自民党前史1 自由党政権史 吉田のワンマン体制確立される

幻の山崎猛首班構想
 芦田内閣総辞職後、GHQの後押しで民自党幹事長山崎猛の首班構想が画策された。10.7日民生局次長・ケージスの次の言葉が伝えられている。「次期首班を、野党第一党の自由党が占めることは憲政の常道として認める。しかし、総裁の吉田茂は、超保守的(ウルトラ・コンサバティブ)で、首相として好ましい人物ではない。幹事長の山崎猛を首相とすることが望ましい。この山崎内閣は、諸般の情勢からして、自由党の単独内閣ではなく、共産党を除く、各党の挙国一致連立内閣であることを期待する」(戸川猪佐武「小説吉田学校」)。つまり、総裁の吉田ではなく、幹事長の山崎を次期首相に期待したことになる。

 敗戦よりこの時まで歴代内閣にあっては、原則において、GHQの指示や指令、示唆の枠外に出ることは許されていなかった。問題は、このたびのケージスの「山崎首班挙国連合論」がGHQの絶対命令的指令なのか要望なのかやや不明であったことにあった。筆頭副幹事長広川弘禅と顧問星島次郎がこの線でまとめ役になった。この動きの背景には、第一次吉田内閣時に吉田が党人派を冷遇していたことが伏流していた。

 10.10日総務会が開かれ、吉田の総裁辞意表明、山崎擁立の手はず通りに議事が進行していった。ところが、この時一年生議員田中角栄が「ちょっと待った。会長、発言を求めます」と立ち上がった。発言の認可を得た後、「私には、何としても解せません。もちろん、我が国は敗戦国だ。が、いかに敗戦国だろうと、筋が違う。アメリカの内政干渉をやらせてはいけない。総裁である吉田首班で行くのが憲政の常道ではないかと私は思う」と主張した。ここから議論の流れが一変し、「吉田首班で行け!」、「GHQの遣り方は間違っている」という結論になった。

 10.14日山崎は突如議員を辞職した。GHQの意向であると言う錦の御旗に乗って騒動を起こしたことに責任を取った形となった。こうして、「約1週間にわたって、政界を騒然とさせた山崎首班問題は、虹のように跡形無く消えていった。総司令部民政局からは、何の意向も示されなかった」(戸川猪佐武「小説吉田学校」)。
 


吉田内閣時代
(総評)サンフランシスコ条約で国家の独立と日米安保条約の締結。ワンマン体制による長期支配。
 1948(昭和23)10.19日民自党総裁の吉田茂氏が第二次吉田内閣(48.10.19〜49.2)を組閣した。このことの政治史的意味は、ここに初めて戦後保守系の本格的な安定政権が誕生したということである。「本格的」とは、政治に責任を持って事に処するという意味においてであり、「安定」とは、そういう政治に対し多くの国民的支持が寄せられることになった、という意味である。このことは、結局、戦後の混乱を収拾させ新秩序敷設に向かったのは吉田茂を筆頭とする官僚派であり、彼等の手に委ねられたことを意味している。吉田は官界から有能人士を抜擢し、将来の後継者作りにも腐心している。そうした吉田の偉いところは、官僚畑のみならず党人派あるいは産業界にも目を向け逸材を拾い出していることである。

 吉田は連立策を取らず民自党の単独少数内閣をつくった。官房長官に前運輸次官佐藤栄作、副総理に林譲治、幹事長広川弘禅を布陣した。佐藤栄作が大抜擢されたことになる。田中角栄についても、概要「それから、総務会でだ、山崎首班はおかしいと、勇ましい演説をした男。若いのにひげをはやしていたチョンガリ(浪曲)風の声からしてなかなか宜しい。そう、その田中君をだ、どこかの政務次官に起用してくれたまえ」の一声で政務次官に登用されている。

 この頃から日本の再軍備への転換が急がれることになった。これは、「GHQ」にとって、早晩予想される朝鮮戦争に対する後方支援基地として日本にその役割を担わさせるために必要な政策転換であり、地政学的な必要があったという事情により、吉田内閣はこの要請に応えていくという使命を担わされることになる。国内的にも公然と独占資本主義の再建工作に着手していくこととなった。 このたびの吉田内閣の成立は、GHQ内のGS路線からG2路線への転換を明確に象徴しており、国内での中道内閣の終焉を決定づけるターニング.ポイントでもあった。

 12.18日GHQは日本経済再建に関する9原則=ドッジ.ラインを発表した。ワシントン発有無を言わさぬ強権的手法で日本経済再建に乗り出そうとする計画書であった。「日本人の生活のあらゆる面において、より以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自由の一部の、一時的な放棄を求めるものである」としていた。驚くことに、この計画に対して、社会党、労働組合は云うに及ばず共産党も期待表明しているようである。日本左派運動の質が透けて見えて来る話であろう。

 以降、第二次から五次まで足掛け6年にわたる吉田内閣時代となり戦後政治の基盤を整序する。翌1949(昭和24)1月の総選挙で圧倒的勝利をおさめるにおよんで、ようやく長期安定政権の基礎が固められることになる。この間、日本経済の再建、朝鮮動乱時の対応、平和条約締結による独立の回復と国際社会への復帰等、歴史に残る偉業を達成する。

