裁判所の腐敗、荒廃の内部告発

 (最新見直し2014.05.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、裁判所の腐敗、荒廃ぶりを元エリート裁判官(瀬木比呂志氏)の内部告発で確認しておく。

 2014.05.02日 れんだいこ拝


【瀬木比呂志(せぎ・ひろし)の内部告発】
 ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK164」の赤かぶ 氏の2014.4.29日付け投稿「元裁判官が語る裁判所の現状「事務総局の統制システムが裁判官の『自由』を奪った」(週プレNEWS)」を転載しておく。
 なぜ、裁判所は歪(ゆが)んでしまったのか? 33年間、裁判官として勤務してきた瀬木氏だからこそ明かせる最高裁の問題点

 元裁判官が語る裁判所の現状「事務総局の統制システムが裁判官の『自由』を奪った」
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140429-00029645-playboyz-soci
 週プレNEWS 4月29日(火)6時0分配信

 「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」。ダンテの『神曲』の一節から始まる『絶望の裁判所』は、現在の裁判所が「絶望」的な状況にあることを、数々の論拠をもとに描き出している。裁判官の人事を司る最高裁判所事務総局の「見えざる統制」によって全国の裁判官は支配され、最高裁の意に沿わない裁判官は「見せしめ」として左遷される。その支配統制のシステムが結果として冤罪(えんざい)を生み出してきた。裁判所はなぜ、堕(お)ちてしまったのか。著者である瀬木比呂志(せぎ・ひろし)氏は事務総局に勤務するなどエリート裁判官としての道を歩むかたわら、研究論文などを発表してきた。「学者」としての視点をも持ち合わせた瀬木氏だからこそ語れる裁判所の実態とは?

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 ――刺激的なタイトルですね。

 「多くの国民は『裁判官は正しい』と信じたいようですが、残念ながらそうではないのです。2000年頃から裁判所が希望のない状況になっています。根拠を示す数字はいくつかあります。ひとつが裁判官による不祥事の多発です。00年以降、児童買春や電車内で女性のスカートの中を盗撮するなど少なくとも8件の不祥事が起きています。簡易裁判所の裁判官を除き、全国に裁判官は3000人ほど。そのなかで8件もの性的な不祥事が起きていることは、裁判所という組織がかなり歪んでいると見ざるを得ません。ふたつ目は、民事裁判を利用した人の『満足度』です。2000年度に実施された調査によると、民事裁判を利用した人が訴訟制度に対して『満足している』と答えた割合はわずか18.6%に過ぎません。また、司法制度改革実施後の2回の調査でも、この数字は20%前後で、ほとんど変わっていません。

 さらに、地方裁判所における民事事件の新受件数(裁判所に新たに提起された事件の件数)も減っています。新受件数は人々が裁判所を利用したい、利用しやすいと考えるかどうかの指標となる数字ですが、12年度は、ピークだった09年度の74.9%まで減っています。03年度から12年度までに裁判官の数は約2割増えているにもかかわらず、新受件数が減っているのは、国民にとって裁判所は利用しやすいものではないことを示しているのです。

 理不尽な紛争に巻き込まれた人は『正義』を実現してもらおうと考え、裁判所に訴えます。しかし、実際は、ある程度審理が進んだところで、『和解に応じないと不利な判決が出るかもしれない』などと裁判官から言われ、和解を勧められます。裁判官は早く事件を『処理』したいと考え、和解を成立させようとします。たとえばこうした裁判官の姿勢が裁判に対する満足度の低下、ひいては新受件数の減少につながっていると考えています」

 ――なぜ、裁判所は歪んでしまったのでしょう。

 「最高裁事務総局の、見えにくいけれども、非常に強い統制のシステムが完成してしまったからです。最高裁による裁判官統制は石田和外(かずと)長官(1969年~73年)時代に始まり、矢口洪一(こういち)長官(85年~90年)の時代に完成したと言われています。その後、統制はいったん若干緩んだ。しかし、前長官の竹?博允(たけさきひろのぶ)氏(08年~14年3月)の時代に再び強固なものになりました。

 かつては左翼的な裁判官など、イデオロギー的な側面から裁判官は排除されていましたが、いまはイデオロギーに関係なく、裁判所内で自分の意見を言う裁判官、自分でものを考える裁判官が排除されるようになったのです。裁判所に『余裕』といったものがなくなり、体制、つまり最高裁事務総局の考えに沿わない人はどんどん排除される。これでは『全体主義国家』と同じです。こんなことは戦後の裁判所の歴史のなかでもおそらくなかったことです。

