罪刑法定主義の新視点考 | 法律関連 |
(最新見直し2008.4.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
死刑制度の存置と廃止をめぐって対立している。死刑制度の存置と廃止は、「国際的関心事項」でもある。これに関係する法律として、1・国連の1948年採択の「世界人権宣言」の第3条「生命・自由・身体の安全に対する権利」、2・1966年採択(日本は79年に批准)の「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(国際人権規約B規約)、3・第6条「生命に対する権利」で死刑の制限規定等がある。4・死刑廃止条約(「死刑廃止という国際的約束」を目的とする市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書)等がある。 他方で、凶悪犯罪が頻出しており、死刑廃止是非論は当分解決しそうに無い。留意すべきは、刑法犯罪に対して没思想的理論的に免責条項を適用し、重罪を犯しても不相当に軽罰される、あるいは無罪放免される方向での弁護活動が目立ってきている。死刑廃止運動がこれに連動しているように見受けられる。今、現代的罪刑法定主義が陥ったこの隘路が問題になりつつある。 この問題の格好教材として「山口県光市母子殺人事件」が発生している。この事件で、被害者の夫である本村氏が、現代刑法の矛盾の集中点で独り屹立し闘っているように見える。れんだいこは長らく、犯罪と刑罰の関係を廻る最近の検察と弁護活動のそれぞれの一方性にもやもやとした思いを抱いてきた。本村氏の獅子奮迅の踏ん張りを見て、現代刑法の処罰と免責を廻る駆け引きに対して思想的理論的解決すべく考察せねばならないと思うようになった。 どこに問題があるのか、以下、「山口県光市母子殺人事件」を検証しつつ「罪刑法定主義の新視点考」を考察する。2008.4.28日の「伊藤香織被告の夫殺害、死体切断放置事件」も付け加える。 2006.6.21日、2008.4.28日再編集 れんだいこ拝 |
【「山口県光市母子殺人事件」とは】 | |||
「ウィキペディア光市母子殺害事件」その他を参照する。
1999.4.14日午後2時半頃、山口県光市の社宅アパートで、本村洋(もとむら ひろし )氏の妻(当時23歳)とその娘(生後11カ月)が、当時18歳の少年に殺害される事件が発生した。少年は、排水検査を装って居間に侵入し、女性を引き倒し馬乗りになって暴行に及んだところ激しい抵抗を受け、頸部を圧迫して結果的に窒息死させるに至った。少年はその後、女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘を床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。事後、女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4.18日に逮捕された。 この事件の史的意義は、被害者の夫である本村氏が被害者の側からの正義を訴え、裁判の経過中、死刑判決を望むことを強く表明し、 被告及び弁護団の免責弁護に対し「等値刑罰」を希求し、現代刑法の不正を告発し続けていったことにある。 本村氏は、2000.3.22日、一審の山口地方裁判所が、死刑の求刑に対し無期懲役の判決を下した。この時、次のように述べている。
2001.12.26日の意見陳述の際、次のように述べている。
これに対し、少年は当初は犯行を認めていたが、供述書内容が実際と違うとして宗教的儀式殺人譚を述べ始めた。上告審から主任弁護人を引き受けた安田好弘を中心とする弁護団は、少年の新証言を重視し次のように弁護している。
本村氏はこの間、「(日本では)犯罪被害者の権利が何一つ守られていないことを痛感」し、同様に妻を殺害された元日本弁護士連合会副会長・岡村勲らと共に「犯罪被害者の会」(現、「全国犯罪被害者の会」)を設立し、幹事に就任した。さらに犯罪被害者等基本法の成立に尽力した。現在、犯罪被害者の権利確立のために、執筆、講演を通じて活動している。 |
