人格等級考 |
(最新見直し2010.07..29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2010.7月現在、日本政治は不思議なほどに無風化している。状況は何一つ変わっておらず、否より深刻になっている筈なのに、菅政権も与野党も凪(な)いでいる。こうした折柄には、原理原則的なことを考えたら良いのではなかろうか。物事の基礎から整え直すべきだと考える。そういう意味で、ここで、これまで論考してこれなかった、だがしかしせねばならないことの一つである等級について考究することにする。内容は単純な話なのだが、案外と疎かにされたり誤解されているのではあるまいか。 2010.7.29日 れんだいこ拝 |
ここで、人間の等級について愚考して見たい。等級とは、上等だとか下級だとか云われている「人格の品定め」のことである。これによれば「格」とか「品」が問われることになる。「格」と「品」の違いが分からないが、仮に「格」を社会的な地位に纏わるもの、「品」を「格」基盤の上に立ち、そこから滲(にじ)む匂いのようなものと了解することにする。実際には、もっと別の規定のされ方があるように思われるが、本稿のテーマではないので検討を割愛する。ここで問うのは、人が責任を負うべき一身専属的な修養とか錬磨や習慣によって達成される範囲内の等級に狭(せば)めて言及することにする。 最近の世の中は妙なことに、品物一般に対しては品質を厳しく精査する傾向が強まっているのに比して、こと人の等級に対しては逆に問わない傾向を強めつつあるように思われる。これは、どういうことなのだろうか。その功罪を問うてみたいと思う。そういう訳で、人の等級をどう考えるのか了解するのかの論になる。一般に、歴史をさかのぼるほど等級格付けが喧(やかま)しかったように思われる。これを逆に云うと、近代から現代に至るほど等級論がなおざりにされてきたように思われる。この歴史の流れの是非を問おうとするのが、本稿の意義目的となる。 人の等級論は、昔より君子論、血統論、氏素性論、紋地門柄論として使われてきた。大昔の王朝、貴族制、君主制社会に於いては特に重視されていたように思われる。それが封建制時代まで続いた。つまり、封建制時代までは人を評するのに血統や氏素性や紋地門柄で判断し、格付けしてきたということになる。江戸時代には、これに伴う身分制社会が形成されていた。士農工商その他身分の大枠が定められ、且つその内部が更に序列化されていた。その上で儒教的な修身論、治世論が人々の精神を規制していたように思われる。この時代の政治の特質は徳治主義にあった。人も世も、徳とは何かは定かではないが、徳を求めて生き政治を司どってきた。今は懐かしい感がある。 徳治主義の弊害は、平時はともかくも世の転換期に於いて役立たなかった、というより復古的保守的なイデオロギーに転嫁していたことにある。儒教は陽明学を生むことで、やっと変革の哲学を生むことになったが、それまではアジア的停滞社会と云われる千年一日の体制に奉仕する御用理論になり下がっていた。加えて、身分的社会的秩序を重んじ過ぎた為に、幾ら才能や能力があっても人は自らの身分の垣根を越すことができないと云う柵(しがらみ)社会を生みだしてしまった。何事も同格の範囲内でやり取りされるが良しとする定めであった為に世間を狭くした。反対に、才能、能力がその地位に相応しくなくても、高い身分に守られたり胡坐(あぐら)をかくことが許されてきた。これを、より子細に見ると、それなりに人材登用も為されていたようである。が、いかんせん身分の壁は厚かった。 こういうことを不合理とする社会の改革が西欧から始まり、近代市民革命が勃発した。イタリアのルネサンス運動が走りとなり、自由、平等、博愛の理念を旗印とするフランス革命で完結した。これが世界史を一変させた。この波が日本にも波及し、幕末維新、明治維新へと繋がることになる。こうして、西欧でも日本でもいわゆる市民社会が形成されることになり、封建的な身分制が解体された。市民社会では、先天的な身分的差別が撤廃され、法の上では人は人として対等であることが前提とされている。人類史の歩みとしてはそれはそれで良いと思われるのだが、近代市民革命のロジックはどこか欠損している気がしてならないと思うようになった。 どういうことかというと、身分制を解体したことにより同時に修身論的な人を秤る尺度まで否定し過ぎたのではなかろうか。そういう思いで、近代市民革命のロジックに耳を傾けると、人が市民化されたのは良いとしても、そこに予定されている市民とは何と無機質且つ無性の抽象的な人間一般であることか。実際には在りもしないそういう人間像を思想的に造ることにより、人が等質化され過ぎたのではなかろうか。その間隙を縫って、今度は逆に人が金持ちかどうかの基準でのみ秤られることになったのではなかろうか。これにより、近代以降の人間が拝金蓄財病に侵されることになった。つまり、カネが万事ものを云う魔物権力になったことを意味する。これも又オカシイのではなかろうか。人を秤る尺度としてカネ持ち基準が唯一というのは全くもってナンセンスなのではなかろうか。我々は、これに飼い慣らされ過ぎているのではなかろうか。これが世の中を荒廃せしめているのではなかろうか。そういう眼を持ちたいと思う。 