還暦紀行 |
(最新見直し2010.08..15日)
【れんだいこの還暦紀行その1、金峯山寺】 |
2010.8.13-14日、れんだいこは、総員5名の縁者で「れんだいこの還暦誕生日記念紀行」に出掛けた。年に三度一週間の長期休暇があり、その度(たび)にどこか出掛けることにしているが、こたびは大峯―天理―大三輪廻りとした。れんだいこが思うに、このラインが日本最強のパワースポットである。還暦記念に向かうのに最も相応しいコースであろう。どなたか同じ紀行を願う者が居れば手解(ほど)きしてあげたいと思う。最近パワースポット廻りが流行(はや)っている。日本の変動期にはいつもこの現象が現れる。丁度幕末の時もそうだった。日本の地霊が湧き始め、人々が感性を磨き始める。今日のパワースポット廻りの隆盛は、日本が大きな価値観の転換期を迎えていること、異能を発揮して新時代を創造せねばならないことを告げていることになる。れんだいこは、その秘密は古神道にあると考えている。単なる知識、情報なぞはどうでも良い。時代の変動期には古神道の聖地を訪ね、気を養い、あるいは地霊の声を聞き気づきを得るのが良い。こう考えて、この伝統作法に従うことにした。 最初の訪問地は、大峯山である。通称役行者(えんのぎょうじゃ)又は役小角(えんのおづぬ)が、この地で修業し、修験道を開教した地として知られている。れんだいこは、二十数年ほど前になるその昔、金峯山寺(きんぷせんじ)に詣で感応した。今一度、あの不動明王の迫力を確認したくなったので再訪することにした。同時に、かの時に行きそびれた吉野山の桜千本を見て廻ろうと思った。「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」は今や熊野古道と共に世界遺産に指定されている。金峯山寺は、そのの始点寺として知られるようになっている。お遍路廻りを和行とするなら「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」は荒行コースと云う位置づけになろう。熊野から入り吉野へ向かう方法と、「逆峯(ぎゃくふ)」といわれる吉野から入り熊野に向かう方法がある。こたびは、この挑戦ではない。それは又いつの日かの楽しみにしたい。 お盆連休のこととて交通渋滞に巻き込まれることが予想されたが、その心配をよそに案外と楽に辿り着いた。朝の8時に出発し昼前に着いた。実に高速道のお陰である。道路公団に感謝せねばなるまい。誰だ、道路公団を悪しざまに云う奴は。どうせ机上の空論者だろう。悪いのは道路公団ではなく高料金制であり、これを無料にするなり低額にすれば良いだけの話である。前原国交相は、民主党の政権交代時公約であるにも拘わらず、今日までのらりくらりし続けている。日本の景気浮揚策としての貢献大であるのに、これをサボタージュしている。と云うことは、鳩山-菅に列なる民主党政権は、口ではいろいろ云うが本当は日本経済再生、景気浮揚に水を差すのを商売にしているように思える。論より証拠とはこのことで、有料高速道路無料化公約の経緯を見ればはっきりする。鳩山-菅政権のイカガワシサはここに見て取れる。マスコミに登場する評論家には民営化論にすり替えて悦に入る手合いが多い。これを正義だとするピンボケ評論が後を絶たない。カネで飼われている売文売舌屋に過ぎないことを証していよう。れんだいこは、この連中といつでも対決する用意があり成敗せねばなるまいと覚悟している。 もとへ。久しぶりに見る金峯山寺はやはりタダモノではなかった。歴史の風雪に耐えた威容を誇っていた。鳥居の一対の般若像を通り過ぎ、境内地に入り、お堂廻りの手続きを済ませ中へ入った。二度目に見る不動明王は最初見た時のほどの感動はなかった。れんだいこの感性が衰えたのかも知れない。それか、何事もやはり最初の出会いが強烈過ぎると云う理によるのかもしれない。仏像数体が安置されているがそれぞれ作品のできが良い。作者の技能と精神性の高さが窺える。ここでは本物しか置いていない気がする。これが金峯山寺の魅力となっている。 付言しておけば金峯山寺に象徴される修験道は、明治維新以降、禁教された。ユダヤ教、キリスト教が解禁された他方で、修験道が禁教された史実を知る者は少ない。これが明治維新の裏の顔であることを知っておくに越したことはなかろう。戦後になって大峯修験宗が認められ、金峯山修験本宗と改称し、金峯山寺が同宗総本山となっているが、本来の古神道的要素を断ち切られたまま今日に至っている。どこかで正調化せねばならないのではなかろうか。これは、れんだいこの個人的な感慨ではあるが。もっとも、気づく人は気づいており、お上の規制を素通りして本物信仰に入っている。 暫くの散策後、参道の茶店に立ち寄り柿の葉ずしに舌鼓みした。同行者4名は初めて味わい、口々にウマいと連発していた。ホントどういう訳か金峯山寺で食べる柿の葉ずしは絶品である。葛湯(くずゆ)、抹茶、ソーメンその他諸々味わった。どれもこれも逸品である。