「読売新聞社史考」その4、ナベツネ考その2、読売入社と権力闘争考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/).10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2004.6月頃、ナベツネが世に突如浮上し始めた。プロ野球の1リーグ化を廻り指導力を発揮せんとしたが、その独断的権力的手法が批判を浴び、どんでん返しで読売巨人軍のオーナーを辞任することになった。このナベツネの正体を見破り論述する際には、彼の戦後焼け跡期の共産党入党時の「東大新人会運動」の足跡から追わなければならない。れんだいこには、宮顕同様の変調さが臭って仕方ない。

 読売入社後のナベツネの「天下取り」の動きがこれまた興味深い。思うに、「知力、体力、気力」というレベルにおいては相互に遜色ない者達が雌雄を決していく過程で何が決め手となったのであろうか。れんだいこに見えてくるのは、マキャベリズムとも云うべき智謀力、最後に運命力というものもあるような気がする。ナベツネはこの闘争に勝利したが、その彼の決定的な欠陥は、彼をして闘争に嗾(けしか)けた理念つまり自己の実存を歴史において何の為に何を求めて争ったのかという「社会貢献へ向けてのグランド・デザイン」が全く見えてこないことにあるように思われる。「単に権力掌握の為の生の躍動」としてしか伝わってこない。いずれ寿命がある身のものをそういう風に費消するのは虚しいものでしかなかろうに、と思うにつき、こちらまで虚しくなる。正力はCIAエージェントであり「podam(ポダム)」、「pojacpot-1」のスパイネームが与えられていたことが判明している。ナベツネの名が明らかになるのはいつ頃のことだろうか。時間の問題と思われる。

 以下、木村愛二氏の読売新聞・歴史検証「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言その7」(13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり、魚住昭氏の「渡辺恒雄、メディアと権力」その他を参照する。

 2003.7.10日、2004.8.14日再編集 れんだいこ拝


【ナベツネ読売新聞社に入社】

 1950(昭和25)年、3月、東京帝国大学新聞研究所(現:情報学環)を修了。

 同年9月、「レッド・パージ」の吹き荒れる最中、読売新聞社に入社。面接試験でマルクス主義批判を展開したのが奏効した。この経緯につき、2020.1.20日付け「」が次のように記している。

 日本軍陸軍二等兵で生還した、ナベツネの天皇の軍隊の評判はよろしくない。ここはまともである。東大に復帰するや共産党に入党する。軍隊式の共産党の組織を嫌って、そこから抜け出して敗戦5年後の1950年に読売新聞に入社したというのだが、この下りを決して口にしない。大恩人のことを触れようとしない。平和軍縮派の戦闘的リベラリスト・宇都宮徳馬の支援よろしきを得て入社できたものだ。安倍と同様「女たらし」のナベツネの仲人も、宇都宮である。宇都宮は共産党を飛び出したナベツネを、いたくかわいがったものの、左翼から右翼へと転向、恩師を裏切って、読売を改憲新聞にして財閥と提携してゆく。この下りを宇都宮から直接聞いていた筆者は、宇都宮がナベツネのことを何度も「忘恩の徒」と口走ったことを記憶している。恩を忘れてしまう人間は、まともな人間ではない。「権力に屈するな」が宇都宮の叫びだった。したがって、ジャーナリストを志す人間は金とは縁がない。


 その年の採用試験首席は後に作家となる三好徹。元々は朝日新聞社に入社したかったが、「採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えている。

【氏家齋一郎が読売新聞社に入社】

 ナベツネの誘いで、半年遅れの1951.4月、氏家齋一郎が入社。かくて、ナベツネは、「東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友」氏家を配下に持つことになる。この二人の連れション街道が興味深い。


【 「山村工作隊潜入レポ」でスクープを取る】

 ナベツネは読売ウィークリー編集部に配置され、機動的な取材に明け暮れることになる。この頃、日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束される。無事解放されるが、このとき隊のリーダーだった「生きることの意味」の著者・高史明との会見に成功する。「山村工作隊潜入レポ」でスクープを取る。