そもそも封建制社会打倒の理念は、身分制社会、男尊女卑社会からの解放であり、拝金蓄財病に侵される為ではなかった筈ではなかろうか。それがいつの間にやらすり替えられ、今日かくも拝金蓄財病が蔓延し社会を歪めているのではなかろうか。だとするならば、そろそろ対策を講ずるべきではなかろうか。これにより初めて脱封建制に功のあった市民社会が完結するのであり、只今の市民社会は半ば成就半ば未遂の奇形社会なのではなかろうか。こういう社会を一体、誰が流行らせたのかということにもなろう。果たして偶然必然なのだろうか。 「半ば未遂」とは、どういうことなのか。これを愚考する。思うに、市民革命は、身分制からの解放を遂げたからといって、人間の等級論まで捨てるべきではなかった筈である。市民革命が人の等級論を捨てることにより、人は薄っぺらな市民になり下がってしまっているのではなかろうかという疑いがある。そもそもに於いて人は、君子論、血統論、氏素性論、紋地門柄論に煩わされる必要はない。とはいえ、人が上等になることへの意欲を失ってよいものでもなかろう。この意欲を失ってより、社会は却って下等化したのではなかろうか。だとするならば市民社会的な等級論が生み出されるべきではなかろうか。 市民社会的な等級とは、市民社会に於ける人の一生の生き方を問うことになる。そして、生き方のパフォーマンスの出来栄えにより人の評が定められる。即ち、人が誕生するや、初期の養育、続く教育、人格陶冶の期間を経てやがて社会人になる。やがて適性や能力や嗜好に相応しい職業が定まり、それを転々とするも良しとして、いつしか家庭を持ち、家族を養いつつ社会に於ける有能な働き手となる。子育てを終えるや、最期のパフォーマンスに向かう。こうして寿命を費やしつつ次世代へバトンタッチする。これが期待されている市民社会に於ける人間像、生き方であろう。 この間、人は、労働者であろうが経営者であろうが、向上心をもって自己啓発、資質錬磨、刻苦勉励すべきであり、その成果としての人間関係力や仕事力に応じて人が品定めされ、登用され、役割を引き受けることになる。これが極力自然なのが良い。良い社会とは、人が互いに資質、能力に於いて相応しい関係に立ち、報われ方をされる社会であり、これがほどよくできている社会を云うのではなかろうか。こういう循環の中での生きがいや生き方が問われるべきではなかろうか。そういう意味で、市民社会には市民社会なりの等級論、徳治主義があって然るべきではなかろうか。 拝金蓄財病との絡みで云えば、もとよりこの間、人はカスミを食って生きる訳ではない。必要な金貨を稼ぎ、適正な蓄財をして有事に対処せねばならない。しかしそれは、断じて拝金蓄財病になることではなかろう。というか、拝金蓄財以外に人生の目的を持たないなどという生き方が許される訳がない。拝金蓄財は手段であって目的になるものではない。この弁えが大事なのではなかろうか。現代社会は、拝金蓄財病に侵されることにより、その秤りが唯一基準になることにより相当に奇形化させられているのではなかろうか。これを逆に云えば、いわゆる市民社会論は、人が努力して等級を高める営為を過小評価し過ぎているのではなかろうかということになる。そういう弊害に気づいたので、等級論をしておきたいと云うのが本稿の動機となっている。 では、どう生きるべきなのか。実は、ここで述べたいことがある。我が日本には、古代よりの素晴らしい生き方が伝授されているのではなかろうか。その源泉はどうやら神道のように思われる。それも古神道の方が深みがある。古代日本人は神道を生みだすことにより、本質的な意味で人の上等な生き方を弁えていたように思われる。これにより、日本は古来より優れた高度な社会を形成していたのではなかろうか。文化や伝統が一朝一夕にはできないン百年ン千年単位のことであることを思えば、これを為し遂げてきた日本人は稀に見る叡智民族なのではなかろうか。神道は不文を旨として黙して語らない。ただ感応するのを良しとする。故に意識されないが、日本人は代々神道のお陰を蒙って生きてきたのではなかろうか。もとより仏教的感化の影響もある。儒教的道教的その他その他の感化もある。だが、それらは全て日本では神道精神の基盤の上に受容されてきたのではなかろうか。れんだいこは、かく了解している。 加えて、日本には昔から、もののふの道がある。武士道とも云う。いつ頃から形成されたのかまでは分からないが、世に云うサムライ精神である。もちろん商人道、職人道、農民道もある。道で云えば、何もそういう職業道だけではない。あらゆるところに道がついており、全てを道にしている。その道の中に等級があり、道友は須く錬磨に励むようシステム化されている。茶道、華道、武道(柔道、剣道、空手道)、碁道、棋道等々数え上げればキリがない。この道化こそ日本が世界に誇ってよい等級論なのではなかろうか。代々育まれてきたこの日本の良さを見失うな。護持成育せしめよ。これが云いたかった。現代的な市民社会が遂に閉塞に陥った今、日本的価値を見直すべきではなかろうか。最近の世相の荒廃を思うに付き、いやましにそう思う次第である。 遂に、ここまで辿りついた。まだ意を尽くせないが以上スケッチしておく。 2010.7.29日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)