<海部総裁時代>
宇野内閣の退陣表明にともなう平成元年八月八日の総裁選出は、党大会に代わる両院議員総会で、両院議員と地方代議員の投票によって行われました。出馬したのは林義郎、海部俊樹、石原慎太郎の三候補でしたが、海部候補が過半数を獲得して、第十四代総裁に就任しました。国会の首班指名では、衆議院で海部総裁が、参議院で社会党の土井委員長が指名され、衆議院の議決が優先されて、海部総裁の就任が決定しました。なお、新総裁の任期がこの年十月末までの前総裁の任期を受け継ぐものであったため、十月六日に総裁選挙を告示、候補者は海部総裁一名であり当選。十月三十一日の第五十一回臨時党大会に報告し、海部総裁の再任が決定しました。
海部新首相は、九月末に開会した百十六回臨時国会における所信表明演説で、「対話と改革の政治」を旗印として「公正で心豊かな社会」を目ざすと、その政治姿勢を明らかにしました。政策面では、消費税について国民の声をよく聞き、消費者の立場を十分考慮して、見直すべき点は思い切って見直していくと述べるとともに、対外的には、竹下内閣以来の「国際協力構想」をいっそう積極的に推進すると、従来路線を継承する意思を示しました。また、社会の公正さに対する国民の信頼を揺るがしている原因として、特に地価の異常な高騰をあげ、宅地・住宅対策に積極的に取り組むと述べました。
この国会は、参議院選挙勝利の余波をかって、消費税を廃止に追いこみ、あわよくば政権の座を奪おうとする野党と自由民主党との対決の国会となりました。社会、公明、民社、連合の四会派は共同して、消費税廃止関連九法案を参議院に提出し、これを通過させましたが、審議の過程で多くのミスがあることが分かり、法案は修正を余儀なくされました。これに対して自由民主党は、精力的に国民の意見を聞き、十二月はじめに、飲食料品について軽減税率の適用、入学金や出産費、家賃等を非課税、総額明示方式等を盛り込んだ、消費税見直し案を決定し、その関連法案を次期通常国会に提出することとしました。
平成元年は、わが国政治における大きな変動の年でしたが、国際情勢はこれよりさらに大きな変動に見舞われました。
まずアジアでは、天安門事件という不幸な出来事はあったものの、三十年ぶりに中ソ間の国交が正常化されました。また、欧州では、ソ連のペレストロイカとグラスノスチが東欧諸国に波及し、誰の目にも社会主義による政治と経済の失敗が明らかになりました。各国がそれぞれに市場経済と民主化を模索しはじめましたが、とりわけ東ドイツでは、社会改革を要求するデモと大量の市民の西側への脱出がはじまり、政権の交代のなかで、十一月、ついにベルリンの壁が崩壊し、分断ドイツの再統一問題が浮かび上がりました。これをきっかけに東欧各国はなだれを打って社会主義からの離脱を表明し、さらにソ連を含めて各国で、民族自決を求める動きが顕在化したのです。
さらに、米ソ首脳は十二月に地中海のマルタ島で会談し、「東西冷戦の終結」を宣言しました。これは第二次世界大戦以来の世界秩序の枠組みとなってきたヤルタ体制の終焉を示すもので、世界はこの時から新たな秩序構築に向けて進むことになりました。
国内の最大の関心事は、言うまでもなく総選挙の日程でしたが、海部首相は、平成二年一月の百十七回通常国会の冒頭に衆議院を解散し、第三十九回総選挙の幕が切って落とされました。
野党は前年の参議院選挙での勝利の再現を夢み、再び消費税を争点にして、衆議院でも自由民主党を過半数以下に陥れようと画策しました。マスコミもこれを最大の焦点と煽り立てました。しかし、実施以来一年近い時日を経た消費税はすでに国民の間に根づきはじめていたのです。
二月十八日の投票の結果、自由民主党は過半数を割るどころか、安定多数をはるかに上回る二百七十五議席を獲得しました。国民は参議院選挙後わずか七ヵ月で再び自由民主党を信任したのです。社会党も一三六議席と善戦しましたが、公明、共産、民社はいずれも大きく後退しました。