 1952.7月、「山村工作隊潜入レポ」記事が評価されて政治部入りとなる。ナベツネが政治部入りして手掛けた最初の仕事は鳩山家への取り入りであった。


【篤子と結婚】
 1954.3月、宇都宮徳馬夫妻の媒酌で篤子(あつこ)と結婚。

【自由党総務会長・大野伴睦の番記者になる】
 1954.12月、鳩山政権が誕生すると、自由党総務会長・大野伴睦の番記者になった。大野の渡邉に対する信頼は篤く、大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家のゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆まで引き受ける。ポスト鳩山を廻っての政争の最中、大野と行動を共にすることで政界人脈を広げていった。

【読売新聞社主・正力松太郎が衆院選に初当選】
 1955.2月、読売新聞社主・正力松太郎が衆院選に初当選。

【ナベツネ―中曽根―児玉同盟結成される】
 1956年、総裁選の最中、読売新聞社主兼代議士でもあった正力松太郎を介して中曽根康弘と出会う。一時、政権取りを目指した正力が、正力のシンパであった中曽根とナベツネを懐に抱えようとしたことによる。ナベツネは犬猿の仲であった大野と中曽根の手打ちをお膳立てしている。

 1958.4月、この頃、防衛庁にFX問題が発生しており、防衛庁担当を兼ねていたナベツネが、児玉誉士夫と知り合う。、防衛庁がFXに米国グラマン社のF11F1F(通称スーパータイガー)を採用することを内定し、近く開かれる国防会議で正式決定されようとしていた。ナベツネが、「FX問題で、次期FXの機種選定でグラマン機に決定」との一面トップを飾るスクープトクダネをものにしている。

 国防会議は筋書き通りにF11FをFXに内定し、秋にも日米両国間で正式調印の見通しとなった。これを政界のフィクサー児玉がひっくり返す。児玉はグラマンのライバル会社ロッキード社のエージェントとなっており、河野を使って岸や防衛庁に機種選定の再検討を働きかける。続いて「政界のマッチポンプ」と云われた衆院決算委員長の田中彰冶(河野派)を使って決算委員会で「グラマン汚職」を追求させる。岸や幹事長の川島正次郎がグラマン社から巨額の賄賂(リベート)を受け取った疑いがあると騒いだ。たまりかねた政府はグラマンの内定を白紙決定。改めて、ロッキード派と云われた空幕長の源田実らを調査団として派遣し、その報告を受けた形で翌59.11月、FXをロッキード社製F104Cに逆転決定した。全ては児玉が描いた筋書きで、ナベツネがこれを読売新聞を使って援護射撃した形になっている。

【弘文堂事件、「派閥ー保守党の解剖」を弘文堂から出版】
 1955(昭和30)年頃、弘文堂が東海興業から3000万円借りて返却できない事態に陥った。元日本共産党東大細胞で、東大新人会の弘文堂の中村正光が、同窓のよしみでナベツネに頼った。ナベツネは中曽根に相談した。中曽根は児玉に持ちかけて、児玉が「魑魅魍魎」を退治した。事件後、児玉が4万株、ナベツネと中曽根は2万株の弘文堂の株主になり、事実上弘文堂を乗っ取り、政治利用して行くことになった。その他の共同経営者・株主は児玉誉士夫の懐刀だった大橋富重、萩原吉太郎、永田雅一、久保満沙雄ら。当時、ナベツネは経済部にいた氏家とともに大橋の接待で、しばしば乱痴気遊びに耽ったと伝えられている。

 1958.7月、始めての著作「派閥ー保守党の解剖」を弘文堂から出版している。続いて翌年の2月には2冊目となる「大臣」を同じく弘文堂から出版している。

【児玉軍団のいわば準構成員として「中曽根−ナベツネ−氏家」連合が形成される】
 1959.2月、岸、大野の「誓約書」の取材で児玉誉士夫邸を初訪問。ちなみに、「中曽根は、児玉を先生と呼んで私淑していた関係にあった」。

 ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に次のように記している。

 「この頃は河野(一郎)派の若侍だった中曽根と渡辺、それに渡辺とは東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友の氏家(齋一郎)の三人は明らかに、地下帝国の帝王として保守政治の裏側を操っていた児玉軍団のいわば準構成員として働いていたのである」。

