岸とCIAの相関考

 (最新見直し2007.9.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 従来、ソ連や中国からの秘密工作資金が、日本左派運動の運動主体である日共や社会党に流れていたことがつとに指摘されていた。これに対して、アメリカの秘密工作資金については未解明であった。その不透明がここへきて明らかにされつつある。

 2007.10.4日号週刊文春は、「『安倍政権投げ出し』の原点 岸信介はアメリカのエージェントだった!」を掲載した。その第一陣が、岸とCIAの関係の暴露となった。これまでも仄聞されてはいたが、秘密指定を解除された機密文書や、数百人を超す外交関係者への取材により得られた、かなり信頼性の高い証拠、証言が示された。このことの意義は大きい。

 但し、諸手を挙げて鵜呑みにする訳にはいかない。アメリカでの出版時期、週間文春でこの記事が出たタイミングを考えれば、史実には違いないが、政治的意図して安倍政権打倒の謀略絡みであるからである。誰が裏で糸を操っているのか、何を狙っているのか、ここまで詮索せねばなるまい。

 2007.9.30日 れんだいこ拝



【ニューヨーク・タイムズのベテラン記者ティム・ウィナー氏の暴露】

 2007.6月、ニューヨーク・タイムズのベテラン記者ティム・ウィナー氏が、著書「Legacy of Ashes: The History of the CIA (Doubleday) 」を出版した。同書で、マイケル・シャラー教授(元国務省歴史外交文書諮問委員)をして「CIAから岸への資金提供を示す文書をこの目で見ています」と語らせている。次のように記されている。(「池田信夫 blog CIAと岸信介」、「Trend Review | 岸信介はCIAの手先だった」その他参照引用)

 CIAの武器は、巨額のカネだった。彼らが日本で雇ったエージェントのうち、もっとも大きな働きをしたのは、岸信介と児玉誉士夫だった。児玉は中国の闇市場で稀少金属の取引を行い、1.75億ドルの財産をもっていた。米軍は、児玉の闇ネットワークを通じて大量のタングステンを調達し、1280万ドル以上を支払った。

 しかし児玉は、情報提供者としては役に立たなかった。この点で主要な役割を果たしたのは、岸だった。彼はグルー元駐日大使などCIA関係者と戦時中から連絡をとっていたので、CIAは情報源として使えるとみて、マッカーサーを説得して彼をA級戦犯リストから外させ、エージェントとして雇った。岸は児玉ともつながっており、彼の資金やCIAの資金を使って自民党の政治家を買収し、党内でのし上がった。

 1955年8月、ダレス国務長官は岸と会い、東アジアの共産化から日本を守るための協力を要請した。そのためには日本の保守勢力が団結することが重要で、それに必要な資金協力は惜しまないと語った。岸は、その資金を使って11月に保守合同を実現し、1957年には首相になった。その後も、日米安保条約の改定や沖縄返還にあたってもCIAの資金援助が大きな役割を果たした。

 CIAの資金供与は1970年代まで続き、「構造汚職」の原因となった。CIAの東京支局長だったフェルドマンはこう語っている:「占領体制のもとでは、われわれは日本を直接統治した。その後は、ちょっと違う方法で統治してきたのだ」
 岸は日本の外交政策を米国の希望に沿うように変えると約束した。そして米国は、材日米軍基地を維持することができ、日本においてはきわめて微妙な問題をはらんでいたが、そこに核兵器を貯蔵することができた。その見返りとして岸が求めたのは、米国からの秘密裏の政治的支援だった。

 「秘密裏の政治的支援」とは、ずばりCIAからのカネだと、ウィナー氏は著書で断定している。

 「1994年のことです。CIAと米国政府との秘密作戦について取材していた私は、米国国務省が毎年発行している『米国の外交』の発行が遅れていることを知りました。CIAの自民党に対する支援について記述することに、CIAが難色を示したことが原因でした」。 

