反共人士の左翼党指導部乗っ取り問題対処考

 「反共人士の左翼党指導部乗っ取り問題」に対処する「対処考」サイトを設ける。なぜ、かような論考がいるのかについて述べてみたい。これを一般的に述べると隔靴掻痒(かっかそうよう)的になるので、れんだいこ自身を自叙伝的に述べることで意義をはっきりさせてみたい。

 れんだいこは、70年安保の年に入学した。キャンパスには全共闘はいなかった。居るのは、自治会別に区割りされた民青と革マル派だった。70年安保に何らかの意思表示したかったので、さてどちらに与そうかと考えた。れんだいこのように行き場を失った者はれんだいこが知るだけで他にも十名ほどいた。或る者はキャンパス外に仲間を求め、既に学外的な運動に関わっていたものと思われる。しかし、れんだいこは田舎から出てきたばかりで知識が無く、且つこの頃内ゲバ模様の事が発生しつつあったことも風聞していたので、おいそれと飛び込む訳には行かなかった。

 結局、民青系の「民主主義運動」に意味を見出し、自治会と「共闘」関係に入った。それを思えば、身近なところに自治会を有しておくことの意味が分かろうというものだ。人の思考は弁証法的に発展するのだから、次元が低かろうが、理論が稚拙だろうが、相手のレベルに合わせて如何様にでも対応できる「容れ物」の意義は大きいということだ。6月頃の或る日のデモの時、民青加入を誘われた。非常に凝縮した数秒の判断の後、加入を応諾した。

 その後、すっきりした気分で自治会活動に専念し始めた。この頃のれんだいこに対し、今から思えば好ブント系、黒ヘル系の数名と連絡が為された。「共闘するデモが無い」という訴えだった。それは、数ヶ月前のれんだいこの思いと同じだった。私は、「民青系民主主義運動」に一定の意味を見出していることを伝え、共闘しようと申し出た。実際、70年安保延長目前ののデモを一緒にした。しかし、民青系のデモはお焼香式のものであり、物足りなかった。

 その後のれんだいこは、当該自治会の闘士の一人となりのめり込んだ。もう4年で卒業する気持ちは無くなり、最大8年まで学生で過しても良いと考えるようになった。朝から立て看出し、クラスへのビラ配り、緊急討議の申し入れ、デモへの参加呼びかけと組織、夕べには看板の仕舞い、会議等々で結構忙しかった。合間を見てアルバイトというローテーションとなった。この間楽しい思いでも有るし、もっと燃えたいという意味での詰まらなさもあった。

 その後を端折(はしょ)るが、一身上の都合で運動から身を引くようになった。急遽卒業路線に切り替え、就職し、やがてUターンで帰省する身になった。その時の感慨は、「政治運動には足を突っ込まない」というものであった。

 本稿は、この感慨の変遷事情を書くところに眼目が有る。(以下、略)

 2003.11.30日 れんだいこ拝






(私論.私見)