自民党史2 | 自由民主党結党の流れ(自由民主党結成) |
しかし、吉田政権の長期化は次第に人心の倦怠を生み始めた。1952(昭和27)・4月の平和条約による独立回復と日米安保条約の発効を境に、右派政界に反吉田の動きが顕在化していった。1952(昭和27).10.30日第4次吉田内閣が成立。幹事長林譲治、総務会長・益谷秀次、官房長官・緒方竹虎の布陣で、通産相・池田隼人、運輸相・石井光次郎、建設相・佐藤栄作等が登用されていた。(この後、鳩山派が旗揚げしている。25名が結集し、三木武吉が鳩山を御輿に乗せて、委員長・安藤正純で発足しているとあるが、少々流れが不明) 1953(昭和28).4.19日総選挙で、吉田首相率いる自由党は、過半数を大きく割る199議席、改進党は76議席、社会党138名(左派社会党は72議席に躍進、右派社会党は66議席にとどまった)、鳩山系自由党は35、諸派・無所属12、共産党1名。4.24日の第3回参議院選挙でも、吉田系自由党、改進党、右派社会党、左派社会党、緑風会の勢力図は変わらない。 この衆参選挙結果を一見するに、1953(昭和28)頃に政界が民主党、自由党の右派勢力と日本社会党左派、右派の左派勢力に二分された観がある。共産党は党内分裂抗争の煽りで議会勢力としては跡形も無くなっていた。以降、4大党派の対立による政局不安をどう収拾していくのかが当事者の課題となった。民主、自由両党の合同、左右両派の社会党の合同による政局安定を求める動きがますます強まっていった。いよいよ戦後民主政治も、十年間にわたる「準備期」を終えて、新しい「興隆期」に向かって、大きく飛躍すべき転換期にさしかかっていた。 その統合化の第一弾が次の動きであった。1953(昭和28).5月ごろ、自由党内部に「民主化同盟」発生。吉田政権を揺さぶることになる。鳩山派、石橋派、中間派が結集し、60数名の勢力となった。石田博英議会運営委員長を中核として、塚田.倉石.小金、吉武労相.水田政調会長。舞台裏には三木武吉、河野一郎の策士、三浦義一、児玉誉士夫らが見え隠れしていた。「反乱軍」とネーミングされた。この「反乱軍」に、吉田派側近は、逆に広川弘禅農相、池田蔵相、佐藤逓政相、保利茂官房長官の「四者同盟」を結成して対抗した。 この頃の1954(昭和29)・7.1日陸海空の自衛隊が発足している。「日本再軍備」の流れであるが、戦後初期のGHQの解放政策が頓挫し、冷戦構造時代へ転換したことを物語っている。こうした情勢が右派勢力を元気付け、「保守合同」による政局転換をめざす気運を急速に高めていった。吉田首相もついに1954(昭和29)・11月頃政局打開のため進退を党の会議に一任する旨の書簡を自由党幹部に送った。 1954(昭和29).11.24日かって日本自由党の創立者の一人であった鳩山一郎は吉田と対立し自由党を脱退し「日本民主党」をつくった。自由党内反吉田グループと改進党、「8人の侍」らが合体していた。衆議院121名、参議員18名であった。総裁・鳩山一郎、副総裁・重光、幹事長・岸、総務会長・松村謙三、最高委員・芦田均、石橋湛山、大麻唯男の布陣で、「反吉田」勢力の新保守党の結集となった。これにより吉田首相の政治力が低下した。寝業師三木武吉が活躍している。岸は当選後1年半足らずで政界の中枢の一角に無視し得ない力を築くことになった。 これにより自由党は185名に転落したが、ここから保守勢力の底力が発揮される。戦後保守勢力が自由党と民主党という二大潮流に整理され、続いて再編成統合されていくことになる。 |
【鳩山内閣時代前期】 |
(総評)保守合同。 |
