イソップ物語「ろばを売りに行く親子譚」、オオカミ少年考 |
(最新見直し2013.10.15日)
Re::れんだいこのカンテラ時評714 | れんだいこ | 2010/04/18 |
【イソップの「ろばを売りに行く親子の話」考】
2010.4.18日、NHKの日曜討論を聞く機会を得た。そのバカ談議を聞きながら、ふとイソップの「ろばを売りに行く親子の話」を思いだした。れんだいこはこれまでもアンデルセンの「裸の王様」、童話ではないが坂口安吾の「ラムネの話」、「目くそ鼻くそを笑うの寓意考」等々いわゆる「寓意もの」を推敲している。こういう話ををなぜ気に入るのかと云うと、簡にして要を射た話しが百万言費やした論文より為になり面白いからである。昔の人は、こういう話しとか諺、名言、名句を素養にして日常会話の中にもふんだんに取り入れていた気がする。現代人は知らぬせいか語彙が貧相な気がしてならない。せっかくだから、この機会に「ろばを売りに行く親子の話」を読み直してみよう。れんだいこが意訳すれば次のような話になる。 「或る時、粉ひきの父親と息子が、ロバを売りに市場へ出かけた。二人でロバを引いて歩いていると、それを見た人が云うのに、『おばかさんだねぇ。せっかくろばを連れているのなら乗って行けば良いのに。歩いているなんてもったいない』。なるほどと思った父親は息子をロバに乗せた。しばらく行くと別の人がこれを見て云うのに、『おいおい。子供の方が乗って親を歩かせるなんてバカなことがあるか。親父も親父だ。子供を甘やかしてどうする』。それもそうだと思い、今度は父親がロバにまたがることにした。しばらく行くと、また別の者が云うのに、『おいおい。どうなっているんだ。親が楽をして子供を歩かせるとは。酷い親だ」。親子はほとほと困った。考えた末に二人でロバに乗ることにした。すると、別の者が見て云うのに、『おいおい。ロバに二人も乗るなんて、ロバが可哀そうではないか』。親子はまたまた困った。最後の名案として、ロバの両足を棒にくくりつけて吊るし、二人で担いで歩くことにした。これで誰にもとやかく云われないで済むと安堵したが、もうすぐ市場に到着するという頃、窮屈な姿勢を嫌がったロバが暴れだした。不運にもそこは橋の上であった。暴れたロバは川に落ちて流されてしまった。結局、親子はロバを売り損ない、一文の利益も得られないままとぼとぼと帰って行った」。 この寓話を解説するまでもなかろう。主体性なく人の意見ばかり聞いて右顧左眄するようでは詰まらない。結果として元も子もなくする、時としてひどい目に遭うと云う戒めと解する。 NHK日曜討論を聞きながらこの話しを思い出した。というのも、鳩山政権が最近打ち出した高速道路料金政策、これに関連する公共事業の論議が、議論の体をなしていないと思えたからであろう。ほんの少し聞いただけなので推定込みで批判するが、どの党も似たり寄ったりの目クソ鼻クソを笑う程度の漫談でしかなかった。こうなると国会議員が政治の遊び人集団に思えてくる。 本来の議論なら、こたびの高速道路料金新政策に対して従来のそれよりも「よりマシ」として、もっと早く施行すべきだったこと、何でこんなに遅れたのかを詰問する場面が要るだろうに。この観点から批判していた党はなかった。公共事業に対しても抑制論ばかりで必要論を説く党がいなかった。こういうことでは議論にならない。いわゆる出来レース論でしかない。最近の政治論議が不快に思える所以である。 消費税論議然り。最近とみに議論されつつあるが、その必要論議するのなら、その前に軍事防衛費抑制、思いやり予算カツト、公務員給与の高給部分の抑制、天下りの高給部分の抑制、高額退職金の繰り返し取り抑制と云う最大の事業仕訳ターゲットに踏み込んでからのことであろうに。実際には重箱の隅ばかり突いて正義ヅラしている。クダランことである。いつからこんな政治になってしまったのだろう。 れんだいこに云わせれば、消費税増税、憲法改正、自衛隊の海外派兵、原子力発電推進、官営企業の民営化、著作権強化、教育行政の空疎且つ規制強化、メディアの白痴番組化、音曲の植民地音楽傾向化等々、これ皆な国際金融資本が裏で糸引くシオニスタン特有の政策ばかりである。現下の政党は、これを急進主義的に主張するのか穏和に主張するのかの違いだけに過ぎない。そういう政治はツマラン。 鳩山政権が結局のところ、目先のパフォーマンスばかりして肝心な政策をモタモタさせているところに支持率凋落の原因がある。所詮、坊っちゃんは坊ちゃん政治しかできないと云う失望が急速に国民的合意になりつつある。これが支持率凋落の真因なのに、小沢を斬ればあたかも支持率が上がるかのような意図的故意のマスコミ報道が執拗に続けられている。エエカゲンニセンカイ、れんだいこはそう思う。 どうすれば、この状況が変わるのだろう。何度も申し上げているが、日本版アルジャジーラ放送局、同新聞を生み出す以外にない。誰か立ち上げてくれないか。やりくりしてカンパしても惜しくないぞ。ここに関心を寄せない評論はみんなウソと考えている。本当にそうではなかろうか。日本再生のためには、そうはゆっくりしていられないんだけれども。とにかく既成の言論には飽き飽き食傷させられている。 2010.04.18日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評bP177 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年10月15日 |