 岸は敗戦後、児玉、笹川らと共にA級戦犯として巣鴨拘置所に収容された。彼らにとって僥倖なことに、戦後の国際情勢の冷戦化に伴い、アメリカの対日政策は転換した。それまでの国粋主義派人脈及び日帝的軍事機構の解体から日本を共産主義に対する防波堤とすべく、再軍備を促す方針に転換することになった。「逆コース」と呼ばれるこの政策転換は1947年から48年に起きた。米国は、CIAとエージェント契約を交わす保守派を利用する政策に転換した。

 この一環で公職追放解除が行なわれ、岸、児玉、笹川らが釈放された。釈放に当り政治的取引があったことは想像に難くない。岸は、戦前新官僚派のエースとしての人脈と裏からのCIA支援という二刀流で政治活動を再開し、1953年に政界復帰した。全盛期の吉田自由党に対抗する形で登竜し政権を手繰り寄せて行った。1955年、保守派を合同して自由民主党を結成するや幹事長の地位に納まった。

 岸は、求められるまま日本政界についてのさまざまな情報をCIAに提供し、その見返りとして政界工作資金を得た。念願の首相の座につくや、安保条約改訂に乗り出した。交渉相手は、マッカーサー元帥の甥、ダグラス・マッカーサー二世だった。次のように記されている。

 「岸は新任の駐日米国大使のマッカーサー二世にこう語った。もし自分の権力基盤を米国が固めることに米国が協力すれば、新安全保障条約は可決されるだろうし、高まる左翼の潮流を食い止めることができる、と。岸がCIAに求めたのは、断続的に支払われる裏金ではなく、永続的な支援財源だった。『日本が共産党の手に落ちれば、どうして他のアジア諸国がそれに追随しないでいられるだろうか』と岸に説得された、とマッカーサー二世は振り返った」。

 マッカーサー二世の証言から、岸が政局を利用して米国側から資金を引き出そうとしたことが読み取れる。そして、1958.5月の総選挙前、アイゼンハワー大統領は岸に資金援助することを決定している。

 「(ジョン・)フォスター・ダレス(国務長官)も同じ意見だった。ダレスは、米国は大金を支払ってでも日本に賭けるべきで、米国が賭ける相手としてもっとも有望なのが岸であると主張した。アイゼンハワー大統領自身が安全保障条約のために日本に対する政治支援を決断したが、それはすなわち、岸に対して米国が資金援助することを意味していた。アイゼンハワーは主要な自民党議員にCIAから継続的に献金することを承認した」。

 「そのような資金が、四人の歴代大統領のもとで少なくとも15年のあいだ流れ、冷戦期の日本で一党支配を強化することに貢献した」。

 自民党が権力の座を維持するために必要なカネはアメリカから供給された。その代償は、安全改定を含む日本の再軍備であり、アメリカ(国際金融資本)の傭兵化であった。この関係は当然政治経済文化全般に及ぶ。

 ところで、アイゼンハワー大統領が主要な保守政治家への資金援助を決定したことは、昨年2006.7月刊行の「米国の外交1964−1968」で公開された。資金はどのように使われたのか。米国の外交文書には、1957年と58年の2回、岸の弟である佐藤栄作が米国側に資金援助を要請したことが記録されている。2回の資金要請は、ともに1958年の総選挙と1959年の参院選挙への対策を名目としていることから選挙対策に投じられたと考えられる。

 ウィナー氏は、CIAの工作をこう総括した。

 「資金提供の見返りにCIAが得たのは、これから誰が指導者の地位を占めるのか、日本が今後どのような方向に進むのか、といった日本政界に関する情報でした。 〜中略〜 この関係によって米国は対日外交政策の目標を達成し、アジアにおける相当な影響力を持った反共勢力、つまり日本を作り上げたのです」。

 春日幹雄氏の「秘密のファイル CIAの対日工作」(新潮文庫)の下巻第八章でもこの疑惑はとりあげられており、「当時、日本の総選挙にCIA資金が投入されたことは公然の秘密と化している」(272P)とされている。春日氏は、岸とマッカーサー二世(駐日大使)との親密な関係も指摘していた。





(私論.私見)