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【「山口県光市母子殺人事件」訴訟経緯】 |
1999.4.14日、事件発生。4.18日、逮捕。6月、山口家庭裁判所が、少年を山口地方検察庁の検察官に送致することを決定、山口地検は少年を山口地裁に起訴した。 2007.5.27日、弁護士・橋下徹が、テレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」において、光市母子殺害事件弁護団に対し、「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけた。これによりTVを見た視聴者らから約7558通の懲戒請求書(2006年度における全弁護士会に来た懲戒請求総数の6倍を上回る)が弁護士会に殺到することになった。橋下自身は、「時間と労力を費やすのを避けた」、「自分がべったり張り付いて懲戒請求はできなくはないが、私も家族がいるし、食わしていかねばならないので……」等の理由で懲戒請求はしていない。 同10.18日、検察側の最終弁論が行われ、改めて死刑を求刑した。同12.4日、弁護側の最終弁論が行われ、殺意や乱暴目的はなかったとして傷害致死罪の適用を求めた。この日の公判で結審した。 2008.4.22日、広島高裁の判決公判が行われ、死刑判決が下された。 |
【れんだいこの新罪刑法定主義提言】 |
れんだいこは以下、現代社会に於ける刑罰の在り方を提言する。これは、日本左派運動の弁護活動が、冤罪批判活動から定向進化し、今や妙に犯罪者弁護に傾きすぎていることを逆に危惧するところから発意している。問題は、被害者もまた正当に救済されねばならず、両てんびんの法理論を創造せねば失当と云うべきではなかろうかというところにある。こういうことが問われている時の「犯罪者減刑運動」は既に公正ではなかろう。 |
【第1原則の1、罪と罰は等価にせよ】 | ||
罪刑法定主義の第1原則は、「罪と罰の等価」である。この原則は、紀元前18世紀のバビロン第一王朝のハムラビ王によってつくられた「ハムラビ法典」中の「目には目を、歯には歯を」の刑法原理として知られている。これを仮に「第一原則−罪と罰の等価主義叉はハムラビ刑法主義」と命名する。 「ハムラビ刑法主義」は、これを継承する流れと改訂する流れの二派の流れがある。継承する流れとして「ユダヤ教刑法の同害報復の原則」がある。2005.7.27日付け「森田実政治日誌214」は旧約聖書の次の一節を紹介している。
これによると、ユダヤ教聖書(キリスト教的には旧約聖書)のこの一節は「ハムラビ刑法」を継承していることになる。これを仮に「ユダヤ教刑法」と命名する。森田氏が、「ユダヤ教刑法」に注目しているのは秀逸であるように思われる。ユダヤ教は、モーゼの十戒が幾分かは緩和しているものの聖書に於いて堂々と報復主義を掲げている。ユダヤ教のもう一つの御書であるタルムードに拠れば、報復主義を更に徹底し聖戦化さえしている。このことに注目せねばならないのではなかろうか。 イスラム教のイスラム法でも、「キーサス」(報復)と呼ぶ「被害者やその家族は、受けた被害と同等の刑罰を要求する権利がある」を原則としている。もっとも同害報復の権利をなるべく行使しないように求めている。日本の祖法に於いても「仇討ち」が認められていた時期が有り、これらは「ハムラビ刑法」の流れにあると云う事になる。 この等価主義と報復主義的刑法に反発したのはイエス・キリストである。イエスは「愛の御教え」を説き、互いに際限の無くなる報復主義からの決別、不争と許し合いの思想を育成せんとしている。新約聖書に次のように記されている。
刑罰思想にはこの二つの源流がある。 |
