肉親の情愛考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.7.15日

 突然の兄の逝去に接し、ここに追悼文を書きつけておくことで、彼の命の一片を永遠のものにしようと思う。

 昨日、れんだいこ兄弟の次兄が突如急逝した。戸籍上、生涯独身で、享年61歳の若過ぎる死となった。常に何事かを企図して未だ何も成就せぬままの、しかしその意欲たるや、還暦を迎えて今なお壮健な過程での不慮の死となった。何かメッセージがあるのなら夢にでも伝えてくれと思う。今は冥福を祈るばかりである。

 彼の性格は大人しい皮肉上手な人だった。れんだいこ同様に身分不相応なほどに歴史や宗教、政治、経済に旺盛な関心を持っていた。その見立てに於いて、「半身構えの逆さ見」を得意としていた。その発想をどこで仕入れたのか独創したのかは分からないが、これが独特なもので、れんだいこが教えられたことは少なくない。と云うか、れんだいこ観点形成上重要な役割を果たしている。

 彼とれんだいこは生業(なりわい)を共にしており、今日まで連れ立ってきたと云う深い関係にある。そういう意味で、まぎれもなく人生の伴侶であった。彼の死によって、いまさらながらそう思う。親の慈愛同様の見守り生き神が一人減った気がする。大事な重石が剥がれたような気がする。生きていれば恐らくこうは云えまいが、死して伝わる情愛である。

 彼とは年が三つ違いということで、兄弟間では一番親しい仲であった。子供の頃の思い出として、長兄に泣かされた腹いせにこちらに向かい叉泣かされると云う、やや意地の弱い兄だった。窮すると短気な面もあった。嫌味を得意として物言う癖があったが、彼なりの愛情表現であったかも知れない。逆に云うと、愛情表現の下手な性分の持主だったかも知れない。勉強の方は我が家の伝統で中学生になってから突如できだし、学年で順番を争う秀才になったのが、生涯の自慢の種であった。兄弟で一番できたのは俺だと何度聞かされたことか。

 子供の頃、一緒に相撲し、将棋を競った。中学生の頃、彼はニキビに悩まされ、よくモンゴールを買いに行かされた記憶がある。弥勒菩薩に憧れ、似せようと努力する少年であった。そういうナイーブなところがあった。

 彼が剣道部へ入ったのを見て、れんだいこも後追いした。れんだいこと剣道の結びつきは彼のお陰である。中学時代の彼は牛乳配達しながら学業を何なくこなしていた。配達先で見つけたサボテンが気に入り、何種類か育てていた。そういうところからか植物や園芸に詳しいところがあった。選ばれて当時導入された特別奨学資金を受給し、できて二年目の高松高専に入学した。

 しかしながら、元々文系の頭脳を持つ彼にとって苦難の高専生となった。この頃、彼は学業から逃避するが如くにビートルズ狂いになった。手提げにいつもレコードを持ち歩いていた。バンドを結成しドラムを叩いて稼いでいたと云う。卒業できないのを心配した長兄が駆けつけ、教師と談判してやっとのことで卒業できたと云う。その割に就職先は教員が驚くほどの上場企業に入り込めた。面接で気に入られたのだと云う。

 会社時代の次兄の様子は判明しないが、断片的に伝えられているところからすると、十分に青春を謳歌していた。休暇にはオートバイに乗ってあちこちを散策したと云う。或る時、過疎村に入ると、年寄りと子供が寄って来て、珍しいものを見るように歓迎されびっくりしたと云う。会社の文化祭ではドラマーとして登場したと云う。技術改良で社長賞も貰ったという。風呂の入り方から仕込まれたと云う。

 その頃、れんだいこは大学受験に失敗し、京都へ出奔していた。新聞配達奨学生となり伏見区淀の朝日新聞配達店に住み込んだ。但し、予備校へ行かなかったので普通の住み込みにさせられてしまった。予備校へ行かない分の手当の増額を求めたが駄目だった。1969年のことである。当時、全共闘の大学解体運動に共鳴し、大学へ行っている者が大学解体云うのだから、行かなくても良かろう、実力を磨くべし、この生き方の方が良いと考え実践し始めていた。最初はもう一人奨学生がいたが二か月ぐらいで止めてしまい、その配達区域も任されたが難なくこなしていた。

 この時、たまたま大阪に居た長兄と京都に居た彼が駆けつけてきた。二人は、強く大学行きを迫った。彼曰く、会社に入ってわかったことは、高卒組と大卒組の差が歴然としており、高専卒の俺は行くところがない云々とぼやいていた。二人とも、「お前はできるのだから大学へ行け」と強く願った。弟を思いやる二人の兄がそこに居たことは間違いない。

