橋本龍太郎論 |
(最新見直し2006.7.1日)
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Re:れんだいこのカンテラ時評184 | れんだいこ | 2006/07/01 |
【橋本龍太郎逝去に寄せて】
2006.7.1日、元首相橋本龍太郎(以下、「橋龍」と記す)が多臓器不全などのため東京都内の病院で死去した(享年69歳)。これをどう評すべきか。 「橋龍」は、1937年、東京生まれ。慶応大法学部政治学科を卒業し、呉羽紡績(現東洋紡)に入社した。厚相などを務めた父龍伍氏の死去に伴い、1963年、衆院旧岡山2区から出馬し26歳で初当選。現行制度に移行した96年からは岡山4区選出で、連続14回当選。 次第に頭角を現し、1978年の第1次大平内閣で厚相として初入閣。その後、竹下登元首相(故人)が結成した創政会に参加し、竹下派では梶山静六元官房長官(同)や小沢一郎氏(現民主党代表)、小渕恵三(故元首相)らとともに「7奉行」と称された。 1980年、党行財政調査会長に就任し、「土光臨調」路線を推進。総理府と行政管理庁を総務庁に統合した。1986年、第3次中曽根内閣で運輸相に就き、国鉄の分割民営化を主導した。1989年、宇野内閣で自民党幹事長に就任したが、同年7月の参院選で惨敗、わずか2カ月の在任に終わった。海部内閣では3期連続、蔵相を務めた。 自民党が野党に下野した93年に党政調会長に就任。1994年には村山内閣の通産相に就き、難題だった日米自動車交渉に取り組み纏め上げた。米メーカーの対日輸出を拡大する数値目標の導入を廻って、当時のミッキー・カンター米国通商代表と厳しい交渉を続け、「タフ・ネゴシエーター(手強い交渉相手)」と評された。 1995.9月の自民党総裁選で小泉純一郎氏(現首相)を大差で破り第17代総裁に選出。1996.1月、自民、社会、さきがけ3党連立の村山富市首相に禅譲される形で第82代首相に就任し、2年半にわたって首相を務めた。宮沢内閣以来、自民党から約2年半ぶりに首相の座に就いた。岡山県出身では、犬養毅、平沼騏一郎に次いで3人目、戦後では初。 在任中は行政改革や財政改革など「6大改革」を掲げ、明治以来の行政組織改変に着手し、中央省庁を現行の1府12省庁に再編する案をまとめた。自由化、規制緩和を促進させ、株式手数料の自由化、銀行と証券会社の相互参入といった「日本版ビッグバン(金融制度改革)」を主導。通信分野でも規制緩和を推進した。財政再建のため消費税率を3%から5%に引き上げたほか、社会保険料値上げ、所得税・住民税の特別減税廃止を押し進めた。財政構造改革法を成立させた。(れんだいこボソボソ)ろくなことをしていない。もうこの頃はだれがやってもそうなるけども。 1996年、クリントン米政権との間で米軍普天間飛行場の返還で合意。ただ返還作業は進まず、代替施設はキャンプ・シュワブ沿岸部に建設するよう合意内容が見直されるなどの経過をたどっている。この時期、新たな日米防衛協定のための指針(ガイドライン)を決定した。 北方領土問題の解決にも精力的に取り組み、1997年のロシアのエリツィン大統領との会談で、2000年までの平和条約締結に全力を尽くすとした「クラスノヤルスク合意」を結んだ。1998年、ロシアが北方四島の日本帰属を認めれば、施政権の返還は当面求めないとする「川奈提案」による国境線確定方式を提案した。 1996.10月、小選挙区比例代表並立制による初めての総選挙で小沢一郎党首が率いる新進党を破った。1997年、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を総務庁長官に起用し、世論の集中砲火を浴びて十日余りで更迭を余儀なくされた。中曽根首相以来の靖国神社参拝を復活させたが、近隣諸国から激しい反発を受け参拝を自粛した。消費税増税、特別減税の廃止による景気低迷が景気の腰を折り、これらを機に求心力が低下。三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券など大型経営企業の破綻(はたん)などで金融危機が深まる中、1998.7月、参院選で自民党が記録的大敗、首相を辞任した。 2005.5月の小渕首相死去に伴い、2000.7月、当時の自民党最大派閥「平成研究会」会長に就任し、橋本派へと移行させた。同年12月の第2次森改造内閣では、行革、沖縄・北方担当相として入閣した。2001.4月、総裁選に立候補したが、小泉首相に敗れた。2003年、総裁選の際、派内が独自候補擁立派と小泉首相支持派で対立し、事実上の分裂状態に陥った。 