「読売新聞社史考」その4、ナベツネ考その2、読売入社と権力闘争考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/).10.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2004.6月頃、ナベツネが世に突如浮上し始めた。プロ野球の1リーグ化を廻り指導力を発揮せんとしたが、その独断的権力的手法が批判を浴び、どんでん返しで読売巨人軍のオーナーを辞任することになった。このナベツネの正体を見破り論述する際には、彼の戦後焼け跡期の共産党入党時の「東大新人会運動」の足跡から追わなければならない。れんだいこには、宮顕同様の変調さが臭って仕方ない。 読売入社後のナベツネの「天下取り」の動きがこれまた興味深い。思うに、「知力、体力、気力」というレベルにおいては相互に遜色ない者達が雌雄を決していく過程で何が決め手となったのであろうか。れんだいこに見えてくるのは、マキャベリズムとも云うべき智謀力、最後に運命力というものもあるような気がする。ナベツネはこの闘争に勝利したが、その彼の決定的な欠陥は、彼をして闘争に嗾(けしか)けた理念つまり自己の実存を歴史において何の為に何を求めて争ったのかという「社会貢献へ向けてのグランド・デザイン」が全く見えてこないことにあるように思われる。「単に権力掌握の為の生の躍動」としてしか伝わってこない。いずれ寿命がある身のものをそういう風に費消するのは虚しいものでしかなかろうに、と思うにつき、こちらまで虚しくなる。正力はCIAエージェントであり「podam(ポダム)」、「pojacpot-1」のスパイネームが与えられていたことが判明している。ナベツネの名が明らかになるのはいつ頃のことだろうか。時間の問題と思われる。 以下、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言その7」、「(13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり」、魚住昭氏の「渡辺恒雄、メディアと権力」その他を参照する。 2003.7.10日、2004.8.14日再編集 れんだいこ拝 |
【ナベツネ読売新聞社に入社】 | |
1950(昭和25)年、3月、東京帝国大学新聞研究所(現:情報学環)を修了。 同年9月、「レッド・パージ」の吹き荒れる最中、読売新聞社に入社。面接試験でマルクス主義批判を展開したのが奏効した。この経緯につき、2020.1.20日付け「ナベツネ会見解説<本澤二郎の「日本の風景」(3570)」が次のように記している。
その年の採用試験首席は後に作家となる三好徹。元々は朝日新聞社に入社したかったが、「採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えている。 |
【氏家齋一郎が読売新聞社に入社】 |
ナベツネの誘いで、半年遅れの1951.4月、氏家齋一郎が入社。かくて、ナベツネは、「東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友」氏家を配下に持つことになる。この二人の連れション街道が興味深い。 |
【 「山村工作隊潜入レポ」でスクープを取る】 |
ナベツネは読売ウィークリー編集部に配置され、機動的な取材に明け暮れることになる。この頃、日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束される。無事解放されるが、このとき隊のリーダーだった「生きることの意味」の著者・高史明との会見に成功する。「山村工作隊潜入レポ」でスクープを取る。 |
【篤子と結婚】 |
1954.3月、宇都宮徳馬夫妻の媒酌で篤子(あつこ)と結婚。 |
【自由党総務会長・大野伴睦の番記者になる】 |
1954.12月、鳩山政権が誕生すると、自由党総務会長・大野伴睦の番記者になった。大野の渡邉に対する信頼は篤く、大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家のゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆まで引き受ける。ポスト鳩山を廻っての政争の最中、大野と行動を共にすることで政界人脈を広げていった。 |
