正気の歌考 |
(最新見直し2009.6..16日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
正義を貫く思想の意として「秋霜烈日」の言葉が使われる。その意は、霜のように厳しく夏の太陽のような烈(はげ)しさを含蓄している。語源としての故事来歴として、中国・南宋時代の詩人、辛棄疾(しんきしつ)の「永遇楽・烈日秋霜」に「烈日秋霜、忠の肝(こころ)、義の胆(こころ)」という句が知られている。忠誠心の強さの形容として「烈日秋霜」が使われている。
注釈によるとこの「烈日秋霜」という表現は「新唐書」の段秀実列伝の故事を踏まえている。段は唐の時代の武人。節度判官という地位にいたことがある。新唐書は「たとえ千年五百年たっても、彼の英烈なる言葉は、厳霜烈日のごとく畏(おそ)れ仰ぐべし」とたたえている。 8世紀の半ば、唐の大軍と、勃興(ぼっこう)するイスラム帝国アッバース朝の大軍が中央アジアで激突した。有名なタラスの戦いである。唐軍の主将は高句麗の貴族、高仙芝。副将が李嗣業、別将が段秀実という陣容だった。唐軍は大敗する。高将軍は逃げ出した。夜中、異変を察知した段は上役の副将を責めた。「自分だけ逃げて多数の兵を危険に陥れるとは仁にもとる行為だ」。李は恥じて敗残兵を収容しながら退却した。 その後も段はしばしば上司の非を責めた。783年、ついに段は上司に殺害される。上司からクーデター計画に参加するよう誘われた。段は上司の顔につばを吐き「狂賊め、はりつけにしてやる」と言い、上司の手から象牙の笏(しゃく)を奪ってなぐりつけた。上司は満面血に染まった。ことほど左様に、烈しく上司の非をただす気迫が秋霜烈日という言葉の真面目である。 13世紀、フビライの大軍が南宋に侵入した。杭州の宮殿にはバヤン将軍の率いるモンゴル兵に包囲された。幼帝とその母、祖母は呆然とし、宰相は逃げ腰。このとき、武人の文天祥がバヤンの陣営に乗り込み、交渉の任に当たった。バヤンの面前で、古今の道理を説く火のような演説をした(吉川幸次郎「元明詩概説」岩波文庫)。バヤンは文の人物を評価しフビライ帝に仕えるよう説得した。文は拒絶し北京に護送された。フビライ自ら帰順を勧めるが、「二君に仕えず」と断り、1282年、従容として処刑された。これにより張世傑、陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人となる。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。
長州の吉田松陰も処刑のために江戸に送られる途中、「文天祥の正気の歌に和す」を作った。日露戦争時の広瀬武夫も自作の「正気の歌」を作っている。1946(昭和18).10.21日、東条英機首相による「学徒出陣壮行会の首相訓示」の中にも冒頭部が引用されている(「学徒出陣壮行会の訓示」http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kunnji.htm)。 |
(私論.私見)