 自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「吉田内閣時代の不滅の功績は、何といっても、26.9.8日、サンフランシスコで調印された平和条約による独立の回復と、日米安全保障条約によるわが国の平和と安全の確保でありましょう。当時、その前年に突発した朝鮮動乱と、冷戦時代の深刻な東西対立という国際情勢を背景に、共産党、社会党左派、左翼的文化人の間には、『全面講和・安保阻止』の主張が異常な高まりを示していたのです。しかし吉田首相は、毅然として所信を貫き、これらの反対論を押しきって『多数講和・安保締結』に踏み切ったのでした。

 その後の歴史にてらして、この両条約の締結が、わが国の平和と安全を守り、国民の自由を取り戻し、やがて世界の歴史に類をみない経済的繁栄をもたらす前提となったことは、あまりにも明らかであり、その意味で、吉田首相および自由民主主義政党の決断は、歴史的な選択として、長く後世に残る偉業だったというべきでしょう」。

 この自民党史は次の点で興味深い。これによれば、吉田首相は、サンフランシスコ条約で国家の独立に漕ぎ着けたこと、日米安保条約による日本の平和と安全の確保という路線を敷いたことで「歴史の偉業」として評価されている。ところが奇妙なことに、日本共産党はこの歴史的出来事を全く無視して、今日においても「日本の対米従属国家論」を一貫して党是としている。その論ずるところを聞き分けるのに、そのように規定することにより日本左派運動の方向を民族独立運動へと指針させたいという意図以外には見えてこない。その真の意図は、社会主義運動はまだ早すぎる、そちらの方向には向かわせないというところにあるように見える。しかし、このように意図的にボタンを掛け違うと、至るところで辻褄が合わなくなるのは必死である。これを覆い隠すのに用意された狡知が党員白痴化政策であり、その頭脳のロボトミー化であり、党内の強権支配である。

 話を戻して。自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「独立回復後、吉田内閣はさらに、(1)・自由国家群との提携、(2)・国力の充実と民生の安定および自衛力の漸増的強化、(3)・国土開発、生産増強、貿易振興による経済自立などの『独立新政策』を打ち出し、独立体制の整備と民生安定、経済再建をめざす諸施策に意欲的に取り組みました。

 すなわち、昭和26年から翌27年にかけて制定された「破壊活動防止法」、「義務教育費国庫負担法」、「電源開発促進法」、「新警察法」、「防衛庁設置法および自衛隊法」、「義務教育諸学校の教育の政治的中立の確保に関する臨時特例法」、「電気事業、石炭鉱業におけるスト規制法」、「厚生年金保険法」、「学校給食法」「硫安需給安定法」等の重要立法がそれです」とある。

 これに拠れば、吉田内閣の三本柱として@・国家独立政策、A・新経済政策、B・治安政策があったことが分かる。れんだいこ流に纏めれば、片山哲内閣に顕著であった無責任体系とは対照的な、且つ戦前流の統制型国家管理手法とも異なる新保守政権秩序造りに精出したということになる。吉田首相の手腕の凄さは、この戦後型枠組みの中から国政を与るに足りる有能な後継者を生み出していくことにある。池田―佐藤―田中―大平―鈴木の系譜は、まさに吉田学校のそれである。

 ところで、民自党単独の吉田政権時代にも保守勢力の合従連衡が進行していた。「日本協同党」は「協同民主党」を経て「国民協同党」なる。「日本進歩党」は「日本民主党」を経てのちに「国民協同党」と合同して「国民民主党」に変わる。1952(昭和27).2月には、解党して「改進党」を結成する。

 右派が無数の糸を手繰り寄せ糾合しつつあるこの頃、対照的に左派陣営は分裂を深め始めていた。共産党は党中央の分裂事態に陥り、党中央所感派(徳球―伊藤律系)と反主流国際派(宮顕・志賀・春日(庄)系)とが非和解的な抗争に突入していた。社会党の左右対立も次第に激化し、遂に左右両派に分裂している。これが日本左派運動の能力であることを見据えねばならない。

 こういう左派戦線の低迷に助けられ、1951(昭和26).10月に平和条約と日米安保条約を締結して以降の吉田内閣はワンマン化を強めることになった。この間、GHQによる占領行政は、形の上では日本政府を表に立てた「間接統治」ではあっても、実質的には、GHQの指示と意向によって左右される「直接統治」に等しいものであり、歴代内閣の苦労は、筆舌に尽くせないものがあったが、吉田内閣時代から自主統治時代を迎えることになった。

 このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「終戦後の十年間は、内外ともに苦難と激動と独立体制の基礎固めの時代であり、政界もまた、自由民主陣営、革新陣営を問わず大きく動揺を続けました」、「それでも歴代の自由民主主義内閣は、敗戦直後の廃墟の中からの日本の建て直し、空前の食糧難の打開、行きすぎた労働争議など社会的混乱の克服、現行憲法の制定、農地改革、教育改革、一ドル360円の固定相場制への移行、財政の確立をはじめ、新憲法制定にともなう内閣法、国会法、裁判所法、地方自治法、財政法、労働関係法、教育基本法、学校教育法、独占禁止法等の憲法関連諸立法を重ねて、今日にみるわが国民主社会の基本制度を固めたのでした」。






(私論.私見)