 つまり、児玉軍団のいわば準構成員として「中曽根−ナベツネ−氏家」連合が形成されていたことになる。


【ナベツネが政界経済界に暗躍】
 1959.6.18日、中曽根は科学技術庁長官の座を射止める。この頃毎週土曜日、ナベツネと中曽根の読書会「サイエンティフィック・ポリティクス研究会」を始める。メンバーには産経新聞の福本邦雄(戦前一世を風靡した共産党の理論的指導者・福本和夫の息子で戦後の党運動からの転向組)、読売新聞経済部の氏家、後に小林克己(戦後の党運動からの転向組みで、当時参院事務局勤務)も加わっている。主として憲法改正試案の作成と米国流政権取りの研究。その他週一のペースで料亭「松山」で財界人を招いての懇親会を開いている。中曽根の人脈や資金源を広げることになった。「大臣」を出版。

 1959年、福本は岸内閣の官房長官・椎名悦三郎の秘書官となる。その縁で、中曽根は岸−椎名ラインに食い込むことになる。

【ナベツネが内閣声明を執筆する】
 1960年、安保闘争で全学連デモが国会に突入し、その際、東京大学の樺美智子が死亡した事件で、「これに対するか内閣声明を執筆する」とある。

【ナベツネは大野派の参謀格として立ち働く】
 1960.7.13日のポスト岸の跡目争いで、ナベツネは大野派の参謀格として立ち働く。結果的に敗戦したが、大野のナベツネに対する信頼は更に強まった。新総裁就任の件で、伊藤昌哉を通じて池田隼人と面談する。

【「党首と政党」、「政界入門」出版】

 1961年、「党首と政党ーそのリーダーシップの研究」を出版。

 1962(昭和37)年、ナベツネは中曽根と共訳の「政界入門−現代アメリカの政治技術」を弘文堂から出版。

【「金・大平メモ」をすっぱ抜く】
 1962.5月頃、児玉の紹介でKCIAのさい英沢と赤坂の料亭で会合。10.22日、KCIA部長・金*泌が大野と秘密会談。11.12日、金*泌が大平外相と会談。極秘メモ「金・大平メモ」が作成される。11.13日、「大野伴睦訪韓」の特ダネをスクープし一面に掲載される。12.9日、児玉が訪韓。12.10日、日韓条約交渉政府特使として訪韓する大野に同行。12.15日、「金・大平メモ」をすっぱ抜く。

 1963.1月、大蔵省、大手町の国有地を読売に払い下げする方針を省議決定。
 1964.5.29日、大野伴睦が心筋梗塞で死去。これにより船田中の番記者になる
 1964.11.9日、池田が後継総裁に佐藤栄作を指名。

【ナベツネの「九頭竜ダム補償問題事件」との関わり】
 1964.12月初旬、九頭竜ダム建設で水没することになった鉱山経営者・緒方克行は、電源開発がまともな補償をしてくれず大野伴睦に陳情しても埒が明かなかったことから補償交渉の調停人として児玉の元を訪ねる。「最後、児玉に会い、訴える。場所は世田谷区等々力にある児玉邸の一室であった」。この時、児玉は次のように述べている。
 「書類その他、よく調べてみた。内容も理解できたので、何とか調停して差し上げましょう。既にこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根さんを中心として読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます。ま、暫くは成り行きを見ていてください」。
 翌日、児玉から「1000万円用意しろ」と連絡が入った。

 12.27日、児玉、ナベツネが氏家斉一郎と共に児玉邸で緒方克行と会う。これが「ナベツネの九頭竜ダム疑惑」に繋がる。この時、事前運動費として1千万円(当時の金額を今換算すれば1億円相当)を児玉に差し出している。しかし、働きかけは成功せず、後日1965.7.25日運動費も返還されている。妙な事件である。

 ジャーナリストの高野孟氏が「別冊宝島72 ザ・新聞」で次のように指摘している。
 「社会部の事件記者たちが、たとえば九頭竜ダムの汚職事件を突っ込んでいくと、児玉(誉士夫)と並んで自社の渡辺の名前が出てきてしまうのだから、これでは取材にはならない」。

 結局のところ、この事件は「児玉がたよりにしていた中曽根の親分であった河野一郎が急死。事態は一転する」という。1965年、この事件が国会でも取り上げられ問題になった。結局、うやむやのまま葬られた。石川達三の「金環蝕」の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。