 私自身、筆名を使っての著作や研究論文などを発表してきました。それらは弁護士や学者にも評価されていたと自負していますが、外部に意見を発表したということで裁判所の組織では『異端者』扱いされ、疎まれていました。実際、『裁判官は仕事と関係ない文章など書くべきではない』と面と向かって私を非難した上層部の裁判官もいたほどです。

 もともと裁判官より学者の道に進みたいと考えていた私は、12年の春に明治大学教授への就職が決まり、その準備のために有給休暇の承認を所長に願い出ました。ところが、所長は休暇の日にちが長すぎると言い、『そんなに有給休暇をとるなら早く辞めたらどうか』と、早期退官を事実上強要しました。大学教授への転身に対する嫌がらせであったのかもしれません」

 ――裁判官に対する「統制」は人事にも表れているということですが。

 「裁判官は、主として担当してきた仕事によって民事系、刑事系、家裁系に分かれます。昔は刑事系裁判官の数も多かったのですが、その後、どんどん数が少なくなりました。

 しかし、00年代以降、事務総局の幹部は竹?氏と同じ刑事系の裁判官や、竹?氏と関係の深い裁判官が重用されるなど『情実人事』が横行しました。矢口時代でもこれほど露骨な人事はなかった。新任の判事補など若手裁判官の人事にも事務総局の意向が及んでいます。こんな組織は腐敗するしかありません」

 ――本書の中で、裁判官の評価は「二重帳簿」システムになっていると指摘されています。

 「00年代の司法制度改革によって、裁判官の人事を透明化するため、新任判事補の任用と10年ごとの裁判官の再任の審査を行なう『下級裁判所裁判官指名諮問委員会』制度ができました。裁判官を評価する書面が毎年つくられ、本人が求めれば、それが開示されるようになりました。しかし、その書面はあくまで表向きのもの。『可もなく不可もなく』など当たり障りのないことしか書いてない。

 それにもかかわらず、実際にはかたよった、差別的な人事が行なわれています。表向きの書面とは別の個人別書面がある、つまり『二重帳簿』システムになっていると考えるのが自然です。その話は複数の裁判官からも聞いています。個人別書面は絶対極秘のもので、事務総局でも一部の幹部しか見ることができないものだと思います。

 諮問委員会制度ができて以降、再任を拒否される裁判官の数が目立って増えています。確かに再任拒否される裁判官は能力不十分な場合が多いと思いますが、そうではない裁判官が混じっている可能性もあります。再任拒否がありうることをちらつかせての退官の事実上の強要の場合、その可能性はさらに高くなるでしょう」

 ――09年に始まった裁判員制度は、刑事系裁判官の「権益拡大」に利用されているとか?

 「司法制度改革によって誕生した裁判員制度で刑事系裁判官が脚光を浴びるようになり、刑事系裁判官を増員することが可能になったのです。

 そして、裁判所の人事や予算など司法行政を担当する事務総局の重要ポストの多くを、民事系よりはるかに数の少ない刑事系の裁判官が占めるようになりました。事務総局トップの事務総長、人事局長、経理局長、総務局長、秘書課長兼広報課長などを刑事系裁判官が押さえるようになったのです。

 特に事務総長と秘書課長兼広報課長の人事は極端に刑事系にかたよっており、『裁判所の上意下達システムの要となるこのふたつのポストは刑事系で押さえる』という方針が露骨に表れています。

 裁判員制度は、市民から選ばれた裁判員が有罪か無罪かの事実認定や、有罪の場合は懲役○年かなどの量刑を裁判官と一緒になって評議するものです。しかし、容疑を認めている被告人の裁判まで裁判員裁判にする必要があるのか、理解に苦しみます。容疑を争っている被告人が『職業裁判官ではなく、市民による裁判を求めたい』という場合にだけ裁判員裁判にすればいいのです。その裏には、裁判員裁判の数を増やすことで刑事裁判官の仕事の範囲を広くし、権益を確保する意図があったと考えられます。

 また、裁判員制度は『司法への市民参加』というメリットばかりが強調されがちですが、その一方で、裁判員には厳しい守秘義務が課せられています。事実認定や量刑を決めるための評議のみならず、たとえば裁判官の説明や説得等の内容を漏らした場合ですら、『6ヵ月以下の懲役または50万円以下の罰金』という罰則が科せられます。守秘義務の厳しさは、裁判所が市民を信用していない証拠。世界的にも例をみないものです」

