自民党史3 | 国家的自立へ向けて |
初代 | 鳩山 一郎(鳩山総裁時代) | 昭和31年 4月 5日〜昭和31年12月14日 | |||
第2代 | 石橋 湛山(石橋総裁時代) | 昭和31年12月14日〜昭和32年 3月21日 | |||
第3代 | 岸 信介(岸総裁時代) | 昭和32年 3月21日〜昭和35年 7月14日 |
【鳩山総裁時代後期】 |
(総評)日ソ国交回復。 |
1955(昭和30)11.22日第三次鳩山内閣が成立した。官房長官・根本竜太郎、副長官・松本滝蔵、田中栄一、幹事長岸(岸派)、総務会長石井光次郎(石井派)、政調会長水田三喜男(大野派)の布陣で、主要閣僚は留任した。科学技術庁長官に正力松太郎らが新たに加わった。この時日ソ国交回復が為されることになる。 民主・自由両党の合同による新党結成から約4カ月間、自民党は、総裁代行委員制のもとで地方の党組織の確立に全力をあげ、都道府県支部連合会の結成を完了したので、1956(昭和31).4.5日、第二回臨時党大会を開いて、国会議員に地方代議員を加えた総裁選挙を行い、初代総裁に鳩山一郎氏を選出した。 これを契機として、大衆政治家としての鳩山新総裁と、自民党に対する国民の期待の高まりがまさに爆発的なものになった。同年7月の参議院選挙では、このような国民的人気を背景に、鳩山首相は、不自由な身体をおして全国遊説し、「友愛精神」の政治理念と、日ソ国交回復、独立体制の整備、経済自立の達成などの政策目標を訴えて、いわゆる”鳩山ブーム”を巻き起こした。その結果、自民党は、非公認当選者を加えて全国区、地方区合計で64議席を獲得、社会党を圧倒した。 また政策面でも、鳩山内閣は、独立体制整備と経済自立の達成をめざして、「憲法調査会法」、「国防会議構成法」、「新教育委員会法」、「日本道路公団法」、「科学技術庁設置法」、「首都圏整備法」、「新市町村建設促進法」等の立法化を行い、内政面でのめざましい充実をはかったほか、外交的にも、フィリピンとの賠償協定を締結して戦後処理をさらに一歩前進させた。 鳩山内閣時代の不滅の業績は、戦後の長い外交懸案だった日ソ国交の正常化である。鳩山首相の指示を受けて日ソ国交回復交渉が進められていった。1956(昭和31)4月下旬外相・河野一郎が24名の全権団を率いて対ソ連交渉に出かけた(「河野全権団の対ソ外交」)。交渉の相手はイシコフ漁業相が団長、副団長はモイセーエフ、ソルダテンコ。ブルガーリン首相との直談判に漕ぎ着けた。党第一書記フルシチョフもいたと伝えられている。 この時、「北方領土問題」が話し合われており、「日露戦争で日本が勝ったときには、ソ連から樺太も取ったし、漁業権益も取った。今度は日本が負けた。こっちの言うことを聞くのは当然であろう。もし、国後、択捉島を返還したら、ソ連は戦争に勝ったのかどうか判らないではないか。そんな馬鹿なことは、ソ連首相として出来る筈がない」との反論が為された。5.9日日ソ漁業協定妥結、調印は5.15日。日ソ復交への道が開かれた。5.26日河野一行は帰国した。 この日ソ国交回復交渉を廻って党内が割れた。自民党内の主流派(鳩山.石橋.河野派)は日ソ国交促進論、岸派と石井派は慎重論、反主流派は二つに分かれていて、旧改進党系(松村.三木武夫.北村徳太郎)は即時復交論、吉田系池田派は絶対反対論を唱えていた。 |
【ポスト鳩山の後継争い】 |
【石橋総裁時代】 |
(総評)短命となりこれという業績は無いが引き際の潔さで範を示した。 |
12.20日第三次鳩山内閣退陣。「明鏡止水」の弁を残しての引退となった。しかし、後継争いは激化し、鳩山退陣後の政局で、自民党内は岸信介と石橋湛山と石井光次郎の三者が争う。岸を擁立したのは、岸派、佐藤派、河野派、大麻派。川島正次郎を筆頭に、赤城宗徳、椎名悦三郎、南条徳男、福田赳夫らが参謀となった。石橋を擁立したのは、改進系革新派の石橋派、三木派、石田博英が指揮をとった。石井を擁立したのは、旧緒方派、石井派、池田派。 12.14日鳩山内閣退陣の後を受けて自民党総裁選が戦われた。第一回公選結果は、岸223票、石橋151票、石井137票、いずれも過半数とならず決選投票に持ち込まれた。誰もが岸総裁実現と思いきや、石井グループが石橋支持に回り石橋258票、岸251票となり、石橋が7票差という歴史的僅差で岸を破った。こうして石橋湛山氏が第二代自民党総裁に選出された。 ところが、残念なことに、翌1957(昭和32)年、新春早々からの全国遊説と、予算編成の激務が原因となって病に倒れ、同年2.22日、「私の政治的良心に従う」との辞任の書簡を発表して、政権担当いらいわずか9週間で、石橋内閣は総辞職のやむなきにいたった。しかし、このときの石橋首相の責任感にあふれた潔い態度は、ひとり政治家のみならず、一般国民にも深い感銘を与えた。 65日間の石橋内閣 その実績としては、わずかに前半、全国遊説の先々で国民に訴えた抱負と、首相臨時代理の岸外相によって代読された施政方針演説が残されただけであるが、石橋首相はその潔い出処進退によって政治家のモラルのあり方を示し、これには野党も敬意を表し、世の中も石橋首相のために同情と賛辞を惜しまなかった。 |