二月末日、第二次海部内閣は発足し、首相は百十八回特別国会で、就任以来初の施政方針演説を行い、総選挙で自民党が安定多数を確保したものの、参議院で与野党逆転が続いていることをふまえ、「国民的合意を目指す」と対話を重視する姿勢を強調しました。続いて、日米首脳会談のため米国へ飛び、ブッシュ大統領とのあいだで、日米構造協議について懇談しました。米側は、新通商法三〇一条の対象品目を上げて解決を迫り、首相は、「新内閣の重要課題の一つとして力強く取り組む」と述べました。
この間にも自由民主党は政治改革の実現に向かって、精力的に取り組みました。自由民主党は、「党基本問題プロジェクトチーム」を発足させて、選挙制度改革に関して討議を深めるとともに、国会改革については、議会制度協議会を開いて、野党側の協力を求めるなど、精力的な活動を続けました。
こうした間にも、国際情勢は思いもよらぬスピードで展開を見せました。ソ連では、リトアニアの独立宣言を皮きりに、各共和国がそれぞれに自立を宣言し、最大のロシア共和国までが主権宣言を採択しました。東ドイツでは初の自由選挙が行われましたが、保守派のドイツ連合が勝利して、西ドイツへの編入によるドイツ統合が一挙に加速され、七月一日の通貨統合、十月三日の国家統一が決定されたのです。
アジアでも大きな変化が進みました。六月には「カンボジア和平に関する東京会議」が開催され、国民政府の代表とプノンペン政府の代表が自発的停戦をうたった共同コミュニケに調印しました。これは、戦後はじめて国際紛争に直接関与するわが国の調停で行われた意義深い会議です。また同じ六月、韓国の盧泰愚大統領は、米国サンフランシスコでゴルバチョフ大統領と電撃会談を行い、韓ソ国交の樹立の近いことを窺わせ、これが九月末の両国の国交正常化につながるのです。さらに朝鮮半島では南北の対話が進み、九月に南北首相会談が開催の運びとなりました。
世界は全体として、自由と民主主義を基調とする平和と安定の道をたどりつつあると思われましたが、八月初頭に起こったイラク軍のクウェート侵攻は、世界のひとびとを驚愕させました。国連安保理事会は直ちにイラク軍の即時無条件撤退要求を、続いて経済制裁を決議し、わが国もいち早くこれに同調して、石油輸入の禁止、投融資等の停止、経済協力の凍結等の措置を決めました。しかし、それにもかかわらずイラク軍は南進を続けたので、米国はじめ西側各国は軍隊を派遣して多国籍軍を形成し、アラブ首脳会議もアラブ合同軍の派遣を決定しました。また、ソ連も軍艦を出動させるなど、世界は上げて、イラクのクウェート侵攻に立ち向かったのです。これらに対してイラクはクウェート在住の外国人を人質とする作戦に出ましたが、国連安保理事会はさらに、経済制裁の実効性を確保するため、限定的な武力行使を認める決議を行いました。
わが国にとっての問題は、紛争解決に向けて、どのような具体的な貢献策を打ち出すべきかということでした。海部首相は、予定されていたサウジなど中東地域への訪問を取りやめ、代わりに中山外相を派遣して、各国と意見を交換させることにしました。外相の帰国後、政府は八月末、中東支援策として、各種輸送、資機材の提供、医療団の派遣、資金協力などを決め、このため多国籍軍への十億ドル協力と、周辺諸国と難民支援のための一千万ドル援助を発表しました。九月末には、海部首相が中東支援第二弾として、多国籍軍にさらに十億ドル、周辺諸国への政府開発援助として二十億ドルを決定するとともに、資金面の協力のみならず、人的面の協力を行うために、国連平和協力法を制定することを提唱しました。
海部総裁は政治改革関連法案が廃案となった責任をとり、任期満了に伴う平成三年十月に予定された総裁選挙への立候補を辞退しました。 |
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<宮沢総裁時代>
平成三年十一月五日、海部内閣の退陣を受けて召集された臨時国会で宮沢喜一自民党総裁が首相に指名され、宮沢内閣が発足しました。マスコミはこの内閣を「保守本流政権の登場」と論評しました。