【読売新聞社主・正力松太郎が衆院選に初当選】 |
1955.2月、読売新聞社主・正力松太郎が衆院選に初当選。 |
【ナベツネ―中曽根―児玉同盟結成される】 |
1956年、総裁選の最中、読売新聞社主兼代議士でもあった正力松太郎を介して中曽根康弘と出会う。一時、政権取りを目指した正力が、正力のシンパであった中曽根とナベツネを懐に抱えようとしたことによる。ナベツネは犬猿の仲であった大野と中曽根の手打ちをお膳立てしている。 1958.4月、この頃、防衛庁にFX問題が発生しており、防衛庁担当を兼ねていたナベツネが、児玉誉士夫と知り合う。、防衛庁がFXに米国グラマン社のF11F1F(通称スーパータイガー)を採用することを内定し、近く開かれる国防会議で正式決定されようとしていた。ナベツネが、「FX問題で、次期FXの機種選定でグラマン機に決定」との一面トップを飾るスクープトクダネをものにしている。 国防会議は筋書き通りにF11FをFXに内定し、秋にも日米両国間で正式調印の見通しとなった。これを政界のフィクサー児玉がひっくり返す。児玉はグラマンのライバル会社ロッキード社のエージェントとなっており、河野を使って岸や防衛庁に機種選定の再検討を働きかける。続いて「政界のマッチポンプ」と云われた衆院決算委員長の田中彰冶(河野派)を使って決算委員会で「グラマン汚職」を追求させる。岸や幹事長の川島正次郎がグラマン社から巨額の賄賂(リベート)を受け取った疑いがあると騒いだ。たまりかねた政府はグラマンの内定を白紙決定。改めて、ロッキード派と云われた空幕長の源田実らを調査団として派遣し、その報告を受けた形で翌59.11月、FXをロッキード社製F104Cに逆転決定した。全ては児玉が描いた筋書きで、ナベツネがこれを読売新聞を使って援護射撃した形になっている。 |
【弘文堂事件、「派閥ー保守党の解剖」を弘文堂から出版】 |
1955(昭和30)年頃、弘文堂が東海興業から3000万円借りて返却できない事態に陥った。元日本共産党東大細胞で、東大新人会の弘文堂の中村正光が、同窓のよしみでナベツネに頼った。ナベツネは中曽根に相談した。中曽根は児玉に持ちかけて、児玉が「魑魅魍魎」を退治した。事件後、児玉が4万株、ナベツネと中曽根は2万株の弘文堂の株主になり、事実上弘文堂を乗っ取り、政治利用して行くことになった。その他の共同経営者・株主は児玉誉士夫の懐刀だった大橋富重、萩原吉太郎、永田雅一、久保満沙雄ら。当時、ナベツネは経済部にいた氏家とともに大橋の接待で、しばしば乱痴気遊びに耽ったと伝えられている。 1958.7月、始めての著作「派閥ー保守党の解剖」を弘文堂から出版している。続いて翌年の2月には2冊目となる「大臣」を同じく弘文堂から出版している。 |
【児玉軍団のいわば準構成員として「中曽根−ナベツネ−氏家」連合が形成される】 | |
1959.2月、岸、大野の「誓約書」の取材で児玉誉士夫邸を初訪問。ちなみに、「中曽根は、児玉を先生と呼んで私淑していた関係にあった」。
ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に次のように記している。
つまり、児玉軍団のいわば準構成員として「中曽根−ナベツネ−氏家」連合が形成されていたことになる。 |
【ナベツネが政界経済界に暗躍】 |
1959.6.18日、中曽根は科学技術庁長官の座を射止める。この頃毎週土曜日、ナベツネと中曽根の読書会「サイエンティフィック・ポリティクス研究会」を始める。メンバーには産経新聞の福本邦雄(戦前一世を風靡した共産党の理論的指導者・福本和夫の息子で戦後の党運動からの転向組)、読売新聞経済部の氏家、後に小林克己(戦後の党運動からの転向組みで、当時参院事務局勤務)も加わっている。主として憲法改正試案の作成と米国流政権取りの研究。その他週一のペースで料亭「松山」で財界人を招いての懇親会を開いている。中曽根の人脈や資金源を広げることになった。「大臣」を出版。 1959年、福本は岸内閣の官房長官・椎名悦三郎の秘書官となる。その縁で、中曽根は岸−椎名ラインに食い込むことになる。 |
【ナベツネが内閣声明を執筆する】 |
