和寮」寮長を務める。 1944(昭和19)年、横須賀鎮守府付派遣勤務海軍兵備局三課。1945(昭和20).2.11日、小林蔦子と結婚。終戦時、海軍主計少佐。 結局、戦時中、一度も外地勤務することなく、上級軍人としての海軍主計として内勤していたことが判明する。 1945(昭和20).9月、退役。10月、内務事務官。内務大臣官房勤務。1946(昭和21).2月、地方事務官。香川県警務課長。1946(昭和21).9月、地方事務官。警視庁警視。監察官。1946(昭和21).12月、依願退職。 結局、戦後は、内務省警察畑の官僚として切り盛りした挙句、衆議院議員目指して退職したことが判明する。 1947(昭和22).4.25日、第23回総選挙で衆議院議員初当選。この時、田中角栄、鈴木善幸も初当選している。 1954(昭和29).3月、日本の国会に初めて「原子力予算」を国会に提出 成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となって動いてきた。阿部英とは、「青年懇話会」で半世紀に渡って親交してきた仲。 1959(昭和34).6.18日〜1960(昭和35).7.19日、科学技術庁長官、第2次岸信介内閣で原子力委員長に就任。 1967(昭和42).11.25日〜1968(昭和43).11.30日、第2次佐藤榮作内閣で運輸大臣就任。 1970(昭和45).1.14日〜1971(昭和46).7.1日、防衛庁長官(第3次佐藤榮作内閣)。航空自衛隊T-2高等練習機に試乗。 自衛隊員へのトイレットペーパー国費支給開始。 1970(昭和45).9月、訪米。メルヴィン・レアード国防長官と会談。
1972(昭和47).7.7日〜1972(昭和47).12.22日、通産大臣、科学技術庁長官、原子力委員長(第1次田中角榮内閣)。 1972(昭和47).12.22日〜1974(昭和49).12.9日、通産大臣(第2次田中角榮内閣)。 1980(昭和55).7.17日〜1982(昭和57).11.27日、国務大臣行政管理庁長官(鈴木善幸内閣)。 1982(昭和57).11.27日〜1987(昭和62).11.6日、自民党総裁・内閣総理大臣就任。 1983(昭和58).1月、訪米。1.18日、グラハム社主ら、ワシントンポスト紙幹部と朝食会(「不沈空母発言」。1.19日、同紙に掲載)。1.19日、ロナルド・レーガン米大統領と会談。 4.21日、靖國神社参拝。8.15日、10.18日にも靖國神社参拝。 5.28日〜30日、ウィリアムズ・バーグ・サミットに出席。 11.11日、「日の出山荘」(東京都西多摩郡日の出町)でロナルド・レーガン米大統領と会談。 12月、「鈴虫発言」。 1984.(昭和59).1.5日、靖國神社参拝。4.21日、10.18日にも靖國神社参拝。 1984(昭和59)年、インド訪問。パキスタン訪問。3月、中国訪問。 1985(昭和60).1.21日、靖國神社参拝。4.22日、8.15日にも靖國神社参拝。 1985(昭和60)年、ベルギー訪問。パプア・ニューギニア訪問。フィジー諸島共和国訪問。 1986(昭和61).9.22日、自民党全国研修会で講演(「知的水準発言」)。 11月、中国訪問。 1987(昭和62)年、ポーランド訪問。1月、フィンランド訪問。6月、スペイン訪問。 1987(昭和62)年 自民党総裁・内閣総理大臣退任。 1988(昭和63)年、退任後、(財)世界平和研究所会長(現職)。 1990(平成2)年、ポーランド訪問。 1990(平成2).11月、バグダッドでヤセル・アラファト議長と会談。11.5日、サダム・フセイン・イラク大統領と会談。 1993(平成5).7.18日、第40回総選挙。当選(群馬3区,定数4,得票64387票(4位))。 1995(平成7)年、メキシコ訪問。 「終身比例1位」。 1996(平成8).10.20日、第41回総選挙。当選(比例代表北関東ブロック,名簿順位1位) 1997(平成9).4.29日、大勲位菊花大綬章。 1999(平成11).7.14日、都内の料亭で小渕恵三首相、石原慎太郎・東京都知事と会談。 2000(平成12).6.25日、第42回総選挙。当選(比例代表北関東ブロック,名簿順位1位) 10月 外交最高顧問 11月2日 料理屋「吉兆」(銀座)で森喜朗首相、瀬島龍三、渡辺恒雄、氏家斉一郎と会談 2001(平成13)年4月27日 小泉純一郎首相と会談。6月27日 小泉純一郎首相と会談。 