大過なし論と目クジラ論考

 (最新見直し2011.02..18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ふと浮かんだ「大過なし論と目クジラ論考」を記しておく。

 2011.2.18日 れんだいこ拝


 2011.2.18日、ふと浮かんだ。現在の時代の病としての「大過なし論と目クジラ論」を確認しておくべきではなかろうかと。これはどういうことか。れんだいこは、現下の時代が、たいして問題にしなくても良いことに対して重箱の隅をつつくようにして目クジラしていることに異議を唱えようとしていることを意味している。それでいて真に問題にせねばならない重大事を疎かにしているのはお笑いではなかろうかと。

 具体的に何を云おうとしているのか。当然、執拗に続く小沢どんバッシングを念頭に置いている。小沢どんは何を問題にされ攻撃を受けているのだろうか。その攻撃が理に叶ったものなのだろうか。期日ズレが問題にされ、「天の声」まで詮索されているが、問題の秘書寮建設がそれほどイカガワシイことだろうか。秘書寮を建設しなかったとしたら、秘書は従来通りに社宅を借り上げ家賃を払うことになるが、そのことがそれほど称賛されることだろうか。どうでも良いことなのではなかろうか。そのどうでも良いことに目クジラ大騒ぎし、離党どころか議員辞職、果ては政界追放まで叫ばれているが、全体がバカ大騒ぎではないのか。こういうことが云いたい。

 日本はいつからこんな目クジラ論を流行らせることになったのだろうか。従来は、大過なければ見逃しあるいは許容していたことなのではなかろうか。つまり、大過なければ好きにせぇで事足りていたのではなかろうか。「郷に入りては郷に従え」と云う諺がある。その真意は、郷入りした者は何でも郷のしきたりに従いなさいと云う意味ではない。郷入りした者は、郷のしきたりが「大過なければ」その限りで従い、それよりも早く馴染みなさいと云う諭しであろう。つまり、「大過なければ論」が介在していると窺うべきであろう。

 日本の共同体はこうやって維持されてきた。これで何ら問題はない。

 問題は、そうやって維持されてきた共同体内に異質の目クジラ論が忍びこみ、かき乱しつつあることである。全体がこれに引きずられ、些事が針小棒大にされ、重大事が逆に疎かにされつつある。この流れを堰止めし、本来の秩序に戻さねばならないのではなかろうか。

 個人情報保護法案辺りから急ピッチになりだしたような気がする。

 2011.2.18日 れんだいこ拝







(私論.私見)