これに先立ち、十月二十七日に自民党本部八階ホールで行われた自民党総裁選で、宮沢喜一氏は第十五代総裁に選ばれました。選挙は、渡辺美智雄氏、三塚博氏との三つ巴の争いで、宮沢氏二百八十五票、渡辺氏百二十票、三塚氏八十七票という結果でした。宮沢内閣が本格派政権と呼ばれたのは、宮沢首相が早くから総裁候補といわれ、ポスト中曽根政権を争った竹下登前首相、病に倒れて政権への望みを断たれた安倍晋太郎元幹事長の三人の「ニュー・リーダー」の最後の一人だったためです。宮沢首相が政策通として米国をはじめ海外での知名度が高かったのも本格派とされた理由のひとつでした。
折から、不可避となったソ連邦解体など国際情勢は激動の気配が高まる一方、国内はバブル崩壊の兆しを見せはじめた経済状況の下で激化する日米通商摩擦への対応を迫られるなど、日本政治をとりまく環境は極めて厳しいものでした。
発足した宮沢内閣には(1)国連平和維持活動(PKO)協力の推進(2)コメ自由化が焦点の関税・貿易一般協定(GATT)の新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)への対応(3)政治改革 の三つの大きな課題が待ち受けていました。宮沢首相は、党に綿貫民輔幹事長、内閣に渡辺美智雄副総理兼外相、羽田孜蔵相、加藤紘一官房長官という布陣を敷いて、そうした課題に取り組む強い決意を内外に示しました。翌年一月には、金丸信副総裁を新たに党の重鎮として加え、政権基盤をさらに強化、PKO協力法や政治改革をめぐる与野党折衝に備えました。
就任まもなくの十一月八日、宮沢首相は臨時国会で行った初の所信表明で「質の高い生活環境を創造して、所得のみでなく、社会的蓄積や美観など質の面でも真に先進国と誇れるような、活力と潤いに満ちた、ずっしりと手応えのある『生活大国』つくりを進めていきたいと思います」と述べ、「品格ある国・生活大国」の建設を大きな政策目標に掲げました。政治の師匠である池田勇人元首相が敷いた経済成長の路線から、国民生活の充実を重視する方向への転換を宣言したもので、バブル経済崩壊の兆しにおびえる国民の気持ちを反映したものでした。
宮沢内閣が成立を目指してまず取り組んだPKO協力法案は、海部内閣時代に国会に提出され、衆院で継続審議になっていましたが、カンボジアでのPKO活動の必要性が急浮上し、成立が急がれる状況でした。先の湾岸戦争で、多額の資金援助をしながら、「金は出すが人は出さぬ」と米国を中心とする国際世論の非難にあった日本としては、PKO協力法案が汚名返上への第一歩だったのです。
政府・自民党は参院での与野党逆転状況をにらみ、公明、民社両党との三党体制で成立させる方針をとり、両党と折衝した結果、いわゆる「PKO参加五原則」を法案に盛り込みました。(1)紛争当事国間の停戦合意の成立(2)PKO参加に当たっての紛争当事国の同意(3)平和維持軍(PKF)の中立厳守(4)条件が満たされない場合の日本部隊の撤収(5)隊員の生命保護のため必要不可欠な場合の小型武器の使用容認 がそれです。
ところが、公明党は賛成の方針を決めたものの、民社党は「シビリアン・コントロールの確保」などを理由に「PKF参加には国会の承認が必要」として譲らず、宮沢首相が誕生した年の臨時国会では、衆院を通過したものの参院で継続審議となり、決着は翌年の通常国会に持ち越されました。PKO法案をめぐる政府・自民党と公明、民社両党との調整は平成四年一月二十四日に召集された通常国会でも粘り強く続けられ、三党の合意がようやく成立したのは五月末でした。
「PKF参加の凍結」「国会の事前承認」「三年後の見直し」という合意は、政府・自民党にとっては譲歩した内容といえます。しかし、それでも六月十五日に成立したPKO法は、日本の国際貢献への第一歩として画期的であり、その後、この法律に基づいてカンボジア、モザンビークへのPKO部隊の派遣、ルアンダでの難民救済活動などが展開され、日本の国際貢献が高く評価されることになります。