11.30日第20回臨時国会が開幕。12.6日岸・民主党幹事長、和田博雄・左派社会党書記長、浅沼稲次郎・右派社会党委員長が協議し、翌12.7日内閣不信任案上程を確認した。12.7日最後まで解散を主張し大悶着となったが遂に吉田内閣総辞職。自由党は吉田に代わって跡目相続していた緒方竹虎の手に委ねられた。退陣前の吉田の鳩山観として、概要「私が辞任するときはだ、私の政策を継承できる人間が、後継者でなくてはならん。鳩山には政権は渡さん。あの病人に何ができる。思想も政策も私と逆だ。憲法改正、再軍費゛‐‐‐危険だ。あれが天下を取るようなら、私は断じて止めない」と述べたと伝えられている。 このあとをうけて、日本民主党総裁の鳩山一郎氏が、1954(昭和29)年12.10日、首相に指名されて、第一次鳩山内閣が成立した。鳩山にとっては組閣寸前での公職追放以来雌伏9年でようやく回ってきた首相の座となった。鳩山首相の政治史的意味は、官僚派吉田の潮流に対抗する党人派の巻き返しであったことにある。 鳩山は、政策スローガンとして「明朗にして清潔な政治」を掲げた。それまでの吉田式官僚政治に対するアンチであった。鳩山は党人派政治家であったことから、全国に鳩山ブームが起きた。この内閣の政策には、復活しつつあった日本独占資本の要求がこれまで以上に強く反映した。(1)・自衛のための憲法改正、(2)・ソ連との国交回復による日ソ国交正常化と国連加盟を二大政策目標に掲げた。その他、(3)・小選挙区制、(4)・住宅問題の解決、(5)・中小企業対策の充実、(6)・失業対策の強化、(7)・税制改革、(8)・輸出の振興等を重点政策に掲げていた。 外交について、前首相の吉田のそれを「向米一辺倒」の「秘密独善外交」と揶揄していた鳩山は、「自主的な国民外交」を対置しソ連との交渉の機を窺うことになった。鳩山は、首相就任後の初の記者会見で、「恐れているのは米ソ戦争だ。米ソ戦を防ぐには中ソとの関係を断交状態に置くことは逆効果で、相互の貿易、交通を盛んにすれば自ずから平和への道が開ける」と語っていた。組閣後、農相河野と総務会長三木を招き、「僕の政治家としての使命は、日ソ交渉と憲法改正にある。他の問題は何でも両君の云うと通りついていってもいいが、二つの問題だけは、僕の意見について来て貰いたい」と並々ならぬ決意を語っている(河野「今だから話そう」)。 |
吉田ワンマン体制から鳩山内閣への移行期は、『保守合同』への動きを準備していた。この動きは1953(昭和28)年ごろから活発化していたが、1954(昭和29)・11月の改進党と日本自由党の合同による「日本民主党」の結成を経て、「日本民主党」と「日本自由党」の恩讐を越えた調整が始まる。この頃、緒方竹虎が吉田の跡目を継いでいたが、鳩山民主党の総務会長・三木武吉が自由党と民主党の合同を執拗に策す。 1955(昭和30)4.13日民主党総務会長の三木武吉氏が、大阪での記者会見の席上、保守合同をぶちあげた。「今や保守勢力結集による政局安定はダ、民主・自由両党ともごく一部の感情論を除けば皆強く望んでいる。185名の少数党の民主党で政策推進を行うということ自体がダ、根本的に無理である。民主党はダな、自由党に対し、引き抜きや切り崩しなどの工作をせず、近く表玄関から呼びかけるつもりだ。保守結集の形は、合同でも提携でも構わないが、その時機は今や熟しておると言ってもいい」。民主党結成後まだ半年も経っておらず、第二次鳩山内閣発足から僅かに1ヶ月のこの時「保守結集の為なら、鳩山内閣は総辞職しても良い。民主党も解党しても良い」と言い切り、まさしく爆弾発言となった。「大目的の為には、昨日の敵は今日の友、自由党総裁緒方はもとより、吉田といえどもだ、今度は手を握る努力をせねばならん。保守の総結集は、わしの最後の政治目的だ」が、本意であった。三木提案と呼ばれる。財界が保守合同歓迎の意向を示していた。 この提案に対し、民主党内は大きく割れた。歓迎派が岸や根本龍太郎。反対派は松村や三木武夫ら。三木武吉は自由党の窓口に、やはり総務会長であった大野伴睦に白羽の矢を立て、交渉を続けた。二人はそれまで犬猿の中で、三木は大野を「雲助」と呼び、大野は三木を「タヌキ」と罵詈し合っていた。 