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![]() 刑法を考える際には、万事そうであるとも云えるのだが、根底に横たわる二つの論理論法を見据え、どちらに依拠するのか判然とさせねばならない。これは二股の道であり、それぞれが学的体系を構築している。両方学ぶべきであるが、両方を採ることはできない。せいぜい折衷するぐらいが関の山である。その先には股裂きの刑が待ち受けている。故に、我々には、このうちいずれを採って学的体系化させるべきかが問われている。この二股の道を分別せずに刑法を学ぶ者は愚かである。 近代刑法は、「罪と罰の等価性問題」について考察しているのだろうか。この難問に対してどう対応しているのだろうか。縷縷(るる)新理論を生み出しているようであるが、肝腎のところを明らかにせぬまま案外と折衷しているのではなかろうか。これによる二枚舌を下地にしていないだろうか。 れんだいこは、つらつら考えるのに、刑法第1原則の場面でイエス・キリストの「愛の御教え」を説くのはお門違いではなかろうかと考える。イエス・キリストの「愛の御教え」は、果てしない報復主義に対置する御教えであり、刑罰免責理論ではない。そう弁えるべきではなかろうか。刑法は、いつ如何なるときでも「罪と罰は等価を原則とせよ」を第1原則とすべきであり、この姿勢こそ正しいのではなかろうか。まず、ここを確立しておく必要があるのではなかろうか。現代刑法はこの第1原則を軽視しており、却って闇路に踏み込んでいるのではなかろうか。 2007.9.23日 れんだいこ拝 |
【永山死刑基準】 |
1983.7月、連続4人射殺事件の永山則夫元死刑囚(事件当時19歳、1997.8月執行)の第1次上告審判決で、無期懲役の二審判決を破棄した際に示した最高裁の死刑基準を「永山死刑基準」と云う。同基準は、死刑の選択に際して、1・犯罪の性質、2・犯行の動機、3・犯行態様、特に殺害方法の執拗さ、残虐さ、4・結果の重大さ、特に殺害被害者数、5・遺族の被害感情、6・社会的影響、7・犯人の年齢、8・前科、9・犯行後の情状の9項目を総合的に考察し、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。 以下、「れんだいこ基準」と比較検討する。 |
【第1原則の2、犯罪と処罰の等価的基本点数制を確立せよ】 |
処罰の最高刑である死刑に対して、その責任の重さを量る尺度が必要なのではなかろうか。こう考えた時、交通違反に於ける点数制は、アイデアとしては優れているのではなかろうか。れんだいこは、そういう事に気づき始めている。交通違反に於ける点数制は課金徴収システムとして生み出されている点で釈然とせず首肯し難い面もあるが、犯罪の重さを事案別に計量している点で画期的なのではなかろうか。具体的な違反事例と点数が適正であるかどうかは別であるが。 れんだいこが思うに、犯罪をその重さで秤り、ひとたびは等価的点数制にしてみたらどうだろうか。但し、公正な点数制であらねばならぬ。同時に、拘禁日数も点数制にしてみたらどうだろうか。この場合、米国的な人の寿命を超えるような禁固刑は断じて真似ては為らぬ。世界が日本に倣うような合理的システムで計量せねばならぬ。 これは悪用されれば危険な提言であるが、ひとたびは数値化してみることも必要なのではなかろうか。具体的には、「されて嫌なことはしない原則」に則り、犯罪を「嫌な程度化」に応じて量刑を点数化していけば良い。これによれば、「永山死刑基準」の1・犯罪の性質、2・犯行の動機、3・犯行態様、特に殺害方法の執拗(しつよう)さ、残虐さ、4・結果の重大さ、特に殺害被害者数、7・犯人の年齢、8・前科が該当し数値化されることになる。 |
【第2原則、合理的な情状酌量による免責事由理論を確立せよ】 |