1960年、安保闘争で全学連デモが国会に突入し、その際、東京大学の樺美智子が死亡した事件で、「これに対するか内閣声明を執筆する」とある。 |
【ナベツネは大野派の参謀格として立ち働く】 |
1960.7.13日のポスト岸の跡目争いで、ナベツネは大野派の参謀格として立ち働く。結果的に敗戦したが、大野のナベツネに対する信頼は更に強まった。新総裁就任の件で、伊藤昌哉を通じて池田隼人と面談する。 |
【「党首と政党」、「政界入門」出版】 |
1961年、「党首と政党ーそのリーダーシップの研究」を出版。 1962(昭和37)年、ナベツネは中曽根と共訳の「政界入門−現代アメリカの政治技術」を弘文堂から出版。 |
【「金・大平メモ」をすっぱ抜く】 |
1962.5月頃、児玉の紹介でKCIAのさい英沢と赤坂の料亭で会合。10.22日、KCIA部長・金*泌が大野と秘密会談。11.12日、金*泌が大平外相と会談。極秘メモ「金・大平メモ」が作成される。11.13日、「大野伴睦訪韓」の特ダネをスクープし一面に掲載される。12.9日、児玉が訪韓。12.10日、日韓条約交渉政府特使として訪韓する大野に同行。12.15日、「金・大平メモ」をすっぱ抜く。 1963.1月、大蔵省、大手町の国有地を読売に払い下げする方針を省議決定。 1964.5.29日、大野伴睦が心筋梗塞で死去。これにより船田中の番記者になる 1964.11.9日、池田が後継総裁に佐藤栄作を指名。 |
【ナベツネの「九頭竜ダム補償問題事件」との関わり】 | ||
1964.12月初旬、九頭竜ダム建設で水没することになった鉱山経営者・緒方克行は、電源開発がまともな補償をしてくれず大野伴睦に陳情しても埒が明かなかったことから補償交渉の調停人として児玉の元を訪ねる。「最後、児玉に会い、訴える。場所は世田谷区等々力にある児玉邸の一室であった」。この時、児玉は次のように述べている。
12.27日、児玉、ナベツネが氏家斉一郎と共に児玉邸で緒方克行と会う。これが「ナベツネの九頭竜ダム疑惑」に繋がる。この時、事前運動費として1千万円(当時の金額を今換算すれば1億円相当)を児玉に差し出している。しかし、働きかけは成功せず、後日1965.7.25日運動費も返還されている。妙な事件である。 ジャーナリストの高野孟氏が「別冊宝島72 ザ・新聞」で次のように指摘している。
結局のところ、この事件は「児玉がたよりにしていた中曽根の親分であった河野一郎が急死。事態は一転する」という。1965年、この事件が国会でも取り上げられ問題になった。結局、うやむやのまま葬られた。石川達三の「金環蝕」の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。 |
【ナベツネの「日韓基本条約締結」との関わり】 |
1965.6.22日、日韓基本条約及び4協定が締結された。その舞台裏で児玉とナベツネが動いている。(概要、略) この時、植民地支配の賠償として日本から韓国に支払われた巨額の賠償金の利用を廻って癒着が発生し、日韓政財界に賠償利権ビジネスを生み出している。元関東軍作戦参謀にして伊藤忠商事取締役・瀬島龍三が暗躍している。 |
【社会部との抗争】 |
1965.7.8日、河野一郎が急死。 1965.8.1日、正力の娘婿・小林與三次が主筆兼論説委員長(役員待遇)として入社。 その後、社会部との抗争を繰り広げる。ナベツネの急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質に根本的な変革をきたすものだった。 1966年夏、佐藤首相が読売に決まりかけていた国有地払い下げを白紙撤回宣言。ナベツネは氏家と共に国有地獲得工作に奔走。 12.22日、務台光雄が本部長会議の席上で、佐藤首相批判の大演説。それを受けてナベツネが反佐藤キャンペーン記事を執筆。翌年7月頃、佐藤首相は読売への払い下げを決断。 1967.11月、中曽根が第2次佐藤内閣で運輸相に。 |
【政治部の戸川猪佐武との抗争】 |
政治部の戸川猪佐武との抗争。 |
【ナベツネの人心掌握術】 | |
元読売新聞社会部記者・前沢氏の著「渡辺恒雄 メディアと権力」は次のように記している。