2002(平成14)年3月20日 江藤・亀井派総会で終身比例第1位を返上する考えを表明 4月22日 新首相官邸披露式典出席 8月8日 都内の日本料理店で小泉純一郎首相、宮沢喜一・元首相、海部俊樹・元首相、橋本龍太郎・元首相、森喜朗・前首相と会談 2003(平成15)年2月25日 盧武鉉・韓国大統領就任式に出席 10月2日 日本料理店「吉兆」(東京・銀座)で小泉純一郎首相、宮沢喜一・元首相、橋本龍太郎・元首相、森喜朗・前首相と会食 10月10日 衆議院解散 10月23日0915- 中曽根事務所(砂防会館,東京都千代田区平河町2-7-5)で小泉純一郎首相と会談 10月27日 砂防会館別館で記者会見、議員引退を表明。11月13日 亀井派常任最高顧問を辞任。 2004(平成16)年1月 中国訪問 1月12日〜1月14日 アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)総会出席 1月13日 人民大会堂(北京)で呉邦国・中国全国人民代表大会常務委員長と会談。1月14日 人民大会堂で胡錦涛・中国国家主席と会談 1月29日 政策研究フォーラム21世紀勉強会に講師として出席 3月17日 故山中貞則元通産相の自民党・山中家合同葬に参列(青山葬儀所,東京都港区) 5月14日 首相官邸特別応接室で小泉純一郎首相らと会談 宮沢喜一元首相、橋本龍太郎元首相、安倍晋三・自民党幹事長、細田博之・官房長官ら同席 5月24日 首相官邸特別応接室で小泉純一郎首相、海部俊樹・元首相、宮沢喜一・元首相、森喜朗・前首相、細田博之・官房長官、安倍晋三・幹事長と会談 6月10日 ブレアハウス(ワシントンD.C.)でナンシー・レーガンと面会 6月10日 米連邦議会議事堂で故ロナルド・レーガン元米大統領の棺に合掌。6月11日(日本時間12日) 故ロナルド・レーガン元米大統領の国葬に参列(日本政府特使)(ワシントン大聖堂) 軍事史学会特別顧問 アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)会長 APPF名誉議長 |
【中曽根醜聞考】 |
馬鹿馬鹿しいので敢えて記さないが、「中曽根醜聞」は掃いて捨ててもまだまだ掃ききれないほど盛りだくさん過ぎる。 殖産住宅事件では旧制静岡中学時代からの東郷民安氏を裏切った。 1972.7月、佐藤栄作内閣退陣を受け、田中角栄と福田赳夫とが後継争いしたいわゆる“自民党総裁選・角福戦争”時に風見鶏的対応で話題を生んだ。「七億円中曾根派買収疑惑」と云われる。この時、40名を擁する中曽根派が、少数派閥ながらキャスティングボートを握ることになった。角福両陣営からの猛烈な働きかけに対し、中曽根は自らの総裁選出馬断念による票割り当てを使って両派を揺さぶった。中曽根は、総裁選の2週間前になって「立候補せず」を発表した。この直後、中川俊思議員が「週刊新潮」に、中曽根派の一人ひとりに1000万ずつが手渡されたことを暴露した。そのほかに、2億円が中曽根さんの手元にキープされており、合計7億円で派閥ぐるみ田中派に買収されたとして、当時話題になった。 この問題は、中曽根が中川議員を名誉毀損で訴え、後に中川議員謝罪、なんとなくうやむやな形で決着がついた。別の情報によると、田中側からの10億円は、総裁選を挟んで5億円ずつ渡されており、総裁選前の7億円は、田中派からの5億円と福田派からの2億円を足した数字だという。(「日本をダメにした九人の政治家」 浜田幸一 1993年 講談社 (P76-77) ) ロッキード事件(P3C疑惑)。 リクルート事件では藤波孝生元官房長官が泥をかぶった(太田英子女史も)。丸高グループ転換社債をめぐる脱税等の疑惑では本来、大蔵事務次官経験者のポストである公正取引委員長に国税庁長官を起用することでウヤムヤにした。 1990(平成2).7.19日、証券取引法違反(株価操作)容疑で東京地検特捜部に逮捕された仕手集団・光進の小谷光浩は、中曽根の有力な政治団体である山王経済研究所のメンバーであった。この小谷という男はもともと不動産業畑の人間で、飛島建設や三井不動産の先兵となって、地上げや底地買いを手がけ、荒稼ぎしてのし上がった。 国際航業乗っ取り事件にからむ小谷容疑者との関係では中曾根氏の金庫番・山王経済研究所の会計責任者)・太田英子女史がつっかえ棒役を果たした。小谷は太田英子女史との間で同社株10万株の相対取引をして、1億2千万の差益を得さ せていることが明らかにされている。 丸高グループ転換社債をめぐる脱税等の疑惑では本来、大蔵事務次官経験者のポストである公正取引委員長に国税庁長官を起用することでウヤムヤにした。 富士銀行不正融資事件(羅臼疑惑)。最上興産疑惑。 1990年のイトマン事件に関与した亀井静香も、中曾根側近。 1993年の東京協和・安全信組事件の山口敏夫元労相は、中曾根側近。 200年の贈収賄事件で逮捕された中尾栄一元建設相も、中曾根側近。 2001年のKSD事件の村上正邦元労相も、元中曽根側近。 |
「オウム事件の本番」に注目すべき中曽根記事が掲載されている。これを転載しておく。
|
(私論.私見)