 ――国民が希望を持てる裁判所に変えるにはどうすればいいのでしょう。

 「ひとつは、任官から退官まで、裁判官が最高裁事務総局による統制を受け続けるいまのキャリアシステムを見直すことです。在野で様々な経験を積み、能力と識見に優れ、なおかつ広い視野を持った弁護士が裁判官に任用される制度を確立することです。弁護士経験者から裁判官や検察官を任用する制度を『法曹一元制度』といいますが、この制度を取り入れることで裁判官人事制度の硬直化を解消できると考えています。

 国民にもできることがあります。国民からの『信頼』や『権威』によって成り立っている裁判所は、根拠を示した批判に弱い。ですから、国民が常に裁判所を監視して、根拠を持って批判を続けることです。

 メディアは、大きなものほど裁判所の実態に切り込もうとしない傾向がありますが、この書物についても、たとえば、東京・中日、北海道等の新聞が大きく取り上げ、書評もかなり出ているなど、大手も一枚岩ではありません。

 また、市民が、独立系メディア、インターネット系メディアや裁判所の実態をよく知る優秀な弁護士と連携して情報を発信し続ければ、大きな『力』になります。国民が『こんな裁判所はいらない』と声を上げれば裁判所は変わらざるを得ないのです」

 (構成/西島博之 撮影/村上宗一郎)

 ●瀬木比呂志(せぎ・ひろし)
 1954年生まれ。東大法学部卒業。79年から33年間、裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務。並行して研究、執筆活動を行なう。2012年、依願退官。明治大学法科大学院専任教授に転身。文学、音楽、映画、漫画の造詣も深い

 ■『絶望の裁判所』
(講談社現代新書 760円+税)
かつて、『家畜人ヤプー』の著者ではないかといわれた個性的な裁判官もいた。しかし、時は移り、今の裁判官には自由に意見を言うこともできないほど最高裁事務総局の支配が進んでいる。裁判所の希望なき状況は、国民にとっても無関心ではいられない

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK164」の 赤かぶ 氏の2014.5.2日付け投稿「 セクハラは日常茶飯事元エリート裁判官(瀬木比呂志氏)が明かす 裁判官は正義より出世が命です(週刊現代)」を転載しておく。
 裁判官は、あなたの権利を守ってはくれない〔PHOTO〕gettyimages


 セクハラは日常茶飯事元エリート裁判官(瀬木比呂志氏)が明かす 裁判官は正義より出世が命です
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38714
 2014年05月02日(金) 週刊現代 :現代ビジネス

 司法崩壊の実態を詳らかにして話題の『絶望の裁判所』(講談社現代新書)。著者の瀬木比呂志氏が、世間から隔離された世界における裁判官の非常識な言動、不可思議な人事、不祥事の数々を告発した。

 ■自分がいちばん偉いと錯覚

 今回、私が裁判所の内実を明らかにしたのは、多くの国民にその歪んだ実態を知ってもらうとともに、危機感を抱いてほしいと考えたからです。今の裁判所は、国民の権利や自由を守ってはくれません。私は'79年の任官から'12年に大学教授に転身するまで、33年にわたって裁判官を務めてきました。そのなかで目の当たりにしたのは、最高裁の意に沿わない人材を排除する人事システムの問題点や、モラル、そしてパワー、セクシャルなどのハラスメントが横行する、裁判所の荒廃ぶりでした。

 上層部の意に沿わない裁判官に対して人事局が再任を拒否する事例や、裁判長が部下である若い女性事務官に性的な関係を強要した例など、枚挙に暇がありません。ある優秀な裁判官が、裁判長にさんざんハラスメントを受け精神的に追い込まれた結果、心を病み、人事局長に直接「私をいつ裁判長にしてくれるんですか!」と詰め寄る、という事件もありました。その裁判官は、結局は退官に追い込まれました。

 一般の感覚からすれば驚くべきことに、裁判所にはこれらの問題に対するガイドラインも相談窓口もありません。「裁判官がそんなことをするはずがない」という妙な意識があるからです。退官させられた彼も、相談や治療を受ければ復帰できたかもしれないのに、人生を潰されてしまった。

 日本の裁判官は、努めて外部の世界と関わらないように行動します。たしかに、裁判の公正中立を守るため、司法の独立は必要だとは思います。しかしその閉じられた世界の内側には、最高裁判所をトップとした、強固なヒエラルキー型の人事システムがあり、出世ばかりを気にする裁判官が溢れているのです。