【ポスト岸の後継争い】 |
【岸総裁時代】 | ||||||||||||||
(総評) | ||||||||||||||
首相就任からわずか1ヶ月あまりの1957.1.25日石橋首相が老人性急性肺炎で倒れたことにより内閣が瓦解することとなった。1.31日後継として岸外相を首相臨時代理に指名、2.4日の施政方針演説も岸が行った。2.22日退陣表明。2.23日石橋内閣総辞職。後継問題に異論なく、2.25日の衆参両院本会議で岸が首相に任命された。こうして岸内閣が組閣された。三役、閣僚はそのまま引き継がれた。 その政治史的意味は、A級戦犯容疑者であった岸が首班となったことと戦前の官僚派政治家であったことにある。A級戦犯容疑者としての「巣鴨組」の政界進出者には重光、賀屋興宣らがいるが、岸だけが首相の座についたことになる。「戦時のことは十分反省して、今日では民主政治家として充分国民のために働く覚悟である」と声明している。 この頃アメリカからは「防衛力の強化」が要望されていた。岸は、「対等の日米関係の構築」を目指すことになった。しかし、こうした意向を受けた岸の努力は、敗戦醒めやらぬ国民の反軍事感情と齟齬していくことになった。岸内閣は、日本の自主性や平等化等民族独立的要求を掲げる一方でサ体制の再編強化の道を推進した。 この岸の功罪を巡って賛否がある。安保の改定は、それ自身は旧安保に対する改善であった。よく池田と比較してこうも言われる。池田を好む者は、彼のソツのあることを誉め、岸を嫌うものは彼のソツの無さを嫌う。「あばたもえくぼ」か「坊主にくけりゃ袈裟まで」か。 岸内閣は3年4カ月続くことになる。岸内閣の功績として二つの側面から評価される。一つは見落とされがちであるが、この時代に自民党の政治的基盤が中央、地方を通じてがっちりと、日本の政治の中に定着していったことである。もう一つは、独立後の戦後日本の建設方向を明確に指針させ、新しい内外政治の本格的な推進に取り組んだことである。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「このような自由民主政治の基礎固めと、内外政治の面で果たした新しい前進は、このあとに続く自由民主党政治の『栄光の時代』への礎石を築いたものとして、高く評価されるものだった」。 首相就任直後の3月、第4回党大会で第3代総裁に選任されたとき、岸新総裁は、次のように就任の抱負を述べた。「自由民主党の伸びが、たんに議席の増加としてではなく、また選ぶものと選ばれるものの間が、因縁のきずなによって結ばれるものでもなく、選ぶもの一人ひとりに、自由民主党を支持する理由がはっきりするようになること、また農民、勤労者、婦人、青年の方々に、真に信頼を託しうる近代的な政党として理解されるよう、党風の刷新と組織の拡充が行なわれなければならない」。 このような党近代化と、幅広い国民的な組織政党をめざそうという岸総裁の意欲的な指導のもとに、自民党は、同年9月から10月にかけて、党役員・閣僚を総動員して全国遊説を行い、自民党の政治理念と政策を国民に訴えるとともに、党勢拡張のため「五百万党員」の獲得運動を全国的に展開した。やがてこうした積極的な努力が実を結び、中央、地方を通じて、各種選挙での圧倒的な勝利をもたらし、自民党の政治的基盤が確固不動のものとして安定するに至った。 岸内閣は、このような政治的安定に自信を得て、進歩的国民政党の自覚のもとに、内外政策の力強い推進に乗り出していった。この間の最大の政治的な業績は日米安全保障条約の全面改定達成であった。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「岸内閣は、左翼勢力の激しい集団暴力にも屈せず、従来の不平等な日米安保条約の改定に全精力をつぎこみましたが、この日米新安保条約こそは、その後の激動するアジア情勢の中でのわが国の安全確保と、世界の平和維持に貢献したばかりでなく、世界の驚異といわれる経済的繁栄の達成を可能にした大きな要因となったもので、その意味で岸内閣の果たした役割は、まさに歴史的な功績だったといえるでしょう」。 5月岸首相が東南アジア歴訪。6.3日台湾の台北で蒋介石国民政府総統と会談。この時岸は、「日本の外交は、容共的、中立的な立場は取らない。中国大陸が、現在、共産主義に支配されていて、中華民国にとって、困難な状況にあることは、同情にたえない。