このPKO修正法案をめぐる衆院本会議の採決は、社会党と社民連の牛歩戦術で混乱しました。加えて、両党は所属衆院議員全員の辞表を桜内義雄議長に提出して解散総選挙を狙う前代未聞の戦術をとりました。桜内議長は辞表を受理せず、預かるにとどめたため政治の空白を生まずに済みましたが、もし解散していればバブル崩壊の経済不振にあえいでいた国民生活に大きな打撃があったでしょう。自民党は、社会、社民連両党のそういったやりくちに対抗して内閣信任案を提出して自民、公明、民社の三党で可決、「自公民路線」を固めるという手を打ちましたが、国会の与野党対決ムードは高まりました。
日本の農業関係者が最大の関心をもって行方を見守っていたウルグアイ・ラウンドは宮沢内閣が発足して間もなくの平成三年暮れ、関税・貿易一般協定(ガット)のドゥンケル事務局長が農業分野でコメを含む例外なき関税化の最終合意案を各国に提示しました。加藤官房長官はすぐさま記者会見で政府の遺憾の意を表明しましたが、国際社会の流れに抗しきれぬとの見方もあり、この後、コメの自由化は政治の最大問題のひとつとして論議されていきます。
宮沢内閣にとって、コメ自由化問題を上回る難関は政治改革でした。リクルート事件以来、政治改革を求める世論は高く、これを踏まえて宮沢首相は平成四年通常国会の冒頭の施政方針演説で「政治改革に全力をあげる」と宣言、党総裁として、(1)衆院定数是正(2)政治資金(3)政治倫理(4)国会改革 の四項目について、早急に具体案を作成して通常国会中に法案成立にこぎつけるよう自民党に指示しました。しかし、何をもって政治改革とするかの論議が分かれるうえ、党内には衆院への小選挙区比例代表並立制導入を急ぐべきだなどの主張とこれに強く反対する意見があり、なかなか意見統一は難しい状況でした。
しかも、そんな状況に拍車をかけるように平成四年一月には鉄骨資材メーカー「共和」事件、二月には東京佐川急便事件が発生。三月二十日には栃木県で講演中の金丸副総裁に向けて短銃が発砲される事件などがあり、政界は騒然とした雰囲気に包まれていきます。
五月二十二日に細川護煕氏が既成政党を批判する立場から旗揚げした日本新党は、そうした雰囲気の中で国民の不満の受け皿になることを意図したもので、これが後の自民党からの一部勢力の離党につながり、自民党の下野、それまでの野党勢力による細川政権樹立へという流れの発端になりました。
宮沢首相は国内政治に汗を流す一方、外交に全力投球しました。平成四年一月八、九日の両日、日本を訪問した米国のブッシュ大統領との首脳会談が手初めで、課題は減速傾向をみせていた日本経済に、米国が最大産業である自動車業界の圧力を背景にどのような注文をつけてくるかでした。日米両首脳は五時間に及ぶ会談の結果、成長に重点を置いた政策協調をうたった「世界成長戦略に関する共同声明」と、両国の経済摩擦解消へ向けた「東京宣言」「行動計画」を発表しました。「行動計画」は日本が米国から購入する自動車部品の数値目標が入った厳しい内容でしたが、日米協調路線は維持されました。この訪日の途中、ブッシュ大統領が首相官邸で開かれた晩餐会で流行性感冒による胃腸炎で倒れ、世界を驚かせる一幕もありました。
宮沢首相は同一月に韓国を訪問して盧泰愚大統領と会談、続けて同月三十一日にはニューヨークの国連本部で開かれた初の安全保障理事会首脳会議に出席、ロシアのエリツィン大統領とも会談しました。首脳会議の席で、宮沢首相は日本の首脳として初めて安全保障理事会常任国入りへの強い意欲を表明し、その動きが以後一貫して日本外交の目標のひとつになりました。
四月には中国の江沢民国家主席が来日、平成四年が日中国交回復二十周年を迎えるのを機として、天皇、皇后両陛下に中国訪問を招請しました。両陛下はこれを受けて同年十月に、中国を訪問し、先の大戦から続く両国民の心情的わだかまりの解消と友好親善の前進に大きな役割を果たされました。