イソップ物語のオオカミ少年譚の寓意考 イソップ物語の「オオカミ少年」の寓意も確認しておく。概要は次のような話しである。「ヒツジの番をしていた少年がオオカミが来ていないのにオオカミが来た!オオカミが来たと叫んで助けを求め、そのつど村人が駆けつけるとオオカミが来ていなかったと云うことが続いていた。本当にオオカミが来た時、少年の叫びに応じる者が居なかった。そういう訳でヒツジは一匹残らずオオカミに食べられてしまった」。「日頃、ウソをついてばかりいると、肝心な時に本当のことを言っても誰にも信じてもらえない。日頃の言行が大事である」ことを教えている寓話である。 最近の自然災害情報に接するたびにこの寓意を思い出させられている。なぜだか3.11三陸巨大震災以降の災害情報が「オオカミ少年の口」に似ている気がしてならないからである。「オオカミ少年」の寓意では少年がオオカミが来ていないのに来たと発信した話しであるから同じではない。が、大した台風、津波でもないのにトンデモ大きなものが来たと云う情報発信もそれに近い例ではなかろうかと考える。 警戒情報が不要と云う意味ではない。問題にしているは、小さなものに大騒ぎを繰り返すことで感覚がマヒされ本当に大きなものが来たときにおざなりに聞き流してしまう危険性である。これを解決するには、小さ目、ほどほど、大き目のそれを素早く分析して、それぞれに応じた適宜な情報発信することだろう。これなら問題はない。実際には、それほどでもない災害情報に大騒ぎしていざ鎌倉のとんでも災害の時にいつものトーンで情報発信することで被害を大きくしているのではないかとの疑いがある。その好例が3.11三陸巨大震災時の対応ではなかったか。 その端的な例が、宮城県南三陸町の町職員・遠藤未希さん(当時24歳)死亡事件である。彼女は、防災対策庁舎の2階から防災無線で町民に大津波警報を呼びかけ続けた。午後2時46分から約30分間にわたって緊急非難呼び掛け続け、これにより南三陸町の住民約1万7700人のうち半数近くが命拾いした。この功績は不朽である。但し、彼女は逃げ遅れ犠牲になった。美談ではある。 但し問題が残る。彼女が殉死の覚悟で「天使の声」を流し続けていたのなら何も言うことはない。れんだいこが関心を持つのは、上司の避難対応指示の有無である。死亡したのは彼女だけではない、防災対策課員の殆どが犠牲になったと云うのなら別の考えが必要かも知れない。 しかし、その場合でも、防災対策課員ともあろう者たちに真実の巨大津波情報が伝わっていたのだろうかと云う疑いが残る。これを発令するところがどこなのか分からないが国か県の然るべき部署であろう。そこが、巨大津波が襲来してくるので直ちに避難するよう呼びかけると同時に自分たちも安全を確保せよとの指示を出していたら、被害はもう少し少なかったのではなかろうかと思う。まさかとは思うが、かの時に限って逆にいつものようなのんびりとした情報を出していたのではなかろうかとの疑念が残って消えない。 この悲劇は繰り返してはなるまい。それではどう教訓化すべきかについて愚考したい。最近の「のべつくまなき大騒ぎ」情報発信は正式な「解」足り得ているだろうか。れんだいこは、「小さ目、ほどほど、大き目のそれを素早く分析して、それぞれに応じた適宜な情報発信する」ことこそ当局の責務であると思う。早い話しが、ネット情報ではそれぞれを刻々正確に伝える必要があろうが、テレビラジオ等の緊急ニュースでは予想される被害の大きさに応じて発信頻度を加減する、その表現、トーンを替えることにより警戒指数を教えるなどの工夫が必要ではなかろうかと思う。それを思えば最近の「のべつくまなき大騒ぎ」情報発信は邪道である。いろいろ考えると災害情報もまた加工されているのではなかろうかと思えてくる。こういうことを指摘しておきたい。 イソップ物語の「オオカミ少年譚」は自然災害情報に使えるだけではない。政治情報も或る意味で災害情報であるからして当てはめることができる。小さ目、ほどほど、大き目の事案に応じて、相応しい情報を伝える必要があろう。政治情報の場合には、いきなりの適切な対応を見出さないと云う意味で特殊性があるが、それでも何のどこが問題にされ、どういう風に変えられようとしているのかをはっきり公知させ議論を要請する必要がある。ところが実際には「知らしむべからず、寄らしむべし。あるいは騙し」の強行採決政治手法が横行しているのではなかろうか。 その典型が、これが言いたいわけであるがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉の経緯であろう。TPPの場合には騙しに加えて秘密主義が加わっている。これを確認するのに、「交渉団には英文で600ページ、10センチを超える膨大な資料が用意されているが日本語訳は作られていない。交渉内容について、交渉の経過、交渉官が交わした会話、メールなどすべてに守秘義務が課せられている。当事者たちには情報漏洩責任が問われており、妥結後4年間は明らかにしてはいけない」云々。世界史上例のない秘密が強制されており「異常な外交」になっていることが確認されればよい。こういう秘密保護法先取りの「情報閉鎖」は許されることだろうか。れんだいこには狂っているとしか思えない。 これを「オオカミ少年」の寓意で例えれば、オオカミがヒツジを襲ってきているのに、門番の少年がそのことを村人に伝えてはいけない義務を負わされていることになる。こうなると「別のオオカミ少年寓話」が必要になったと云えよう。蛇足ではあるが述べておく。世界の諸民族は子供の頃から「イソップ物語のオオカミ少年譚」を教えられて育っている。今、TPP主導しているのは国際ユダ屋の連中であるが、彼らは「別のオオカミ少年寓話」を子供の頃から教えられて育っている。この深い溝を思わずにはおれない。 2013.10.15日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)