大陸の自由回復には、日本は同感である。ある意味では、共産主義が日本に浸透するには、ソ連よりも、中国からの方が恐ろしい。国府が大陸を回復するとすれば、私としては、非常に結構だと思う」と述べている。 6.19日岸首相、「安保条約の再検討」の構想を抱いて渡米、アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官と会談。「安保条約はどうしても対等な関係における相互援助条約の格好にもっていかなくてはならない」が岸首相の信念であったと伝えられている。6.21日日米共同声明を発して帰国、同時に内閣改造して岸体制を確立し、「日米新時代」と称せられる第一歩を踏み出した。先に51年講和会議によって設定された日米間の基本コースの上に、日本が新たな政治的外交的地位を要求することを推進することとなった。 岸内閣時代の政治的業績としてとくに見逃せないのは、次の諸施策である。まず内政面では、
また外交面では、
などの功績を見逃すことはできない。国連加盟後、なお日の浅いわが国が、三十二年十月には国連安全保障理事会の非常任理事国、三十四年十月には同経済社会理事国に選ばれたのも、そうした外交努力の一つの成果であった。 1958.6.12日第二次岸内閣が成立(〜1959年6月18日)。官房長官・赤城宗徳、幹事長川島正次郎(岸派)、総務会長河野一郎(河野派)、政調会長福田赳夫(岸派)、副総裁大野伴睦の布陣で、法務・愛知揆一、 外務・藤山愛一郎、大蔵・佐藤栄作、経済企画庁長官・三木武夫、無任所・池田勇人らが登用された。 1959.2月岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「 しかし、岸内閣時代の後半は、教職員の勤務評定問題、警察官職務執行法の改正問題等をめぐって、社会党、総評、共産党などこれに反対する左翼勢力と鋭く対立し、やがて日米安全保障条約の改定問題にいたって、自由民主陣営と左翼陣営との対決は頂点に達したのです。このように政局が、二つの勢力にわかれて激突し、はげしく相争った原因としては、まず第一に、当時の冷戦時代を背景に、東西両陣営の国際的対立がそのまま国内政治に反映したこと、第二には、「独立体制確立」の立場から、行き過ぎた占領行政のより現実的で、国情に即した是正に積極的に取り組もうとした岸内閣の施政に対して、観念的なイデオロギーや、社会主義政党としての立場に固執する社会党など左翼勢力が、教条的な対決行動に出たことなどが指摘できるでしょう」。 6.16日第二次岸内閣改造。官房長官・椎名悦三郎、幹事長・川島正次郎(岸派)、総務会長・石井光次郎(石井派)、政調会長・船田中(大野派)の布陣で、大臣として外相・藤山愛一郎(留任)、蔵相・佐藤栄作(留任)、通産相・池田隼人、農相・福田赳夫、科学技術庁長官・原子力委員長・中曽根康弘、防衛庁長官・赤城宗徳らを登用している。この人事の特徴は、これまで主流派だった大野、河野派が反主流へ、反主流だった池田、石井派が主流派へと、党内の配置が全く逆転したことにあった。 59年から60年にかけて、日米安保条約の改定問題が、次第に国民的な課題となって押し出されつつ急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。そういう面もあったが、新安保条約が、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背するものでもあった。この時岸首相は、ここのところの論議を避けて強権的に日米安保条約の改定に向かおうとしていた。これが反発を余計に生んでいくことになった。 2.2日に「安保国会」が幕をあけた。2.5日新安保条約が国会に上程され、2.11日衆議院に日米安保特別委員会が設置され審議が始まった。討議は条約の基本的性格、相互防衛義務、事前協議、条約区域、極東の範囲、沖縄問題等々、広汎に進められた。野党側が鋭く政府を追及し、特に事前協議において、日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことができるのか、日本側に拒否権が認められるのかという問題が論議の中心となった。しかし論議は平行線で噛み合わなかった。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。 5.19日政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。この時自民党は警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。11時7分頃、清瀬議長の要請で座り込みをしている社会党議員団のゴボウ抜きが強行された。 |
(私論.私見)