 そのせいだけではなかったが色々あって秋頃、れんだいこは急に大学進学したくなり、新聞配達店には申し訳なかったが帰省した。猛勉が始まった。国立をあきらめ、選択科目の少ない私立へシフト替えした。それが幸いして関西受験の関西大学、同志社大学、関東受験の中央大学、早稲田大学を共に受かった。同志社大学は恐らく最高点クラスで、早稲田大学には恐らくすれすれで受かった。しかし予備校にも行かず僅か四か月ほどの受験勉強で補欠でもなしに受かったのだから十分良しとすべきだろう。長兄と次兄で主に次兄が、関西大学には払い損覚悟で入学金を払ってくれた。麗しい兄弟愛であった。これを思うと目頭が熱くなる。

 学生時代、れんだいこが学生運動し始めたのに対しても、親同様何も云わなかった。「お前には似合っているかも。やるんならしゃんとせい」と云う眼差しだった。彼はその頃、何を思ったか会社を止め脱サラした。Uターン帰省してふとん乾燥機の自営業を始めた。数年後これに見切りをつけ、生涯の業務となる不動産会社勤めを始めていた。転勤で名古屋へ飛んでいた。ここの社長に鍛えられたことを生涯誇りとしていた。

 この時、クラブで知り合った女性と同棲していたと云う。子連れの離婚組の彼女は、次兄がのどが渇いたというと、夜中の2時でもタクシー飛ばしてアイスクリームを買ってくれたと云う。れんだいこの知る限り唯一の、女性との同棲歴である。生涯独身となったことを思えば、一緒になれば良かったのにとも思う。その頃のことになるが、オイルショック時にえらく反応し、缶詰を送ってきた。そういうところのある兄であった。これについては後年、兄弟寄ってはからかいの対象となった。

 田中角栄批判が喧騒の折、俺はそうは思わないと角栄支持の見識を打ち出したのも彼だった。彼の欠点は、その次に会うと、既に自説を撤回していたところにあった。この世の中は、下手に市井本を読み過ぎると却って訳が分からなくなる仕掛けにされており、彼はそういう意味での被害者であっただろうと思う。れんだいこは終始、彼の「最初の感性」の支持者であった。次兄とれんだいこの関係は、彼の感性にれんだいこが感応し覚醒させられ、れんだいこが信念化した時には彼は既に日和っている、と云うのがいつもの生涯変わらぬ方程式となった。

 思えば天理教へ誘ったのも彼だ。東京で勤めていたれんだいこに、「とにかく来い。場所はどこそこ」と云う緊急電話により、れんだいこは急きょ会社を止め、訳のわからないまま「おぢば」へ向かった。そうして再会したものの、熱心になるのはいつもれんだいこの方だった。

 彼はその頃、再び帰省しており、名古屋で鍛えた同業の会社に就職し、その会社の伝説的なトップセールスマンとなっていた。その彼が独立し、何とか目鼻が立ち始めた頃、両翼の社員に辞められ困った。給料の昇給を廻ってゴタゴタしたらしい。彼は、れんだいこに目をつけ、真摯に入社を誘った。れんだいこは、その鄭重さにほだされ入社したいきさつがある。あれから三十年になる。

 一時、羽振りが良くなった。支店も出し、マンションの一室から抜け出し本社ビルを購入した。この頃が、彼の生涯の絶頂期だったと思われる。30代初頭の若さであったが一番輝いていた時期となった。しかし、事業は有為転変がつきもので暗転し始める。こうなると彼は守りに弱かった。この頃、れんだいこが有能な働き手になり、手助けし始めるに応じて彼の闘争能力が落ち始めた。兄弟の場合、この辺りの呼吸が難しい。よその兄弟はどのように解決しているのだろうか、今も思う。

 その道中で、経営がにっちもさっちも行かなくなり、れんだいこと経営者交代した。かなりな負債を抱えての再出発となった。これを完済し何とか今日まで持ちこたえてきている。彼はこれを喜び、人一倍深い愛社心で何かと気遣いながら今日まで来ていた。社員の品評をし、これが狂うことがなかった。何といっても、れんだいこをこの業界に引き込み、飯を食う型を授けたのが彼だったことになる。そういう意味で、彼の果たした役割は、思った以上に重いと今更ながら思う。

 一緒に富士山登山したのもなつかしい。彼はその頃失意の最中で、Y君と友達になり神社仏閣廻りしていた。この過程で、彼の心身症は癒され回復した。或る時、富士山に登ったことを自慢し始め、れんだいこを誘った。れんだいこは気軽に応じた。都合5名で向かった。御前0時頃、山梨ルートの五合目に到着し登り始めた。ご来光を仰ぐのが目的だったが、一合目を登るのに2時間費やし、れんだいこは9合目で迎えた。兄とY君は頂上でご来光を仰いだ。

 8合目だったか、山の宿泊所のオヤジが、8時間もかけて来て、いきなり登って、ここへ泊まらずに頂上へ行くのは富士山を舐めていると語った。れんだいこは、へとへとになって頂上に着き、浅間神社を参って降りがけに足をくじいて、座頭市姿でとぼどほと下った。この時、雨に見舞われ散々だった。後々、次兄は、この時のことをからかった。