第1原則の次に第2原則として「合理的な情状酌量による免責事由理論」が確立されるべきである。これを仮に「「第2原則−免責事由論」と命名する。第2原則は、第1原則の「罪と罰の等価原則」を踏まえつつ、「罪発生時の免責事由」によって減刑されるべしとする理論である。これを逆に云えば、「罪発生時の免責事由」が無ければ、あるいはその割合が薄ければ薄いほど第1原則である「罪と罰は等価」により裁定せねばならないと云う事になる。 免責事由論は、情状酌量理論に基く。情状酌量は、A・生活環境要因、B・責任能力要因、C・故意過失偶発事由、D・正当事由から構成される。第1原則は、第2原則のこれらの情状酌量的諸事由により減刑が顧慮されるべきである。「情状酌量の余地有りや無しや」が問われるべきであるが、問題は、これが精査されねばならず、その適正さの運用にあると思われる。 A・生活環境要因とは、被告の犯行時までの経緯を問うものであり、1・自己責任的生活上、2・非自己責任的家庭上の環境的な要因からなる。1・自己責任的生活上の要因とは、生活上の精神的身体的困窮に関して自己責任の度合いを情状酌量する。2・非自己責任的家庭上の環境的な要因とは、生来の家庭環境的な度合いを情状酌量する。専ら本人の責任に帰すべきものと本人の責任に帰せざるものとを峻別せねばならない。これを仮に「第2原則A・生活環境要因」と命名する。 、B・責任能力要因とは、被告の犯行時の心身上の責任能力を問うものであり、1・心神喪失叉は耗弱事由、2・精神錯乱事由、3・知的障害事由、4・年齢事由等々が考えられる。1・心神喪失叉は耗弱事由とは、判断と行動に関わる心神(精神)障害の度合いを情状酌量する。2・精神錯乱事由とは、心神(精神)の異常葛藤の度合いを情状酌量する。どちらも善悪を判断できないか、その判断に従って行動できない状態を云う。 現代刑法では、責任能力がない場合罰しない叉は系を軽くすると規定している。被告の刑事責任能力は、裁判所が精神鑑定の結果などを参考に判断する。2005.7月、殺人や強盗など重大事件を起こしにも拘らず、心神喪失や心神耗弱で不起訴や無罪、執行猶予判決を受けた者に対し、裁判官と精神科医による審判で入院や通院を命令できる手続きを定めた心神喪失者医療観察法が施行された。 3・知的障害事由とは、知能の平均水準の度合いを情状酌量する。これとは別に「短期精神病性障害」というのもある。米精神医学会の診断基準(DSM4)で採用された診断の一つで、妄想や幻覚、まとまりのない会話や行動など統合失調症のような症状が急激に現れる。症状は1日以上1カ月未満で治まり、最終的には発症前の状態に回復するが、長期間続く場合は統合失調症と診断される。ストレスが原因の場合もあるとされる。 4・年齢事由とは、専ら少年期の心身的発達の未熟さの度合いを情状酌量する。これを仮に「第2原則のB・責任能力要因」と命名する。 C・故意過失偶発事由とは、犯行が、故意か過失か偶発かのどちらによって引き起こされたのかを見極め、故意には重罪が、過失、偶発には減刑が顧慮され、その度合いが情状酌量されねばならないとする理論である。故意には1・長期計画性と2・衝動計画性の違いが有り、過失には1・不可抗力性と2・業務上過失が考えられる。偶発には1・予見不可能性と2・突発性が考えられる。これを仮に「第2原則のC・故意過失偶発事由」と命名する。 D・正当事由とは、被告の犯行時の不可抗力的状況如何を問うものであり、1・正当防衛性、2・正当攻撃性からなる。1・正当防衛性とは、被告が防衛せざるを得なかった状況の度合いを情状酌量する。2・正当攻撃性とは、被告が予見される事態の未然防止の観点から攻撃に向かわざるを得なかった状況の度合いを情状酌量する。これを仮に「第2原則のD・正当事由」と命名する。 「第2原則−合理的な情状酌量による免責事由理論の創出適用」は、「第1原則−罪と罰の等価主義」を認めたうえでの減刑問題として検討されるべきであり、これにより無罪放免されることがあってはならない。つまり、第2原則は第1原則を越えることはできないという原則を確立すべきではなかろうか。数式的には、第1原則>第2原則であろう。最近この仕切りが崩れつつあり、それは決して好ましいものではなかろう。 「永山死刑基準」の反動性は、意図的にこの第2原則の諸点が掲げられていないところに認められる。「永山死刑基準」が指針になら無い事はこれによってであると看做さなければならない。このことを知るべきだろう。 |