 この人事システムが、裁判所を荒廃させた一因なのは間違いありません。現在、日本の裁判所は最高裁長官をトップとし、その腹心である最高裁事務総長が率いる事務総局が、全国の裁判官を人事や組織の圧力で支配しています。事務総局は意に沿わない判決や論文を書いた裁判官に対し、昇進を遅らせる、住まいとは遠く離れた地方に単身赴任させる、あるいは前述したように再任を拒否するといった嫌がらせをします。

 その結果、裁判官は刑事被告人、あるいは民事訴訟の原告・被告の権利や結論の適正さを自分で考える前に、とにかく事務総局の意向ばかりを気にするようになってしまったのです。事実、ある地裁の所長はことあるごとに「それは事務総局の考えと同じか?」と確認していました。

 つまり、本来目指すべき「正義」はおざなりになり、出世にばかりとらわれているのです。もちろん、すべての裁判官がそうだとは言いません。自らの考えをしっかりと持ち、正義を貫く優秀な裁判官もいますが、それは全体の中でみればわずかです。そのような裁判官は上級の裁判官になれないばかりか、裁判所という組織に嫌気がさして、辞めてしまうことも多い。

 また残念なことに、精神構造に問題がある裁判官が多いのです。自己中心的で、他者の存在が見えていない。内心では、自分より偉い人はいないと思っています。

 '00年ごろから、裁判官の質は著しく劣化してきています。これは私の個人的な感想ではありません。実際、過去の報道を調べると、'01年から'13年にかけて、裁判官による痴漢や児童買春、ストーカ―、盗撮といった性的な不祥事が7件も起こっています。裁判官の母数は3000人弱ですから、問題を起こす割合は高い。もし、従業員数3000人弱の企業で、そんなペースで不祥事が起これば、その会社にはなにか問題があると考えるのが自然でしょう。しかもこれらがすべてではない。内部でもみ消されているものもあります。

 ■生協を利用したら「左翼」

 こうした不祥事が続出するのはなぜか。裁判官が仕事のみならず、私生活でも多大なストレスを抱えているからです。たとえば、ある裁判官はバードウォッチングが好きなので「野鳥の会」に入りましたが、外部団体に所属することについての遠慮などから、活動はしませんでした。また、ある裁判官の妻は、生協に品物を注文すると、左翼的と思われてしまうのではと悩んでいた。一見すると、くだらないことのように思われるかもしれません。しかし、「裁判所の掟」を過剰に意識し、外部との関わりを避ける裁判官は、絶えず周囲の目を気にすることで、いわば「見えない檻」に囚われているのです。

 官舎で暮らしている頃、こんな事件がありました。ある裁判官夫婦が、自分たちの所有する高級車に傷が付いているのを見つけ、「官舎の子供が自転車で傷を付けた」と大騒ぎしたのです。私もその傷を見ましたが、どう考えても自転車によるものではなく、何者かが鋭利な物で故意に付けたようでした。冷静に考えれば、子供のせいではないと分かりそうなものなのに、夫婦がしつこく騒ぐので、仕方なく、官舎に住む子供のいる母親たちが揃って、その夫婦に謝りに行く羽目になってしまいました。問題を明らかにせず、うやむやに終わらせてしまったのです。

 まったく非常識な話ですが、恐ろしいのは、こうした裁判官が刑事事件を担当するということです。言うまでもなく、刑事事件というのは、当事者の事情や気持ちを汲み取った上で、常識的な判断が求められます。それなのに、日本では非常識な人が刑事事件を裁く。極めて危険なことではないでしょうか。

また、日本では裁判官が刑事系と民事系に分けられ、基本的に同じ分野を担当し続けます。そして刑事系裁判官は日常的に検察官と接しているため、考えがどうしても検察寄りになる。被告の中には根拠のない主張をする人もいますから、刑事事件を長く担当していると、被告に対して偏見を抱くようになってしまうのです。その結果、刑事系の裁判官は仲間内で被告のことを蔑視し、「やつら」などと呼ぶようになる。

 彼らがそんな言葉を使う場面を何度も見たことがあります。裁判官がこんな姿勢では、冤罪がなくなるはずがありません。日本で刑事事件における無罪率が極めて低いのも、裁判官が検察の言いなりになりやすいことが一つの理由でしょう。