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【ナベツネワシントン支局へ転出】 |
1968.1月、政治部次長。 1968.9月、大蔵省との間で国有地売買契約を締結。その6日後、ワシントン支局赴任のため、渡米。ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に「『あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる』という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる」との裏事情があったと記している。同年12月、ワシントン支局長に就任。 1969.10.9日、社主・正力松太郎が冠不全で死去(享年84歳)。 1970.5月、務台光雄が社長に就任。小林與三次は日本テレビ社長に。 |
【ナベツネワシントン支局から凱旋】 | |
1972(昭和47).1月、ナベツネがワシントン支局の任務を終え帰国。2年の約束が3年余に延びての帰国であった。編集局参与になる。 11月、解説部長に昇格。 1973(昭和48)年、「ウォーターゲート事件の背景」を出版。 1975.6.26日、ワシントンより帰国後3年目にして政治部長兼編集局次長の座に登る(「読売政変」)。
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【ロッキード事件勃発】 |
1976(昭和51).2.4日、ロッキード事件勃発。事件の黒幕として児玉誉士夫が逮捕され、繋がりの深い中曽根も窮地に陥る。児玉、中曽根と実懇のナベツネにも疑惑が向かい、「強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟」(高野孟氏の「別冊宝島72 ザ・新聞」)とある。 |
【九頭竜ダム補償事件告発本が出版され、ナベツネ窮地に陥る】 | ||
「児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた苦境の最中」、1976年、緒方克行氏が「権力の陰謀」(現代史出版会)が出版され、九頭竜ダム補償事件の当事者緒方克行が事件を告発した。((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり)
これほどの事件への怪しげな関係を暴露されながら、なぜナベツネと氏家は、読売にとどまることができたのか。新聞記者が、この種の、取材とは直接の範囲をはみ出た関係を結ぶことを、新聞業界では、「社外活動」と呼んでいる。暴露された場合には、社の名誉にかかわる不都合な故に、読売の場合でも、元読売社会部の敏腕記者・三田和夫、遠藤美佐雄が、取材の延長線上で犯した「社外活動」の責任を取って退社している。
ナベツネ自身は、さまざまな場で、事実関係についての弁明を試みている。週刊読売(76・4・3)では「“魔女狩り”的報道に答える」と題して、自筆の弁明をしている。「その後著名になった会社調停工作事件のような話は聞いたことがない」とか、「調停工作スタッフ」とされたことを「我々にとって許せぬ侮辱だから、同書の出版社に抗議中だ」などと、しきりに息巻いている。しかし、実際には口先だけで、裁判に訴えてもいない。 |
【ナベツネがピンチをチャンスでのし上がる】 |
1976.12月、三木首相退陣、福田内閣発足。 1976.10月、鬼頭史朗判事補のニセ電話事件をスクープ。 1977.2月、720万部で朝日を抜き発行部数日本一を達成。 1977.7月、編集局総務(局長待遇)に昇格。 1978.10月、務台社長が心臓発作で倒れる。12月に再起不能説を覆し出社するも既に往年の指導力発揮できずの事態となる。 |
【ナベツネがプロ野球界に手を染める】 | |||
1978.11月、52歳のとき、プロ野球界を揺るがした「江川入団事件(空白の一日事件)」が起きる。当時編集局総務(局長代理)だったナベツネが阪神から江川の代償として指名された小林繁の説得に当たり、これがプロ野球問題に関わる最初の仕事となった。この時、ナベツネは小林繁を知らず、人違い説得していたという次の逸話が残されている。