【精神科医による鑑定結果と裁判所の法的判断の関係考】 |
精神科医による鑑定結果は、精神障害の有無、程度についての専門的知見に基づく参考意見であり、裁判所は鑑定に合理性がある限り十分に尊重する。しかし、鑑定結果が事理弁識能力や行動制御能力に言及している場合でも、それは精神医学の専門家としての分析結果であり、最終的な責任能力については法的判断により決される。その意味で責任能力の判断は鑑定結果に拘束されない。責任能力の判断は、鑑定結果のみならず、被告の犯行動機、行動など諸事情を総合的に検討し裁判所が行う法的判断である。 以上の考えを前提として、裁判所は検察側、弁護側が推薦する医師双方を鑑定人として採用し、それぞれ独立の立場で鑑定を行うよう命じた。一部鑑定の基礎データを共有したり、被告の面接を両鑑定人同席で行ったこともあるが、鑑定意見は全く別個に考えられており、鑑定手法に何ら不相当なところはない。 |
【第3原則−更生支援論と第4原則−遺族の厳罰要請論を適正に組み合わせよ】 |
第1原則「罪と罰の等価主義」に第2原則「免責事由論」を加えた後に、「犯罪者の更生支援論」を導入せねばならない。これを仮に「第3原則−更生支援理論」と命名する。この原則は、1・犯罪者の犯罪行為に対する自責改悛と2・罪滅ぼし的更生の二ファクタ−が考えられる。「永山死刑基準」の「9・犯行後の情状」が該当する。 イエス・キリストの「悔い改め」と「不争と許し合い」の御教えは、専らこの局面で充当されるべきではなかろうか。イエス・キリストの御教えは、「罪と罰の等価原則論」を報復的に適用するのではなく、犯罪者の更生支援に向かうことで却って犯罪予防なることを教示しているのではなかろうか。実に、近代刑法は、その為のプログラムを発達させてきたことに意義が認められる。この原則は今後重視されねばなるまい。 但し、「第3原則−更生支援理論」に対しては、同じ秤りで、被害者遺族の処罰感情を忖度し比較考量せねばならないのではなかろうか。その昔は、仇討ちが正当とされていたこともあり、人間本能感情でもあることを考えると無視できない。これを仮に「第4原則、遺族の厳罰要請論」と命名する。「永山死刑基準」の「5・遺族の被害感情」が該当する。「第3原則−更生支援理論」≒「第4原則、遺族の厳罰要請論」とすべきではなかろうか。 「第3原則−更生支援論」も叉「第2原則−免責事由論」同様に、これを過剰展開することにより第1原則の「罪と罰の等価原則」が不当に軽くされるのは愚行ではなかろうか。「犯罪者の更生支援論」はあくまで、第2原則同様に罪刑の軽減措置として援用されるべきであり、それも或る程度抑制的に適用されるべきではなかろうか。数式的には、第1原則>第2原則>第3原則とするべきであろう。 |
【第5原則−再犯防止と第6原則−後続類似犯罪防止を組み合わせよ】 |
罪刑法定主義の新視点にもう一つの論が掲げられなければならない。それは再犯防止と類似する後続類似犯罪の発生を防止する為の、総合的な有効手段を講ずる必要があるということである。これを仮に「第5原則−再犯防止論」、「第6原則−後続類似犯罪の防止」と命名する。「永山死刑基準」の「6・社会的影響」が該当する。 最近の弁護活動に於ける論法を聞いていると、担当した被疑者の無罪勝ち取りないし刑罰の軽減に励む余り無茶苦茶な論法が横行していることに気づかされる。「罪発生時の免責事由」と「犯罪者の更生支援論」により犯罪者が罪相応に処罰されない傾向、重罪であるにも拘らず短期で釈放される傾向、殺人犯であるにも拘らず無罪放免傾向を生み出している。そのことで却って再犯発生を助長している傾向がある。 これらの事象が起るのは、現代司法が思想的理論的に理に適う新刑罰法を生み出して居らず、為に現場が混乱し続けていることにあると思われる。その典型的事例として「死刑を3度も免れたレイプ犯 知的障害者かをめぐり審理続く [ベリタ通信]」が検討に値する。