「戦後保守本流ハト派論」、ハト派とタカ派の政策的違いについて

 (最新見直し2006.8.21日)

 (れんだいこのブログ)
 「戦後保守本流ハト派」とカテゴリーを設定した時に何らかのイメージが湧かないとしたら、戦後日本の政治史に対してかなり文盲であることを自覚せねばならない。ところが、そういうレベルの政治通が多い、中でも左翼の中にその種の者が多いというのが現状だろう。日本の未来は暗い肌寒いという感慨を覚えるのはれんだいこ一人であろうか。こういうことでは本当の政治史が見えてこない、ひいては明日の政治ドラマが拓けないと思う故に本サイトを設けることにする。

 「戦後保守本流ハト派論」を考究する意義は、我々の政治感覚特に左翼の中に牢と凝固する自民党内政治抗争ドラマに対する政治オンチの盲を拓くためである。或る人に対してはコペルニクス的衝撃を与えるだろう。れんだいこは、それを期待して以下書き付けて見る。誰も感慨を沸かさなかったとしたら、それはれんだいこの筆力の無さのせいであろう。

 まず、最初に明らかにしておかねばならないことは、戦後左翼が何時如何なる時でも「政府自民党」を一括りにして「反対、弾劾、糾弾、粉砕」を馬鹿の一つ覚えのようにしてきた万年野党的習性に対して、「それは間違いであった」と指摘しておくことである。いわゆる通俗的なマルクス主義的体制批判論が実証性抜きに振り回された結果であり、当のマルクスが今仮に存命していたとしたら、そういう野暮な対応はしなかったであろう、とれんだいこは考えている。

 しかるに、「政府自民党を一括りにして反対、弾劾、糾弾、粉砕」を弱く主張すれば社共となり、これを強く主張すれば新左翼なる全く無意味な闘いが演ぜられ続けてきたのが戦後左派運動史であった。その挙句が今日の惨状であるのに、このことに気づこうともしない政治指導者、それに付き従う党員ばかりであるように思える。

 むしろ、いわゆる大衆の方が慧眼で、戦後の歴史的意味を深く知り、「政府自民党」の政策の一挙手一投足に抜け目無く対応してきた節がある。なんとならば、戦後保守本流を形成してきたハト派の政策が「本質的に左傾」したものであったからである。本来、これを知るのを学ぶという筈であるが、下手なマルクス主義解説本を更に下手に読むことにより、余計に政治オンチになってきたという経緯があるように思われる。

 れんだいこのこの謂いを以下論証しようと思う。

 「戦後日本は、いわゆる左翼が云うように本当に政治状況の悪い国であったのか」、これを考えてみよう。多くの左派気取り者は「悪しき国」と云い為している。しかし、れんだいこは、そう思わない。むしろ、「世界史上稀に見る蓮華国家では無かったのか」と観る。もとより相対的なものであるから、理想的蓮華国家であったとは云わない。あくまで相対的に何時如何なる日本史上においても、世界史の戦後史上の他のどの国のそれよりもという比較の上でのことではある。「戦後保守本流ハト派がリードした戦後日本は、経済的成長の成功もさることながら、稀有なる民主主義の貫徹していた国家を創造していた」のではないのか、ということが云いたい訳である。

 いやそうではないといろんな事由、現象を挙げて否定しようとする者も居るだろう。そういう者達に云いたい。ならば、一体、誰のお陰でそこそこの飯が食え、社会的文化生活が享受できたのか。これこそ政治の要諦であり、この要諦に於いて戦後保守本流ハト派ほどうまく処理してきた政治はないのではなかろうか。

 確かに腐敗現象はあまたある。しかし現下の憲法秩序の法理に従えば、それは人民大衆的創意工夫によって「更に闘い取れる仕掛けになっているのではないのか」と言い返したい。戦後保守本流ハト派がリードする時代に於いてこそ、左派は階級情勢の更なる左傾化へ向けての糧を生み出すべきではなかったのか。それをせずに、ただ「お上」からのお与えを乞うような不満の投げつけ的万年批判に終始してきたのではなかろうか。それは何の意味も無くむしろ有害無益だった。

 れんだいこの観るところ、戦後憲法は革命権のようなものを規定するには至っていない。しかし、その他の諸規定においては「世界史上稀に見る先進的規定体系」となっている世界に随一の憲法であることは疑いない。この原理に則り、これを専ら自由市場主義、日米同盟的資本主義体制下で政治を執り行ったのが「戦後保守本流ハト派」達であった。この意義と限界をどう捉えるのか、これが本稿の眼目である。

 「戦後保守本流ハト派」について、田中角栄が次のように語っている。
 「私のように吉田さんの流れを汲む者は、池田勇人、佐藤栄作といった人も含めて、出会いの頃はみんな渾然一体としておった。吉田のじいさんのもとでね。それが今日まで連綿と続いている。そういう意味で、私は保守本流を歩いてきた」(佐藤昭子「田中角栄」)。

