目くそ鼻くそを笑うの寓意考 |
(最新見直し2009.5.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「目くそ鼻くそを笑う」という諺がある。ここにキマジメな弁士が居れば、クソを定義し、目くそと鼻くその違いを述べ、笑うの意味を詮索し、総じて文意を解釈するという手法を採るだろう。しかし、これで文意が明らかになったかと云えば否であろう。 れんだいこがなぜこの諺を採り上げるのかというと、上述の解釈で事足れりとする解釈士が横行し過ぎているからである。この手の解釈は、この諺が示唆している寓意に対して、せいぜい半面の言及であり、残りの半分、こちらの方が寓意の真意なのだが、これに対して何ら説いていないと思うからである。れんだいこは、この作法を問題にしている。それは何も諺学だけではなく政治学、文学、評論その他その他何にでも通用する。この半面の真理を言い当てて得々とし、高給にうつつを抜かしている恵まれた輩を撃つ為に拘ろうと思う。 「目くそ鼻くそを笑う」の寓意は、大同小異の目くそと鼻くそが互いを難癖して「我の方がよりませり、あるいはより劣れり」を自慢して些事に拘るサマを批評しているだけではない。不言及の言及として、目くそと鼻くそが、より大きな本クソに対して何ら対照化し得ておらず、そういう状況の中で互いを競り比べているサマをも笑っていると窺いたい。つまり、この諺の真意は、まずは些事に拘り大事に関心を払わない本末転倒式のお茶濁し作法に対する警句であるのではなかろうか。次に、これを前提としつつ目くそと鼻くその難詰のサマを窺うべきではなかろうか。こう理解すれば、アンデルセンの裸の王様の寓意と同じく、いつの世にも通用する結構な身分の方の作法を嘲笑していると云うことになり、案外面白い諺であることが分かる。 2009.2.17日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)