中庸中道考

 (最新見直し2008.7.9日)

 れんだいこの釈尊探訪の旅は心のもやもやが晴れるまでもう少し続く。こたびは、釈尊の中庸中道論についてその真意を愚考してみたい。端的に云って、釈尊の中庸中道論は真理を見極める思惟方法としてのものであり、流布されているような対立する二者を足して二で割るような安直なものではないのではなかろうか。このことが分かれば良い。

 2008.7.9日、中立論的に使われる中庸中道論は間違いなのではなかろうか、と云う事にれんだいこはに気づいた。先の「対謝論」に続いて「れんだいこの中庸中道論」は、聞く人が聞けば、これもかなりの評判を呼ぶ事になろう。これについて記しておく。

 従来、中庸中道論は、左右あるいは急進対穏和等々の二項対立に関して中立中間的バランスに注目し、「公正」的見地を唱える立場から利用されてきた。しかしてそれは、中庸中道論が本来、思想的哲学的概念であることを弁えていない。れんだいこはこのことに気づいた。

 れんだいこは、中庸中道論のそういう理解は釈尊的意味での中庸中道論ではなく、単にモノグサ日和見的な中庸中道論であることに気づいた。中庸中道論は元々、中間とか公正とかに意味に真意があるのではない。その真意は、何事にも捉われず、即ち立場とか姿勢とかに執着、固執せず、より正しいと思われるものを状況変化に合わせて選択し対応すると云ういわばフリーハンド的な意味と意義があるのではなかろうか。この中庸中道論こそが釈尊本来の意味でのそれであると思う。

 つまり、釈尊的中庸中道論はいわゆる弁証法的なものであり、或る時には右になり或る時には左になり或る時には穏和に或る時には急進主義になると云う融通無碍下にある。右でもなく左でもなく急進でもなく穏和でもなくその中間を模索すると云う意味ではない。れんだいこは釈尊にそう主張したのではないかと真意を聞いてみたいと思う。

 この差は大きい。通俗的中庸中道論によれば、中立公正的基準に捉われる故に却って束縛され、結果的に実践的には役に立たないかむしろ有害になる場合さえある。それに比して、「れんだいこ的中庸中道論」は無手勝流であり変幻自在であり、その分常に自由闊達さを保持し得る。釈尊が唱えた中庸中道論は本来こういう無限定主体的意味のものであったのではなかろうか。ここに思いが至らなければ中庸中道論にはならない。

 そういう意味で、中庸中道の極意は、種々多方向の見解に対してより妥当値の高い見解を求め、その見解に基く実践も或る時には穏和になり或る時には急進的になりという具合に様々な変化を求める。この転身の内にこそ中庸中道の道がある。これを仮に真理の道だとすれば、真理を常に求め、より正しい道を模索する。この姿勢が本来の中庸中道論であるということになる。

 してみれば、世上の中庸中道論の何と愚昧な事か。それは本質的に権力者側に身を置きながら、批判的ないしは中立公正的粉飾によりあたかも反権力的であるかのようにポーズ演出するだけの絆創膏薬的な騙しの論に過ぎない。このことに理論的に気づいたことが大きな収穫であった。幸せなことにこれを読まれた方、ご意見求む。

 2008.7.9日 れんだいこ拝




(私論.私見)