一方、国内政治は、平成四年後半から五年にかけて、政治改革が具体的進展をみないことや、相次ぐスキャンダルの発生で重苦しい状況が続きました。四年八月には佐川急便事件に関連して金丸副総裁が辞任、金丸氏は十月には衆院議員を辞職するやむなきに至りました。政府・自民党は四年八月に十兆円規模の緊急経済対策を発表しましたが景気が好転した実感は得られませんでした。
ただ、宮沢内閣に対する国民の支持は、難局に当たる首相の真摯な姿勢が好感をもたれて高く、四年七月に行われた参院選挙では自民党が改選議席(百二十七)の過半数を超える六十八議席を獲得、勝利しました。旗揚げしたばかりの日本新党は四議席でした。
そうした状況の中、政治改革を求める世論はますます高まりをみせ、十一月には東京・日比谷公園で民間政治臨調が四千人を集めて「中選挙区制度廃止宣言」を行うなど、マスコミを巻き込んだ改革不可避のムードが濃厚になって行きました。宮沢首相は、四年秋からの臨時国会で九増十減の衆院定数是正、違法な寄付の没収などの政治資金規正法改正案などを成立させる一方、自民党が同年十二月までにまとめた(1)衆院に単純小選挙区を導入(2)政党交付金制度の導入(3)派閥の弊害除去 など抜本的政治改革を実現する方針を掲げました。ところが、その直前に起きた不測の事態が、その後の予想外の政治展開につながり、実現にブレーキがかかります。
金丸氏の議員辞職をめぐる自民党内最大のグループの分裂がそれでした。小沢一郎元幹事長、羽田孜蔵相らのグループが、竹下氏、小渕恵三氏らと袂を分かち、新政策集団を結成。このグループは翌年六月、自民党を離党して新生党を旗揚げすることになります。
宮沢首相は、四年十二月十一日に党・内閣人事の改造を断行。党幹事長に梶山静六氏、総務会長に佐藤孝行氏、政調会長に三塚博氏を当てました。また、内閣では蔵相を羽田氏から林義郎氏に替えるとともに、官房長官に河野洋平氏を当て、自民党内の混乱の収拾と政治改革断行に向けた態勢をとりました。ただ、五年四月には渡部美智雄副総理兼外相が病気のため辞任、副総理には政治改革推進派の後藤田正晴法相が就任します。
宮沢首相は五年一月二十二日召集の通常国会で抜本的政治改革を実現するとして、施政方針演説でも強調します。しかし、それにもかかわらず、自民党内の意見は二分され、まとまりません。これが、後の新生党の旗揚げや、それと相前後した竹村正義、鳩山由紀夫氏らの自民党からの集団離党につながり、政局を激動させることになりました。
自民党は三月三十一日、政治改革四法案を党議決定しましたが、宮沢首相は党内情勢を考慮し、通常国会の閉幕が近づいた六月中旬、政治改革法案の成立を次期国会に先送りする意向を固めます。これに対して、野党陣営は内閣不信任案を衆院に提出、後に自民党から離党して新生党を作る羽田氏らのグループ、同じく新党さきがけを結成する武村氏のグループがともにこれに賛成票を投じ、六月十八日、不信任案は成立してしまいます。これに対し、宮沢首相は衆院解散を断行、七月四日に総選挙が公示され十八日に投・開票が行われました。
この選挙期間中には、東京で先進国首脳会議(東京サミット)が開かれ、宮沢首相は日ロ首脳会談に臨むなど、議長として各国首脳への応対に忙殺され、選挙戦を十分戦うことができませんでした。さらに、衆院選公示直前に東京地検がゼネコン談合事件を摘発、仙台市長が逮捕され、これが与党の選挙に不利となったことも否めません。選挙の結果、自民党は過半数を得るに至らず、宮沢首相は退陣を表明します。
宮沢内閣の後には、非自民勢力七党が連立した細川内閣が成立(八月六日)、自民党は保守合同後、はじめての野党に転落します。自民党の新しい総裁には七月三十日に河野洋平氏が就任しました。
この間の明るいニュースとしては、六月九日に執り行われた皇太子殿下と小和田雅子さまの結婚の儀がありました。 |
<河野総裁時代>
宮沢喜一首相が行った衆院の解散総選挙は、平成五年七月十八日に投・開票が行われました。自民党は解散前に新生党、新党さきがけ議員の離党で過半数を大きく割り込む状態になっていました。選挙結果は、自民党の議席は解散前に比べればやや伸びたものの、離党の穴を埋めるには至らず、二百二十三議席にとどまりました。衆院の過半数二百五十六議席を大きく割り込むことになったのです。