これによれば、殺人犯が捉えられ、死刑が宣告されたにも拘わらず、その都度上級審が死刑を取り消してきた。その理由として、犯人が知的障害者で、事の善悪を判断する能力がないと認定されたためである。この問題は、「犯罪時の免責事由」と「犯罪者の更生支援論」と「再犯防止論」間の合理的有機的結合法理論の欠如に起因しているのではなかろうか。「罪発生時の免責事由」と「犯罪者の更生支援論」が再犯助長に使われるのは本末転倒ではなかろうか。 「光市母子殺人事件」も然りである。犯罪者が未成年であったということと「未必の故意」による殺人事件であったということが犯罪者に対する刑罰を軽減させるにせよ、ほどほどにせねばならぬのではなかろうか。 「第6原則−後続類似犯罪の防止」で云えば、犯罪は類似の犯罪を誘発する傾向にある。最近のマスコミのセンセーショナルな取り上げ方がこれを助長する。特に、少年法の関係で未成年犯罪不処罰規定が少年犯罪を却って助長する逆転事象を生み出しつつある。これは誠に微妙な問題であるが、少年法の合理的な総合的検討も止むを得ざると云うべきではなかろうか。但し、厳罰主義に傾くのではなく、教育的更生的指導とワンセットで捉え直すべきであろう。 |
【第7原則、冤罪を防止せよ】 |
「れんだいこの新罪刑法定主義」は冤罪防止と密接不可分に構成されている。冤罪防止制を構築しないと却って野蛮型刑法に堕する事になる。よって、警察の調書作成制、拘禁待遇制、検察の尋問制、裁判の三審制に於いて様々な冤罪防止手段が構築されねばならない。被疑者及びその家族ないしは関係者が冤罪を訴える場合には、その受け皿的審議制が構築されねばならない。逆に、被告が、刑罰を逃れるために偽証言したことが判明した場合、様々の減軽事由が総裁されるべきであろう。これを仮に「第8原則−冤罪理論」と命名する。「永山死刑基準」にはこの原則が採り入れられていない。 |
【第8原則、政治犯の別途待遇理論を創出せよ】 |
「れんだいこの新罪刑法定主義」は政治犯を別待遇すべきではないかと思っている。なぜなら、刑法の権力者側の恣意的適用による政治犯厳罰が目立つからである。政治犯は思想に於いては処罰されず、市民法的犯罪には服し、政治的犯罪に於いては抵抗権、革命権との絡みで考量されるべきではなかろうか。これを仮に「第9原則−政治犯理論」と命名する。「永山死刑基準」にはこの原則が採り入れられていない。 |
【第9原則、テロ犯の別途待遇理論を創出せよ】 |
「れんだいこの新罪刑法定主義」は政治犯のみならずテロ犯をも別待遇すべきではないかと思っている。なぜなら、権力者側の恣意的適用によるテロリスト仕立て犯厳罰が目立つからである。テロ犯も叉思想に於いては処罰されず、市民法的犯罪には服し、対権力的テロ犯罪に於いては抵抗権、革命権との絡みで考量されるべきではなかろうか。但し、減軽が顧慮許容される範囲は政治犯>テロ犯とすべきではなかろうか。これを仮に「第10原則−テロ犯理論」と命名する。「永山死刑基準」にはこの原則が採り入れられていない。 |
【第10原則−死刑制度について】 |
死刑制は、その存否を廻ってもっと議論されるべきであろう。死刑制が犯罪抑止に如何ほど寄与しているかどうかは判明しない。それが証拠に犯罪はますます増えつつあるという現実がある。 「れんだいこの新罪刑法定主義」は、理論上は死刑制を残し、実践上は以上提起した諸原則を適用する事により減刑化させていくべきだと考える。当人が望み、被害者家族が望み、社会的にも妥当とされる場合には執行されても致し方ないのではなかろうか。但し、「当人希望」は当人に対して何重にも質疑確認する必要があろう。これを仮に「第7原則−死刑制理論」と命名する。「永山死刑基準」にはこの原則が採り入れられていない。 |
【「永山死刑基準」考】 |
以上の考察からすると、「れんだいこの新罪刑法定主義基準」と「永山死刑基準」の違いが明らかになろう。「永山死刑基準」の場合、第2原則の減軽理論、第7原則の冤罪理論、第8原則の政治犯理論、第9原則のテロ犯理論、第10原則の死刑制理論が無いことに気づかされる。一応この確認をしておくことにする。 |