 「戦後保守本流ハト派」とは、吉田が「軽武装、経済復興」の総路線を敷き、池田が「所得倍増、高度経済成長」の路線で踏襲し、佐藤がまま踏襲し、角栄が「日本列島改造論」で力強く踏み込み、大平、鈴木へ至った系譜を云う。このハト派の政策は次のように要約できる。
 概要「戦前の対外膨張主義的国家経営即ち大日本主義を反省し、戦後確定された固有の領土に立脚して、軽武装、経済優先内治主義即ち小日本主義を貫いて、日米同盟に依拠しながら国際社会に於ける枢要の地位を築く。これが極東の小国日本の生き延びる大叡智であることを確認した諸政策」。

 このハト派政策が1950年代から80年代初頭まで指導力を発揮したことにより未曾有の国家的発展をもたらし、結果的に日本は世界bQの地位まで上り詰めることになった。80年代初頭、タカ派の中曽根政権が誕生するに及び、以降タカ派が政局をリードすることになり、声高な愛国的言辞の裏腹で対米追随政策に走り、それまでの国富を食い潰していくことになった。この流れが2006年現在の小泉政権まで基調となっている。

 以下、この系譜のハト派とタカ派の政策的違いを対比させていくことにする。

 2006.8.21日再編集 れんだいこ拝

【ハト派とタカ派の政策的違いその1、政治体制論】
 ハト派とタカ派には、政治体制論に於いて次のような相似と差異がある。個々の事例では様々であろうからして、ハト派の場合には在地系社会主義派の田中角栄と大平正芳を、タカ派の場合にはネオ・シオニズム系タカ派中曽根康弘と小泉純一郎を念頭に置く。面白くするためにれんだいこ党の見解を対置しておく。
項目 れんだいこ党 ハト派 タカ派
法治主義 都合の悪い諸法蹂躙 是認 都合の悪い諸法蹂躙
体制論 在地型社会主義体制創造 資本主義体制 資本主義体制
所有論
市場論 官業民業共生型自由市場主義 官業民業共生型自由市場主義 金融支配型自由市場主義
同盟論 主体的国際平和協調主義 日米安保体制+国際平和協調主義 日米安保体制オンリー型米英ユ同盟主義
反共論 容共
君主制論 強、否並存
象徴天皇制 是認 擁護 否、元首制
ネオ・シオニズム 抗戦
戦後憲法 護憲 護憲 改正
憲法9条 擁護 擁護 否定
自衛隊 救援隊に改組再生 文民統制型現状容認 育成強化、防衛庁を省へ格上げ画策
アジア外交 友好化 友好化 抗争化
愛国愛民族心 是認 是認 是認+米英ユ同盟グローバルスタンダードへ傾斜
大東亜戦争責任論 再検証 再検証 居直り

【ハト派とタカ派の政策的違いその2、政策論】
 ハト派とタカ派には、政策に於いて次のような相似と差異がある。
項目 れんだいこ党 ハト派 タカ派
内政 優先重視 優先重視 軽視
公共事業 推進 推進 抑制
都市集中 共存 共存 地方切捨て
外交 国際平和協調主義+自主外交 日米関係重視+自主外交 日米関係重視+米英ユ奴隷外交
防衛費 非軍事化による漸次削減 国家予算の1%枠に納める 国家予算の1%枠取り外す
専守防衛地域 国土内 東南アジア域 制限撤廃
治安警備 安寧秩序化による漸次削減 漸次強化 強権支配
国債発行 抑制 乱発
国営企業 戦後型官民共存是認 戦後型官民共存是認 民営化推進。官から民へ、
中小零細企業対策 保護、地場企業育成 保護、地場企業育成 淘汰、大資本迎合政策
法規制 自由、自主、自律型 自由型 統制型
治安警察法 規制緩和 事後規制強化 事前規制強化
外資政策 抑制 抑制 積極導入
首相の靖国神社参拝 春秋例祭参拝可 春秋例祭参拝 春秋例祭参拝+8.15終戦記念日に政治的参拝
奨学育英資金 積極的 積極的 消極的
労働者スト権 権利として是認 是認 否認
街頭デモ 権利として是認 容認 否認
石油政策 自力調達を目指す、脱石油化 自力調達を目指す 米英ユ同盟の指示に従う
原子力発電政策
所得格差 是正+弱者支援 是正+自由放任 容認+自由放任
教育 義務教育無償化 義務教育無償化 義務教育無償化廃止
歴史教育 必要 必要 軽視、愚民化教育
報道規制統制 自由自主自律基準 緩和化 御用化







(私論.私見)