【ナベツネの「日韓基本条約締結」との関わり】
 1965.6.22日、日韓基本条約及び4協定が締結された。その舞台裏で児玉とナベツネが動いている。(概要、略)

 この時、植民地支配の賠償として日本から韓国に支払われた巨額の賠償金の利用を廻って癒着が発生し、日韓政財界に賠償利権ビジネスを生み出している。元関東軍作戦参謀にして伊藤忠商事取締役・瀬島龍三が暗躍している。

【社会部との抗争】
 1965.7.8日、河野一郎が急死。

 1965.8.1日、正力の娘婿・小林與三次が主筆兼論説委員長(役員待遇)として入社。

 その後、社会部との抗争を繰り広げる。ナベツネの急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質に根本的な変革をきたすものだった。

 1966年夏、佐藤首相が読売に決まりかけていた国有地払い下げを白紙撤回宣言。ナベツネは氏家と共に国有地獲得工作に奔走。

 12.22日、務台光雄が本部長会議の席上で、佐藤首相批判の大演説。それを受けてナベツネが反佐藤キャンペーン記事を執筆。翌年7月頃、佐藤首相は読売への払い下げを決断。

 1967.11月、中曽根が第2次佐藤内閣で運輸相に。

【政治部の戸川猪佐武との抗争】
 政治部の戸川猪佐武との抗争。

【ナベツネの人心掌握術】
 元読売新聞社会部記者・前沢氏の著「渡辺恒雄 メディアと権力」は次のように記している。
 「渡辺氏は人を全て派閥次元でみる。社員は全て『味方』でなければ『敵』であるべきだ。(中略)人心掌握術の一つは、本人のいないところで、多人数を前にして声高になじることだ。それがどのようなルートで本人に伝わり、そして当人がそれにどう反応するかを観察し、それによって、敵か味方かより分ける。公然と非難された当人は、速やかに陳謝に訪れ、他人の目を憚ることなく渡辺氏に平身低頭し、時には罵倒されることも厭わない。渡辺氏の軍門に下れば、社内人事でも、退職後の再就職でも優遇される。しかし、その反面、絶対服従を強いられ、反論は許されない」。

【ナベツネワシントン支局へ転出】
 1968.1月、政治部次長。

 1968.9月、大蔵省との間で国有地売買契約を締結。その6日後、ワシントン支局赴任のため、渡米。ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に「『あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる』という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる」との裏事情があったと記している。同年12月、ワシントン支局長に就任。


 1969.10.9日、社主・正力松太郎が冠不全で死去(享年84歳)。

 1970.5月、務台光雄が社長に就任。小林與三次は日本テレビ社長に。

【ナベツネワシントン支局から凱旋】
 1972(昭和47).1月、ナベツネがワシントン支局の任務を終え帰国。2年の約束が3年余に延びての帰国であった。編集局参与になる。

 11月、解説部長に昇格。

 1973(昭和48)年、「ウォーターゲート事件の背景」を出版。

 1975.6.26日、ワシントンより帰国後3年目にして政治部長兼編集局次長の座に登る(「読売政変」)。
 概要「ワシントン支局から帰国して僅か3年目で編集局次長兼政治部長の座に昇りつめ、経済部長になった氏家、外報部長になった水上と『反社会部連合』を組む」。

【ロッキード事件勃発】
 1976(昭和51).2.4日、ロッキード事件勃発。事件の黒幕として児玉誉士夫が逮捕され、繋がりの深い中曽根も窮地に陥る。児玉、中曽根と実懇のナベツネにも疑惑が向かい、「強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟」(高野孟氏の「別冊宝島72 ザ・新聞」)とある。

【九頭竜ダム補償事件告発本が出版され、ナベツネ窮地に陥る】

 「児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた苦境の最中」、1976年、緒方克行氏が「権力の陰謀」(現代史出版会)が出版され、九頭竜ダム補償事件の当事者緒方克行が事件を告発した。((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり

 事件は次のように暴露されていた。

 概要「緒方は、政界の黒幕として名高い児玉誉士夫氏を訪ねた。児玉の返事は、何とか調停してみましょう。すでにこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根(康弘)さんを中心として、読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいますというものであり、運動費は一千万円請求された。緒方は一週間かかって一千万円を調達し児玉邸に届けるが、その時には二人の記者も呼ばれていた。結局、この調停は成立せず、児玉、中曽根、渡辺、氏家の同席の場で一千万円は返却された。これを、週刊朝日(1976.3.26)が『ロッキード旋風の中で、『権力と陰謀』という本が話題を呼んでいる』という囲み付きのリードで紹介した」。

 これほどの事件への怪しげな関係を暴露されながら、なぜナベツネと氏家は、読売にとどまることができたのか。新聞記者が、この種の、取材とは直接の範囲をはみ出た関係を結ぶことを、新聞業界では、「社外活動」と呼んでいる。暴露された場合には、社の名誉にかかわる不都合な故に、読売の場合でも、元読売社会部の敏腕記者・三田和夫、遠藤美佐雄が、取材の延長線上で犯した「社外活動」の責任を取って退社している。

 ナベツネと氏家が行なった「社外活動」は、その二人の先輩記者の例に比べれば、はるかに重く、犯罪的といえる性質のものだった。ところがこのとき、ナベツネは、いささかの反省の弁をも述べようともせず、逆に、居直った。「時が時だけに、彼は苦しい立場に置かれた。『渡辺が辞表を出した』という噂も社内外に広がった。彼は、毎日、デスクに座って政治部中をにらみつけていたという。“われ健在なり”と誇示するためだろうか」(「現代」、80・9)とある。

 「いわゆる『ケツまくり』である。ドスを地面に突き立てて、もろ肌脱ぎ、『さあ、殺すなら殺せ!』という感じである。『まるでヤクザ』どころか、ヤクザが顔負けするほどのパフォーマンスぶりではないだろうか。この時期の状況については、各誌に種々な風評が載っている。同じ読売でも、伝統を誇る社会部帝国の記者たちは、二人の社外活動と居直りに対しての厳しい批判を隠さなかったようである。その時の積もる恨みが、渡辺が主流に踊り出てからの、報復人事となって表われたという説もあるほどだ」。

 ナベツネ自身は、さまざまな場で、事実関係についての弁明を試みている。週刊読売(76・4・3)では「“魔女狩り”的報道に答える」と題して、自筆の弁明をしている。「その後著名になった会社調停工作事件のような話は聞いたことがない」とか、「調停工作スタッフ」とされたことを「我々にとって許せぬ侮辱だから、同書の出版社に抗議中だ」などと、しきりに息巻いている。しかし、実際には口先だけで、裁判に訴えてもいない。

 「“魔女狩り”的報道に答える」では、「児玉は、一般的会食などの際、突然見知らぬ人を連れてくることが、一、二度あった」とし、「権力の陰謀」の著者を「突然短時間、紹介されたのではないかと思う」と漠然とさせ、「私は、電発も通産省も知らぬので、経済部の氏家記者に調査を頼んだが、中曽根代議士を本件で補佐したこともない。氏家記者の話では、この“被害者”の言い分はかなり誇張されており、ニュース価値もないし、政治家や新聞記者などが介入すべきものではなく、民事訴訟で損害賠償を要求すべき筋のものだ、とのことだった。児玉にも、その旨告げて、以来何らの協力もしなかった」と述べている。

 週刊新潮(76・4・1)では、「その間、金銭の授受があったことも知らなかった。ボクも児玉に利用されたんだ」という弁解を組み立てている。

 とはいえ、ナベツネはこの苦境を乗り切った。この経過にはナベツネの背後に潜む闇権力の庇護があったことは容易に理解できるところであろう。


【ナベツネがピンチをチャンスでのし上がる】
 1976.12月、三木首相退陣、福田内閣発足。

 1976.10月、鬼頭史朗判事補のニセ電話事件をスクープ。

 1977.2月、720万部で朝日を抜き発行部数日本一を達成。

 1977.7月、編集局総務(局長待遇)に昇格。


 1978.10月、務台社長が心臓発作で倒れる。12月に再起不能説を覆し出社するも既に往年の指導力発揮できずの事態となる。

【ナベツネがプロ野球界に手を染める】
 1978.11月、52歳のとき、プロ野球界を揺るがした「江川入団事件(空白の一日事件)」が起きる。当時編集局総務(局長代理)だったナベツネが阪神から江川の代償として指名された小林繁の説得に当たり、これがプロ野球問題に関わる最初の仕事となった。この時、ナベツネは小林繁を知らず、人違い説得していたという次の逸話が残されている。
 江川入団問題が起きた当時、渡辺氏は驚くべき野球オンチだったことを、本人が明かしている(『BRUTUS』2009年7月15日号参照)