土産物屋(みやげものや)の並ぶ参道を散策した後、もう一度別の茶店に入り、僅かなりともドルを落とした。窓際に座り、眼下の景色を一望した。「吉野良いとこ、たびたびお出で」と云う気分に浸される。 その帰り道、吉野の千本桜を見に廻った。分かったことは、下千本、中千本、上千本と三か所あることだった。順に見て回った。桜が咲いている訳でもないので車で素通りした。上千本まで行くと金峯神社があった。これが金峯山寺の奥の院になるのかと推理し参拝した。古風なたたずまいをしており、雰囲気から見て古神道系の神社であることが分かる。案内板を読むと、同社は記紀神話に登場しており、「吉野山の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀る」とある。吉野桜を見に行き、偶然に出会えた訳であるが幸いだった。寺社廻りは、どこもそうだが奥の院まで行かないとツマラナイ。 その更に奥に西行庵があるとのことで、せっかくだから行くことにした。還暦の足にはきつかったが、金峯神社登り口の矢印によると700mとあったので行くことにした。行ってみて分かったことは、700mは直線距離ではなかろうかと思う。実際にはかなり奥まっていた。もっとも実距離を書かれると行かなかったかも知れないので許す。こたびの旅行で、この西行庵まで行ったことが最大の収穫であった。案内板に従って下ると苔清水に出くわした。ここで手を洗い、前方を見ると庵が谷間の平地にあった。桜の木々に囲まれていた。どうやらここは奥千本と云われるところらしい。西行法師は25才前後の頃、この地で三年間修行していたとのことである。思うに、桜に囲まれたこの地を選んだと云うことは、古神道修行にはよほど桜が合うのではなかろうか。こういう観点からの桜観を持つ必要があると思った。 西行はここで役行者を偲びつつ独行していたものと思われる。その胸中いかばかりの思いであったのだろうか。庵には西行の座禅像が安置されていた。顔形、姿形が実物と一緒なのかどうかは分からないが、よほど整った顔立ちであった。西行法師の有名な和歌に「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」がある。どこかの寺社参りの時の和歌だろうが、精神性の深い文句である。この句が浮かんでふと思った。この和歌は、仏法僧と見られている西行法師の神々観を示しており、と云うことは実は西行古神道系の行者であり、少なくとも修験者であることを証しているのではなかろうかと。こう気づいた。西行論は今後はかく位置づけられるべきであろう。松尾芭蕉が二度ほどこの地を訪れていたとのことである。精神性の奥深さが共振していたのであろう。そういう意味では芭蕉も実は修験者であったのかも知れないと思った。芭蕉は各地を紀行し、いつも土地の文化人と誼(よしみ)を通じている。それを徳川幕府隠密説で説く者も居るが、実は修験者仲間と考えた方がよりピッタリする。と思った。西行―芭蕉に興味を覚えたので、れんだいこの還暦記念として西行論、芭蕉論をものしておこうと決めた。 2010.8.15日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの還暦紀行その2、洞川(どろがわ)温泉、天理】 |
さて、いよいよ大峯―吉野を去ることにした。次は立ち寄りコースの洞川(どろがわ)温泉である。その昔に泊まっており再確認する為に行きたくなった。カーナビの誘導に従って向かったところ、トンデモナイ山道を上り下りすることになった。そう云えば何やらカーナビの色表示が紫の二重線に変わっていたのだけれども、初めての経験なので意味が分からず向かった。それが対向車を交わせない細道幅の危険道を示していたのだと知ったのはかなり走ってからだった。険しい坂道をハンドルを左右に切り返しながら奥深い山道に分け入った。道中で二度、対向車に出くわした。交わすところはない。意地を張っても仕方ないので、こちらが譲ってバックした。ところがその距離数十m。半端な腕では困難である。二度目の対向車の時には少々ムッとして、今度は相手が譲るのを期待したが、その意思はなさそうだった。もっとも向こうは下り、こちらは上りなので、こちらが譲る以外になかろうと思い直し協力した。ざっと50mほどバックした。昼間だったから良かったが、夕暮れ道ではゾッとしよう。 それはまだ良い。洞川温泉に後6キロ辺りのところで妙なトンネルに出くわした。出口は見えるのだが妙に暗い。ヘッドライトをつけると、この時なぜか点灯しなかった。ここまでの山越えの苦労を思うと、もはや引き返すこともならず、となると真っ暗闇のトンネルを潜り抜けなければならぬかと思い慌てた。三、四秒のことであるが、大決断を迫られた。幸いに何やら操作しているとライトがついたので通り抜けることにした。進んでみると無茶苦茶に幅が狭い。ライトから見えてくるトンネルの中はギザギザの岩肌が剥き出しになって迫っており照明もない。