1955(昭和30)5.15日民主党総務会長三木武吉と自由党総務会長大野伴睦が保守合同を目指して会談している(民主・自由両党幹部会談)。この二人は30年来の政敵であったが、「救国の大業を成就させたい、保守合同が天下の急務」との思いで極秘会談した。この時三木は、「今や政敵の関係を離れて国家の現状に心を砕くべき時期だ。日本は放っておいたら赤化の危機にさらされること、自明の理だ。天地神明に誓って私利私欲を去り、この大業を成就させる決心だ」。「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」との名文句の生みの親大野はこれに応えた。「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、お国のためじゃと云えばよい」と歌になったシーンである。都合60数回に及ぶ極秘会談が重ねられたと伝えられている。 5.27日民主党の岸幹事長、三木総務会長、自由党の石井幹事長、大野総務会長の四者会談が開かれ、その流れで6.4日鳩山・緒方両党総裁会談が実現した。会談後、「両党総裁は、保守勢力を結集し、政局を安定することに、意見の一致をみた。これが実現には、両党の党機関をして当たらせる」声明を発表した。鳩山民主・緒方自由両党総裁の党首会談から、本格的な自由民主勢力の合同への動きが始まったことを思えば、鳩山・緒方両党総裁会談は歴史的な会談となった。 これをきっかけとして事態は急進展し、6月末難交渉を経て、両党より10名ずつの政策委員が選ばれ、政策協定づくりに向かうことになった。この時の委員は、民主党側から福田赳夫、中村梅吉、井出一太郎、早川崇、堀木謙三。自由党から水田三喜男、船田中、塚田十一郎、灘尾弘吉らの面々であった。自民党史の「保守合同前史」は次のように記述している。「民主・自由両党から選出された政策委員会で、新党の『使命』、『「性格』、『政綱』づくりの作業が進められる一方、新党組織委員会では、新党の基盤になる党組織の構造の研究が行われ、その成果にもとづいて広く国民に根をおろした近代的国民政党としての『組織要綱』、党の民主的運営を規定する『党規・党則』、『宣伝広報のやり方』等の立案作業が行われました。 9.22日「保守合同のためには、自由、民主両党議員全員で、新党結成準備会を結成する」と、民主党が党議決定を可決、9.25日自由党もこれを可決した。やがて、これら新党の根幹となるべき『政策』、『組織』の基本方針の策定が完了したので、10月には政策委員会も新党組織委員会も『新党結成準備会』に切りかえられ、政党の生命ともいうべき『立党宣言』、『「綱領』、『政策』、『「総裁公選規程』等が最終決定されたのです。最後まで問題になったのは新党の名称であったが、広く党内外に公募した結果、自由民主主義を最も端的に象徴する『自由民主党』に決定した。 |
この保守合同の経過について格別に検討されるに値するように思われる。自民党史の「保守合同前史」はこのことを次のように語っている。「そのような環境の中で、国民も政治家も、実に多くのことを体験し、学びました。そして、やがてその貴重な体験と反省の中から、わが国が真に議会制民主政治を確立して、政局を安定させ、経済の飛躍的発展と福祉国家の建設をはかるためには、自由民主主義勢力が大同団結し、一方、社会党も一本となって現実的な社会党に脱皮し、二大政党による健全な議会政治の発展をはかる以外にない、という強い要望が国民の間にも、政治家の間にも芽生えてきたのでした」。 |