 阪神が指名した江川氏と当時巨人軍投手だった小林繁氏をトレードする際、引退すると 言い出した小林氏の説得にあたった渡辺氏は、「僕は野球を知らないから、代理人と 小林くんの区別がつかない」という。 「『よく考えなさい。野球生命を絶つことはないんじゃないか』と、いろいろ説明したけど、どうも相手がちんぷんかんぷんで。逆のほうにいたのが小林くんだったというね」。間違えて代理人を説得していたというのだから呆れるほかない。スポーツジャーナリストの玉木正之氏も苦笑する。「ほかにも、『バッターは三塁へ走ってはいかんのか?』と聞いたり、二死走者三塁で打者が内野ゴロを打ち、一塁でアウトになったときも、『バッターが一塁でアウトになるよりも走者のほうが早くホームへ帰ってきた。なぜ点数が入らんのか』と怒ったりしたといいます。渡辺氏はプロ野球のルールも知らないし、公共の文化だという意識が全くない。必要なのは読売の利益だけなんです」。
 (週刊ポスト2011年12月2日号 http://www.news-postseven.com/archives/20111125_71860.html

(私論.私見)

 「江川入団事件(空白の一日事件)」の是非はともかく、これを仕掛けたナベツネが逆に巨人から阪神にトレードに出されることになった巨人のそれまでの花形エース投手・小林繁を知らず、代理人を小林繁と勘違いして交渉していたと云う逸話はケシカランの極致ではなかろうか。小林繁の一生を左右する大事態を折衝する人の在り方として不誠実の塊ではなかろうか。

 なお、「バッターは三塁へ走ってはいかんのか?」、「二死走者三塁で打者が内野ゴロを打ち、一塁でアウトになったときも、『バッターが一塁でアウトになるよりも走者のほうが早くホームへ帰ってきた。なぜ点数が入らんのか』」の言を踏まえると、あまりにも野球を知らなさすぎる。そういう御仁がくちばしを入れると碌なことにはなるまい。業界改革に外部委員を招聘することを良しとする風潮があるが「外部委員導入の悪しき例」ではなかろうか。れんだいこには、こういうところが気にかかる。

 2013.8.4日 れんだいこ拝

【ナベツネ論説委員長になり、右派系論調形成に乗り出す】
 1979.6月、ナベツネは取締役・論説委員長に就任する。以降、社説はナベツネ式に統制され右傾化論調を定式化する。

 「小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である」((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり)。


 1980.6月、常務取締役・論説委員長。

 10月、長島茂雄が巨人軍監督を解任される。

 1981.6月、務台に代わり日本テレビから復帰した小林與三次が社長就任。同年、ナベツネが取締役論説委員長に就任。

 1982.4.22日、会長・務台が、役員会の席上で、「社内の重大危機」と長演説をぶつ。5.14日広告局長・氏家が日本テレビ副社長に転出。

 11月、ナベツネが日本テレビの政治座談会で司会者を罵る。

【中曽根政権誕生】
 1982.11月、中曽根が総裁予備選で勝利、首相に就任する。この時、ナベツネは「私が首相を作った」と公言している。これにつき「顰蹙をかった」と評する向きがあるが、そうではなかろう。事実、「ナベツネが中曽根政権を作った」。以降、ナベツネは中曽根首相のブレーンとして政界に対する発言力を増していくことになる。

 「この四半世紀、渡辺と二人三脚で政界の荒波を潜り抜けてきた盟友が遂に権力の頂点を極めたのである。もう怖いものは何も無い、そんな心境に渡辺はなったのだろう。この頃から傍若無人と言われても仕方ない行動が目立ちはじめる」(「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