2000.4月、日本歯科医師連盟からの1億円ヤミ献金事件が浮上、2004.7月、責任をとる形で自民党橋本派会長を辞任。同年11月には衆院政治倫理審査会で、1億円受領について「事実なんだろうと思う」などと弁明した。村岡兼造元官房長官の公判で証人喚問されるなど、釈明に追われた。(れんだいこボソボソ)この事件の真相は未だに不明。嵌められた可能性が強い。 2005.9月の衆院選に出馬せず政界を引退していた。同選挙で比例代表中国ブロックから初当選した橋本岳氏は二男。橋本大二郎・高知県知事は実弟。その後は、環境などの分野で活動を続けていた。2006.3月、日中友好議員連盟などの友好団長として北京を訪問し、胡錦濤国家主席と会談した。2006.6.4日夜、腹痛を訴え入院。腸管虚血との診断を受け、大腸の大部分を切除するなどの手術を受けていた。 ヘアクリームでオールバックに固めた髪形がトレードマーク。趣味の写真はセミプロ。剣道は教士六段。登山は1988年の日本・中国・ネパールの3国友好登山隊で、日本隊名誉総隊長を務めた。「厚生族のドン」とも呼ばれた。 |
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以上は、一般的な情報記事である。本当は次のことが肝腎である。「橋龍」は、初当選以来、当時の戦後保守主流派佐藤派に属し、同時にめきめきと頭角を現しつつあった田中角栄の子飼いグループに位置して遊泳していった。ポスト佐藤の福田対田中戦争で田中が勝利することにより、登用されていくことになった。つまり、日の当たる坂道を歩一歩登っていくことになった。 しかし、この頃形成されつつあった田中ー大平同盟に対し、現代世界を牛耳る「シオンの議定書派」即ちネオ・シオニストの米英ユ同盟奥の院は徹底殲滅に向った。それは、田中ー大平同盟による政治支配が強まるにつれ、日本の自主化が進み、ネオ・シオニストの米英ユ同盟奥の院の手綱から離れ、コントロールが利かなくなるからであった。 そのことを恐れたネオ・シオニストは、ジャップに目にものをみせてやると、用意周到に且つ総力を挙げてロッキード事件を勃発させた。この時の雇われ右翼と日共の立ち回りこそ噴飯ものである。マスコミは、今に繋がるネオ・シオニストの御用プロパガンダを喧騒していった。 事件の捜査は、本星の児玉ー中曽根ー松野ラインには向わず、既定方針通りに次第に角栄包囲網が狭められ、角栄は遂に逮捕された。この時、「橋龍」が後の首相を当確させる素敵なセリフを吐いた。多くの同志が日和見を決め込む中で、「橋龍」一人が、「それでも俺はオヤジが好きなんだ」との胸中を公言させた。形勢利有らずの中での勇気ある告白であった。この時、「橋龍」は男を挙げた。 「橋龍」は、角栄釈放時にも何憚ることなく迎えに出向いている。ここでも、見る者が見れば男を挙げた。あの頃の「橋龍」は格好良かった。その後、紆余曲折しながらも出世階段を登りつめ首相になる。その後の「橋龍」が、「男になった」かの時の矜持(きょうじ)を持ち合わせていれば「更に男になった」筈である。 「橋龍」は、その頃から「俺は元々本籍佐藤派で、田中派ではない」と御身保全に向かい始めた。この瞬間から男を下げ始めた。以降の「橋龍」の解説は無意味であるので割愛する。 ところで、果敢に角栄を護った男がもう一人いる。ロッキード公判を欠かさず通い詰めた男が居る。小沢である。小沢が操を曲げず今日まで奮闘していることは見上げたものである。「橋龍」の常在主流派癖に比して、党を割り、イバラの道へ向った。敢えて損な道を択んだ。火中の栗を拾い、大ヤケドしながら今日まで辿り着いていることは大いに評価されるべきである。 ネオ・シオニストが日本を呑み込み、使い捨てにせんと策謀を廻らしている渦中の形勢利あらず只中で、見識を示していることは男の中の男である。小ネズミ的嬌態政治から決別するのは、角栄政治の薫陶を正面から受け止めているこの男を通して以外に無い。 「橋龍」と小沢。政治に翻弄され、歩んだ道はそれぞれのものとなったが、戦後保守主流派を形成したハト派政治の何たるかを知っているだけに、今の政治にはがゆさを覚えている点では共通しているであろう。「橋龍」の死は、袂を分かった者であるとはいえ、小沢にとって損失であろう。しかし、今は懐旧する暇は要らない。屍を踏み越えて政権奪取に向かえ。日本人民大衆の大包囲網で勝負に向う以外に無かろう。思いつくまま。 「橋本龍太郎論」( seito_giminto_history_hashiryuron.htm) |
(私論.私見)