 ここまでならまだ良い。その後8時間かかる道のりを、そのまま車で帰った。この間、次兄が運転した。驚異の体力であろう。当然居眠り運転となったが、何度も後続の警笛で眠気をさまされ奇跡的に助かった。兄にはこういう運の強さがあった。三時間後、ようやく睡眠から醒めたれんだいこが代わり、やっと帰宅できた。そんな冷や汗ものの危ない思い出を思い出す。

 その前後、親父ともどもの旅行をあちこちした。その後、れんだいこに後に妻君になる彼女ができ、時に五人、四人、三人、次第に二人旅行となり、このところ次兄とはどこにも行っていない。もっとあちこちしておけば良かったとも思うが、所詮云ってみるだけのことか。

 或る年の正月、れんだいこと、妻君になるT子と兄の三人旅行で正月の天理教本部参りした。その際に石上神宮、大神神社へと足を伸ばした。大神神社では渋滞が激しく、機転を利かせて(今はこのコースは封じられているが)大神駅の横裏道を上り下りしたところ鳥居の前に着き、偶々一台のみ空いていており滑り込みで駐車できた。兄が私の霊能に目を白黒させていたのが懐かしく思い出される。その大神神社を私とT子がえらく気に入り、今に至るまで年に数度の参り場所となっている。思えば、ここでも機縁が兄である。

 もう10年以上前になったか、ネットワークもそうだ。久方ぶりに彼が夢と希望を膨らませ、俺はこのビジネスでベンツに乗るんだと云う。彼の手助けになるならと云う思いから、れんだいこも始めた。しかしここでも同じ事が起きた。れんだいこのエンジンがかかり始めた頃、彼は既に熱意を失っていた。長兄に、ベンツではなく便器の間違いとからかわれ、そのたびに兄弟が爆笑することになった。

 7年ほど前だろうか、彼は悪性リンパ腫で入院した。奇跡的に完治し、飯の種を見つけ出そうとして、パソコンに取り組み始めた。ここでも、ユニークな発想が見られた。成功したとは思えないが、後半生に手ごたえを感じたようであった。

 れんだいこと彼は膝を交えればいつも、政論、歴史論に夢中になった。時に二、三時間に及んだ。彼に教えられたこともあるし、耳を傾けさせることもあった。互いが会話を満喫してお開きした。最近では互いにネットサイトを立ち上げ研鑽し合っている。れんだいこが彼の新事業を手助けすればもっと素晴らしいものになるとも思ったが、敢えて何もしなかった。彼の戦闘意欲が衰えるのを恐れたからである。彼のサイトはこの先どうなるのだろうか。これが兄貴の置き土産かも知れないとも思う。

 その彼と、この半年ほど前より会社の資産を廻って諍(いさか)いがあり、肉親とは「憎身」(にくしん)でもあるような気がするが、以来毎日顔を合わす割にはろくに口を利いていない。その次兄が突然死んだ。致し方なかったにせよ、最晩年に会話をなくしたことが悔やまれてならない。このようなことになることも含めてもっと腹を割って、胸襟を開き、話し合うべきだったかも知れない。ここまで関わってきた伴侶ではないか、二人ともこの原点を大事にしようと伝え、最後まで運命ともどもにする、助け合おうとの誓約書を作って安心させてあげれば良かった。そういう必要があったのではなかろうかと悔やまれる。

 そう云えば、丁度十日ほど前、何か話したそうな雰囲気だった。二言三言遣り取りしたが、いつもの皮肉な物言いが出始めたのでシャットした。結局、あれが最後の会話となった。あの時、下手にでて色々積もる話を聞き出せば良かったかと思う。元のように互いが必要とする話し相手に戻れたかも知れない。れんだいこが、兄の寂しさを感じ取るべきだった。これができないのが、れんだいこの欠点だろう。れんだいこのこの性格が今こそ恨めしく思う。

 次兄よ、あなたがどう感知していたのかは分からないが、普通的には幸せ薄い人だった。そこをもっと分かってあげるべきだったかも知れない。しかし、そういう風には感じていないような或る種ユニークな人だった。れんだいこに対して終始過剰なほどの心配性の兄だった。そういう時きまって皮肉を云うので、れんだいこは聞く耳を持たなかった。それでもいつも遠くから見守り続けるのが兄だった。その兄が、未だ意欲旺盛にして志半ばの無念の死となった。

 会社は、大変な最中であるが、ようやく苦境を潜り抜けたと感じている。依然として楽ではないが、明るさが見えて来たような手ごたえを感じている。次兄よ、こういうこれからと云う時、君は逝ったことになる。何がしかもっとして上げられる態勢に入ったばかりなのに。人生の不条理を強く思う。

 次兄よ、今はただ成仏を祈る。安らかに眠れ。飼い犬ジャンは引き取らねばなるまい。形見として大事にしてやるわ。今、かけがえのない朋を失った事があらためて滲みいっている。落ち着いたら涙がこみ上げてくるかも知れない。最後に、万感の思いを込めてご免な。火葬の時には泣くと思う。

 2008.8.30日 れんだいこ拝 





(私論.私見)