【2008.4.22日、「光市の母子殺害事件」の広島高裁判決考】 |
2008.4.22日、「光市の母子殺害事件」の広島高裁判決が下った。楢崎康英裁判長は、概要「被告は死刑を逃れるために虚偽の弁解を弄しており、反省の態度はみられない。死刑の選択を回避するに足る特に酌量すべき事情を見いだすことができず極刑はやむを得ない」と述べ、無期懲役(求刑・死刑)とした1審・山口地裁判決を破棄、被告に死刑を言い渡した。 事件発生から9年を経て4度目となる判決で、初めての死刑宣告。犯行時18歳だった被告に高裁レベルで死刑が言い渡されるのは、最高裁に記録が残る昭和41年以降3人目で、近年の厳罰化の流れを反映した司法判断となった。弁護側は上告した。 この事件には幾つかの検討すべき点がある。一つは、被告が犯行時18歳と1ヶ月と云う未成年規定をギリギリ終えたばかりの年齢であった事。二つ目は、警察の取り調べ段階での供述誘導に無理が無かったかどうかと云う事。三つ目は、被告がその後供述を翻し、心身異常時の偶発的強姦致死であった旨を上申し、その真偽が争われたこと。四つ目は、被害者遺族の夫が、適正処罰と再犯防止に精力的に取り組んでいる事。五つ目めは、新左翼系弁護士として名高い安田弁護士グループが弁護人を引き受け、新供述を元に真っ向から裁判闘争化したことが挙げられる。 |
差し戻し前の1、2審はいずれも「刑事責任は極めて重大」としながらも、被告が事件当時、死刑を科すことのできる18歳になってから30日だったことを重視し、無期懲役を選択した。しかし最高裁は平成18年6月、「18歳になって間もないことは死刑を回避すべき決定的な事情とまではいえない」と判示。「無期懲役の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」などとして審理を差し戻していた。 |
れんだいこが関心を持つのは次のことである。楢崎裁判長の判断は、いわば新供述の全面否定であり、さほど興味は無い。この種の事件の真相は、細部に至ると不明となる。問題は、「れんだいこ式新罪刑法定主義理論」に照らして、こたびの判決が妥当かどうかを問うところにある。 以上、とりあえずのスケッチコメントしておく。 2008.4.22日 れんだいこ拝 |
【2008.4.28日、「伊藤香織被告の夫殺害、死体切断放置事件」考】 |
2008.4.28日、「伊藤香織被告の夫殺害、死体切断放置事件」に対して、東京地裁判決が有り、河本雅也裁判長は「犯行時に急性の精神障害を発症してはいたが、刑事責任能力はあった」として、懲役十五年の実刑判決(求刑懲役二十年)を言い渡した。
この事件の考察意義は、精神鑑定を廻って、検察側と弁護側双方の鑑定人が「刑事責任を問えない心神喪失の可能性がある」としたことによる刑事責任能力の有無が争点となり、判決の行方が注目されており、その是非を問うことにある。弁護側は、心神喪失で無罪を主張していた。 最高裁判例では、裁判所は鑑定結果に拘束されないとされる。しかし、鑑定で心神喪失とされ、一審無罪で二審有罪となった被告の判決で、最高裁が最近、「鑑定結果を重んじるべきだ」として審理を差し戻したため、今回の判決が注目されていた。 河本裁判長はまず、「鑑定結果は参考意見にすぎず、責任能力の判断は裁判所が行う」と前提し、「短期精神病性障害を発症していたとする結果は信用できる。犯行時、急激に意識障害をともなう夢幻様状態に陥り、幻聴や幻視が生じていた」と認定し、「正常だった」とする検察側主張を退けた。 その上で、1・被告が訴えた幻覚や幻聴は犯行を誘引していない。2・犯行時は一定の意識の清明さがあった。3・殺害の際の行動や被害者の反応を記憶している。4・殺害後、発覚を防ぐために行動していると認定し、「精神障害は犯行に影響を与えたが、責任能力に問題はなかった」と判断した。 量刑については「夫から長い間暴力を受け続け、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したことが殺意につながっており、同情の余地は相当ある」としたが、「残酷、無残な犯行で刑事責任は重大」とした。 |