 問題があるのは刑事事件だけではありません。民事訴訟においても、日本の場合は「和解」を強く勧める裁判官が非常に多いという特異な面があります。もちろん、和解が必ずしも悪いわけではありませんが、諸外国では「手続き上の正義」を重視します。たとえばアメリカでは、それぞれの証拠を検討した上、和解を勧める場合は必ず原告・被告双方を同席させます。州によっては判決担当と和解担当の裁判官を分けることもある。判決を担当する、決着をつける人が和解を勧めるのはおかしいという考えがあるからです。

 ところが日本では、同じ裁判官が原告・被告を別々に呼んで和解を勧めるため、相手方にどんな話をしているのか、さっぱり分からない。ひどい裁判官になると、双方に「あなたは負けますから和解したほうがいい」とまで言うのです。判決を下す人にそうまで言われれば、当事者は応じざるをえないでしょう。

 しかし考えてもみてください。そもそも争いごとを好まないタイプが多い日本人がわざわざ訴訟を起こすということは、和解で済ませるのではなく、理非を明らかにしてもらいたいからでしょう。それなのに日本の裁判官は、自分の抱えている事件を早く終わらせたいがために、当事者の思いを裏切るのです。

 ■実社会を知らず、常識がない

 問題ある裁判官ばかり増えたのは、司法修習生を経て任官されれば、よほどのことがない限りクビにはならないというキャリアシステムが限界に来ているからでもあります。実社会を知らないまま裁判所という特異な世界に染まってしまうため、常識のない裁判官が育ってしまう。

 それでも昔は相対的に裁判官の質が高く、人に後ろ指をさされまいというプライドと識見を持った人が多かったと思います。ところがバブル期以降、優秀な司法修習生の多くが弁護士を目指すようになりました。大企業の訴訟案件をこなしたり、渉外などの分野で華々しく活躍し、成功すれば年俸も高いからです。

 また、昔は人気がなかった検察官も最近は志望する修習生が増えている。日本の刑事司法で一番権力があるのは検事です。裁判官は審査するだけで、検事が実質的に有罪無罪を決めているようなものですから。

 裁判所の支配、統制システムは、第11代最高裁長官(任期'85年~'90年)だった矢口洪一氏が確立しました。ただし、矢口氏は若手裁判官の人事にまでは介入しませんでした。少なくとも、若手に関しては能力に応じて処遇するようにしていた。ところが、最近は、新任の判事補を採用する場合でも、その人の能力のみならず、事務総局の言うことをきく人物かどうかまで考慮する傾向が指摘されています。

 現在の竹崎博允最高裁長官の実権、支配権は矢口長官以上とも言われますが、なぜ彼がそれほどの力を持ったのか。その背景には裁判員制度導入があります。

 現行の裁判員制度については、今後改善すべき欠点はあるものの、市民の司法参加という意味では、評価されるべきだとは思います。しかし、「竹崎氏らには別の思惑があった」といいます。「裁判員制度を導入することで刑事裁判に脚光を集め、近年民事系に比べて著しく劣勢にあった刑事系裁判官の基盤を強化し、同時に人事権を掌握しようという狙いがあった」―そう言われているのです。

 そして思惑通り、裁判員制度導入以降は、刑事系の裁判官や書記官が増員され、主要ポストの多くが、竹崎氏に近い刑事系裁判官で占められるようになった。その結果、究極の情実人事が実現したわけです。

 その竹崎氏は先ごろ、健康問題を理由に3月いっぱいで退任すると唐突に発表しました。本来の任期(7月7日)から3ヵ月前倒しで、後任も未定の退任発表はきわめて異例といえました。その後、後任は寺田逸郎氏(現・最高裁判事)に決まったようですが、誰が後任になろうと、今のシステムは変わらないのではないかと思います。

 本気で裁判所を改革しようと考えるなら、法曹一元制度、つまり弁護士経験者を裁判官に登用する制度を導入するしかありません。現状の日本の弁護士の能力については、上から下までの落差が激しいのは事実でしょう。しかし、質の高い弁護士は人権感覚に優れ、謙虚さもある。そういう人が裁判官をやったほうが、今よりよほど質の高い裁判が行われると確信しています。

 せぎ・ひろし/'54年生まれ。明治大学法科大学院教授。東京大学法学部卒業。東京地裁判事補、那覇地裁沖縄支部裁判長、最高裁判所調査官などを歴任し、退官。著書に『民事訴訟の本質と諸相』他

 「週刊現代』2014年3月22日号より





(私論.私見)