興味深いことは、1955(昭和30)年は左右両派で政界再編成が進んだ歴史的な年となったということである。まず、共産党が先鞭を付けている。7.27日に「日本共産党第六回全国協議会」(「六全協」)を開催し、「50年分裂問題」に終止符を打った。新執行部は、それまで指導してきた徳球―伊藤律系主流派を排斥し、野坂―宮顕連合という穏和派を頂点に据えた上で党を合同した。 こうした共産党の合同の影響かどうか社会党左右両派の統合も進んでいる。5.7日右派社会党はそれまで綱領を持っていなかったが、左派社会党との統一機運に合わせて、練り合わせの為か綱領を作成し、この日中央執行委員会で承認された。これを見るに、民主主義制度を機能させた社会主義の建設を目指すこと、ソ連型の一党独裁と永久政権方式を排除すること、前衛党的指導を目指さず国民諸階層の結合体運動に向かうこと、自由制度を保障した議会闘争による多数派工作に注力すること等々としていた。総じて「民社社会主義」の立場を敷衍していた。 こうして社会党の左派と右派の合同が進むことになる。10.13日左右社会党の統一大会が開催され、統一綱領を採択した。左派社会党の新綱領が転じて統一綱領となった。その統一綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」等々と明記され、共産党によるソ連型運動を否定的に総括した労農派社会主義論を満展開していた。「右社の露骨な反共主義と漸進的改良主義を盛り込んだ『統一綱領』の下に再び野合を遂げてしまうのである。『統一綱領』の無原則な折衷主義は『階級的大衆党』というわけの分からない『党の性格』規定に象徴されている」(社労党「日本社会主義運動史」)ともみなされている。 統一社会党初代委員長には鈴木茂三郎がなった。書記長・浅沼稲次郎、財務委員長・伊藤卯四郎、政審会長・伊藤好道、国対委員長・勝間田清一、選対委員長・佐々木更三、統制委員長・加藤勘十、顧問河上丈太郎などの陣容が決められた。こうして自由民主党の誕生より一カ月早く、社会党はすでに左右両派の統一をみた。 |
諸般の準備が完了し、民主・自由党の合同による『自由民主党』は、とりあえず鳩山一郎、緒方竹虎、大野伴睦、三木武吉の四氏を総裁代行委員として、全国民待望のうちに1955(昭和30).11.5日、東京・神田の中央大学講堂において、華々しく結成大会を開いた。ここに「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党(鳩山)と日本自由党(緒方)の二大保守政党が合同し、戦後最大の単一自由民主主義政党として自由民主党が誕生した。こうして保守合同も為された。歴史的な快挙であった。
と定めました。かくして、わが国戦後民主政治の発展に画期的な歴史を画する自由民主党の歩みがかくて始まった」。 |
この自民党の綱領について格別に検討されるに値するように思われる。凡そ政党として持たねばならない綱領、そのロジック等についてかくも明確にしておるという点で、他の諸党の手本になっていると思うのはれんだいこだけであろうか。この理論と実際の党運営及び組織論、運動論と併せての四部作の水準は高いと見なすべきではなかろうか。ある意味で、ここに宣言された自民党の党是は今日の日共が吹聴している理論と瓜二つである気がするのはれんだいこだけであろうか。 このことは何を意味するのだろう。少なくとも今日びの日共は自民党内の一派閥として棲息すれば良いと云うことになる。もう一つは、自民党内の左右両翼の裾の広さに感嘆すべきではなかろうか。この党是で結集した自民党がその内部で如何なる抗争と変遷を見せていくのかが自民党史であり、他のどの政党よりも凄まじく案外とイデオロギッシュである。この点に注意を喚起させておきたい。 |
この自由民主党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。これを自民.社会二大政党制による「55年体制」という。ここからが「55年体制」のスタートとなった。ここに「保守・革新」の二大政党時代が幕開けして、日本の政治の新しい前進でありイギリス流議会政治の水準に至ったともてはやされる時期を迎えた。この背景には、「強い保守党」を臨むアメリカの影響もあったものと思われる。ちなみに、この時の自民党議席は299、統一社会党の議席は154であった。 |
(私論.私見)