それでも、マスコミや永田町の多くは自民党と新党さきがけによる連立政権が続く可能性が高いとみていました。なぜなら、選挙に敗北したとはいえ自民党が比較多数の第一党であることは変わりなく、自民党以外に十分な政権担当能力がある政党がないのは明らかだったからです。
ところが、政局は予想外の展開をみせました。七月二十九日になって、新生党、日本新党、新党さきがけ、社会党、公明党など非自民の七党一会派がトップ会談を開いて、特別国会の首相指名選挙で日本新党の細川護煕代表を一致して推す合意をしたのです。自民党から政権を奪いたいという小沢一郎氏らの新生党が、社会党や細川氏に話をもちかけ、合意形成に成功したのでした。背景には、「国民が望む抜本的政治改革は守旧派が多い自民党にはできない」という、マスコミの一部が流したデマに近いプロパガンダがありました。
八月六日の衆参両院の本会議で細川氏が首相に指名され、自民党は昭和三十年の保守合同から維持し続けてきた政権を失い、野党となりました。十一か月後の平成六年六月末、自民党、社会党、新党さきがけの村山連立政権が成立して自民党は再び政権の中枢に戻りますが、それまでの間、ガラス細工と評された基盤の弱い非自民・非共産の細川連立内閣に国政をあずけることになったのです。それに伴い、自民党は衆院議長のポストも失い、女性として初めて社会党の土井たか子氏が議長席に座りました。
七月三十日、宮沢喜一総裁の辞任を受けて、自民党総裁選が行われ、官房長官だった河野洋平氏が第十六代総裁に選ばれました。選挙は河野氏と渡辺美智雄元副総理・外相の争いで、河野氏二百八票、渡辺氏百五十九票でした。自民党議員の間には、新鮮なイメージから人気が出始めた細川首相に対抗するには、いわゆる派閥の会長ではない河野氏が総裁にふさわしいという考えがあったのです。
宮沢内閣は八月五日に総辞職しました。これまでなら自民党総裁として後継首相になるはずの河野新総裁は、野党第一党の党首として国政運営に関与していく立場になりました。幹事長には森喜朗氏が就任し、河野−森体制の自民党は、これまでの野党のような「何でも反対」とか「反対のための反対」などはせず、国民の生活向上や国益追究の立場から、細川政権に是々非々で柔軟に対応していく姿勢をとりました。
細川連立政権の発足は組閣に手間取り、八月九日にずれこみました。副総理・外相に新生党党首の羽田孜氏、官房長官に新党さきがけ代表の武村正義氏が就任、社会党から政治改革担当相となった山花貞夫委員長ら五人が入閣しました。細川首相は、八月二十三日に行った初の所信表明演説で細川内閣を「政治改革政権」と位置づけ、記者会見では政治改革法案が平成五年内に成立しなければ責任を取って退陣するという決意を表明しました。
一方、細川首相は「非自民政権」を率いたにもかかわらず、「自民党の政策を継承する」と言明しました。しかし、細川政権は政策の立案、決定のシステムに重大な欠陥がありました。それは七党一会派の寄り合い所帯であるうえ、内閣の中の閣僚経験者は羽田孜氏一人で、いわば政治の素人集団による政権であることが主な原因でした。政策決定機関として八党・会派による「政策調整会議」が設置されましたが、うまく機能せず、どうしても官僚に頼らざるを得ない状態だったのです。
細川首相が記者会見で先の大戦を「日本の侵略戦争」と断定して各方面から強い批判を浴びたり、平成六年二月に、新たな間接税である「国民福祉税構想」(税率七%)を大蔵省などの言うがままに打ち出し、即座に撤回するという醜態を演じたのも、そうした政権の構造が遠因と言って良いでしょう。マスコミは、細川内閣を「官高政低」の政権と特徴づけました。