【ナベツネの我が世の春時代】
 1983.1月、中川一郎が札幌のホテルで自殺態で発見される。2月頃、鈴木宗男の衆院選立候補阻止のため画策する。

 1983.5月、専務取締役・論説委員長。

 1983.10.12日、ロッキード裁判で田中元首相に実刑判決。

 1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。

 1984.1月、ナベツネ執筆の社説「平和・自由・人権への現代的課題/日本の役割と新聞の使命を考える」掲載。ナベツネは、この社説で、明確に右より路線を打ち出した。

 1984.1.26日、中曽根首相が、「戦後政治の総決算」を表明。

 1985.5月、氏家、日本テレビ副社長を解任される。

 1985.6月、専務取締役・主筆兼論説委員長。

 1986.12月、「よみうり寸評」の中曽根批判記事が差し替えられる。

 1987.1月、大阪読売の社会部長・黒田清が退社。

 1987.6月、専務から筆頭副社長・主筆へ就任。11月丸山福社長が退社。

【ナベツネが日テレの大スクープに恫喝】

 「週刊ポスト2011年1月7日号 ナベツネ氏 日テレの大スクープに「余計なことした」と激怒」を参照する。

 1988年、リクルート事件で、中曽根康弘前首相(当時、以下同じ)らへの未公開株譲渡問題を国会で追及していた社民連の楢崎弥之助代議士に、リクルートコスモスの社長室長が500万円を渡そうとしたシーンを撮影。夕方のニュース番組で放送した。その映像がこの社長室長の逮捕につながった。これに対し、ナベツネ読売副社長が怒り、日テレの小林与三次会長と共に高木盛久社長らを呼びつけ、「余計なことをしてくれたもんだな」、「いったいどういう社員教育をしているんだ、君のところは?」、「中曽根の立場が危うくなるではないか」と凄んだ。


 1989(昭和64).2月、小林社長が脳出血で倒れる。この年、ナベツネが、巨人球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれ、巨人の経営に参加するようになる。他のメンバーは務臺光雄(同社名誉会長)、小林與三次(同社社長)、正力亨(読売ジャイアンツオーナー。
 1990(平成2).4.30日、務台光雄氏が死去(享年94歳)。5.2日ナベツネが代表取締役副社長・主筆に就任。小林は会長に。水上達也が代表取締役副社長に就任。
 7月、販売店会議で「1千万部達成」の大号令をかける。
【ナベツネ読売新聞社長就任】
 1991(平成3).5月、読売新聞社の代表取締役・社長・主筆に就任。同時にプロ野球巨人軍の親会社・読売興業の取締役になり、球団運営にも積極的に口出しするようになる。この年、務臺が死去。務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになる。

【日本相撲協会の諮問機関・横綱審議委員就任】
 同年、日本相撲協会の諮問機関・横綱審議委員となり2005年まで務めることになる。

 1991.6月、氏家、日本テレビ副社長へ復帰。11月、社長就任。
 1991.12月、ナベツネは、プロ野球のフリーエージェント制を主張し、「通らないなら新リーグの結成に向う」と発言する。
 1992年、前立腺癌の治療のため、前立腺の摘出手術を受ける。
 1993.3月、67歳のとき、プロ野球のドラフト制度の撤廃を主張。セイプ・堤オーナーとタッグを組み、1リーグ制に向けて画策する。
 1993.10月、フリーエージェント制とドラフトでの大学・社会人の1・2位指名選手に限り逆指名制度導入。
【憲法改正試案を紙面に発表】
 1993(平成6).11.3日、「読売新聞・憲法改正試案」を紙面に発表。

 1994.1月、68歳のとき、1リーグ制に対し、セ・リーグ側から強硬な反対が起こり、早期実現を断念する。12月、川淵三郎チェアマンのJリーグ運営を批判し、「独裁者だ」批判で注目を集める。


 1996.6.5日、衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の再販売価格維持制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や定価を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。


【野球の読売巨人のオーナーに就任】
 1996.12月、70歳のとき、野球の読売巨人のオーナーに就任(2004.8.13日、巨人軍オーナーを辞任)、正力亨前々オーナーを名誉オーナーに据える。改めて1リーグ制とドラフト撤廃を主張する。以来、8年間にわたり、球界のドンに収まる。