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【ナベツネ論説委員長になり、右派系論調形成に乗り出す】 |
1979.6月、ナベツネは取締役・論説委員長に就任する。以降、社説はナベツネ式に統制され右傾化論調を定式化する。 「小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である」((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり)。 1980.6月、常務取締役・論説委員長。 10月、長島茂雄が巨人軍監督を解任される。 1981.6月、務台に代わり日本テレビから復帰した小林與三次が社長就任。同年、ナベツネが取締役論説委員長に就任。 1982.4.22日、会長・務台が、役員会の席上で、「社内の重大危機」と長演説をぶつ。5.14日広告局長・氏家が日本テレビ副社長に転出。 11月、ナベツネが日本テレビの政治座談会で司会者を罵る。 |
【中曽根政権誕生】 |
1982.11月、中曽根が総裁予備選で勝利、首相に就任する。この時、ナベツネは「私が首相を作った」と公言している。これにつき「顰蹙をかった」と評する向きがあるが、そうではなかろう。事実、「ナベツネが中曽根政権を作った」。以降、ナベツネは中曽根首相のブレーンとして政界に対する発言力を増していくことになる。 「この四半世紀、渡辺と二人三脚で政界の荒波を潜り抜けてきた盟友が遂に権力の頂点を極めたのである。もう怖いものは何も無い、そんな心境に渡辺はなったのだろう。この頃から傍若無人と言われても仕方ない行動が目立ちはじめる」(「渡辺恒雄 メディアと権力」)。 |
【ナベツネの我が世の春時代】 |
1983.1月、中川一郎が札幌のホテルで自殺態で発見される。2月頃、鈴木宗男の衆院選立候補阻止のため画策する。 1983.5月、専務取締役・論説委員長。 1983.10.12日、ロッキード裁判で田中元首相に実刑判決。 1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。 1984.1月、ナベツネ執筆の社説「平和・自由・人権への現代的課題/日本の役割と新聞の使命を考える」掲載。ナベツネは、この社説で、明確に右より路線を打ち出した。 1984.1.26日、中曽根首相が、「戦後政治の総決算」を表明。 1985.5月、氏家、日本テレビ副社長を解任される。 1985.6月、専務取締役・主筆兼論説委員長。 1986.12月、「よみうり寸評」の中曽根批判記事が差し替えられる。 1987.1月、大阪読売の社会部長・黒田清が退社。 1987.6月、専務から筆頭副社長・主筆へ就任。11月丸山福社長が退社。 |
【ナベツネが日テレの大スクープに恫喝】 |
「週刊ポスト2011年1月7日号 ナベツネ氏 日テレの大スクープに「余計なことした」と激怒」を参照する。 1988年、リクルート事件で、中曽根康弘前首相(当時、以下同じ)らへの未公開株譲渡問題を国会で追及していた社民連の楢崎弥之助代議士に、リクルートコスモスの社長室長が500万円を渡そうとしたシーンを撮影。夕方のニュース番組で放送した。その映像がこの社長室長の逮捕につながった。これに対し、ナベツネ読売副社長が怒り、日テレの小林与三次会長と共に高木盛久社長らを呼びつけ、「余計なことをしてくれたもんだな」、「いったいどういう社員教育をしているんだ、君のところは?」、「中曽根の立場が危うくなるではないか」と凄んだ。 |
【ナベツネ読売新聞社長就任】 |
1991(平成3).5月、読売新聞社の代表取締役・社長・主筆に就任。同時にプロ野球巨人軍の親会社・読売興業の取締役になり、球団運営にも積極的に口出しするようになる。この年、務臺が死去。務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになる。 |
【日本相撲協会の諮問機関・横綱審議委員就任】 |
同年、日本相撲協会の諮問機関・横綱審議委員となり2005年まで務めることになる。 |
【憲法改正試案を紙面に発表】 |
1993(平成6).11.3日、「読売新聞・憲法改正試案」を紙面に発表。 |