野党となった自民党にとって、政権を失う原因のひとつであった抜本的政治改革実現の足踏みをどう解消するかが、宮沢政権以来の大きな宿題でした。具体的には衆院の選挙制度改革が当面の課題で、河野総裁を先頭に精力的な検討を続け、平成五年九月二日に、衆院の定数を四百七十一に削減し、それまでの中選挙区制を小選挙区比例代表並立制に変える政治改革要綱を決定しました。細川内閣が政治改革関連四法案を閣議決定したのは、その二週間ほど後でした。衆院の特別委員会で政治改革関連法案の実質審議が始まったのは十月中旬、この後、衆院比例代表並立制の定数配分などをめぐって、自民党と連立与党との修正協議が続きます。
この前後、東京地検が大手ゼネコンの副会長を贈賄で、宮城県知事を収賄で逮捕し、国民の批判が政治と公共事業との関係に集まりました。また、政治改革をめぐって内部対立のあった社会党の委員長が山花氏から村山富市氏に交替、久保亘氏が書記長に就任するなどの動きもありました。
政治改革に賛成する議員を「改革派」、反対する議員を「守旧派」とマスコミなどがレッテルを張ったことも影響し、国民世論は改革の実現を求める声一辺倒の印象でした。そうした中、与野党の修正協議は自民党の柔軟姿勢もあって、十一月五日から十日の間に比例と小選挙区の定数配分など七項目を協議し、さらに、同十五日、河野−細川会談を行ったが合意には至らず、十六日の衆院本会議ではわが党案が否決されて与党案が可決され、参院に送付されました。
しかし、参院での審議は、細川政権の力不足と、景気低迷の中で平成六年度予算案編成を優先すべきという意見が連立内閣の中から出たことなどから、遅々として進みません。そのあげく、翌年一月二十一日の参院本会議で法案は否決されてしまいました。法案を成立させるには、衆院と参院が両院協議会を開いて修正し採決しなおす必要がありますが、その両院協議会も決裂したのです。
河野総裁は細川首相とのトップ会談で事態の打開を図る決意をします。一月二十九日、内外の注目の集まる中で両首脳の会談が行われ、細川首相は河野総裁の主張する自民党の意見を取り入れた再修正を受け入れました。この結果、小選挙区三百、ブロック別の比例代表計二百、合わせて定数五百の小選挙区比例代表並立制導入を主な内容とする政治改革関連法案が、衆参両院の本会議で可決され、やっと成立したのです。
政治改革はまがりなりにも出来たのですが、平成六年春には、早くも細川政権の前途は暗雲に包まれていました。前年暮れには関税貿易一般協定(ガット)の新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)が最終局面を迎え、政府はコメ市場の部分開放(ミニマム・アクセス)と関税化を受け入れましたが、国内対策は不十分で、農業関係者には強い不満が残りました。五年十二月には中西啓介防衛庁長官(新生党)が憲法発言などで辞任、熊谷弘通産相(新生党)の省内人事に通産官僚が抵抗するなどの騒ぎもありました。六年二月の細川首相と米国のクリントン大統領による日米包括経済協議をめぐる会談は、日本側の輸入拡大を目指す数値目標に話が及び、決裂してしまいました。前述した国民福祉税構想の挫折もありました。
しかし、そうした個別の政策的失敗よりも、政権の命を縮めたのは新生党と新党さきがけの政権内部の対立であり、致命傷は細川首相個人のスキャンダルでした。前年、平成五年十二月、東京佐川急便からの一億円借り入れ疑惑が発覚します。国政の最高責任者である首相の疑惑を自民党が見過ごす訳にはいきません。六年三月、党に「細川総理の疑惑に関する特別調査会」を設置して、徹底的に調査し追及することになりました。国会での追及に、最初は「ない」と答えた細川首相は次には「一億円は借りて返した」に変わり、返したなら領収証を提出するように求められると答えに窮したのでした。
平成六年四月二十五日、細川内閣が総辞職し、その日の衆参院本会議で同じ七党一会派によって後継首相に新生党党首の羽田孜氏が指名され、二十八日に新内閣が発足しました。ところが、この直後、政権内部で異様な動きが起きます。それは、新生党や民社党などによる社会党を除いた国会内会派「改新」結成でした。いわば社会党追い出し作戦といって良く、これに社会党は激怒、連立を離脱し、羽田政権は瞬く間に少数与党内閣に転落してしまったのです。