 1997.10月、71歳のとき、メジャー息を希望する桑田に「俺が肩代わりしている借金はどうするんだ」と17億という金額を示して痛烈批判。


【日本新聞協会編集委員会が「ネットワーク上の著作権に関する協会見解」を発表】
 1997.11月、日本新聞協会編集委員会が、「ネットワーク上の著作権について―新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に」として「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解なるものを発表している。

(私論.私見)

 強権著作権の流れが、ナベツネの台頭と共に加速していることを見て取るべきであろう。

 1998.2月、72歳のとき、前立腺がんで入院。


【日本新聞協会会長に就任】
 1998.6月、日本新聞協会会長に就任。

【中央公論買収】
 1999.2月、73歳のとき、読売新聞社は、113年の歴史を誇る老舗出版社・中央公論社を傘下に入れている。この交渉は、看板雑誌「中央公論」の編集長でさえ直前まで知らされていなかったほど極秘裏に進められた。同社幹部によれば、「今年の5月、嶋中雅子会長(兼社長)と読売の渡辺恒雄社長が会談を持ち、“読売による支援”という基本方針がトップ同士で確認され、夏頃今回の形に決まった」という。中央公論新社を設立し非常版役員に就任。

 読売新聞社は「This is 読売」という月刊オピニオン雑誌を発行していたが、これを廃刊にして「中央公論」を存続させることにした。しかし、名前こそ「中央公論」を継承したものの、その内容は大きく改変されていくことになった。

 1999.11月、五輪へのプロ派遣に積極的な西武を批判。球界から出て行けと発言。


 2000年、74歳のとき、契約更改時の代理人制度が導入される。ナベツネは断固反対の姿勢を示す。


 2000年、中央公論新社から「渡邊恒雄回顧録」を出版。


【徳間書店の経営者・徳間康快逝去の際の弁】

 2000.9.20日、徳間書店の経営者・徳間康快(とくま・やすよし)氏が肝不全のため逝去した。徳間氏は、1943年、早大商学部卒で読売新聞社に入社。社会部記者として経済部の氏家斉一郎氏(現日本テレビ社長)政治部の渡辺恒雄氏(現読売新聞社社長)と並んで敏腕記者として活躍した。労働争議で同社を追われ、46年に退社後、印刷会社社長などを経て54年に徳間書店を設立して社長に就任。アサヒ芸能、徳間観光、徳間ジャパンなどの社長にも就任。74年に大映を再建させ、88年「敦煌」などを製作。アニメ製作会社スタジオジブリ社長も務め「もののけ姫」などヒット作を製作した等々で知られる。

 ナベツネ(読売新聞社社長、74歳)は次のように追悼している。

 「徳間さんが読売新聞社会部記者、私はまだ東大の学生時代から、兄弟のように付き合っていた。ともに共産党員だった。読売新聞入社後、徳間さんに頼まれて「週刊アサヒ芸能」に毎週原稿を書いていたこともある。徳間さんが印刷、出版、映画、アニメなど、あまりに多面的な活動を展開するのに驚いたが、徳間プレスでの読売新聞の印刷、ビーエス日本を一緒に株主として設立するなど、事業の上でもきわめて大事なパートナーだった。55年間に及ぶ交友を通じ、お互いに信頼関係がとぎれたことは一度もない。私は名誉棄損で「アサヒ芸能」社長としての徳間さんを提訴し、150万円を取ったことがあったが、裁判終了後、2人だけで楽しく夕食したのが忘れられない。読売新聞が「アサヒ芸能」の広告をボイコットする時、私は電話で直接通告したが、徳間さんは「天与のチャンスだ。誌面を一新するよ」と泰然として答えられた。「さすが大物だ」と敬服した。大事な“兄貴”を失って今ぼう然としている」。


【横審委員長に就任】
 2001.1月、75歳のとき、ナベツネが横綱審議委員会委員長に就任。

 2001.11月、ニッポン放送が横浜の筆頭株主になる動きを阻止。その結果、横浜の親会社はTBSになった。ドラフトで自由獲得枠制度が導入される。


 2002.11月、76歳のとき、消費者金融会社とスポンサー契約を結んだ近鉄に対し、「そういう球団は潰れる」と批判。





(私論.私見)