後で聞くと幅が2.5mしかなかったとのことである。運よくかすり傷も負わず通り越せたが冷や汗もんであった。千と千尋の世界に入ったのかと思い、後でみんなで何度も大笑いすることになった。 ほうほうの態で洞川温泉に着いた。洞川温泉は、その昔は修験者の泊まる宿として栄えたと云う。去る昔に泊まった旅館を探し出しなつかしさに安堵した。当初は再度ここに泊まる予定にしていたのだが、夏のこととて温泉に入るまでもなかろうとの声が出て予約しなかった。こたびは天理の信者詰め所に泊まることにした。何しろ宿泊費一泊千円で、その魅力に負けた。朝食がついて1300円と云うことだが安過ぎる。あまりに甘える訳には行かないので一人三千円にして残余金をカンパすることにしている。お道では「お尽くし」と云う。世上では「お供え」だとか「お布施」と云うのだろうか。洞川温泉の土産物屋の並ぶ旅館街を二回廻った。豆腐と陀羅尼助(だらにすけ)と云う丸薬で有名である。つい買いそびれたのが悔やまれる。浴衣(ゆかた)姿の中年のオジサンが満足げに散策しており、縁があればもう一度泊まろうと思った。その節は頼む。 次に、一路宿泊先の天理に向かった。カーナビの最初の誘導を拒否して直進し、頃合いを見て指示に従った。これがラッキーで、余り信号のない裏道をスイスイと進むことになった。道中、「卑弥呼の庄」と云う看板に出くわした。なぜここが「卑弥呼の庄」なのか、卑弥呼がここから出自したと云う伝承でもあるのか、そうなら今度改めて立ち寄りたいと思いながら素通りした。今ネットで確認すると、そういう伝承譚は出てこない。しかし、「卑弥呼の庄」と云う名付けが面白いと思った。 ほぼ予定時刻に辿り着き、天理詰所のオカミさんに久々ぶりに厄介になる挨拶をした。シ―ツと枕カバーを受け取り部屋に入った。お腹が空いていたので直ぐに予約していた居酒屋へ行った。席亭のオヤジが大御馳走してくれた。魚も野菜も酒も上手かった。大峯の事、トンネルの事に話が咲き、いつしか酔った。詰所へ帰り風呂を浴びて爆睡した。お風呂は改装してキレイになっていた。連れ合いは三度目の宿泊になるが、今度は満足げだった。これが一日目である。 さて、二日目。朝食を済ませ、天理教本部神殿に参拝した。久しぶりであった。境内地を修養科生が三々五々行き来していた。れんだいこもその昔、三か月の修養科を二回連続つまり六か月過ごしたことが今となっては懐かしい。神殿に上がり、額縁(がくぶち)の「よろづよ八首」の歌を味わい、「かんろだい」を前に伏して祈る。何やかや祈念した。信者は手ぶりして唱和しつつ「座りづとめ」するのだが、れんだいこは要領を忘れたので長い拝をする。その後、回廊を一周した。修養科生の時もその後も何度か廊下を「空ぶきづとめ」したことがある。あまり注目されていないが、れんだいこは「空ぶきづとめ」が好きである。痛み止めの膝当てをして両手に掃き布を持ち交互に拭いていく。いつの間にか夢中になり、いろんなことを思い出しながら進んで行く。み神楽歌を歌いながら拭くこともある。この時間が好きだ。靴を脱いだ正門側に戻り、「ひのきしん」の靴番をしている若者に軽く御礼申し上げる。 久しぶりに天理商店街を散歩した。但し、時間が早かったので行こうとしていた喫茶店が開いてなかった。早めに切り上げ、石上神社に参詣した。鶏が放し飼いされており、朝の事とて良く鳴いた。古そうな池では鯉が泳いでいた。同行者の一人の旅の終わりの感想では、石上神社の雰囲気が殊のほか気にいったとのことである。 2010.8.15日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの還暦紀行その3、大神神社】 |
その後、桜井市三輪の大神(おおみわ)神社に向かった。正月詣で以来であった。れんだいこはこのところ、鳥居を過ぎ正門前に車を置き、杉の木立の参道を味わいながら歩いた。参詣事務所に行き、還暦のご祈祷をして貰う手続きをした。一番高い料金が1万円で、いつもこれでお願いしている。同時参列者がアナウンスの声に従い神殿に招かれる。神主の朗々とした祝詞(のりと)を聞き、巫女(みこ)の典雅な踊りと鈴の音を味わった。いつも不思議と何か心が満たされる。 さて、いよいよ最終のメインイベントである大三輪山登山に向かった。「薬の道」を歩き、摂社の狭井神社に向かう。狭井神社境内に三輪山遙拝登山口がある。ところが、あまりに暑く、連れ合いの御婦人二名が山を下りてくるまでの二時間も待てないとの不平が出たので中止することにした。茶店で一服した後、帰路についた。覚悟していた混雑がウソのようになく無事到着した。会食して散会。今記して帰る。これが、れんだいこの還暦記念紀行となった。この記憶をいつまで維持することになるのだろうか。まだ昨日のこと故、どの記憶が残り、含み笑いすることになるのか分からない。 2010.8.15日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)