1994.1月、68歳のとき、1リーグ制に対し、セ・リーグ側から強硬な反対が起こり、早期実現を断念する。12月、川淵三郎チェアマンのJリーグ運営を批判し、「独裁者だ」批判で注目を集める。
1996.6.5日、衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の再販売価格維持制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や定価を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。
【野球の読売巨人のオーナーに就任】 |
1996.12月、70歳のとき、野球の読売巨人のオーナーに就任(2004.8.13日、巨人軍オーナーを辞任)、正力亨前々オーナーを名誉オーナーに据える。改めて1リーグ制とドラフト撤廃を主張する。以来、8年間にわたり、球界のドンに収まる。 |
1997.10月、71歳のとき、メジャー息を希望する桑田に「俺が肩代わりしている借金はどうするんだ」と17億という金額を示して痛烈批判。
【日本新聞協会編集委員会が「ネットワーク上の著作権に関する協会見解」を発表】 |
1997.11月、日本新聞協会編集委員会が、「ネットワーク上の著作権について―新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に」として「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」なるものを発表している。 |
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強権著作権の流れが、ナベツネの台頭と共に加速していることを見て取るべきであろう。 |
1998.2月、72歳のとき、前立腺がんで入院。
【日本新聞協会会長に就任】 |
1998.6月、日本新聞協会会長に就任。 |
【中央公論買収】 |
1999.2月、73歳のとき、読売新聞社は、113年の歴史を誇る老舗出版社・中央公論社を傘下に入れている。この交渉は、看板雑誌「中央公論」の編集長でさえ直前まで知らされていなかったほど極秘裏に進められた。同社幹部によれば、「今年の5月、嶋中雅子会長(兼社長)と読売の渡辺恒雄社長が会談を持ち、“読売による支援”という基本方針がトップ同士で確認され、夏頃今回の形に決まった」という。中央公論新社を設立し非常版役員に就任。 読売新聞社は「This is 読売」という月刊オピニオン雑誌を発行していたが、これを廃刊にして「中央公論」を存続させることにした。しかし、名前こそ「中央公論」を継承したものの、その内容は大きく改変されていくことになった。 |
1999.11月、五輪へのプロ派遣に積極的な西武を批判。球界から出て行けと発言。
2000年、74歳のとき、契約更改時の代理人制度が導入される。ナベツネは断固反対の姿勢を示す。
2000年、中央公論新社から「渡邊恒雄回顧録」を出版。
【徳間書店の経営者・徳間康快逝去の際の弁】 | |
2000.9.20日、徳間書店の経営者・徳間康快(とくま・やすよし)氏が肝不全のため逝去した。徳間氏は、1943年、早大商学部卒で読売新聞社に入社。社会部記者として経済部の氏家斉一郎氏(現日本テレビ社長)政治部の渡辺恒雄氏(現読売新聞社社長)と並んで敏腕記者として活躍した。労働争議で同社を追われ、46年に退社後、印刷会社社長などを経て54年に徳間書店を設立して社長に就任。アサヒ芸能、徳間観光、徳間ジャパンなどの社長にも就任。74年に大映を再建させ、88年「敦煌」などを製作。アニメ製作会社スタジオジブリ社長も務め「もののけ姫」などヒット作を製作した等々で知られる。
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【横審委員長に就任】 |
2001.1月、75歳のとき、ナベツネが横綱審議委員会委員長に就任。 |
2001.11月、ニッポン放送が横浜の筆頭株主になる動きを阻止。その結果、横浜の親会社はTBSになった。ドラフトで自由獲得枠制度が導入される。
2002.11月、76歳のとき、消費者金融会社とスポンサー契約を結んだ近鉄に対し、「そういう球団は潰れる」と批判。
(私論.私見)