判決は、【鑑定結果】として次のように述べている。 鑑定結果によると、被告は犯行直前、短期精神病性障害を発症した。殺害時は急激に強い不安などの情動反応が起こった上、一定の意識障害を伴うもうろう状態に幻視、幻聴を伴う夢幻様状態に陥った。幻視の一部として被害者を見ていた可能性があり、現実感を喪失させ、適切に状況を判断して行動を制御することが難しい状態だった。また死体損壊、遺棄時は、幻視、幻聴があり、一定の意識障害があった。重大な犯罪を行ったという衝撃もあり、行動の抑制が困難になっていた可能性があるという。 検察官は被告が鑑定人の問診時まで幻覚があったと誰にも供述しておらず、鑑定結果は信用できないと主張する。しかし、矛盾のない虚偽の幻覚体験を語るためには専門的知識が必要な上、供述内容も具体的で鑑定人の誘導とも考えにくく、「自分がおかしいと思われるのが嫌だった」との被告の供述は信用できる。鑑定結果の信用性に疑いを差し挟む事情はない。 判決は、【鑑定以外の事情】として次のように述べている。 殺害行為直前に友人と対応した被告に特に異常さは認められない。その後、短期精神病性障害を発症するが、犯行動機は当時の被告の状況からは自然で理解できる。攻撃は頭部に集中し、犯行時、一定の運動能力と意識の清明さを保っていたことが認められる。一見粗雑な犯行だが異常なものとまでは認められない。 のこぎりなど必要な用具を購入、準備を整えて死体損壊行為に及び、身元が判明しやすい頭部を自宅から離れた公園内に埋めるなど、発覚を防ぐための合理的で目的に合う行動をしている。 犯行後、被告は被害者の捜索願を出したり、死体損壊に使ったのこぎりを実家に送ったり、被害者に成り済ましてその父親にメールを送るなどしている。明らかな犯行隠滅行為で、被告は目的達成のため、複数の者と目的に合ったやり方で交渉している。 判決は、【責任能力の判断】として次のように述べている。 殺人行為時、被告の幻聴、幻視は祖母や読んでいた雑誌に関係するもの、当時の自己の状態が反映したもので、人格からの乖離(かいり)はなく、また被害者殺害を指示するようなものではなく動機形成に関係ない。 被告は犯行の一部や当時の心情を記憶し、動機も了解可能で、犯行態様に異常さはなく、犯行後は目的に合う隠ぺい行為をしている。 よって殺害行為は被告の意思や判断に基づいて行ったと認められ、精神の障害は現実感の喪失や強い情動反応により犯行実現に影響を与えたものの、責任能力に問題を生ぜしめる程度のものではなかった。 鑑定人は被告に行動制御能力がなかったのではないかと述べるが、あらゆる重大犯罪は犯罪時点で何らかの精神の変調があるとも述べており、完全責任能力について合理的疑いを生ぜしめない。 死体遺棄、死体損壊についても、幻視は動機形成に関係なく、犯行態様や動機の了解可能性、犯行前後の目的に合う行動からすれば被告の意思や判断に基づいていると認められ、責任能力に問題を生ぜしめない。 脳の器質的障害を疑わせる証拠もなく、被告は各犯行のどの時点でも完全責任能力があった。 判決は、【量刑の理由】として次のように述べている。 被告には同情の余地が相当ある。容ぼうが変わるほどの鼻骨骨折などの障害を負い心的外傷後ストレス障害を発症したが、被害者はドメスティックバイオレンスを継続し離婚に応じず被告を精神的に追い込み、被告自身が言う地獄のような夫婦生活を送っていた。 しかし、こうした経緯は殺害、死体損壊、遺棄を正当化しない。中でも被害者に成り済まし遺族に生きていることを装ったメールを送った行為はあまりに卑劣で自己中心的だ。犯情は悪く、刑事責任は重大だ。 |
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(私論.私見)