イソップ物語「太陽と北風」考 |
(最新見直し2010.11.04日)
Re::れんだいこのカンテラ時評847 | れんだいこ | 2010/11/04 19:58 |
【イソップ物語「北風と太陽」譚考】
ふと、イソップ物語「北風と太陽」譚の重要性に気づいた。既に「ろばを売りに行く親子の話」を考察している。続いて「北風と太陽」譚の比喩的意味と意義について確認する。 イソップ物語の重要性はどこにあるのだろうか。思うに、イソップ物語、ギリシャ神話、西欧各地の土俗神話等には、近現代世界を席巻するユダヤ教的ネオシオニズムとは違う別系の叡智が散りばめられていることにあるのではなかろうか。ユダヤ教的ネオシオニズムは、その知の源をユダヤ教聖書、タルムード等に由来させている。これを原書とするユダヤ教的ネオシオニズム系テキストが近現代世界の知を領導している。それは背理知であり、それまでの豊壌な知恵が逼塞させられいるのではなかろうか。 このことを知らず西欧学と云う名のユダヤ教的ネオシオニズム系テキストを鵜呑みに学ぶから、学んで却ってバカになる自称知識人ばかりを輩出しているのではなかろうか。テレビに出て来る政治評論家のバカヅラを思うたびに、この思いを強める。そういう訳で、ユダヤ教的ネオシオニズム以前の、あるいは又ユダヤ教的ネオシオニズムに対抗する知恵をも学ばねばならないのではなかろうか。こう考えた時、イソップ物語の「北風と太陽」譚が、見事にユダヤ教的ネオシオニズムの欠陥と限界を示唆していることに気づいた。イソップの人となりを知らないが、よほどユダヤ教的ネオシオニズムの偏狭性を知りつくしており、寓意で見事に反論しているのではなかろうか。この観点から愚考することにする。 イソップ物語「北風と太陽」譚の原書を知らないので流布されている通説に従うことにする。それによると、題名は「北風と太陽(The Wind and the Sun)」であり、次のような話になっている。 「北風と太陽が、どちらの力が強いか勝負しようということになりました。そこへ一人の旅人が通りかかりました。旅人の服を脱がせたほうが勝ちということにしました。北風は、簡単なことだと言って、風を激しく旅人に吹きつけました。旅人は、しっかりと服を押さえたので、さらに一層強く吹きました。たまらなくなった旅人は、もう一着服を着込みました。ついに北風は吹きつかれてしまいました。次は太陽です。太陽は初めおだやかに照らしました。すると旅人は、よけいな服を脱ぎ捨てました。するとこんどはもっと強く照りつけました。とうとう旅人は暑くてたまらなくなり、服を全部脱ぎ捨てたのでした」。 (英訳) The Wind and the Sun were disputing which was the stronger. Suddenly they saw a traveller coming down the road, and the Sun said: "I see a way to decide our dispute. Whichever of us can cause that traveller to take off his cloak shall be regarded as the stronger. You begin." So the Sun retired behind a cloud, and the Wind began to blow as hard as it could upon the traveller. But the harder he blew the more closely did the traveller wrap his cloak round him, till at last the Wind had to give up in despair. Then the Sun came out and shone in all his glory upon the traveller, who soon found it too hot to walk with his cloak on. Kindness effects more than severity. (れんだいこ和訳による意訳) 「風と太陽がどちらが強いか言い合っていた。不意に彼らは、ある旅人が通りかかるのを見た。太陽が云った。『我々の論争に決着つける案が浮かんだ。我々のうちどちらがあの旅人のマントを脱がすことができるか。脱がした方がより強いということにしよう』。『あなたからどうぞ』。そう云って太陽は雲の中へ隠れた。風が旅人にあらん限りの力で吹きつけた。しかし、風を強く吹きつければつけるほど旅人はマントを強く掴(つか)み体に巻き付け始めた。北風は顔を真っ赤にして一層強く吹きつけたが、旅人はますますマントを強く巻きつけて離さない。遂に風は根負けしてあきらめねばならない破目になった。今度は太陽の番である。太陽が旅人に日を降り注ぎ、おだやかに照らし始めた。するとまもなく旅人は暑くてたまらなくなり、マントを脱いで歩き始めた。やさしさは苛酷さよりも効果がある」。 イソップ物語の中でも有名な寓話で、「やさしさは苛酷さよりも効果がある」、「強制より暖かさが人間を動かす最上の手段である」と云う諭しとなっている。これを「力で人を屈伏させるよりも、言葉で納得させるほうが有効だ」と解説する向きもあるが矮小過ぎよう。この童話は、子供諭しの寓意に止まらず大人の世界をも諭しているのではなかろうか。仕事、世間づきあい、政治、経済、文化、教育その他諸々の世事全般に教訓的な寓意を垂らしているのではなかろうか。 そこで思うことは、近現代世界を席巻する国際金融資本主義ネオシオニズムのイデオロギーと教説は、北風論理論法そのものではなかろうかと云うことである。近現代世界のエリートは、こういう北風論理論法を習熟させられ、その習熟度に応じて学位を得ている。或いは見出され政治家として雇われ、ポストを与えられている。しかし、その北風論理論法のみを学ぶことにより元々の阿呆が始末に悪い阿呆になっている。今日びの学者、政治家に対する不快さは、これに由来しているのではなかろうか。実践的にも、北風論理論法で脳内を形成した者は使い物にならない。本当の賢さは、北風論理論法を一たびは学ぶも良し、されど抜け出る賢さを持たねばならない。これにより漸く使い物になる。こう悟るべきではなかろうか。 れんだいこは、これをどのようにして発想したのか。それは宇沢弘文氏の経済論、政治論を聞き及んだからである。宇沢理論は太陽論理論法である。これが、れんだいこのインスピレーションである。今、宇沢弘文・内橋克人著「始まっている未来」(岩波書店、2009.10.14日初版)を取り寄せ、今日から読み始めることにしているが期待を裏切らないであろう。思えば、世事全般の諸々の戦線で太陽派と北風派が争っているのではなかろうか。これをハト派とタカ派とも云い換えることができよう。 分かったようで分からない階級闘争論棒を振り回すより、太陽派対北風派、ハト派対タカ派闘争論棒の方がよほど有益ではなかろうか。それが証拠に、階級闘争論棒はあらゆる分野で空を切り始めているのではないか。太陽派対北風派、ハト派対タカ派闘争論棒なら自在に振り回せるではないか。この観点から階級闘争論棒を改組すべきではなかろうか。と云うような気づきをイソップ物語「北風と太陽」譚でさせて貰った。イソップの慧眼に感謝したい。 思索ノート集 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/tetugakunote.htm) 2010.11.04日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)