このため、羽田内閣は政策らしきものは何一つ打ち出せず、右往左往します。見かねた河野総裁、森幹事長らは国民生活を守るために内閣不信任案を衆院に提出。羽田首相と新生党の小沢一郎代表幹事が官邸にこもって協議した結果、内閣総辞職と決まり、羽田内閣はわずか二カ月で終焉してしまったのです。
そうなると、国民の期待は責任政党である自民党に当然のように集まります。自民党の選択肢は、社会党が抜けた羽田内閣の政権与党と組むか、それとも社会党と組むか。わが党内のさまざまなグループ、集団が、社会党、新党さきがけと提携するのがベターと考え、その可能性を模索し始めました。
自民党と社会党はいわゆる五五年体制といわれた自民党政権が続いた時代に、長く国民の支持を分け合って対決して来た歴史がありました。したがって、それまでの常識では自社の連立内閣は考えにくいものでした。ところが、その常識が覆ります。自民党の真剣な姿勢に社会党が政策転換を約束して応えることになったのです。
六月二十八日、森幹事長は社会党の久保亘幹事長と会談して正式に村山富市社会党委員長を首相とする連立内閣を提案、同日の河野−村山会談で「自社さ連立政権」の合意が正式に成立しました。衆院本会議で首相指名選挙が行われたのは二十九日。非自民連立側は海部俊樹元首相を立て、決戦投票で村山氏が首相に選ばれました。自民党は再び政権与党に復帰したのです。三十日、村山政権は副総理・外相に河野自民党総裁、蔵相に武村正義新党さきがけ代表、官房長官に社会党の五十嵐広三氏というメンバーで発足しました。政権の骨格を事実上、経験豊富な自民党が支える体制であったのは言うまでもありません。
社会党はこの後、九月三日に開いた臨時党大会で、これまで違憲としていた自衛隊を合憲とし、日米安保条約を認める歴史的な政策転換を行いました。野党となった非自民連合側は、新生党が同年十一月に解党し、公明党の衆院議員、民社党、日本新党などが合流して新進党(海部党首、小沢幹事長)を結成、自社さ政権に対抗する態勢を作ります。
村山首相は、ナポリ・サミット(七月八日)、日韓首脳会談(七月二十三日、ソウル)、東南アジア歴訪(八月末)、アジア太平洋経済協議(十一月十二日、ジャカルタ)、日米首脳会談など、不慣れな外交にも力を入れ、自民党の支えで政権運営に励みました。内政でも、消費税率引き上げの税制改正、衆院小選挙区の区割法制定、年金法改正、自衛隊法の一部改正など、重要施策を次々と実現していきました。
村山政権に大衝撃を与えた阪神淡路大震災が発生したのは平成七年一月十七日未明。六千四百二十五人もの尊い生命を奪い、近代都市神戸を壊滅状態にした未曾有の災害は、政府・首相官邸の危機管理、もっと広く言えば日本全体の危機管理を、深い反省とともに再点検し、新たなシステムを構築する必要性を痛感させたのでした。村山政権は緊急復旧費として一兆円規模の平成六年度第二次補正予算を組みました。
自民党が屋台骨を形成した自社さ連立の村山政権は、かなりの実績をあげ、頑張り続けました。七年八月には、戦後に区切りをつけアジア各国への日本の立場を明確にする「戦後五十年の国会決議」を衆院本会議で行いました。ただ、平成七年春の統一地方選では、東京都知事に青島幸男氏、大阪府知事に横山ノック氏が政党の推薦を受けずに当選するなど、無党派層有権者の拡大がみられ、政治情勢は必ずしも安定しませんでした。
そんな中で行われた七月二十三日投票の参院選挙も波乱含みに推移し、自民党は三年前の獲得議席六十七を大幅に下回り、四十六議席にとどまりました。また、獲得議席は新進党の四十議席に負けはしなかったのですが、比例区の得票では新進党が上回ったのでした。この結果が、この年秋の自民党総裁選で、河野氏から橋本龍太郎氏に総裁が交替する動きにつながっていきます。 |
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